2012年12月31日月曜日

・・・そして「風」の話し

いよいよ、そう、そうしか言いようが無い。大晦日。2012年の締めくくりの日である。

穏やかな陽気の年の瀬。何かと気ぜわしい方々も多いかと。たしかに慌ただしい。街の雰囲気や人の動きが。

ゆっくり1年を振り返っている余裕はないが、ちょっとだけ「風」について。
亭主の体内に風邪が住み着いてしまっているからではないけれど。

仮設にちょっと寄ってきた。正月用のお届け物含めて。部屋の中には孫やひ孫の写真が。

きっと2年前の正月は、自宅のぶち抜いた部屋で、家族や親戚が集まって盛大に正月を祝っていたのだろう。やはり田舎は“大家族制”なのだ。
離れ離れになった家族、親戚。集まる場所も無い。

「ま、しょうがないんだけど、寂しい正月だよな」。持って入った果物を亡くなった相方の写真に備え語りかける。「瀬川さんが持ってきてくれたぞ」と。
返事はないけど、語りかけることでいくらか寂しさを紛らわすと言う。

ビッグパレット脇。その建物は設計当時から“欠陥”が指摘されていた。風よけが考慮されていない。常に、強い風が吹く。風が生まれている。
「ここは西風が強いからな」。“住み慣れた”ばあちゃんは一人ごちる。

そう、風・・・。いつも思っている。
あの日、原発が爆発した時、もし、東からの強風が吹いていたら・・・。50キロ以上離れた郡山にも、大量の放射性物質が、プルームに乗って、雨か雪とともに、撒き散らされていただろうと。

もうスピーディーの画像でお馴染みだろう。風は北西に吹いた。だから飯舘や霊山の一部に大量の汚染が発生した。

スピーディーのグラフィック画像が公開される前から、テレビの天気予報で風向きを見入っていた記憶。
風で人生は変わるのだ。単に同心円の距離だけではない。

今年もいろいろな風が吹いた。逆風もあれば順風も。
政界では民主に、結果論として逆風が吹いた。自民は「風よけ」に成功した。

民意と言う風が自民に吹いたわけではない。

脱原発、反原発という風がところどころで吹いていた。

「民意」という風を自公政権は、うまく取り入れようとしているかに見える。
しかし・・・。「原発」については、福島は福島という収め方のように見える。
新増設に向けての風を起こそうとしているかにも見える。

同じ自民党支持でも、福島と永田町では、その風は違う。
福島を治められなくて、この国を治められるのか。6万にも上る“原発難民”を救済出来なくて、1億国民を“救済”出来るのか。

被災地でも、警戒区域住民の間でも、すでにして、さまざまな風が吹いている。そして、そこの人達は政治と言う「風」に身を任すほかない。しかし、政治は風の通り道をすら作れない。

あと数時間で「今年」が終わる。来年はどんな風が吹くのか。

「2年、正月様(正月飾り)をつけてねえな、もう忘れっちゃうかもな」。
仮設に家のカレンダーは、まだ今年のままだった。暦を繰ることに戸惑っているのかもしれない。

あの日以来、2回目の大晦日に寄せて・・・。

2012年12月30日日曜日

賠償金請求書を投函した

原発事故による避難区域以外でも、県内の23市町村に住んでいる人に対して大人は一人4万円、妊婦と18歳以下の子供には8万円が追加された「追加賠償」が払われる。

そんな通知が来て、しばらくはそのままにしておいた。去年の一人8万円の時もそうだったが、これには逡巡する。

「このカネで無かったことにしよう」、そんな魂胆が行間ににじみ出ているようだから。

投函と言ってもポストに入れたわけではない。郵便局に持って入って、「発送証明」みたいなものを貰う仕組み。
郵便局に行った時、窓口は、これにかかわる人たちで混雑していた。郵便局員も大わらわだった。

その数日前、若者と、何かがきっかけでこの話になった。彼のところにはその請求書類が送られて来ていないという。
「多分、前回、去年、出さなかったからでしょうね」と彼は言う。
去年、彼は、8万円を貰うことに限りなく疑問を感じ、その“権利”を放棄した。貰ってしまえば、東電を許すことになる。それは自分の心情が許さないと。

彼の気持ちが痛いほどわかる。しかし、ボクは去年8万円を受け取った。受け取ることにした。受け取りを拒否しても、その抗議の意思が東電に伝わるわけもない。臨時雇用の職員が機械的に処理しているだけだから。だったら、それを受け取って、有効に使おう。

その8万円は、もちろん「私」に使わなかった。自分で考えられ得る“有効”な使途に使った。飯舘村を書いた「までいの力」という本を大量に買い、それを県外にいる知人に送ることも含めて。

今回もそうするつもりだ。例えば放れ牛を飼育している牧場への餌代だっていいし、動物シェルターにだっていい。それがボクが出した結論。

署名するのにさんざん迷った挙句の。
結局、何があろうとも、「カネ」以外に、誠意だとか責任だとかを取る方法はないのだろうか。やはり「カネ」なんだろうか。

「カネ」を貰うことにこんなに悩んだことは無い。

「カネ」でしか解決できないこと、「カネ」で解決すること。それがほとんどすべてのような・・・。

安倍がきのう県内を視察した。原発現場から始まって、川内村、そして、郡山にある川内村の人が住む仮設。
すぐそばには富岡町や双葉町の人たちが住む仮設には行かなかった。仮設を回るなら“公平”に回るべきだと思う。川内は帰還出来る目途がある。富岡にも双葉にもそれは無い。

どこかの新聞に書いてあった。富岡町民の不満。
「首相が来るのは嬉しいニュースだろうが、富岡側はシラーとした雰囲気だった」。「川内は温厚なひとばかりだから、首相に不満は言わない。富岡だったら、責任を問われ、突き上げられていたはず」と。

首相動静では郡山駅を午後6時の新幹線に乗っている。時間の余裕はあったはずじゃないかと。

良かれと思ってやった事が、同じ仮設の中でも、感情的な「亀裂」を引き起こしかねない。いや、もうそれはすでに始まっているのだが。

政治が「亀裂」に拍車をかけることがあってはならないと思うのだが。

前述の、東電を“拒否”した若者、年末ジャンボ宝くじは買ったという。仮設にも買ったという人がそこそこ居た。亭主も3千円投じた。当たりはしないだろうが、もし当たっても誰にもとがめられず、自分を責めずにいられる運。

当たったら正直に申告します。どこかであるような「付け替え」しないで。

2012年12月29日土曜日

「見るべきものを見る」ということ

きょう、安部と根本が1Fを視察している。そして川内村も見ると言う。
それはそれで結構。でも、それで「原発事故」を視察したことには決してならない。

警戒区域、立ち入り禁止区域の中にも入って欲しい。そこには「見るべきもの」「見なくてはいけないもの」が山のようにあるのだから。

今日から1Fも年末の休みだという。現場で働く人たちを激励というが、その多くは、休みで各地に散っているはず。

でも、前にも来ているが、その形状だけでもいい。しっかり目に焼きつけて欲しい。東電や役所のおぜん立てに従った視察で無く、主体的意志を持って視察して欲しい。そして国会で石破が取り上げた「牛」達も見て欲しい。そこで働いている人たちの声も聞いて欲しい。

見たものをどう咀嚼するか、それが政治家としての力量。

今朝、NHKが「釜石の奇跡」という番組をやっていた。津波が来たら、とにかく逃げる。その「防災教育」と叩きこまれていた子供たちは、大人を説得して高台に逃げて助かった。

その子供達の一人が言っていた。「スマトラ沖地震の津波の映像を何回も授業で見ていたから、その恐ろしさがわかっていた。それを思い出した」と。

逃げること、それは敗北ではない。むしろ、大きな決断と勇気を必要とする行為だった。
そして、見るべきものを見ていた。その焼き付けられた映像が、彼らの行動を後押しした。

3・11の津波の映像を流すことをテレビは戸惑っている。意見が分かれている。やむおえず“使用”する時には、見ることに注意を喚起するようなスーパーを流す。

津波で肉親を亡くした人達にとっては「トラウマ」として、それを見たくないという人もいるだろう。それもよくわかる。そうだとも思う。

NHKの津波警報時の避難呼びかけ放送が議論になっている。「思い出してください」という緊迫したアナウンサーの呼びかけが。
「経験を生かしてください」でも通じるのではないかと勝手に字句を考えたりしている。

津波の映像を思い出して逃げて助かった子供たちがいるという事実。

見るべきものは見る。いろんな観点から考えられること。これまでも書いて来たが。

戦争だってそうだ。原爆だってそうだ。悲惨な事実は見るべきものとして見ると言う姿勢は必要なのではないだろうか。目を反らしていてはいけないことなのではないかとも思う。

年の瀬、多くの人が一年を振り返る。振り返ることの中に「見るべきもの」が含まれていることを願う。

あの日の、あの映像の数々。死者こそ映し出されていないものの。そして自分の目で見た避難所の惨状。

それが頭にこびりついているからだろう。こうやって毎日書いている・・・。止めることが出来ないのだ。

2012年12月28日金曜日

仮設の人からお歳暮を貰った。今年も。

3・11後、県内最大の規模だった避難所。ビッグパレット。その脇に仮設住宅が立ち並んでいる。最近はポツンポツンと空家も見えるようになった。
どこかの借り上げ住宅に引っ越したのか。

富岡町と川内村の人たちが住む仮設。去年の冬もそうだった。結露が凄い。

その仮設に暮らしているばあちゃんが昨日来宅。娘さんと。お歳暮を持ってきてくれた。去年もそうだった。お歳暮を貰った。そのことを書いた。そして今年も。

亭主も体調やもろもろで、そのばあちゃんの所にはしばらくご無沙汰していた。
気になっていたのだが。気丈なばあちゃんだし、近くのアパートには娘さんやお孫さんがいるはずだから。それはこっちの勝手な言いわけ。

そのばあちゃんと知り合ったのは、もちろんビッグパレット。最初の出会いは駐車場の脇にある木の下。犬2匹を連れて、木の下の石に座っていた。手には小さなスコップ。犬の糞の始末をするための。
犬が取り持つ縁だったような。そう、ビッグパレットに到着して数日後だったかと。

それ以来“交流”が始まる。“家”にも何度もお邪魔した。そう、家。段ボールで仕切られた。そこには酸素吸入器を付けたままのじいちゃんがいた。

ばあちゃんの車にガソリンを入れにスタンドを案内し、犬の病院にも一緒に行った。

ばあちゃんの車はなんと今時珍しいマニュアル車。スタンドに行くために片側二車線の国道4号を渡るのを嫌がった。川内ではマニュアル車でも不便は無いと言う。ギアチャンジをする必要がほとんど無いからだと。

ビッグパレットから、じいちゃんの様態もあって、ホテルに移り、仮設に住む。
そして、今年の夏、じいちゃんは亡くなる。もちろん持病はあったのだろうが、突き詰めて行けば「関連死」だ。

あの埃の舞うビッグパレットにずっといたのだから。呼吸器疾患のある人が。

久しぶりに会ったばあちゃん、なんと1ヶ月入院していたという。胃潰瘍で。
相方が亡くなり、さみしいと言っていたばあちゃん。近くに娘さん達がいても、基本的には仮設で一人暮らし。いわゆるストレスだってたまる。胃にも来る。

夜、ばあちゃんに電話する。「マンマ食ったか」「食った、おかゆ二杯な。まだ辛いものも食っちゃいけないらしいし」。
「うちサ来てマンマ食ってけよ」「わかった、そのうち行く」。また始まった。そのうち行くが。

ばあちゃんは帰ろうと思えば川内には帰れる。だけど、まだ帰らないという。
「だってさ、なんも無いんだぜ、病気になったらよ。まだ郡山は病院が沢山あっから」。

ばあちゃんの川内の家は相当大きな家だったようだ。子や孫も一緒に暮らし。
それが皆、結果郡山に“集結”したけど、一時はそれこそてんでんばらばら。
一人は宇都宮、一人は新潟といった具合に。

「でも、おれは、まだいつかは帰れる家があっからいい。帰れない家の人達もいっからな」。

正月は、去年と同じように仮設で迎えるという。娘さんたちは来てくれるだろうから。

「それにしても、あん時の恩は忘れねぞ」。また言う。もういいから。

とにかく律義で真っ正直な人達なのだ。そして教えられるのだ。
多分、ばあちゃんとしばしの時間を過ごす今度の正月になるだろう。
それもまた良しだ。

町内会に富岡の人達が住んでいる借家が4軒ある。今朝、広報こおりやまを配りに行った。ほとんどの家が留守の様子。
仮設よりちっと広めの借家、4軒長屋。そこには正月を迎えるような気配は感じなかった。

そこにしても、仮設にしても、そこを訪ねるのは気が重い。余りにも、ボクは普通の生活をしているということ。

仮設の近くにスターバックスコーヒーが出来たという。居心地がいいという。そこに気晴らしにでも行こうと誘う。「おれ、コーヒ止められてるんだ。それにあんたは煙草のみだべ」と。ばあちゃんは笑いながらそう言う。そして煙草を吸いたそうな手つきをする。

とにかくこもってないで、外に出てあるきなよ。自分から出ておいでよ。

未だ何万人もの人たちが仮設で暮らし、そこで年を越すということの中のたったの一コマだが。

2012年12月27日木曜日

老獪なり、安倍人事。~時々政治~

とにかく安倍内閣が発足した。嫌だと言おうと、なんと言おうと、我々は、この内閣に束縛され、その意の中で暮らしていくことになる。

組閣について、まともな論評は、マスコミや“専門家”を称する人たちに任せよう。もっとも「まともな論評」を出来ている人がどれだけいるかというと疑問だが。

亭主は相変わらずの斜に構えた巷談にて。

満を持していたというか、なかなか獪な人事をやりおるな。それが第一印象。それは、閣僚名簿だけに非ず。内閣官房参与のあの飯島勲を迎えたこと。そして、人事を彼と協議していたということ。

怪僧ラスプーチンの面目躍如なりと。

小泉内閣当時、彼のマスコミ対策は“見事”なものだった。その手腕を安倍は得難い人材とし、また飯島はそれに応えた。
飯島を取材源にするマスコミは彼のところに殺到。彼独特の“操作”が始まる。リークという手法を駆使しながら。彼のところから出た情報が、マスコミを飾る。敢えて“偽”を言い、それを出させて反応を探ると言うやり方。

それはとりあえずは功を奏し、人事での表面だったもめごとは無かったということ。飯島を置いたことで、とりあえずのマスコミ対策は「万全」ということか。

これほどマスコミ各紙が“好意的”に伝える組閣は最近珍しい。それにしても旧態依然の報道。何内閣と名付けるかからはじまって、女性の数はとか、平均年齢はとか。相変わらず「お友達内閣」という呼称もつけられる中、安倍本人は「危機突破内閣」と意気込む。

舌下事件を起こすかどうかはともかく、昔の名前で出ていますって人から始まって。どこか「安定感」をマスコミに持たせる布陣。

組閣まで、マスコミの関心は、いわば「大物狙い」。復興大臣や原発担当相は、あまり関心が寄せられていなかった。福島県民は、その人事が一番気になっていたにも関わらず。

苗字の頭文字をとってNAISという“仲間”の一員、根本匠が復興大臣兼原発事故再生担当。
「地元を知悉しているから」とされる。知ってはいるだろうが・・・。

もし根本が「ドジをこいて」も、地元はなかなか不満を上げにくい。批判しにくい。なかなか匠だ。
石原伸晃を環境、原子力防災担当。うまくいかなければ、彼はつぶされる。石原がつぶれることは、安倍の“延命”につながる。どっちに転んでも安倍に“損”は無し。と踏んだのか。

原発事故対応含め、被災地復興の壁になっているのが官庁の縦割り行政。原子力と名を冠した担当が二人いるということのすみ分け。どうするのか。
農水省や国交省も関連官庁。

復興庁を強力なものとして、根本が剛腕を発揮できるか。期待するしかないが、いささか心もとない。
自民党員のある首長が言っていた。「平野さんはほんとよくやってくれた。彼には感謝している」と。それを思い出す。

政党ではない、政治家個人の資質も大きいのではないかと。

余談のようになるが、昔は組閣となると官邸の前庭にマスコミのテント村が出来た。まるで縁日の屋台のような風情。そんな光景も無くなった。新しくなったのか。いやそれは形というか光景だけ。やっていることは昔から変わらずの感。論功行賞って言葉もまかり通り、適材適所って言葉もまかり通り。

そしてもう一つ余計なこと。呼び込みで駆けつけた閣僚の頭は、上から映すテレビカメラで見ている限り、みんな黒々としていたのが、なぜか気になったということ。いや、なに、冒頭で怪僧ラスプーチンと書いたから。

いずれにしても、すべてはこれから。健闘祈るのみにて。

2012年12月26日水曜日

あらためて、「ヒロシマ」と「フクシマ」。

風邪は、どうも“長期滞在”になった模様。なかなか帰ってくれない。
きょうも「おこもり中」。事務所の様子も気なるものの。
気合を入れて起きだしてきての、きょうの当店。

「風邪がうつる」と言って客足がどうなるか・・・。

「ヒロシマ」と「フクシマ」。去年も書いた。「ヒロシマ」にはナガサキも包含されているものとして。「フクシマ」には原発被害を被っている、その他の県のことも包含されるものとして。

広島と福島の相似性、共通性、その歴史的意味合いも含めて。

島と島だよ。被爆と被曝だよ。原爆と原発だよ。

そして、その中心には居なかったものの、その両方をボクは“体験”しているとうこと。

広島への原爆投下時。ボクはたまたま兵庫県の姫路にいた。大人たちはそれを「ピカドン」と呼んでいた。
伝聞、風聞含めて、伝えられるその惨状。そして言われ始めた「放射能が移る」という認識。

「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんが亡くなった。ほとんど同世代。しかし、彼は限りなく爆心地に近く居た。

放射能は移るーいわれなきその風聞。直接被曝死した人、ケロイドになった人はいないが、あの「ヒロシマ」で生まれた噂、デマが「フクシマ」でも生きていた。

「はだしのゲン」は、漫画としての形はとっているが、やはり文学の領域に入るものであろう。栗原貞子の「生ましめんかな」も、詩と言う形による文学だと思う。

そん物語の中に、思想的な問題が入っていても、それをして、それらを排するものではない。

根底にあるのは、人間にとっての「死」、「生」、その「在り様」。そして、人間に巣食う「差別」という、する側にとってはある種の優越感をすら伴うぬぐい難いその意識。

辺境の地としての、そうされた東北。

原爆があらゆる角度から捉えられ、語られるように、原発についても、それはあらゆる角度から捉えられ、語られなければならない。
そして、学問としてではない「新たな東北学」を我々は学び、探究しなくてはならないとも思う。

その事を来年の塾の課題にしようと彼らには告げた。

そのための準備に時間を割きたい。だから、風邪だと言って寝てる場合じゃない。焦る。それが良くない事はわかっていても。

ヒロシマがそうでありように、フクシマも語り続けられねばならない。それを語るのは当事者の我々だと。

それにしても、このところ「戦争」を知る“文化人”が亡くなって行く。吉本隆明、新藤兼人、丸谷才一、小沢昭一・・・。そして、中沢啓治。

戦争を知らない人達が世の中を形作っていく。それは、それで当然のことだが。やがて原発事故を知らない人達が世の中を形作っていくことになりのだろう。

その他の問題も含め、「犠牲のシステム」によって人類社会は成り立っている。それを“命題”とした東北学が展開できるのかもしれない。

中沢啓治は、去年の原爆の日、平和記念式に初めて行ったという。「首相が核兵器廃絶の決意をどんな言葉で語るか見届けたい」と。そして「原発事故に、広島、長崎の教訓は生かされていない」と憤ったという。

彼は自著を「遺書だ」と言ったとか。重い言葉だ。

2012年12月25日火曜日

そしてクリスマスが終わり・・・

クリスマス寒波、昨夜も今朝も寒かった。車のフロントガラスは凍りついていたし。
だからか、風邪は依然滞在中であります。まして夜、教会なんて行くからか。

そう、やはり昨夜は教会を覗いてみました。
司祭は宮城県から来たという神父。
クリスマスについて話していました。
「イエスは馬小屋の中の飼い葉桶の中で生まれた。そこしか母マリアの泊まれる場所がなかったから。そしてイエスの誕生を見守ったのは、野宿をしながら、夜通し羊の番をしている羊飼いだった。なぜ、羊飼いなのか。当時の、一番の下層階級は羊飼いだった。その人たちが見守る中で生まれたという聖書の記述には意味があるのだ」と。
イエスが一番の下層階級と共にあったということに。

「3・11」を体験した神父は言う。
「大震災後、絶望した人も多い。それらの人に、多くの支援が寄せられ、直接、間接に、励まし、慰めの言葉がかけられ、それを実践している人たちもいる。
そこにあるのは“共にある”ということだ。“共にある、共にいる”、それが人間に、希望を与える」と。要旨、そんな話。

亭主は信者ではない。ただ、聖職者が、宗教家が何を話すかに関心があった。なぜなら、「言葉の力」はあると思っているから。

簡明なキリスト誕生にまつわる解説。分かりやすい解説だったと。

寒夜にもかかわらず、街にはサンタクロース姿があふれていた。サンタクロースはキリスト誕生から400年もあとに出来た“物語”。東ローマ帝国の中にある小さな国の物語。
貧しい故に娘3人を嫁に出せない家族があった。サンタクロースと呼ばれる聖ニコラウスが煙突から銀貨を投げ入れた。暖炉の中に靴下が下げられていた。そこに銀貨が入り、娘達は支度が出来て結婚出来たという。

サンタさんは、だから、キリスト誕生の日の前の晩にしか登場しない。あの衣装は当時の司祭服を模したものだという。
なぜ、赤鼻のトナカイなのか、橇なのか。それらはしらないけれど。

そして思い出すのが、「サンタクロースは実在するのか」という新聞の社説の話し。

100年以上も前か。ニューヨークに住む8歳の少女がサンという新聞社に手紙を出す。「サンタさんはいるのでしょうか」と。友達と口論になっての“判定”を求めた手紙。そのサンという新聞社は、長文にわたった社説で彼女の問いかけに答える。
「いないというあなたにお友達の考えは間違っています。そのお友達は、きっと目に見えるものしか信じないのでしょう。しかし、人間の知恵には限度があります。
サンタクロースを見た人はいません。だけど、それが居ないと言う証明にはなりません。
それは大人の目にも子供の目にも一番大事なことは見えないものなのです」。

サンタクロースがいないなんてとんでもない。ちゃんといます。それどころかいつまでも死なないでしょう。とも。

長文で書かれた少女への返信の形ととった社説。後年、これは「アメリカでもっとも有名な社説」とよばれることになる。

姿はみえないけど、家族や友人、世の中に人にやさしくしたいという人の心の中にはサンタがあるということ。

「見えるもの」すら「見ない」とする、あえて見ないでおく。見るべきものを見ない、見えたものですら、見なかったようにふるまう。
「見えないもの」をみようとする努力を惜しむ。

あの日以来、時々書き、時々語ってきた、この国の“素顔”。でも、日本にもサンタクロースはいる。いるはず。プレゼントは銀貨ではないかもしれない。
もう物質文明には飽きたはず。「言葉の力」を取り戻すべきと。

いい言葉数編を教えてくれた弟に感謝しつつ・・・。

2012年12月24日月曜日

きょうはクリスマス・イブ


去年、クリスマス・イブの教会のミサに行った。あの日以来こだわり続けていること。あの日のことについて、あの日以降のことについて“魂の救済者”であるべき聖職者が、ほとんど何も語っていない、語ってはいるのだろうが、耳にしないし、目にしない。
聖職者が何を語るかを聞きたかった。

結果、神父の話しは、彼は外国人だったけれど、何も聞けなかったに等しい。彼が何を語ったのかも覚えていない。

なぜか皆が歌っていた聖歌がむなしくさえ聴こえた・・・。

今夜はクリスマス・イブ。イブとはイブニング。つまり前夜祭ってことだと思うのだけど、世間は何時の間にか、きょうがクリスマス本番と思ってしまっている。

朝からメリークリスマスって声が流れているし・・・。

クリスマスもバレンタインデーも、いつの間にか「国民的行事」としてしまった、悪く言えば日本人の“商魂”。

子供の頃、それでも「サンタさん」を待っていた。24日の夜、靴下を枕もとにおいて。そして寝た振りをして、サンタクロースを待った。それが誰だか、知っていた「マセガキ」。気配を察してのタヌキ寝入りで。

時差はもちろんあるにしても、今夜は楽しいパーティーもあるだろう。被災地の子供たちのところにもサンタさんは行くだろう。

そして、教会ではきっと祈りが捧げられるはず。何を祈るのか。それは人それぞれ。
ケセン語で書かれた、津波から甦った「お水潜りの聖書」の話を思い出している。

ローマ法王、ベネディクト16世がクリスマスに寄せたメッセージをベタ記事で見た。
あいにく、法王が始めたというツイッターはフォローしてないが。

「クリスマスは聖書を読んで学ぶべきだ。政治や株式市場など、俗世の出来事にどう関わるべきかの暗示は聖書の中に見つけられる。資源を公平に分かち合い、弱者を助けなければならない。強欲や搾取には反対するのだ。クリスマスはとても楽しいか、同時に深く内省すべき時でもある」と。

今夜も体調が許せば教会を覗いてみようと思う。聖職者が何を言うかを聞きたい。
なにか心に届くものを見つけられれば、それがサンタさんからのプレゼントになるからと思いつつ。

さまざまな場所での、さまざまなイルミネーションが「神の光」とおもえるかどうかはともかく。

かくて明日からはあわただしい歳末風景にとって変わる。

ホームレス歌人の公田耕一についで時々読ませて貰う歌壇への投稿者、豪隼人。アメリカで囚人として日々を送っている。

寒星を仰ぐ獄庭(ヤード)の冬の夜 だあれも来るな一人で居たい。

こんな心境の人もいる、さまざまなクリスマス・イブ。

2012年12月23日日曜日

天皇誕生日に

きょう12月23日は平成天皇の誕生日。皇居には祝意を表する人が訪れている。

祝意に対して陛下はこう言ったという。
「これからも東日本大震災の被災者のことを思いつつ、国民皆の幸せを願って過ごしていくつもりだ」と。

陛下の頭の中からは、あの大震災の事がきっと片時も離れないのだろう。

誕生日に先だって行われた記者会見でも、「3・11」の言及されている。
「1年9カ月が経ち、被災地に再び厳しい冬がめぐってきています。放射能汚染によりかつて住んでいたところに戻れない人々、雪の積もる仮設住宅で2度目の冬を過ごさなければならない人々など、被災者の事が深く案じられます。震災関連死を含め、犠牲者は2万人を超えました。
 また、被災地の復興には、放射能汚染の除去や、人体に影響を与える石綿が含まったがれきの撤去など、危険と向き合った作業が行われねばならず、作業に携わる人々の健康が心配です。
放射能汚染の除去の様子は福島県の川内村で見ましたが、十分に気をつけないと事故が起こり得る作業のように思いました。安全に作業が進めららるよう、切に願っています」と。

陛下が国のありようについて具体的に言及するのは稀有である。陛下としては、かなり突っ込んだ発言でもある。
許された範囲の中でのぎりぎりの意志表示とも受け取れる。

少なくとも天皇、皇后両陛下は、「私たちとともにいる」。そう受け取った
被災地の人達も多いのではないかと。

あの忌まわしい「3・11」は、両陛下と我々を、近づけた。

天皇論を語ろうと言うものではないが、天皇という存在があったから、そして、両陛下が「動いた」から、被災地のどこにあっても、暴動のようなことは起きなかった。そして両陛下から「力」を貰っていたはず。

避難所を回られた時の、あの真摯な姿は、この亭主の心さへ打った。

昭和天皇とて然りだった。と思う。昭和天皇の存在が無ければ、日本人同士が血で血を争うことだってあり得たはずだと思うから。

なぜ、日本人は天皇なのか。歴史のある時期から、日本人は農耕民族であった。
五穀豊穣を願う天皇は、その祭主としての、“頂点”にある立場だったから。

昭和を長く生きてきた亭主の時代にあっては、天皇誕生日とは4月29日であった。その「祝日」が「緑の日」と名を替えられた。違和感がある。

国民の祝日に関する法律。それを云々するのも本義ではないが、あの法律ほど“政治色”の、それは、いろいろな意味で、強いものはなかった。

終戦直後にあっても、家々の軒先には日の丸が掲げられ、昔からある記念日、祝日を祝った。だから、昔の人は、それを「旗日」と呼んだ。
天皇誕生日を含め、皇室にかかわる祝日に於いては特に。

いまだもって、“君が代、日の丸論争”が絶えない。少なくとも天皇の存在については、あの時代とは違っているはずなのに。

憲法は占領軍の押し付けだったという。そうだ。しかし、あの天皇を国民の象徴としないかぎり、もしかしたら、昭和天皇も“戦争犯罪人”とされていたのかもしれないのだ。もし、仮にそうであったら・・・多分、今の日本は存在しなかったのかもしれない。
あの「憲法」が天皇と日本を守ったというのは間違えか。

憲法を押し付けと言い、改憲を言う。理由は「押しつけ」。ならば、同じ「押しつけ」の日米安保はどうだというのだ。改定ははかられたものの、それは、未だ片務条約であり、双務条約ではないと思うのだが。

天皇誕生日に、ふと思ったこと・・・。