昨日から弟夫婦が来県中です。震災見舞いで。東京から荷物持って。
荷物の中味。避難所にいる子供たちへのおもちゃや絵本。
早速ビッグパレットの避難所に。川内村の災害対策本部へ案内されて。
避難所の中は、一時とは違ってだいぶ人が減ってきたようです。民間アパート借り上げなどで。
でも、みなさん疲れきっているようでした。
段ボールの”住居”。弟夫婦は口数少なく。テレビで見てきた光景と実際とは感じるものが違うということか。
顔見知りになった人の犬は入院したと。ストレスと感染症。
夜、酒を酌み交わしながらの原発論議。放射能汚染と、それを怖がる余りのストレスによる病気、たばこの”害”。どれを避ける、どっちを取る。
東電のずさんさ。政府の対応の失敗。彼はもともとそっち関係のお仕事。いろいろくわしい。
喋りあって何が解決するわけでもありませんが、久しぶりに酌み交わした酒。避難所の方には申し訳ないが、美味かった。そして有意義だった。
きょうは市内をあちこち見て歩き。あの校庭から土を削った薫小学校まで。
土はブルーシートでなく、凝固材を捲いた土くれとなって黒々とした小山になっていました。
壊れた瓦屋根におかれたブルーシートが鯉のぼりのように風にはためいている。
初夏のような陽気。きのう行われて半径20キロ圏以内への、一時帰宅予行演習。あの完全武装では、もはや、これからの陽気では無理でしょう。身体が。若い人ならともかく。遅きに失した感あり。
立ち寄った店でも話題は原発ばかり。当然です。閑古鳥鳴きまくり。
しかし、国道は渋滞のところもありとか。会津地方の観光地は、予想に反して人が押し掛けているところもありとか。
被災現場。今日もボランティアの人交じって「片付け」の作業が続けられているでしょう。原発の現場では何が行われているのか・・・・。
酒好きの弟。土産も兼ねて地元の酒を購入。石巻の酒から会津の酒から矢吹の酒と。
そうです。なんとなく、忘れられたような被災地。原発では無く地震そのもの。福島県の須賀川、矢吹、鏡石。まだまだ避難所暮らしの人も大勢います。地元のメディアも余り取り上げない被災地。せめて一本、そこの酒でもと。
さまざまなニュースが飛び交っています。ビンラディンの殺害、焼き肉屋の生ユッケによる食中毒死、3人にと。
アメリカにとっての「正義」をどう解釈したらいいのか。食の安全と言われつづけ、浄水場の水や牛乳で大騒ぎした人達が、生ユッケと今後どう接するのか。牛刺し、レバ刺し。全焼き肉店に”風評被害”は及ぶのか。
これまたお粗末だった国の食品安全基準。事件が起きて発覚する。
テロの報復も言われている。
安全、安心な国家とは。生活とは何?。
2011年5月4日水曜日
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2 件のコメント:
行って良かった!新聞やテレビの報道に心を痛め何もできない自分を悲しいと思い続けていた。川内村の係の方の「ありがとうございます」避難所のおばあさんの「ありがとうございます」を聞いて自分の悲しみがほんの少しだけ解けた気持ちになれた。
そして兄貴夫婦が歓待してくれたので感動と感激の郡山旅行でありました。
ありがとうございました。
再見を楽しみに!
tacoさま
お疲れ様でした。やはり「現場力」ってあるね。
いろんな人に伝えてください。あの段ボールが我が家のことを。文明に彩られた21世紀の人間の住み家だということを。
いい宿発見。再見!!
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