2012年9月17日月曜日

「デモ」、その相似性と相反性。

タウン誌のコラムに使ったので、こっちでは使いたくないのだが、あえて。
芥川龍之介の“名言”を一つ。

「世論は常に私刑である。私刑は常に娯楽である」。

デモを世論というかどうかは議論あるでしょうが、やはり「一つの世論」ないしは「世情」と見るべきなのでしょう。

今、世界は「デモ」という大衆行動にあふれています。報道されるデモもあれば、されていないものも多々ありだけど。

そして、そのデモの起爆剤がネット、SNSであるという相似性。アラブの春からはじまって、ジャスミン、紫陽花・・・。名もなきものまで。

善し悪しはともかく、発信者が誰であれ、「ネットの力」を思い知らされ、「ネットの怖さ」も知らしめられ。

一時は何万人もの人が集まって官邸前の「反原発デモ」。確信的な反原発に人もいれば、日常からの“逃避”の場として、そこに足を運んだ人もいた。その場にいれば「孤独感から逃れられる」。そう言っていた人もいた。

“緩やかな警備”の中、デモは混乱を招かなかった。なんらかの物理的破壊行為も無かった。もちろん、日本人の国民性もあるだろう。それにも増して、わずか1年前に起きた“破壊”の映像を目の当たりにしてきたからではないか。
“破壊”の恐ろしさを身を持って体験してからではないか。

その映像が、例え「消費」されてしまったものだとしても、破壊は何の生産も産まないと言う事を認識していたからではないのか。

アラブ諸国の映像。破壊の連鎖。何が人々の感情を爆発させたのか。
言うまでも無い。

そして中国。現在進行中のデモ。それは、騒乱にまで発展している。名目は「尖閣」であって、領土を含む対日教育の結果だと識者は言う。そして実質は「内政に対する不満の爆発」だと指摘する。貧富の差による、“弱者”のうっぷん晴らしだと言う。

切り取った映像が、そのすべてを捉えているわけでもないし、中国そのものの現状を伝えているかどうかはわからない。映像を見る限り、そこで繰り広げられる“破壊”の事実。

多くの“群集”。それもデモ隊の一部かどうかわからないが、ほとんどの人が携帯電話を持ち、しかも、それは日本製であったり、その携帯のカメラで破壊の現場を撮り、「発信」する。多くの人に笑顔さえある。

建物や施設の破壊、ある種の略奪。たしかに、一つの私刑である。そして、それを行っている側には、まるで娯楽を楽しんでいるかのような光景・・・。

中国在住の日本人にも危害の危険性があるとメディアは報じる。たしかに危惧される。暴動の先鋭化も危惧される。それが“娯楽”であるなら、なおさら。

3・11。中国人従業員を命がけで津波から守った日本の会社の専務の話を思い出す。その時は中国政府も、日本に感謝の意向を伝えた。一時帰国したその従業員達は、やがて、その被災地に戻ってきた。

彼女達も、世代的には「反日教育」を受けているはずなのに。

ネットによって出来あがった相似性。“破壊”に対する相反性。そしてまた思ってしまう。それは日中両国に対して。大衆行動に対して、政治が無力さをされけ出しているということを。

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