2012年2月26日日曜日

「文化」への悲しみ

親しい人が亡くなっても、可愛がっていたペットが亡くなっても、その人の身の回りには大きな「変化」があっても、世の中は、世界は何事もなく普通に回っている。いまさらの話ではありませんが。景色は何も変わらないのです。

東京マラソン、楽しそうなレースであり、イベント。川内クンは残念だったけど、“新”も生まれたし。テレビに映し出される東京の景色。やはり、変わったなと思う。東京への懐かしさと、変貌とのギャップが埋められない焦燥感のようなものあり。

去年、福島市郊外で行われた「東日本女子駅伝」。なんでやるのかという抗議が殺到していた。福島県からは「走る文化」も取り上げられてしまうのかと思った。

福島県からも多くのランナーが参加している。東京マラソン。都民や多くの市民を巻き込んだイベント。一つの「走るという文化」が出来あがったような。
そして走ることを思う。勝ち負けではない。ただひたすら走ると言うこと。ほとんどの人が苦しくても辛くても、走ることを止めようとしない。走るという文化に身を置いたからだろうか。
多分、参加した福島県人は、多くの「文化」を持ちかえってくるのであろうと期待する。

第五福竜丸事件を題材にし、核や戦争、貧困などをテーマに数多くの作品を描いてきた画家、ベン・シャーンの展覧会が、福島開催を“拒絶”されたという。アメリカの美術館所蔵作品。彼の作品は、今の福島に一番似合う、叶うものだと思うのだが。

理由はただ一点。「放射能」。アメリカが事故後言った「原発から50マイル(80キロ)圏退避、旅行自粛問題」の余波。シャーンはもう亡くなっている。彼が存命だったら、この“措置”をなんと言っただろう。

絵画はもとより「文化」である。その文化は、いったん作家の手を離れると、作家の意思を無関係なものとし、届くべきところに届かない「文化」になってしまう。作家が作品に込めたメッセージは、届くべきところに届かない。作家の精神は、その人の外部に置かれてしまったような。人が作った文化が、人間によって壊されていく。文明は文化の「外観」。
人間が欲と二人連れで作った「文明」が、人間生活を壊し、本家の「文化」をもないがしろにしていく・・・。

新聞の小さな記事。東京である「裁判」が静かに進行しているという。原発事故の責任、民衆法廷で追及という見出し。被告は菅直人や斑目、東電社長。その公判は5月に福島でも開催されるという。刑事責任を追及するという。

有罪判決が出されても、もちろんそれの執行は無い。制度として存在する裁判所の場に彼らを告訴し、その罪状を問うことはないのだろうか。ありえないのだろうか。現下の「司法文化」の中では。我が国の文化の中では・・。

昨夜、東京から、小学校の同級会のため郡山に「帰って来た」旧友と会った。もと外交官。政治にも知悉している。
「この国にはリーダーが存在しない。政治文化が余りにも貧困過ぎる」。多くの意見の一致をみた束の間の酒飲み。外交官として多くの見聞をしてきた彼が語る外国文化と日本文化の比較。学ぶところ大で・・・。
政治の責任を問う彼の舌鋒はいつにも増して鋭かったような気がして・・・。

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