2012年11月10日土曜日

「法」の正義

被災地における法の正義とは。これは去年、何回か書いたことだけど、またあらためて・・・。

昔、たしか通産大臣だった頃か。ある晩、田中角栄と二人っきりになった時がある。話のきっかけは忘れたが、彼は熱く語った。

「役人は、やたらと資料を持ってくる。そして言う。法律ではこうなっておりますと。その法律をよく読んでみる。おもしろいぞ。やってみろ。法律にはどうとでも取れるような書き方がある。てにおはを一つ変えれば、意味がまったくちがってくる。“が”出来ると“も”出来るでは大違いだ。解釈の仕方でそれの適用の仕方もかわる。そして、な、不備なところがいっぱいあるんだ。東大出の頭で考えたここと、俺みたいに学校も出ずに叩き上げてきた物とでは、その不備な部分がわかりのだ。だから俺は多くの議員立法を作り、彼らが作った法律を代えてやった。何十年も前に作られた古色蒼然とした意味を為さない法律がいっぱいあるんだぞ。勉強しろ」。そんなような話・・・。

その彼が原発を作るために、いわゆる電源三法を作った。原発建設を容易にするために。立地地域住民を「シャブ漬け」にする気はなかっただろうが、疲弊した“田舎”にカネを落とすことが大事だと思ってやったことが、裏目に出ようとは思ってはいなかったろうが。
そして刑事被告人。なんとも皮相的なことではあるのだが。

「法律」という物に対する見方が新鮮にさえ思えた。

日本は法治国家である。誰しも法は守らねばならない。だから法の執行者がいる。その「法」が公正・公平であるかは問わない。法の下に平等かどうかは問わない。法律が金科玉条。

「法律ではこうなっていますから」。そんな木端役人の一言で涙をのんだ人もいるだろう。

前置きが長くなり過ぎたが。「3・11」後、新しい法律がどれくらい出来たのか。法改正はあったのか。たしかに法律によって復興庁は出来た。原子力規制庁も出来た。でも、それが実際、どれくらい機能しているのか。まさに田中角栄が言う、“法の裏読み”によって復興予算の付け替え、流用が行われたという事実。

去年にも散々書いた。この大災害に即応できる法律は無いと。既存の法律では、この事態は解決できないと。むしろ法律があるゆえに、人の生活を守るべき法律のはずなのに、その「壁」に阻まれた事例は枚挙に暇が無い。

個人情報保護法。天下の悪法である。三島由紀夫の小説、「宴のあと」のモデルとされた有田八郎のいわゆる「プライバシー裁判」がその端緒であったのかどうかはしらないが。

個人情報保護法とプライバシー権を両手に掲げた人達は、とにかく「守り」に入る。隠す。

町内会は機能しない。家族構成すらわからない。PTAだって本来の機能を果たせない。電話番号すら“公開”されない。

法律が、本来、人間と人間のあるべき関係、連帯、助け合いの阻害要因となっている。

福島県南相馬市。避難命令。施設の入居者はともかく、自宅にいる障害者は助けようにもそれがわからない。助けようとした人は、役所に個人情報の開示を、開示なんて大げさなもの言いではなく、見せてくれと言う。見せることは法律違反になる。見なければそれらの人の所在がわからない。名前も住所も・・・。

「法を守る」「法に従って行動する」。役所にとってはそれは「正義」。しかし、その正義のもとに、もしかしたら助かる人も取り残され助からないかもしれない。違法を承知で開示を頼む・・・。

「法の正義」とは・・・。

いまだもって、法の定めが、既存の、平時の法律があることによって、多くの矛盾や、不公正が、悪意ではなく、そこに横たわっているという事実。

生かされてこその法律だと思うのだけどな・・・。

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