2012年5月31日木曜日

重みを失った言葉たち

新約聖書、ヨハネの福音書。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によって成った」。
これの解釈はともかく・・・。

最近、いや、もっと以前からか。政治家か始め、枢要な立場にいる人たちの発する言葉の数々。それは「神」とは程遠い、軽い、意味を持たないようなものになってしまっているようで。日本語が「軽く」なってきてしまっているようで。

言葉を支えとして生きている。たった一言で鼓舞され、ふるまいを決した人たちもいるというのに。

「反省しています」「責任を感じています」。なんと空虚に響く言葉か。
反省と言う言葉の意味は? 省の字を使った三省堂の辞書にも書いてあるはず。
「自分のしてきた言動を省みて、その可否を改めて考えること。自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」。

責任。法的責任と道義的責任。その他もろもろのことに責任と言う言葉が使われるが、責めを負うという意味では、それこそ政治家はその職を辞するということになるのがいわば“常識”。

にも関わらず、「反省」「責任」という言葉を発することで免罪符を受けたような気になっている人がほとんどのようで。

あまりにも漠然とした「概念」のように、これらの言葉が使われるから、その内容や意味するところがわからない。

大飯原発再稼働に向けての動き急。野田曰く。「自分の責任で決める」。その責任とはなんぞや・・と。

最近の野田語録。「乾坤一擲」「一期一会」。この四文字熟語の意味や成り立ち御存知か。少なくとも一期一会は、一期に一度の会のようにーー茶道の心得。もう二度と会うこともないだろうから・・・って“覚悟”の言葉。茶の道の真髄、心得。

小沢との会談。この二つの言葉は意味をなしていなかった。
松下政経塾では何を学んだのかな。

あげく、小沢との再会談について「反芻しながら考えます」。嗤ったね。
「どじょうが牛に変身かい」って。

大飯原発再稼働。「暫定的」って言葉で糊塗してる。暫定の期間は明らかになっていない。
福島県民は「暫定基準値」なるものの散々泣かされた。

暫定が恒久になるってことだってありうる。

言葉で逃げてる橋下、細野・・・と。

今の世の風潮。「言葉の貧困さ」。彼らの言葉では、万物は成らない。

2012年5月30日水曜日

お粗末なリーダーの下で生きているということ

亭主謹白。

当「からから亭日乗」では再三書いてきました。常連さんはお読みいただいたと思いますが。

3・11の後、しばらくして書きました。「この国は終わった」という趣旨を。総理が菅直人、福島県知事が佐藤雄平だったことで。その様子をつぶさに見聞きしていて。

さらに「リーダー論」の中でも書きました。危機に際してのリーダーのあるべき姿を。

今更、何回も書くのも癪ですが、国家が危機に瀕した時に、どういうリーダーがいたかによってその国の命運が決まります。歴史も証明しています。

例えば一例。江戸城の無血開城。勝海舟と西郷隆盛がいなければ結果は違っていたでしょう。

国だけじゃない。県と言えば昔で言えば一つの藩。知事は一国一城の主。どいいう主君がいたかによって、どういう家老がいたかによってその藩の命運が決まる。民草の営みも変わる。

福島県民の二つの不幸。総理が菅であったこと。知事が佐藤雄平であったこと。
「雄平をリコールすっぺ」。書きました、県議にも言いました。あと二年半は待ってられないぞいと。動けと言いましたが。

昨日の国会事故調の話で、菅のことは言ったけど、雄平に関しては、この場では書きませんでした。

あらためてはっきり申し上げます。「雄平、お前は最低だよ」と。反省の言葉ほど、こんなに安っぽくつかわれるなんて。何の意味も持たない反省の弁。

「知らない、聞いてない、国が悪い、東電が悪い」。責任転嫁でのその場しのぎ。きのう午後の福島市での事故調参考人。事あるごとに後ろを振り向き、役人に助言求める無様さ。
“中継”見てて悲しくなりましたね。いや、やっぱりってとこか。期待通りってとこか。

事故調の委員の“追及”もゆるい。・・・が、しかし、あの映像を全国には見せられないかも。「あんな人が知事だったの」。福島県民の見識が疑われる。選んでしまったんだから。

「雄平リコール」の声があがっているようです。多少はね。でも、仮にリコール成立して、その代りは・・・いないんです。今の本県には。

雄平の対比として、佐藤栄佐久前知事がもてはやされているようです。たしかに彼はプルサーマルには反対だった。経産省とずいぶんやりあっていた。それは知っています。原子力についてもそれなりに知悉してた。それも知っています。

栄佐久返り咲きなんて言い出す人もいる始末。でも、それはちとご勘弁。県選出の国会議員で雄平の後釜狙っている人もいると聞く。いないね。ろくな国会議員。
「輸入」でもいい。誰かいないかな。本当にそう思うのです。

たしかに雄平は立派だった。それは渡部恒三の秘書として。カネ集め、票集めにはその才を遺憾なく発揮した。地元への利益誘導にも活躍した。しかし、所詮、秘書は秘書。その“分”をわきまえていなかったということか。

昨日の福島での事故調。全国紙はどんな扱いでつたえたのでしょうか。地元紙でも呆れているようです。

はてさて、なじょすっぺか。書きたくないこと書いてしまった。全国に“恥”を広めるみたいで。

県民は誰を担げばいいんだい。誰を神輿にすえればいいんだい。

結論ないままの「敬白」とさせていただきたく。

2012年5月29日火曜日

「自己弁護」と「責任転嫁」

きのうの国会事故調。菅直人出席。見、聞きした菅の発言。どうしても自己弁護と責任転嫁としか読みとれないのだが。

たしかに「反省の弁」は口にした。しかし、それに何ほどの意味があるのかとも思う。
反省の弁で、すべてを水に流し、終わりにすることは出来ない。例え、どんな経緯であれ、一国の最高権力者、最高責任者になった者としての覚悟はみじんも感じられなかったと。

例え、不満はあろうとも「すべての責任は我にあり」として、言い訳を言うのではなく、潔く、すべての「非」を認めることではないのかと。
それは自分の行動であろうと、部下の行動や言動であろうと、内部の統率が出来ていなかったという、その資質の欠落を認めるべきではないかと。

誰でも、あの時の状態だったらああするよりしょうがなかったというようなテレビの司会者の声もあった。違うのだ。政治家というのは。一億人以上の国民の命を預かっているのだ。その使命感が完全に欠落している。いや、それは菅に限ったことではないのだが。

反省の弁を口にした菅。次の行動は。脱原発を言っている立場じゃない。辞任後、たしか四国でのお遍路を再開していたようだ。以前にも書いた。
自分の為のお遍路。何の意味があるのか。

お遍路するならやることがある。頭を丸めて、福島県内を例え長い日数がかかるとしても、一軒、一軒、お詫び行脚をすることだ。それで何かが解決するわけでもないが、それすらしないで安穏とした日々を送っているとは。

これは感情論に過ぎないのだろうけれど。

夜寝ることもかなわず、命を絶つという被害者がいるというのに。

そしてこの国会事故調。来月に報告書をまとめるという。何をまとめるのか。東電の社長の参考人招致も出来ていないというのに。
単なる発言録、議事録の列挙で終わるのか。

政府の事故調、民間の事故調、国会の事故調。そこで何が見えたのか。少なくとも国会事故調は国政調査権と言う一つの「力」を持っている。それを発揮すべき。すべての関係者を一堂に集めて正否を追及する。これは決して「人民裁判」ではない。

こんな調査でお茶を濁されてしまったのなら、やはりこの国の民主主義は「エセ民主主義」となってしまう。自浄作用のまったく無い。

菅“証言”を巡って、メディアの論調も二分されている。菅擁護と菅批判。どのメディアと接触するかによって、国民の考えも左右される。

菅が「脱原発」を言ったからという理由で彼を許すとする「反原発、脱原発論者」。

再生エネリギー法案の時、孫と一緒に高笑いして、まるで踊り狂っていたようなあの菅の姿。原発被害者は誰も笑っていなかった。

先入観としてある菅史観。 それは亭主のことだけではなくマスコミ界にも。どちというのではなく。

くどいようだが、誰も本当の事は言っていない。誰も罪を引き受けない。それを敷衍していけば、誰も被災者に、被害者に「寄り添って」なんかいないということ。

「東電に乗り込んでの叱責」、それを「夫婦喧嘩よりも小さな声」と例えるこの感覚。それが彼の“人格”を物語っている。こんな感覚をなぜ突っ込めない事故調委員とも言いたい。

そうせざるを得ないのだろうが、責任のなすりあいをされていたって、福島の現実は何も変わらないのだ。

2012年5月28日月曜日

「情報」についてのいろいろ。

郡山は時々、大きな雷鳴と稲妻。雨・・・。消防車や救急車のサイレンが鳴り渡っています。空は真っ暗。天気予報では浜通に激しい雨が降るという。雷も。竜巻の懸念も。

思わず見てしまう東電のライブカメラ映像。クレーンが伸びたような。

テレビで見た原発4号機の映像が浮かんでくる。むき出し状態になっている、屋根の無い燃料プール。ビニールシートのようなもので覆われていたが、大雨するとどうするのか。他の号機も然り。汚染水が流れだすのでは、もうタンクは満杯状態だと言っていたから・・・。素人の「懸念」は天候とともに、ふくらんでくる。

きのうも書いた耐震強度も含めての4号機の安全性。どうも東電では会見でいろいろ言っているらしい。コンピューターによる解析など含めて。それが信用できるかどうかはともかく、会見に出ているメディアは、そのことをあまり情報として流していない。
現場に入って、その様子を伝えて、はじめて見る地元のメディアは、不安視するのは当たり前。

去年、NHKの今のEテレ、それを原発チャンネルにしてはという話がどこからともなく出されていた。4号機問題、もし地震でも来て壊れることがあったら東京もダメ。3千万人避難とか、公開されてあらためてその懸念を言う。アメリカの研究者の情報を流し。

メディアの側の情報の流し方にも問題ありなんじゃないのか。

時同じくして枝野の事故調での“証言”。
「情報を政府として十分に集約し、それに基づく予想、想定ができなかったことこそ反省すべきだ」と述べ、情報集約と提供が不十分だったと認めた。当たり前だが。
今更「反省」を口にされたって何にもならないが。

ちょっと横道。事故調始め各所での検証はもちろん必要。でも、こっちでは現在進行形。意味をなさない反省の弁を聞いているより、対策に専念して欲しいとうのはおかしいかな。

国家の中枢が情報収集はじめ、その管理、提供が出来ていなかったということ。これこそ、この国の“汚点”。

情報の優劣、それが戦いを制する。第二次大戦、対米戦。日本の軍事情報はアメリカにほとんど漏れていた。
宇宙を行き交う軍事衛星。情報を得んがため。

CIA,アメリカ中央情報局。それに比すのは日本ではどこ・・。

スポーツの世界だって、情報戦。女子バレー、真鍋監督が手にするipad。コート脇のアナリストから送られてくる敵の情報、それをいかに読み解くか。

政局だって情報戦。与野党問わず。身内の中でも。

日本は情報弱国。そんな評価もされているとか。

そしてネット含めて、巷に飛び交う怪しげな情報の数々。こっちはお盛ん。

情報化社会という触れ込みの中で、一番“情報弱者”だった政権中枢。

デマも風評もそりゃ流れるわい。こんな政権の中だもの。

2012年5月27日日曜日

その光景には、やはり“息をのむ”

きのう報道陣に公開された原発4号機の映像。現状。その惨状には“息をのむ”としか言えないような。

折れ曲がった鉄骨などの外観は見てきたが、内部も酷い。毎日、多くの作業員が瓦礫の撤去含めて作業しているようだが、素人目で見れば、中にある核燃料がどうなるんだろうという不安はやはりぬぐいきれない。

たしかに今は「安定」が保たれていることは間違いないだろうが・・・。

燃料プールの耐震補強がちゃんとされている。視察した細野大臣は「保障」したけれど。肉眼で見て確認出来と言っても、例えば家を外観から見ただけで、基礎や耐震構造なんかわからない。

東電が「大丈夫です」といい、肉眼で外形見ての話しにしか過ぎないというのがテレビ映像を見ての感想。

もし、また、去年のような地震が来たり、津波が来たら・・・。やはりぞっとする。

一年以上経っての「公開」。それを許可した東電や政府の意図は何か。真面目な「情報公開」ととるべきか。あの映像見たら、福島県民はあらためて恐怖感を覚える。
再稼働を言われている大飯原発、福井県の人はどう見たのだろう。反原発、嫌原発に拍車がかかると思うのだけれど。

地震来た時の4号機の“不安”。水位が気になる1号機。

細野大臣の労苦は多とするものの、政治家が保証するって言ったって誰も納得しないだろう。
専門家が(それもまともであるという前提で)、ちゃんと構造計算含めて問題ないと太鼓判押してくれているのか。そんな意見は聞いたことが無い。

燃料棒取り出しにまで、あと何年??
「収束」って表現はやはり当てはまらない。地震こないこと祈るのみってことしかないような。

そして、きょうも瓦礫の撤去はじめ、多くの人が作業にかかわっている。
もちろん4号機付近の線量は低いとしても。

わずか60キロ南東に、あの物体がさらされているという事実・・・。

2012年5月26日土曜日

「ムラ」は袋小路のようであり。

原子力村と言われる「ムラ」。このムラの中に住んでいる人たち、というか、その構成員。あまりにもたくさんありすぎて、なにがなんだか・・・って。

核燃料サイクルの在り方を議論している内閣府の原子力委員会が、電力会社など推進派だけえ非公開の会議を開いていた。その議論をもとに報告書を書き変えていた。
新聞は書く。「原発事故後も原子力ムラの癒着を物語っている。原子力行政への不信感が高まるのは必至だ」と。

多少の知識だけで言えば、国の原子力に関する組織は同じ内閣府の中にありながら、原発を推進しようとする、この原子力委員会と、一応“中立”と言われる原子力安全委員会はある。安全委の委員長はあの“有名”になった斑目。

見直しが決まっている経産省の原子力安全・保安院。資源エネルギー庁。政府の中でもこんな具合。で、新設されるはずの「原子力規制庁」は発足する気配無し。

その他、“法人”含めて、原子力と名がつく、それに関わる機関や組織は、日本原子力研究開発機構だったり、それこそ電力会社を束ねる電事連、電気事業連合会、各電力会社、日本原燃・・・。動燃、たしか日本動力炉開発会社といったか、むつ小川原開発会社とか、何という数があるのか。

これらはいずれも当事者。大学にある原子力研究機関や、その他民間含めると、その「ムラ」、まさに群れをなしていると。

原子力ムラ、依然健在。体質存続。

ものの道理からすれば、これらをすっきりさせてからの再稼働と思うのだが。

脱原発を考える場であり、原子力と言う名はつていないが、経産相の諮問機関である「総合資源エネリギー調査会」だって、“推進派”の委員が大多数だし。

「ムラ」の内容を明らかにし、その「ムラ」を、それこそ実在の行政組織としての「村」を大合併させたように、再編しない限り、大飯原発再稼働なんて出来っこないともうんだけど、野田くん。無理だよね。

「ムラ」とはかつて自民党の派閥を指す言葉だった。それがいつしか「グループ」だと。それはともかく、このムラの最大の掟。

「放射線漏れより、情報漏れの方が怖い」と言っているとか。隠ぺい、隠ぺい。

ボロってのは隠せば隠そうとするほど明らかにされる。そう隠し通せるもんではないと思うけど隠す。ボロが明らかになった時の反動の方がよっぽど怖いと思うんだけど。

でもね、やはり「ムラ」の中は袋小路のように入り組んでいるのかな。入ったら出られないような。

2012年5月25日金曜日

ニュースが「作られる」ということ

きのう、NHK経営委員長と東電社外取締役のこと書いたら、なんと、数時間後にあの数土さん、NHKを辞められてしまった。選んだのは東電。電光石火の早業か。

ここ数日間、この問題めぐり“沈黙”守るNHK.その他のマスコミはこぞって、おかしいおかしいの連呼。そして今朝の新聞の大見出しの記事。経緯や辞任にいたる心境、その他をもろもろ詳細に。推測に基づくもの含めて。

何が数土を辞任に追い込んだのか。影の力が働いたのか。やはりメディアでしょ。年俸6百万円以上の報酬捨てて無報酬の東電へ。ご立派、御立派。もっとも東電からが無報酬でも、どっかから“お手当“出るかもしれないけど。まさか内閣官房機密費なんてことあり得ないでしょうが。

何もその数土さんを褒めているのではありません。どんな方かお会いしたこともなければ、存じ上げもしないし。

経営委員長辞任。このニュースは、そう願ったマスコミが、書きに書いたから。叩きに叩いたから。いわば帰趨は見えていた。どうだ、首とったぜといわんばかりの書き方。
それを敢えて言う。「作られたニュース」と。

批判があがっていた。NHKに投書が殺到していた。受信料にも響くなどなどの“理由”が書かれている。辞めると言わせてからのNHK内部の声を書いたり。

世論調査の構図とよく似ています。記事で内閣の悪口書きまくり、世論調査して、支持率悪いと、世論はこうだと付きつける。それを報じる。また支持率下がるって構図と。

世論調査は世論操作。

マスコミという“権力”がニュースを作るということ。反面、追及すべきところを追及しない。ニュースにしないことも様々あり。

いまだ健在の「原子力ムラ」。安全委員会の資料極秘開示問題。どこまでマスコミがこれを追いこんでいくのか。尻切れトンボに終わってしまうのか。

名張の毒ぶどう酒事件の再審却下。これ司法。小沢一郎の動き、これ政局、立法府。経産省は行政。どこまで攻め込んでいるのか。少なくとも小沢問題ではせいきょうがらみでは腰が引けていると。

行政・司法・立法の三権プラスマスコミという第四の権力。四つの権力の絡み合い。

記者会見などでは思い切って物を言えず、終わってからは書くは、書くはの書きたい放題、言いたい放題。橋下とやりあったMBSの女性記者の方がまともかとも。

そこにあるニュースを伝えるのか、ニュースを掘り起こすのか、ニュースを作るのか。

新聞によれば数土さんはNHKの受信料値下げに辣腕振るったとのこと。東電で“改革”に奮闘してくださいな。電気量値上げを“阻止”してくださいな。社外取締役一人の力ではどうにもならない“伏魔殿”とは思うけど。

東電を選んだその心意気やよし。としておきましょう。

2012年5月24日木曜日

「報道の中立性」、なんか世迷い言のような

世迷い言、それを分けのわからないこととかばかばかしいことという意味で見てみればですが。

NHKの経営委員長をやっている数土(すど)文夫という人が、東電の非常勤取締役になるということで、なんか世間は騒がしい。

民放局も新聞もこぞって言う。報道機関としてのNHKの中立性が保たれるのか、報道の中立性が問われていますとか。

なるほどごもっとも。悪の巣窟「東電」の役員にNHKの経営トップが就くということなのだから。東電を巡る報道に、トップの意向や、それを忖度した「東電寄り」の報道になるのではないかという懸念。当然です。

だけどね。報道の中立性なんていうお題目、なにかあると軽々に持ち出すなよってのが感想。お前ら「中立性」と今まで保って来たのかよ。いったい「中立性」ってなんだよと問いかけたい。

無意識的に刷り込まれた「中立性」。だから例えば新聞の社説なんかではこうなる。「ああでもない、こうでもない。あっちも悪いがこっちも悪い」って類の論調。結論無しの「問われている」という、いわば“逃げ口上”ばかり。

マスコミ、メディアの中立性って何なんだろう。あらためての問いかけ。

中立性が担保された、しっかりしているメディアってあるの?。

原発推進の旗振った新聞。広告主や代理店の意向を気にする民放。恣意的な報道、垂れ流しの情報。

3・11以降、NHKはけっこう「骨太」な番組を作っていた。もちろんその内容や視点には疑問符つくものもあったが。

国営放送がここまでよくやるなってものもあった。政治のNHK番組に対する介入、その例も知ってはいるが。

政治家紹介のNHK職員多し。民放幹部の息子は電通、電通幹部の息子は民放。そんなコネクションも多々。

鬼の首でもとったような「中立性」提起。・・・あはは、亭主の世迷い言か。

それならついでにもう一言。

数土って人が腐った東電の社外取締役になって、東電改革にモノ申す、力を注ぐっていうなら、NHKがそれを後押しすればいい。
国営企業と国営放送。「ガラスの巨塔」をバックにした東電改革。面白いかも。
逆転の“発想”。

国家権力と弱い国民。その間に入ってのマスコミ。それでも中立性を言うのか。弱い方の立場に軸足をもっとうつすべきなのだと。

2012年5月23日水曜日

「瓦礫処理」とマスコミ報道

宮城・岩手の震災瓦礫の処理問題。石巻市の瓦礫を北九州市が受け入れ「処分」するとしたら、なんとまたもや猛反対。反対運動。

きのうのツィッター。今はもう滅多にツイッターのTLは見ないことにしているんですが。なぜなら原発問題をめぐり、リツイートされまくるうす汚い言辞や不毛の論争みていると吐き気さえ催してくるから。

社会の断面が垣間見えるという意味では、“貴重“な情報ツールではあるんですが。
もちろん中には「まとも」な人も大勢います。ジャーナリストでも。そして友人知人のつぶやきは見てみたいし。

そのツイッター。きのうの。「北九州市に集まれ!!」というのから始まって、「警官隊が善良な市民にけがを負わせた」「ただいま強制排除中、逮捕者も」「市役所に抗議行動を!!」などなどと。そのリツイートたるや相当の数でした。

どう見ても「専門の市民運動家」らしき団体が発信しているような気配。そして必ず出てくる常套句。「子供たちを被曝から守ろう」。

この専門家集団たる人たちのやっていること考えていること理解不能。怒りだけ覚える。

沖縄で反基地闘争をやって、でも本土に基地移転とは絶対言わない。もし、移転があったらそこで抗議行動を起こすこと必定なり。基地は沖縄に閉じ込める。

福島の原発周辺の瓦礫を持ちこむ、処理を依頼するってわけじゃない。岩手や宮城ですよ。それも検査して上でなのに。
放射能も瓦礫も東北に閉じ込める。被災地に閉じ込める。自分たちは「安全」だと思われる環境に身を置いて・・・。

まさに東北処分だと。何回も書いてきたけど。

なんでかな~~。無知な人ばかりが騒いでいるわけではないのに。「市民運動」なるものに生きがいを感じている人たち。震災や原発事故で、そのターゲットが出来たのかとも。それまでの溜まりに溜まった「社会」への不満、閉塞感を爆発させる事例が出来たと。

これを報じるメディア。全国紙。北九州市の住民という人たちの名前を挙げて「子供たち」を前面に出して、その不安を書きまくる。

かたや地元紙。「その運動の中に地元の人間がどれだけいるのか。処理場の周りに学校や幼稚園があるわけじゃない」と。

数日前、中央紙が伝えた処分必要な瓦礫量。当初の予想より三分の一だったという環境省の発表記事。書き方、読み方によるけれど、減ったのだから県内で処理しろって議論の元にもなる。想定を下回ったといってもまだまだ大量にあるはずなのに。
さらには瓦礫処理の費用にまで言及し、運搬費考えたら現地でという論調も。

昨夜の報道ステーション。この瓦礫搬入の問題をとりあげていた。NHKはネグッていたみたいだったけど。

古館曰く。「瓦礫処理には全国の協力が必要です。私はそう思います。しかし・・瓦礫を搬入された自治体の反対の声もわかります。放射線量は無いに等しい微量だと言っても、それを焼却したら凝縮されて大量の線量となる。反対するお母さんたちの気持ちもわかります。しかも、瓦礫処理をめぐって“黒いカネ”の動きも垣間見える。この三点からこの問題を考えてみます」というような前振り。結果VTRでは反対運動だけ放映。カネの問題言及無し。そしてまとめ。「要は国がはっきりさせないからいけないのだ。専門家の意見も分かれている。焼却した結果の安全性についての数値を出さないからいけないのだ」といった具合。

おお、古館よ。お前、やはり「言葉の“詐欺師”だな」って。去年の年末特番で、宮古かどっかの駅舎の中で「被災地に寄り添っていきます」って涙ながらに断言してたじゃないのか。二枚舌だったのかい。

どっかからの「抗議」がこわいのかい。どっちつかずの何でも国が悪いっていう逃げ口上。・・・としか聞こえない。

反原発運動。否定しません。当然です。しかし、その思想やイデオロギーと瓦礫処理問題とは全く違う。
あらためて思う。背骨の無いおかしな国になっているんだなと。

2012年5月22日火曜日

東京スカイツリー雑感

昨日一日、話題は金環日食でした。世紀の天体ショー。天文ショー。テレビでみる画像。あらためて宇宙の不思議と人知の及ばざることと、宇宙の営みの数々に恐ろしささえ覚えます。そして太陽の黒点の動きが何やらと言う話もあったり。

観光やグッズ、プラネタリュウム入場料などなど。経済効果はたった5分で164億円だったとか。8千万人の人が見たり見ようとしたりだったとか。

そしてきょうの話題はそれこそ東京スカイツリーの完成、営業開始。運がよかった8500人が塔にあがれ、その周辺には20万人が来るという話。

東京新名所誕生おめでとう!!

・・・とじゃ言ってみたものの、いや、やはり凄いことなのか。昨日の話の続きじゃないけれど、今まで地上からスカイツリーを見上げてきた人たちが、こんどは天空から下界を見下ろすことになる。目線が変わる。

電波塔。東京タワーはテレビの為に必要なタワーだった。関東一円に電波を送るちゃめに。ヅカイツリーもデジタル波を送るために必要なものには違いないが・・・。

「テレビは絶対に滅びない」。そう“宣言”している象徴かとも。

高みを目指す人間・・・。たしかに上から見下ろす光景は絶景だろう。七層の上に築かれた天守閣から為政者は民を見下ろしていた・・・。

・・・あの隅田川界隈の光景はずいぶん変わったことだろう。ボクにとってのいわば故郷東京はすっかりその姿を変えてしまった。あの懐かしい下町の光景は・・・。

東京スカイツリーものがたり。その光景をテレビで見るたびに心中は複雑な思いにとらわれる。

スカイツリー。訳してみれば空の塔。バベルの塔という史実が浮かぶ。
スカイツリーの下には「空街」という新しい“街”が誕生した。その街へ人は群れていく。

「ふるさと」の変貌を見ながら、「ふるさと」と追われた人のことを思う。町は存在しながら、人の住めない街。その果ての悲しい町。「仮の町」。

仮の町が置かれるかもしれないいわき市。その漁港に活気が戻ったといわれる。かつをの水揚げ。築地の市場に運ばれる。千葉の漁港に水揚げされたかつをと値段は4分に1。同じ魚場、八丈島で獲れたというのに。

この競り値に肩を落とす漁師も多いのでは。4分の1という数字が物語るものは・・・。

魚の“目線”が気になる。NDの紙を貼られ、安値で売られるかつをの。

人々の目線は奪われている。金環日食の話題に、スカイツリーの話題に。被災地の話題はその分、かすんでしまっている・・・。

被災地の子供たちをスカイツリー見学に招待。やがてそんな“美談”だけが、画面や紙面を飾る時もくるだろう。

天体ショーにパノラマビューショー。どっちもいい話題には違いないんだけれど。

スカイツリーの経済効果は・・・。それもやがて話題になる。

2012年5月21日月曜日

「目線」あれこれ

きょうは金環日食。ということで、朝から近所の子供たちとそれ用のグラス持って空を見上げて。はい、目線は常に東の空に向けられており。曇り空にもかかわらず。しかし、結果は残念としか。雲間からちょっとだけ。一瞬。グラスを使うまでも無く・・・。
空を見上げる子供たちの目線は悔しそうでした。日本中の多くの人の目線は東の空にくぎ付けになっていたでしょう。

マスコミ人、メディア人。最近はとにかくいろいろな発信者が居てその範疇は難しいのですが、およそ物を伝えようとする人たちの目線、視線。

「時には鳥の目線になって、全体像を俯瞰してみなければならない。時には蟻の目線になって、下から物をみなければならない」。そう言ってきました。記者にもカメラマンにも。

よく言われる上から目線って言葉。上から、上の立場に居る人が偉そうにものを言うことへの反発。

今、政府や役所の発する言葉や見方には「上から目線」がやはり多いと。
新聞記事にも時々見られる上から目線。古人曰くなのであります。
「葦の髄から天井を覗く」と。
ヨシの中心の細い穴を通して天を見ても、天のごく一部しか見えないように、自分の狭い見識で物事を判断しようとするのよくないことだと言う例え。

どうもこの「葦の髄目線」がまかり通っているようで。

物事をどこから見るか、どう捉えるか。裏からみるか、表から見るか。それによって、書かれ方や伝わり方が違ってくる。

「ふくしま」を見る目線。よく言われるのが「東京目線」と「地元目線」という言葉。

一昨日の土曜日。郡山でも小学校の運動会が盛んに行われました。時間短縮して。もちろん除染された校庭での運動会。玉入れ競争では子供たちがマスクを着けました。
土ぼこりの舞う玉入れ競争では、一応内部被ばくを防ぐためにという事でです。

これが記事になる。写真も付く。写真はマスクをしている子供の画。そして見出し。「マスクをしての運動会」となる。東京目線なるもので書かれ、東京目線で読まれると、福島の子供たちはマスクをしてまで運動会をやっている、いや、やらされているという風になる。運動会全体が「マスク」とばかりに。
実態は玉入れ競争の時だけなんですが。「玉入れ競争だけはマスクして。子供たちが待ちに待った運動会」って見出しや記事にするべき。それが地元目線かとも。

悪意はもちろん無いにしても、「葦の髄目線」に陥りがちな報道。

葦。ヨシとも読むし、アシとも読む。「人間は一本の葦(アシ)に過ぎない。しかし、それは考える葦である」。有名なパスカルのことば。中学校でみなさん習ったはず。そしてその言葉に感銘を受けたはず。

ヨシ目線で無く、アシ目線でと申し上げたい。

「これを、どう書けば、こうなる。こう書けばどうなる。こうなるかも」。ちょっと考えてみればわかることだと思うのですが。

金環日食見逃した子供たちは早速バスケットボール遊びに熱中。聞けば運動会の代休できょうは学校休みとか。出勤するするお父さん。「いいな、子供たちは・・・」。大人目線で流し眼でしたっけ。

2012年5月20日日曜日

聖書にも書かれていた

新約聖書のマタイの福音書第15章にこんな記述がある。
「聞いて悟れ、口に入るものは人を汚さない。口から出てくるものこそ人を汚すものである」。

現在の世情を言っているような。

原発事故で言われた食物による内部被曝。子供を含めて、99%がセシュウム検出されなかったという南相馬市のホールボディーカウンターでの検査結果。すでに排出されている。この結果を是としよう。
今、市場に出回っているあらゆる食品、問題ないと言っていいのでは。

しかし、これさえも疑ってかかる人もいる。「得意げ」に危険を言い募る人もあとを断たない。
それに何の意義があるのか。単なる“自己顕示”のような言辞がまき散らされている。

たとえ善意の人であっても、善意のつもりで毒を吐いている人も少なくない。
善意のつもりだから、自覚はないし、人から言われても気づかない。そんな人も多い。

黙っているという善意。それも有りなのだと思うのだけど。
”善意“の押し売りにも辟易する。

何回も書いてきたけれど、口から発せられる“毒”が、一番の汚染だと思うのだけど。

その汚染が大きな社会的害毒となって、子供たちの健康を阻害しているってことを。人間関係をいびつにしているってことを。

昨夜の「飲み会」でも交わしたこの種の話題。

単純な話。例え100ベクレルを超えていた野菜だって、その、基準を亭主は是としてないけれど、500でも問題ないと思っているけれど、それはともかく、1キロ食べての話し。野菜を1キロ食べますか。
利根川水系で、水道水からホルムアルデヒドが検出されたって話し。原因は未だわからずだけど。そのニュース聞いた時から危惧してたこと。原発事故、放射線によるものって話にされないかってこと。案の定、ネットではやってましたよ。なんら科学的、化学的裏打ちも、知見も無いどっかのだれかの妄想話しを。

今朝、テレビ見てたら馬鹿なジャーナリストなるもの、まして政治記者出身の奴が言っていた。「“汚染水”が検出されたところと、不思議なことに、放射線のホットスポットとされるところと重なっているんですよね」だと。

「口害」がこうやって巻き散らかされていく・・・。

人の口に戸は立てられない。日本の諺にあるけれど。一つの警句でしょ。聖書ってけっこういい事書いてあるんだなって。

冒頭の文言。食事の前に手を洗わなかった子供のことを言った人に、キリストがこたえた言葉だったと記憶。いわれなき誹謗中傷を指した言葉と記憶。

2012年5月19日土曜日

蛍雪時代・・・

蛍の光、窓の雪、書(ふみ)読む月日重ねつつ・・・。夜間勉強する時、家が貧乏で油を買えなかったので、蛍の光で書を読み。あるいは雪灯りで書を読んだっていう中国の故事からひいた言葉。蛍雪の功。簡単にいえばそいういうこと。

卒業式の定番ソング。昔の唱歌ってことでしょう。

亭主が中学、高校の時の学習参考書は「蛍雪時代」って名前の本。そのころ家庭の電気のアンペア数は15アンペアだった。しかもしょっちゅうヒューズが切れた。なぜか取り替えるのは子供の役目。

団扇に蚊帳。電車もバスもタクシーも冷房車なんてなかった。大学生時代。夏は暑くて当たり前っていうのが「普通の暮らし」。それがいつしか・・・。書を読む季節を重ねているうちに・・・。いつしか年も過ぎの戸を・・。

四半世紀前、郡山に来た時住んだマンション。エアコンは無し。二階でした。二週間我慢すれば大丈夫と言われ、団扇と扇風機だけの夏を数年体験。けっこう暮らせたのです。

水は美味いから浄水器はいらないと言われ。

その頃と今とどれだけ温暖化が進んだのかと。

ただし、街に出ると様子は一変。エアコン、クーラーから吐き出される熱風。室外機の周りの暑さ。新橋のガード下の焼鳥屋にはクーラー無かったな。新宿の飲み屋にも。

意味を為さない懐古談ですが・・。

このところ、世をあげて話題は「節電、節電」一色。

「普通の暮らし」。それは時代とともに変わる。エアコン当たり前、明るい街当たり前。普通の暮らし。

いくらLED照明だと言ったって、スカイツリーの夜景がテレビの話題。
どっかの国は「百万ドルの夜景」だなんて呼ばれて、おお、ロマンチック~。

東京では橋までもがライトアップ。光でお化粧。おそれを為してお月さまも顔を見せない、星もまたたかない。

都会は明るすぎるんじゃないですか。どっかで読んだもの。

「世界一明るい日本のビル、750ルックス、アメリカは350ルックス」。

電気と言えば原発に行きつき、原発なければ・・・の供給サイド論議がこれまで。これからは需要サイドの論議に。LEDとか高効率蛍光灯とか言われるんだけど。

地殻変動は今でも活発らしい。たとえ運転停止していたとしても、またどっかの原発に異変あれば。もう福島だけで十分です。あんな思い、こんな思いするのは。

電気足りない、電気たりない。本当の事は何もわからない。たしかに「普通」だった時とはすくないけれど。足りない中での社会構造、社会システムの構築。
それが肝要なのかと。大飯再稼働に向けて“策略”めぐらせるよりは。

汗流すために、汗かくために行っているスポーツジムで「冷房効かせろ」って叫んでるおじさん。ギンギンに冷やしてる店で冷えたビールを飲みまくっているあんちゃん。短いスカートのお姉ちゃんには薄いひざかけを提供サービスする飲食店さん。

「翼よあれがパリの灯だ」。あの頃もパリはそんなに明るかったのかな。そういう意味じゃないよね。

明るすぎる東京ってやはり憧れの的なんでしょうかね。

ああ、きょうも意味無い嫌みで。

2012年5月18日金曜日

「伝言ゲーム」

ばかばかしくて悲しいけれど、これは今年の「流行語大賞」になるかも。

「伝言ゲーム」。国会事故調での海江田の発言。政治家になる前は経済アナリストとか言って、それないの見識を披露されていたお方。よりにもよって、あの官邸内の混乱ぶりを当事者の一人がゲームに例えるなんて。嗤うしかないですな。

伝言ゲーム。子供のころよくやりましたよね。たしか小学校の授業の一環としてもあったような。子供10人くらいが並んで、最初の子が隣の子の耳元で、それこそ今はやりのツイッターのような140語位の言葉を伝える。それを聞いた子はその隣の子へ・・・。最後になるとまったく正反対な意味になってしまっている・・・。そんな具合の言葉遊び。

海江田の言う伝言ゲームってのはどういうものだったのか。最初に耳打ちしたのが誰で、最後にそれを受け取った人が何と捉え、それをどうしたのか。

報道で見聞きする限り、それは雰囲気を言ったもので内容は誰も、やりとりは誰も追及していない様子。

どうも東電が原発から撤退する、しないの論議の事のようだけど。「伝言ゲーム」という、その一言が示す当時の政府の関係者全員の余りにもお粗末さ。

語るに落ちたってことじゃないのでしょうか。

国会の事故調。先の勝俣弁明といい、海江田といい、すべからく自己弁護、言い訳、言葉だけの「申し訳ない」。

この事故原因や対応の問題について調査検証するということに限って言えば、もうこれしかないでしょう。事故調に権威を持たせ、証人喚問のような偽証罪ってペナルティーもありという前提で、関係者全員を並べて話をさせること。雁首並べて・・・ってやり方しか。

公開の場で、言った言わない含め、菅、海江田、枝野、保安院幹部、そして東電の勝俣はじめ社長や役員達。
F1の吉田所長、その後体調は、病状はどうなのだろう。許されるなら吉田所長にも加わってもらいたいのですが。
追及する委員の方も、一言一句聞きもらさず“疑点”を納得出来るまで糺すということしかないんじゃないかと。

だれそれの進退なんてどうでもいいこと。知りたいのは何があって事実はどうで真実は何だったのかということ。

この「伝言ゲーム」に終始していたという官邸界隈。流言飛語が飛び交うネット社会よりももっと性質が悪かったんじゃないかなと。

2012年5月17日木曜日

「エコ」と「エゴ」

「エコ」とはエコロジーの和製英語であり、生態学や環境に関わる事柄と理解している。和製英語や略語がお好きな日本人。省エネは文字通り省エネルギーだが、ほとんど「省エネ」。


今朝もついつい見てしまうツイッター。そこにRTも含めて、というよりかRTを趣味としかしていないような物を含めて、原発問題をめぐる言い争いを見ていてすっかり不機嫌になっていた時・・・。

事務所の前の道路にぞろぞろと人影。ドアを開けてみると、あの、なんていうんですか、腰パンって言うんですか。今の若い子特有の格好した制服の子たちが数人行く。手にはビニール袋とトングを持って。
そう、道路や軒先にあるゴミを拾っている子供たち。男女。先生が“引率”して。

思わず追いかけて聞いてみる。君たち、どこの学校って。近くのビルにある“専門学校”の生徒。「はい、郡山学院高等専修学校の生徒です」。専門学校じゃない、高等学校なんだ。
不登校児を受け入れたり、社会教育の実践を身につけさせ、卒業後は普通の高等学校の生徒と同じような“資格”が与えられるという。

「ゴミ拾いありがとうね、いつもやっているの」。「はい、ボランティア学習の一環でやっています」。「御苦労さま、ほんとありがとうね」。

ねぎらいと励ましの言葉をかけようとするけど、ちょっとジ~ンときちゃってる亭主。「ありがとうございます!」。大きな声で答えてくれる高校生。

大人が捨てた煙草の吸殻やゴミを高校生が拾っていく。地域の環境美化のために。あちこちで実践されている教育の一環かもしれませんが、やはり目の当たりにすると感激なのです。

ゴミを捨てる人、それを拾う人・・・。

先日見たテレビでのインタビュー。電力不足が言われる関電管内。近隣の電力会社への融通問題。名古屋の市民が言っていました。なんで大阪の電力不足のために中部電力の電気を融通しなければならないんだ。納得出来ない。なんで節電しなければならないんだ」と。

これって関電の不足問題の本質は別にして、やはり「エゴ」じゃないんでしょうか。エゴイズムなんじゃないでしょうか。人間が持っている本質的な。自分勝手、わがまま、利己的。

人間のエゴイズム、地域社会のエゴイズム。放射能問題は当然として、瓦礫処理問題でもいやというほど感じさせられました。

エコとう字に濁点がつくだけで、こんなに言葉の意味や内容が変わる。

道を進んでいく高校生の一団を見送りながら、もうちょっとこの子たちと話をしてみたいなという気になって。たまたま見かけた町の光景に感傷的になってしまってでしょうか。

後姿を見ていても嫌々やっているという雰囲気はなかった。むしろ使命感みたいなものも見てとれ。子供の背中に教えられたのです。

はい、高校生たちはマスクはしていません。空き地の草むらの中にも入って行きます。

あ、また思い出してしまった。わけのわからない反原発集会に東京から来て、プラプラとデモをしながら、煙草の吸殻を道に投げ捨てて平然としていた人たちの姿を。

大人が作った核のゴミを子供たちに拾わせる、背負わせる。そんな構図と・・・。どっか重なるような光景。

2012年5月16日水曜日

「沖縄」と「福島」 再び・・・。

「沖縄」と「福島」。その余りにも同似性のあることを以前にも書いた。アーカウブを探すのは面倒だけど。
同似性。それは“差別”とう言葉で繋がっている。言わずと知れた基地と原発事故。

きのうは沖縄の本土復帰40年の記念式典。基地問題は何も解決していない。

今朝の新聞に載っていた大田昌秀元知事の言葉は重い。「沖縄の実情はお祝い出来るような状況ではない。復帰とは何だったのか。自らを省みる日にしたい」。彼は招待された式典を欠席した。
「沖縄は絶えず、政治的取引の具にされてきた。人間扱いされてこなかった」。
「沖縄の問題を何とかしなければ、という政治家の熱意はすっかり失われてしまった」。
「本土と沖縄の心理的な溝は、ますます深まっている様子がはっきり見えてくる」。
「“痛みを体験しないとわからないのなら本土に基地を移して”という考えが県民の間に広がっている」と語っていた。

言葉を多少置き換えれば、差別という言葉で結べば、沖縄と福島はあまりにもその状況が、環境が合致する。

政治的イデオロギーで基地反対の旗を振っていた勢力は、原発反対にシフトした。それは単なる主張であり、“苦悩”を受け入れるという、“苦悩”を共通、共有しようという「覚悟」には至っていない。

原発再稼働という“国家目標”に向かい始めた昨今。すでにして福島は、政治的には厄介なモノとさえ位置づけられているかのような。

いわえれもない、愚にもつかない「放射能汚染論議」だけは、ますます、かまびすしい。「フクシマ」という名のもとに、差別的言辞や差別を助長する言辞も、各界各層で後を絶たない。

「痛みの体験」。それが“本土”にどう伝わっているのだろうか。

40年後、国は「福島」をどう総括し、どう位置付けるのだろうか。


福島県から沖縄に避難した人たちもかなり居ると聞く。現地の人たちの“厚遇”を受けていると聞く。
避難の是非は問わない。ただ一点、その福島県民として、沖縄の基地問題をどう思っているのか、どう考えていくのか。それだけは聞きたい気がする。
そして、もし、沖縄の米軍基地を福島県に“移転”という話が持ち上がったら福島県民はどう反応するのだろう。かつて、首都機能“移転”話で県知事はじめ県議も県の役人も、そして、県民も「盛り上がっていた」時代があった。わずか10年くらい前の事・・・。

2012年5月15日火曜日

燕雀いずくんぞ・・・・

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)。

史記にある有名な言葉。小人物には大人物の大きな志や考えがわからないというたとえに使われる。それが本来の解釈なのだろうが・・・。
「ツバメやスズメのような小さな鳥にはオオトリやクグイのような大きな鳥の志すところは理解できない」。

あえて、ちょっと当てる字を変えてみる。

燕雀安んぞ亡国の悲しみを知らんやと。

去年の今頃だっただろうか。飯舘村の全村避難が始まった。家々の軒下には燕が巣を作っていた。親は雛に餌を与え、棲みかを作っていた光景。

家を出る家主はツバメに語りかけた「留守をよろしくお願いします」と。やがては「帰村」出来るよう言う大きな志をもって避難する人たちは、小さいツバメや雀の願いを託した。

その志は達成される見通しが無い。越冬したツバメは戻ってきているのだろうか。
雀は・・・。

放射線を意に介する様子も無く、ツバメは巣をつくり、雀は田畑の餌をついばんでいた。

避難所から一時帰宅した人たちも軒下のツバメに癒され励まされたという。小さな鳥に願いを託すという望郷の念。

亡郷、亡国の民となった人たち。スズメやツバメたちと会いたがっているだろうに。自分の家に“居候”した・・・。

なぜか今年は燕や雀の姿が少ないような気がする。時々電線に群れをなして止まっていたのに。“哀しみの地”を避けているかのような・・・。

鴻鵠とは誰を指すのか。どこを指すのか。燕雀とは誰を指すのか。

史記の文言に異を唱えたくなる。鴻鵠いずくんぞ燕雀の心情を知らずやと。

2012年5月14日月曜日

「小細工」のような気がする

ピークシフトプラン。またまた「新語」登場です。時間帯別料金。
東電が家庭用電気代値上げにあたって打ち出した料金体系。

新料金体系を選べば節電によって電気代を抑えられる可能性もあるという。電気代抑えられたら困るんじゃないの? 経営不振で国からカネ貰って、さらに値上げしてどうにかしようってことじゃなかったのか。

7月から9月までの夏場は夜11時から朝の7時まで、夜間電力料金を設定する。1kwh、12,13円。昼間、電力需要の高い午後1時から夕方4時までは1kwh、53,29円だとか。約5倍の差。通常料金の半額の夜間料金。

夜11時になると、一斉に家庭の洗濯機が回りだす。電気掃除機が動き出す。
例えば安普請のマンションやアパート。亭主も経験あり。深夜の隣の部屋の洗濯機の音や掃除機の音は、騒音。うるさい。「騒音」を巡って隣人といさかいになる可能性だって有り。
主婦は、主夫も、独り者だって、夜中起きていて家事をこなす。寝不足、健康にも影響あり。勢い、音の静かな洗濯機を買うはめに。勢い、音の静かな掃除機を買うはめに。家電屋さんは、またも繁盛か。
騒音が問題にならない家ではタイマー付きの洗濯機購入しなくっちゃ。

昼間は外出。クーラーの効いたところで3時間過ごす。例えばスーパーやデパート、人が大勢入れば勢い冷房強くしないと。そこの使用電力量は上がるぜ。
ただ入っているわけにもいかないので、なんか買うって事になっちゃうのかな。
昼間は人がいない。それがわかれば空き巣も入りやすくなろうってってもの。

経済評論家と称する人たちはテレビで滔々と説明する。「賢い電気の使い方」を。

家庭の中にだって電気を必要とする器具をつけた病人だっている。外出出来ない高齢者もいる。温度調節機能が劣る高齢者。そんな施設は・・・。
だれもかれもが「外」に出られるわけが無い。出かければ、ガソリン代や交通費がかかるし。

つまらない「ぼやき」のようですがね。

「ピークシフトプラン」なる新料金体系、なんか電気代値上げの言い訳け、そのための小細工のようにも思えるんですが。

とりあえずはこれ、東京電力管内の話し。原発再稼働無しでは電力が10%以上も不足すると政府がお墨付きを与えてしまった関西電力管内。電力使用制限令だとか計画停電の実施とか。その上、節電、節電。どんな「小細工」が飛び出してくるのか。

待機電力の“常識”とかなんとか、電気をめぐる生活の知恵がどんどんテレビで語られるでしょうね。
節電のためにテレビは放送時間を短くしろとか。24時間営業のコンビニは止めろとか。
数年前までは、道路が暗いから犯罪が起こると防犯の観点から道路を明るくする運動なんてのが“流行”だったけど。

電気をめぐっての悪知恵、小細工、便乗商法、多々出現かとも。保温ポットや保温電気釜はダメですよ。電気くうから。
冷凍食品も売れなくなるのかな。
考えていればキリが無い。やれやれ・・・。

でも節電はしないとな。パソコンもこまめに切らないと。省エネモードにしておかないと。

結局、是を「認可」するかどうは経産省。枝野が向く「方向」は??
「いまのところ”影響はありません”とはまさか言うまいに。

2012年5月13日日曜日

ありのままの福島を

福島大学が国内外の学生30人を6月に県内に招待し、福島の日常の暮らしや復興の様子を見てもらう研修ツアーを実施するという。
福島のありのままが伝わっていないからという思いからだと。

「福島の現状の一部だけが過度に伝わっている」「福島で生活できる?」「早く出たほうがいいな」などと県外の人たちと話す度に言われた。驚いた。「普通に働き、食べ、日常生活を送る福島の姿が知られていない。ありのままを知ってもらった上で、不安に共感してほしい」。実行委代表の一人の学生の言葉。
昨年ドイツに研修旅行に行った時「原発事故は報道されても、福島の人たちの生活が伝わっていないと感じた。まったく人が住んでいないような印象さえ持たれている。直接見て、伝えてもらうことで、偏見ではなく共感が生まれると思う」ともう一人の学生の話。

これは数日前の朝日新聞の県版に書かれていた記事。学生を応援したい、頑張って成功させて欲しいと思う反面、湧く疑問。

福島の現状が伝わって無い。それはメディアがちゃんと伝えてないからだということ。この記事を書いた記者はどういう思いだったろうか。

自分たちが日々経験し、書いていることが伝わっていないという事実を。

「見る・聞く・話すは、今」。朝日新聞が阪神支局襲撃事件以来、折りにふれて特集してきたテーマである。意地悪く言えば、それが福島では為されていないということにならないか。

県版で書いても全国版には載らない。よくあるケースだ。ネットであげてもどこまで目を通してくれるか。そんなジレンマも地元の記者にはあるだろう。

福島の今を正確に伝える。ありのままを伝える。メディアの役割の筈なのに。
同じ会社の出版物では、危険をあおるような記事を流し、ネットで、ツイッターで流される流言飛語を否定も反論もせずにいる既存メディア。

相変わらずツイッターを時々覗くとすごい事になっています。地元の人たちが盛んに反論したりしていますが、例の上杉事件以来、その噂、誹謗、デマの類はさらに増えている気配です。

メディアは信用されていないってことなのでしょうか。福大の学生が言うように、直接見て聞いて知ってもらうしか方法はないのでしょうか。

学生が言うように、福島県の人たちは普通に暮らしています。地元産のものも食べ、笑い、歌い、飲んで、自分の仕事を普通にやっています。道ですれ違う若者は大声で、「コンチワ」とあいさつしてくれます。鼻血を出している子供はいません。病院は混んでいます。持病で長年通院してる人で。

でも病んでいる人もいます。放射線の影響ではありません。ストレスでです。
避難生活のストレス、誹謗中傷によるストレス・・・。

6月に訪れる30人の学生さんたちが、ありのままの福島の姿を発信してくれること大いに期待しています。

2012年5月12日土曜日

腑に落ちないこと・・・つづき

茨城県つくば市を襲った竜巻被害。そこには福島県から避難していった人たちもいた。
その映像を見ると、やはり3.11の光景がだぶる。

一瞬にして吹き飛ばされる家、家、人命・・。

茨城北部は3・11の時も被災しているし、放射能問題でも被害者になっている。あまり報道されない被災地。

テレビのキャスターはまたもや訳知り顔に言う。「対策はたてられないものなんでしょうか」。どっかを責めるような口調で。

およそ自然災害に対しての対策なんて無理だと思うべきなのです。逃げることしかない。大津波がそうであったように。竜巻は逃げる時間さえ与えてくれない。

地下にシェルターでも持っていてそこにすぐさま逃げ込めば一命は取りとめられる。しかし、家は無くなる・・・。竜巻に立ち向かう家なんて無理だ。コンクリートの建物に逃げ込め。そんな頑強な建物がそんじょそこいらに点在してるわけがない。

諦めるということではなく、そういうところに住んでいた。その「覚悟」の問題。

とにかくメディアは何かがあると、誰かを責めたがる。悪者を作りたがる。

今の問題は被害にあった人たちをどう助けるかだけ。

すぐにして東北の被災地からは片づけの為にボランティアが行った。お世話になったから恩返しと。原発事故で避難している人たちも行った。その辛さ、苦しみがわかるから。

今日と明日、片づけの為のボランティアが数多く行くことを願う。手作業でしか、人海戦術でしか出来ない後始末が多いのだから。

津波の被災地には今もボランティアが行っている。時々報道される。しかしその人数は・・・。先日福島の小高地区に入ったのは80人。去年は万を超す人たちが被災地に向かっていたはず。

自民党の谷垣が早速茨城に出向いた。“視察”した。で、どうなったか。被災地で語ったのは小沢問題。記者の質問によるのだろうが。

被害にあった人たちを助けるためには国の力が必要。政府だけでなく国会での審議も必要。だけど、この問題を審議する国会の場は災害特別委。国土交通大臣が答弁する場。
問責決議が可決された大臣がいる委員会には出席できないと自民党。

国会の在り様や慣行、習わしを熟知しているから敢えて言う。お前ら腐っていると。
民が困窮しているときにお前らのメンツなんて関係ないだろうって。

どうやったらこの自然災害に会ってしまった民を救えるのか。メディアは対策うんぬんという決まり文句をいうもんじゃない。「みなさん、せめてビニールハウスの修理に行ってください。割れた窓にとりあえず覆いをつくる作業を、雨露しのげるように手伝ってあげてください」。そんな呼びかけでもしてみたら。気象予報士や気象の専門家の話もいいけど、今、必要なことは・・・・。
政治ってなんだろう、国会ってなんだろう。腑に落ちないことの数々。

2012年5月11日金曜日

腑に落ちない話・・・

広辞苑を見ると「合点(がてん)がいかない。納得できない。腑に落ちないって言葉の意味。

昨日、今日、郡山は「寒い」です。暖房を入れたくなるくらい。でも我慢なのです。節電という意識がしみ込んでいるから。きょうの亭主の服装、まるで冬衣装って感じ。

節電、節電。当然の事。電気はなるべく使わない・・・。でも見ちゃうテレビ。そのテレビに登場する電気自動車のCM.エコカーと呼ばれるもの、ハイブリッド車も含めて。

電気自動車、いったいどれくらいの電気を使うのか。自動車会社の広告にある説明。前面に出ているのは電気代。しかもわかりづらい説明。

どうもいわゆる満タンで、夜間電力を使用して充電して3キロワットアワーとか。69円だとか。走行距離と燃費。そりゃ電気自動車は「安い」「お得」ってことになるけれど。

戦時中は「ガソリンは血の一滴」と叫ばれていた。そんなスローガンを是とするわけじゃないが、今のご時世、「電気の1キロワットは血の一滴」ってことじゃないのかな。

番組では節電、節電、おそらくその“グッズ”開発したり、省エネという電化製品を売り出したメーカーは儲かることでしょう。それらの数々を番組では連日のように伝える。電気はなるべく使わないと。その番組の間に流されるCMは電気自動車。電気をお使いくだされ・・・。

ガソリンをぶんまいて走る車は、排ガスを出すジーゼル車はCO2削減に反するものとして、代替で開発された電気自動車。それが喧伝されたのは、時の話題となったのは原発事故の前だった。電力は無尽蔵とも思われていた時代だった。

電気が足りない、電気が足りない。連日のこの夏に向けた電力需給報道。だれが本当のことを言っているのかは皆目わからない。大飯と再稼働させても足りないと言ったかと思うと、再稼働させれば間に合うって話をしてくる関電然り。

電力が「足りない」という前提条件を受け入れ、どうやって生きていくか、暮らしていくか、社会構造を構築していくか。
自然エネルギーの開発と言って、いろんな話題は紹介されるけれど、実用化される段階ではないし。

節電、省エネとエコは違う。エコとはエコロジー。環境問題。全部が混同されてのライフスタイル。

国会に登場した野田や枝野。もうすでにノーネクタイ。似合わない「クールビズ」。まだ真夏じゃないんだよ。

スーツにネクタイ。一つの礼儀だと思う亭主。国会と言う場でノーネクタイ。もちろん原発事故前からの“慣例”にいつの間にかされてしまったけど。はなはだ礼を失する服装と思えてならない。

私事で恐縮。講演や塾など人前で話をするときは必ずネクタイを着用します。どんなに暑くとも。冷房の温度を下げろとも言いません。
ネクタイ着用。それは講演や講義を聞いてくれる方々に対しての「礼儀」だと心得ている昔人だから。
「礼に始まって礼に終わる」。そんな日本人の精神を善しとするから。

政治家のクールビズなる“偽装”。電力不足を誇示するための格好のように見えて仕方がないのですが。

2012年5月10日木曜日

"コミュニティー”で感じたこと

冒頭、余談。きのう夢物語というか夢想譚を書いたけれど、今朝の新聞にあった沖縄の記事。沖縄県民に“独立”を望んでいるという人がいると。なぜか、
根底にある「差別」への反抗だと。
いろいろな意味で、形で、「ふくしま」に対する“差別”も明白だ。だから・・・夢想譚が現実味を帯びてもおかしくは無いのかとも。

共通の意識“差別”。共通の環境“被害者”。独立国とはそんな中での大きなコミュニティー・・・・。

先月から町内会の班長という“役目”が回ってきました。受け持ちは16世帯。

以前から気になっていたのです。郡山のはずれの一角にある町内会。コミュニティーとしてどういう存在なのだろうかということ。

16世帯の半数以上は、どんな方々か承知していません。まして家族構成や電話番号なんて。町内会長さんだって最近になっての知り合い。

個人情報っていうのがあるから・・・・。最初の班長会議なるもので言われた言葉。近所付き合いをなんとなく疎遠にしているかのような個人情報保護法かとも。

先月、一軒、一軒を訪ねました。短いあいさつ文の自分の電話番号とメールアドレスを書いて。「なにかわからないことや不明なことがあったら連絡ください」と。
どこからも反応はありませんでした。

過日、資源物収集の回覧版をまわしました。これまで我が家では回覧板は次のお宅にはなるべく手渡しするようにしていたのですが。どうも大方はポストからポストへの“回覧”の様子で。

数日後、あるお宅から電話がかかってきました。「おい、班長かい、俺はなんとかだけど、名簿にある次の家がわからない。どうなっているんだ」とのどなり声。「今、行きますから」。そのお宅に伺いました。挨拶文を持って行った時は留守だった家。玄関先におっちゃんが立っていました。
「あんたが班長かい、今までは目の前の家のポストに入れておけばよかったのに順番変わっているから、次の家がわからないじゃないか。面倒くさいことするな」。「そこの、あんたの家の、それ、その家ですよ」「おお、この貸家かい。この家との間には敷居作ってしまったから、回っていかなくっちゃならない。なんで俺がそれをしなければならないんだ」とのお言葉。「しょうがないでしょ、順番なんだから」。おっちゃんは怒りながら敷居をまたいで隣家に向かいました。わずか数メートルの。
「よろしくお願いします」と言ったものの腹が立って腹が立って(笑)。

次の回覧。町内会費徴収のお知らせ。今月20日に集金に伺います。御都合の悪い方は都合のいい日を連絡くださいとまたまたメモを添えて。

目と鼻の先のお宅からメールが来ました。その日はいません。その前の金曜なら午後からいますと。午後伺いますと返信しましたが・・・。

怒鳴ったおっちゃんのいう「知らない家」。それは富岡町からビッグパレットに避難してきていて、仮設からその4軒並んだ貸家に移った方々です。

数日後、雨の日。その富岡の人が4軒分の町内会費をまとめて持ってきてくれたのです。一年分まとめて。

いろいろ考えさせられました。人間模様というか、隣近所の在り様というか。
富岡の人たち、“境遇”が同じということなのか。関係が“濃い”。
何年いるのかしらないけど、郡山の人たちは“薄い”とも。

我が家の隣近所の数件は仲良しです。子供たちは遊びにくるし、手作りのお菓子を持ってきてくれるし・・・。一昨年は路地で花火やバーベキューやったりしてるけど。

コミュニティーって何だろう。3・11以降考えていた自分の周りのコミュニティーの事。

近くにある農地の一面。震災以降、田んぼが廃土と廃棄物の置場にされてしまっています。町内会は違うのですが。ちょっと達の悪い産廃業者にそこを貸してしまったらしい。その地主さん。でも町内会での動きなし。亭主はお節介と知りつつも“事情通”の友人を介して市や警察、その業者にクレームいれたのですが。廃棄物は多少減ったものの、まだどっかから持ち込まれてくる。見て見ぬふり、知っててしらんぷりと言ったような。行政の対応とて然り。明らかに法に違反してるはずなのに。風が吹けば廃土は舞い散る。近所は洗濯物干せない。熱くなれば異臭も必定・・・。動かない隣の町内会。名前も家も知らないけど怒鳴る込みに行こうかな、その町内会長さんとこへ。そんな“不穏”な思いも頭をよぎるのですが・・・。

多分、来月は市を挙げての街ぐるみクリーンアップ作戦の日がくると思うのだけど。どうすっぺ。

2012年5月9日水曜日

「ふくしま国」が独立した。

2012年の5月のある日、東京駅発の東北新幹線、やまびこ634号は新白河駅の手前で、突然停車を求められる。数百人の子供たちが、停車を命じた。
そして入国審査官の少年が、乗客一人一人にパスポートの提示を求めた。

そう、この日の午前0時を以て、ふくしま国は独立を宣言したのだ。日本国からの。日本という国の中に新しい国が誕生した。人口200万人弱、面積一万4千平方キロ弱。

午前8時、日本国によって作られた原子力発電所の大爆発によって放出された、放射線の被害から避難した人たちが住む仮設住宅。その仮設前の広場でデューク東郷という古老が独立宣言を読み上げた。

その演説は子供たちが作ったインターネット回線に乗り、日本中に届けられた。

「我々、ふくしまの地に住む者たちは、長年にわたって国策というものの犠牲になってきた。農業政策もそうだった。原発政策もそうだった。食料の供給地であり、電力の供給地であった。それにもう激しい怒りを覚える。これ以上犠牲を強いられたくは無い。この大地の上にすっくと立って自らの、自らによる、自らのための国をば作った」と。

インターネットで“独立”を知った、旧福島県出身者や心ある多くの若者が、ネットを通じてパスポートを申請した。

大型バスに乗った若者たちが続々と東北道を北上し、新しい国に来る。その何百台というバスの列が白河の関を通過した後、そこには国境がひかれる。

旧来の県知事や役人はすべて放逐される。新しい大統領を選ぶ。しかし、その大統領の名は明かさない。いわなき誹謗から守るために。

憲法も制定される。日本国憲法にあった国民の権利を国家の義務に変える。義務に違反した公務員は厳罰に処される。
自給自足を旨とし、地熱発電で電気を作り、自然の恵みに感謝し、国家の目標をアジアにあるブータン国とする。

カフカと呼ばれる少年がその作業にあたっている。新しい国家像を作っている・・・。


夢想譚です。

きのうの塾で「東北」について、その地名や方言について話ました。その引き合いに出したのが井上ひさしの「吉里吉里人」。

この夢想譚は、この吉里吉里人による吉里吉里国独立をパクったものです。

井上ひさしの小説は、ユートピアを目指したいわばパロディーのような小説。

でもパロディーだからこそ、そこに“真実”が見える場合もあるのです。

宮沢賢治もユートピアを追い求めていました。

日本国の属県である福島県よりも、独立国「ふくしま」の方が夢があるかも。
希望があるかも。

古老デューク東郷は演説の中で若者に“希望”を託します。
カフカという少年。カフカとはチェコ語でカラスという意味です。今朝もカラスは人家の屋根にとまって、何かを考えているようでした。

2012年5月8日火曜日

「安」のつく字のいろいろ

3・11以降、一番使われた字は「安」という字だったのではないか。ふとそんな気になって。思いつくまま。

原子力発電の安全神話が崩壊・・・。不安、不安の日々。食品の安全基準。安全と安心は違うってこともわからぬまま。
仮設では不安定な日々を過ごし。

政治家の使命は「民を安んじることだ」と言われていたが。今は「安んじる」ではなく「軽ろんじる」ことになり。

儒教の教え、「安心立命」が座右の銘として見直されたものの。ま、この意味、どんなときにも動揺しないこと。人力のすべてを尽くして身を天命にまかせ、いかなるときも他のものに心を動かさないこと。人事を尽くして天命を待つ、みたいなところがあるのですが。どっかの政治家の部屋にこの額が飾ってあった。

安否情報を求め、安眠することもままならなかった日々。安直な報道、安易な専門家の意見。

歌手は慰安に避難所を訪れる。一時帰宅を許されるとまず仏壇に。家族の安泰を祈り。

災後、半年くらいしてからの大安の日は結婚式ラッシュ。はい、亭主もお招き受けましたが。式の社殿はまさに平安朝の趣きでもあったり。

安は、やすいとも読む。とっくに普通の暮らしに戻っている郡山の大半。休日ともなればどっさりと折り込まれた安売りチラシの束。安直にそれに誘われて衣料品店。だめだ。安物買いの銭失いやってしまった。

「この中に安田さんて方おられますか?ああ、いた。あなたは安い田んぼにいたんですかね。あ、安井さん、あなたのところは安全な井戸だったんだ。え、何、なに・・」
「いやね、このバアチャン安子っていうんだよね。名前が。安い子っていうことがい?」
「いや、違うでしょ、安産で生まれたってことじゃないですか」。
「おめら、なにくっちゃべってんだ。オラの名はあんこだぞい」。

安普請の仮設の集会所でのバアチャン達との他愛もない会話。
帰ってテレビみてたら電力の安定供給、安的供給・・の話しばかり。おっと、そう言えば悪の巣窟、原子力保安院にも「安」の字が使われていた。

きょう一日、こころ安らかな日でありますように。

2012年5月7日月曜日

「叫び」 ムンク&ふくしま

地震が大地の咆哮なら、竜巻や豪雨は天の攪乱か。
最近また地震は多いし、大雨は降るし、竜巻までもが人命を奪う。

自然が叫んでいるのかとも・・・。

福島県の裏磐梯に諸橋近代美術館というのがあります。サルバトーレ・ダリの作品を収集した世界一の美術館。

先日、フェイスブックに諸橋英二館長の投稿あり。
ムンクの「叫び」美術品史上最高額の約96億円で落札と。
驚きましたね。早速コメント。「買ったの?」。ほどなく返信コメント。「瀬川さん>落札者は当館ではありません。誤解を招くコメント失礼しました。でも美術館には遊びに来て下さいね」。
時々サザビーのオークションに行く彼のところに届いたニュース速報だったのか。

それはともかく、ムンクの「叫び」。4部作の一枚。96億円。ムンクの母国ノルウエーの人が個人で所有していたもの。“売上げ金”でムンク美術館をより素晴らしいものにするとか。

メディアで紹介されるこの絵。

口をあけているので、ムンクが叫んでいるものと思われがちですが、そうではなく。ムンク本人が 「自然を貫く果てしない叫び」 を聞き、それに怯え耳をふさいでいる姿だという解説。

“ムンクの世界”はもちろん精通していませんが、下世話に「あいつムンクの叫びみたいな顔しやがって」なんて言ってた時代もあった。

解説にある「自然を貫く叫び」というのが、今の亭主には「フクシマを貫く果てしない叫び」と読みとれて。

ハタからガチャガチャいう奴に「なんかモンクあっかい」と叫びたくなる時も。

それにしてもこの大作を競り落とした人が気になる。非公表だといわれるけれど。一説には中国だという話も。中国は世界中の名画などを買い集め。「美術大国」目指しているといううがった話も。
日本にも大金持ちや大企業もある。この絵を競り落として「ふくしま」で展覧会やってほしかったな。福島に持って行けば、放射能に汚染されるなんてバカなことを言わない方々だっているはずだし。
そしたら、世界中からふくしまに人が来る。ムンクに会いたさに。東電や政府が買えるわけないし・・・。都知事にも無理だろうし。尖閣よりムンクだ(笑)。

フクシマにムンクの絵がある。そんな空想、夢想することくらい許してもらえるだろう。

ダリの作品に「時計」というのがあります。時間が違った時計。そこにダリが込めたメッセージ。悠久の時と現代の時の差異だとか。

なんか、我々も二つの時計を持ってしまったような・・・。

諸橋近代美術館、もっか開館中。企画展、ウオーフォールやピカソの「僧院」などの版画もあるとか。滋賀県大津美術館の貸出。放射線をクリアして・・・。

ピカソもなにかメッセージを発してくれているかもしれない。絵画の込められた作者のメッセージは果てしない、時空を超えている。すべての時代に普遍的に伝わる。

2012年5月6日日曜日

東京と地方と・・・

ゴールデンウイークもきょうで終わり。メディア恒例の「人出物語」もおしまいで。
高速も新幹線もラッシュ、ラッシュの話題。故郷へのお土産を積みこんでだの、故郷へのなんたらだの・・・。そしてきょうは故郷からの土産を積んで・・・。ちゃんと持って帰りなさいよ。

いつも思うのです。ゴールデンウイーク、盆、暮のユーターンだのなんだのの東京脱出行。

3・11以降特に言われた東京と被災地の温度差の話し。東京から福島に向けられる眼。

東京人っていったい誰なんだい。

1千万人以上が住む東京。周辺含めて。都会人というのか。消費者というのか。
江戸っ子という呼称があります。親子3代江戸に、東京に住んでいて初めて呼ばれるようになる江戸っ子。

もともと東京に住んでいる人ってどのくらいなのか。亭主は40年余りの東京人だったけど。居住者だったけど。一応東京が故郷ってことになると思うけど。

あの車や新幹線のラッシュ、渋滞を見ているとつくづく思うのです。東京人の大半は地方の人だと。

そうなのだ。東京とは地方の人間の「集合体」なのだと。

たまたま東京の学校に行って、たまたま東京で就職して、たまたま東京で結婚して、そこに住みついてしまって・・。そして出来あがった「東京人」。

いつしか東京目線になって、中央目線になって・・・。そんな人も多いのではないかと。東京という空気に染まってしまっただけなんじゃないかと。

東京という日本の首都を作ったのも。もとをただせば西の方の維新の人達。西郷さん、坂本さん、大久保さん、その他もろもろの尊王攘夷派。

徳川200年の時代からずっと東京にいた人ってどれくらいいるのかって。

誰かが言っていた。江戸時代200年、経済成長率はゼロだったと。人口の増減もプラス、マイナス、ゼロだったと。東京というところが誕生してから、経済成長がどうだの、人口集中がどうだのと。

東京に住む多くの人は地方出身者です。そのまた多くが東北出身者であるはず。

メディア関係者だって「田舎もん」が多いはず。なのになんで。いわゆる「東京目線」というものになってしまうのか・・・。

中央政府って言うけれど、国会議員だってその90%以上は地方出身、選出でしょ。それが永田町に何年かいるだけで、中央の、東京の目線の人になってしまうのか。
官僚だって然りだぜ。

長々と続く車の列を見ていると思ってしまう。「歴史」を考えなさいよ。そこから学びなさいよと。

隔てるものは何も無いはずなのに、なぜに出来るかこころの隔たり・・・。

この「連休」で、被災3県の“ふるさと”に帰った人達。東京のきらびやかな生活の戻っても、時々思い出してよね。

2012年5月5日土曜日

2012・5.5という日

きょうは子供の日。昔風にいえば端午の節句。こどもの健やかな成長を願った日。こどものための日だった。こどもの成長を願うお祝いの日だった。

3・11以降、二回目の子供の日。子供の数は減少している。少子高齢化社会は確実に進行中。そこにもってきての原発事故。

福島県の子供の数、たぶん、子供とは15歳以下を指すらしいのだが、推計人口はこの一年で1万5500人減少した。子供人口は25万6千人余りの中で。
それでも去年は27万2千人余り、8500人の減少だったのに。

一挙に1万5千人台の減少。避難したことがその要因の多くと思える。住民票を移していない子を数えれば、実態はさらに減少していると。

数字としてはやりきれない現実である。

それでも、「残った」子供達は、屋内の遊び場で、屋外で催されている子供の日のイベントに参加し、思いっきり飛び跳ねている。

子供の日のプレゼントに。隣の3人の子供に届けに行ったが、一家でお出かけの様子。なんとなくほっとするような。
3・11以降、大人たちはどれだけ子供達に励まされ、笑顔に癒され、いろんなものを貰って来たか。

3・11後、やっと子供たちの「詩」がまとめられ、心の中に留め置いた「思い」が吐露されるようになった。そのいくつかを目にしたが、どれも凄い。素晴らしい。そして力強い。

なぜ、きょうのタイトルに数字を使ったのか。たまたまの語呂合わせ。2012を足すと5になる。そして5月5日。5・5・5。あえて「GO GO GO」と読ませて貰う。君たちの未来に向けて。

福島で出版されている「こころの幻燈会」という本がある。そこにおさめられている子供の詩。

ふくしまのりんごだいすき/こうえんもだいすき/ようちえんのおともだちがだいすき/
ぶらんこもだいすき/おえかきがすき/キティーちゃんのシールもだいすき/
ぶんぶんのみんなすき/だからほうしゃのうなんかにまけないよ。

福島市の子供の詩です。この詩にお母さんのコメントが添えられています。
「避難も考えましたが、こどもの<だいすき>を優先させました。こどもは素直です。嫌いなものなんて一つもありません。私も子供と一緒に頑張ります」。

ここ数日朝日新聞のプロメテウスの罠に登場する沖縄に“避難”したお母さん方は、沖縄で手厚く“もてなし”を受けている人達は、それを“美談”にする記者は、この母子をどう見るのか。

奇しくも今日は北海道の泊原発が停止。日本からひさしぶりに原発が「ゼロ」になる日。原発ゼロ記念日。

郡山の赤木小学校の坂内先生は「放射線になんか、まけないぞ!」という絵本を書いて子供たちに教えているという。

放射線とは何かを伝え、それが人から人へうつることなんかない「正しい知識」を伝え、その上でこう言う。「子供たちに伝えたいのは知識だけではありません。本当に大切なのは正しく知って、正しく怖れ、乗り越える手だてを考えて、行動を起こすこと。この何十年もの間、放射線と関わりながら生きていく、福島の子なら、なおのこと」と。
そして坂内先生はこう結ぶ、「わたしはみなさんの力に、とても期待しています」と。

福島の子達は、きっと強い子に育つと思う。そして自らが考え知識を蓄えた大人になると思う。

「子供の日」、それはもはや子供のための日ではなく、子供たちから大人が学ぶ日にと変換されたのではないかと。

近所の家に泳ぐ鯉のぼり。なぜか逞しく見えて・・・。ゴーゴーゴーだぜ福島の子供たちよ。

2012年5月4日金曜日

憲法に書かれている自由のこと

きのうは憲法記念日。どうもメディアの憲法に関する記事が小さくなったし、少なくなったし、憲法論議に臆病になっているような気がする。

憲法と言えば、きのうもちょっと触れたけど、第9条に絞ったような話が多く。

「3・11と憲法」。そんな話が欲しかった。あったみたいだけど消化不良だったし。

憲法には国民の権利として、いろいろな自由が保障されている。例えば憲法22条。「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。
少なくとも、被災地では居住、移転の自由がはなはだしく損なわれている。憲法は罰則規定では無い。権利の保障であるから、「損なわれている」と言っても。どこの誰が憲法違反だという論議にはしにくい。しかし、権利が侵害されていることは事実だ。

たしか、去年の今頃のこのブログにも書いたと思う。
第二十五条。「 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。
国民の生存権に関する規定である。だから去年書いた。国は憲法違反を犯していると。しかし、それを裁判所は裁けない。
たまたま昨日は国連が定めた「世界報道の自由の日」だったという。

憲法21条。「集会・結社及び言論・出版、その他一切の表現の自由は、これを保障する」と。

これゆえに、戦後、言論の自由という言葉がこの国を「支配」した。そしてかなりの人がこの「自由」の意味を、その成り立ちの意味を“誤解”した。曲解した。これが援用されて、「報道の自由」という“思想”が蔓延った。

憲法が制定されてから65年。少なくとも今、3・11以降、求められているのは報道の自由、履き違った自由ではない。報道の「質」なのだと。

報道の自由と言う名の下、不確定な情報やデマも思いのままに世の中に流されていく。国民すべてが「判断力」を有しているわけでなない。憲法では「教育」についても保障しているが、一定の教育水準を有しているとしても、判断力にが限界があるし、情報弱者という人達も多数存在する。

質の高い情報とは・・・・。

情報発信者が取材対象について、きちんとした知識を持ち、取材対象から上がってきた材料を分析し、事実をえぐりだす能力をもってはじめて可能になることであり、それに対しては憲法が「自由」を保障しているものだと理解する。

取材対象者の言に対する分析が欠けているものが多い。情緒的、近視眼的報道が多い。そこにもってきての「ネット」。ネットメディアによる「発信」は、憲法に言う「その他一切の表現の自由」に該当するのだろうか。

憲法が保障した「言論の自由」が、さまざまな“害毒”を吐き出し、それが、憲法で保障されている国民の生存権を脅かしているという“矛盾”。

とりとめもなく、そんなことを考えてしまった五月四日・・・。その成り立ちが意味不明な「みどりの日」。

2012年5月3日木曜日

やはり”ブランド化”なのだろうか

きょうは憲法記念日。改憲論がやはり台頭してきているような気がします。
改憲論が前文と9条を的にしているような短絡的な感がいなめないのですが。

憲法が保障しているという「言論の自由」。自由の履き違えが目立つ、激しい、3・11以降・・・。

かつて田中角栄は選挙時に引っ張りだこだった。各地から応援演説の要請が殺到。ヘリコプターで全国を飛び回っていた。演説時、開口一番。「人寄せパンダの田中角栄です」。

大飯原発再稼働問題。霞が関の経産省前ではテントを張っての抗議活動が続けられている。
ハンスト、ハンガーストライキをする人も。
そこに、きのうは作家で僧侶の著名人、瀬戸内寂聴さんが加わった。作家の澤地久枝さんも一緒に。
昨日の日没までテントの前に不自由な体をおして座っていたという。いや、写真もあるから座っていただけど。

この抗議のハンスト、以前から続けられている。でも、滅多にメディアはネタにしてこなかった。著名人が加わった、スワっとばかりにマスコミが殺到したという。

抗議行動にも、人寄せパンダやブランドが必要なんだということ。郡山であった反原発集会も大江健三郎らが参加したということで、マスコミのネタになった。
御本人たちはどう思っておられるのかしらないが。
「使えるものなら私の名前をどんどん使ってください」ってなものか。

経産省前で瀬戸内寂聴さんは言ったという。「九十のばあさんがここに座ったら、マスコミに取り上げられ、それを見た若者が張り切って行動してくれると思って」と話した。さらに、「これまで生きてきて、福島の原発事故のような恐ろしいことは戦争以外に一度もなかった。政府は再稼働をどうして焦るのか。原発事故は人災であり、同じことを繰り返しては子どもや若い人たちがかわいそうだ」などと訴えたと新聞には書かれていた。

ツイッターでこれに反応していた書きこみを見た。
「経産省前テント広場に着いたら、大手メディアがたくさん集まっていて驚いた。有名人が来る時だけ取材しやがって、と大きい声で言ってやった。そして、寂聴さんがとどめの一言。「あなた達記者も、命をかけて報じなさい」と言ったと。

「有名人が来る時だけ取材しやがって」。その傾向は確かにありなんですよね。

数日前、元部下のテレビ屋と飲みました。メディアの在り方めぐって様々な話を。彼曰く。「結局、なんだかんだ言ってもテレビは変わってないんですよね。変わると思ったけど」。結果、痛飲となった次第。

温度差とか風化とか忘れないとか。寄り添っているとか。たしかに、被災地に向けての様々なメディアの姿勢が見られます。どっかでは何かが伝えられています。
「福島の現実」を職業意識としても知った人は、取材した人は、原発というものに対して限りなく懐疑的になるはずだと思うのです。それは、放射線による直接的被害のことでは無く、放射脳と揶揄される「人」のことでも。

事故から一年以上が経ったいま、マスコミの話題は、何か異変がない限り、福島原子力発電所の現状がどうなっているかではなく、人々の生活や人間模様に関心が移ってきている。そしてそれは、どこかで涙を生ませる感動の話であったり、こんなことは許されないという悲劇の話に集約化されてきているように思えてならない。そして、展望の見えない“希望”の話・・・。
取材対象になる被災地も、どこかで“ブランド化”されているような。同じ顔ぶれの登場だったり。メディアの目線が届かない、触手が湧かない非ブランドもあるという現実。

きのう「ジャーナリスト」の江川紹子さんが郡山に来ていた。らしい。らしいと書いたのはボクが実際に見たわけではないから。でも写真もあったし。上杉に反論するための現場入りかとも。
「案内人」のような人もいた。郡山在住者らしい。応酬される、往復されるツイートの数々。江川紹子も“ブランド化”されているような気さえしてくる。本人にその気は全く無いのだろうが。

江川さんも書いていたけど、郡山の子供、まだ、ガラスバッジ付けているんだろうか。止めたという話もあったけど。亭主に周りにはぶら下げている子はみかけないんだけど。

2012年5月2日水曜日

主よ、みもとに・・・・

主よ御許に近づかん
登る道は十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ御許に近づかん

参列者全員で歌っていました。亭主もよく知っている聖歌。タイタニックの映画を見たわけではありませんが。メロディーも含め感動する聖歌です。

神父が静かに語りかけます。
「聖パウロ 林 平蔵さんは神に召されました。天に召された彼は、聖人として、皆さまのことを見守っていてくれるはずです」。

死とは永遠の命をさずかったということだ。そんなようなことも言っていました。

きのう、東京の小さな教会での葬儀のミサと告別式。
亡くなった林平蔵さん、郡山での長年の友達でした。79歳。誤嚥性肺炎。いくつかの疾病を経ての死因。

会津の豪商林平蔵の末裔です。飲み友達であり、ゴルフ友達であり、茶道の門下生でした。郡山での会社員生活を終え、東京での悠々自適の日々だったのですが。

献花。棺に納められて彼の寝姿は、かつての偉丈夫を思わせるものではなく、小さくなっていました。でも、安らかな寝顔でした。

家族に看取られての死。親類縁者や多くの知人が集まっての別れ。

オルガンに合わせて歌われる聖歌を聞きながら、宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出し、大船渡市のカトリック信者の医師、山浦玄嗣さんの話を思い出していました。

数多くの「死」に出会ってきました。別れを惜しみました。無常を嘆いたことも多々あります。
3・11以降、「死」というものに対して、なぜか“敏感”になっています。

山浦医師の病院も津波に襲われました。手を差し伸べて救えた人もいれば、救えなかった人もいたということです。敬虔な信者である山浦医師は、浸水した家の中から服を取り出し、翌々日の日曜日のミサに行こうとしたという話を聞きました。教会も被災していてミサどころではなかったとかも。

山浦医師は言語学者でもあります。彼のやり遂げた大仕事は、「ケセン語大辞典」を編纂し、難解な聖書を地元の言葉、「ケセン語」に翻訳することでした。その翻訳した聖書は、水に浸かりながらも復元出来たということです。

なぜ彼が「ケセン語訳」の聖書を作ろうとしたのか。そこには井上ひさしの「吉里吉里人」に書かれた東北独立国家のスローガン「俺達(おらだ)の国語は可愛(めんご)がれ」の実践にあったということです。

ほとんどの場合、それが交通事故であっても、多くの生者が死者を看とり、死者とその家族を支えてきました。
一挙に波にのまれた万という数の死者。その死者を生者が支えるには余りにも多すぎます。看取ることも出来ない。

死者は語らず。無念の死であったかどうかはわかりません。

行きつ戻りつしますが、山浦さんがケセン語の聖書を考え付いたのは、「おらだの言葉」という思想があったかたではないかと。

聖書の言葉は難解です。今はそれでもかなり平易に書かれていましたが、昔の聖書は「神は何々し給う」のような文語体。
そもそも渡来の話はともかく、昔の武士階級。言ってみれば階級が上の教養ある人たちのために書かれたような趣があった。もっと身近な言葉にしないとその「教え」は伝わらない。日常会話に使われる言葉にしてこそ、その意義がある。そう考えたのではないでしょうか。

平ちゃん(平蔵さんをそう呼んでいました)の葬儀。神父の言葉はある程度平易でした。だからこそ、彼の死を考えることも出来ました。

平ちゃんとの間には家族も含めた偶然の縁もあった。彼が「ふるさと郡山」の“被災”をどう思っていたか。電話でちょっとだけ話した時もありましたが、ゆっくり話し合ってみる機会がなかった。悔やまれる。人の死は、必ず生者になにかの悔恨を残していく。そんな気が今日もしています。

2012年5月1日火曜日

「情報リテラシー」のいろいろ。とりあえず最後に・・・。

情報リテラシーについて、最後に書きたかったこと。あまり書くことに気はすすまないのですが。
SNS、ソーシャルメディア、ネット。特にツイッター。

ネット社会が進展し、普及し、ネットも有力なメディアとなりました。
ネットと対抗しようとする既存メディアもあれば積極的に“融合”を図ろうとするところもあり。朝日新聞デジタルはその典型か。

閑話休題。
一言でいうと、ツイッターには功罪ありという感が大です。ツイッターで随時吐き出される140文字にどういうリテラシー能力を発揮させるか。難しい問題です。

ツイッターというメディアツールは誰もが、個人個人が自分の意見を言い、他言を広め、情報を交換し合う場です。

ちゃんと自分の名前を出して、一つのメディアと心得て、便利なツールとして、いつでもどこでも使えるものとして活用されている人もいます。
逆に匿名で、いや、匿名をいいことに、デマやウソや悪口を書きまくる人もいます。

もちろん既存メディアでも誤報はあり、意図的な報道はあります。しかし、匿名でやられるツイッターの情報がどれだけ正確なのか。信憑性のあるものなのか。リツイート、リツイートされて「拡散」されまくった情報が何をもたらすのか。悪く言えば「言葉の伏魔殿」でもあるし。

そしてツイッター依存症になっているような人もいます。一日中、パソコンか携帯を手にしてリツイートしまくる人。リツイート文にコメント付されてないから、それへの賛否がわからないようなものも。

ツイッターだけでなく、その他のネットメディアを含めて、それを活用している人に多くのフリージャーナリストという人達がいます。そしてその一部の人達は自由報道協会なる“組織”を作り、一つの世界を作ってもいます。

記者クラブ制度という、今までのメディアの在り方に異を唱えて、いわば既存メディアの対抗勢力として(そう映ります)誕生した人達のようにも見えます。

最近、その自由報道協会の所属しているフリージャーナリストと称する(本人は右顧左眄の激しいかたのようで、その“肩書”は使わないっていっているとか)上杉隆が「問題」を起こしています。一言でいえば、福島県、郡山に対する余りにも無知で虚構に満ちた原稿を書き、それに対して「良識派(亭主が勝手につけた見方)の江川紹子さんが大反論という展開。江川紹子は自由報道協会を脱退している。

上杉隆については、一回だけ激しく批判を書きましたが、後は「無視」を決め込みました。馬鹿を相手にしてもしょうがないと。ネット族と言われる人に時々ある傾向。なんでも「反応」を期待し、そこに自己のアイデンティティーを見つけるという、ある種の“病気”。

そんな時に見かけた江川紹子のツイート。正確には忘れましたが、無視するよりは批判し、誤りを認めさせないといけないというような論。正論だと。

田原総一朗という著名なフリージャーナリストがいます。かつて彼は「ツイッターの神々」という本を出した。持っていたけど震災でどっかに紛失してしまったけれど。

田原総一朗はもちろん旧知の仲です。テレビ朝日の朝まで生テレビのキャスターになったからの付き合いです。かつては語り合ったこともあります。
多分、彼は好奇心の旺盛な人なんでしょう。今でも八面六臂の活躍。とても78歳とは思えない凄さ。

テレビにいた人がネットに手を染めた嚆矢の人かと。ツィッターをツールとして活用している偉才の人かもしれない。だけど彼のツイートはそのほとんどが自分が出演するテレビやネット番組の告知宣伝。それと著書の。時々はTL上でいい話を書いたりしているものの。

田原氏はちゃんと取材もするし、その論は的を外していない。あらためて思う。好奇心の旺盛な人。まともな論陣を張れる人。

そのまともなジャーナリストである田原氏がなぜ上杉を“珍重”するのかがよくわからない。朝ナマにも出演させるし、その他・・・。

田原は「ツイッターの神々」と書いたけれど、その世界に自分も身を置いた者として、たぶん、数多くのツイートを見ているだろうから書いてほしい。「ツイッターの悪魔たち」という本でも。
あのウソ、デマ、欺瞞はないまぜになって世間の風潮を左右しかねないようなツイッター上の“悪の正体”を。ツイッターの功罪を。

いくら書いてもきりが無いのでやめますが、匿名のツイートやRTはやはり無視に限るかと。何処の誰かがちゃんとわかる人の140文字に目を向けてみてはと。

出どころはだれか、どこか、書いているのは誰か。それを見極めて接するのがツイッターリテラシーの第一歩かと。

ネットという余りにも便利なツールを人は手に入れた。が、その便利さ故に、惑わされることも多々ある。

数多く輩出される「情報」。情報の渦。その中で、何に信を置くか。安易に流されないこと。そのツールの本質を見極めねば。
やがて“淘汰”することがあって、されることがあって、まともなメディアになれるのか。亡国の“刃”と化していくのか。

なんとも悩ましい世の中になったものだと。ただでさえ悩ましい現実が目の前に横たわっているというのに。