2012年12月10日月曜日

「犠牲」のシステム

あらゆる事は、何かの「犠牲」によって成り立っているのかもしれない。
何かの犠牲を伴わなければ、次への展開は望めないのかもしれない・・・。

あすは、1年9ヵ月目。ずっと抜けきれない、自分の中で「止まったままの時間、時計」・・・。

例えば卑近な例。中央高速のトンネル内天井落下事故。9人と言う人の犠牲。
そして見つかった首都高羽田線のトンネル内の破損。中央高速の事故が無ければ羽田トンネルで事故は起きていたはず。

東日本大震災による数多くの犠牲者。その犠牲によって、それが実を結ぶかどうかはともかく、新たな「防災」意識や計画が考えられ始めた。

社会構造としての犠牲のシステム。システムと呼ぶ以上は、犠牲による対価がある。
原発は犠牲のシステムの最たるものだった。そのシステムとは、ある人たちの利益が、他の人達の犠牲によって成り立ち、維持されているということ。

誰かの利益のために、誰かに犠牲を押しつけるということ。
しかも、原発事故が、いや、原発が押し付けた犠牲は、事故後の事だけでは無い。

カネによって、カネという利益を与えることによって、それに対する警戒心や恐怖心を奪って行ったということ。
「慣れ」という慣性を与えてしまったこと。

犠牲のシステム、それは沖縄における米軍基地の問題とて同様。いや、犠牲のシステムの原点とも言える。
沖縄に基地を押し付け、もっとも基地は沖縄だけではないが、日米安保条約の“対価”として差し出した犠牲。

沖縄返還と日米繊維交渉。「糸を売って縄を買う」と揶揄された悲願の返還。繊維業界を“犠牲”にしてかちとった返還。しかし、その返還とは「名」だけであったような。

政治というものは、時に、国民に犠牲を強いる。国家を維持するために。
アメリカの核の傘に入ってこの国を守るという発想の日米安保条約。それは安保条約は、国の政治にとって“必要”なことだったのかもしれない。正しい選択だったのかもしれないが、払った対価、犠牲は・・・・。

押しつけられたということ。

憲法は占領軍によって押しつけられたものだと言う。そうだ。だから、憲法改正、自主憲法制定を言う。押しつけられた憲法はダメだというなら、押しつけらられた(そうとしか言いようがない)日米安保はどうするのか。

TPPにしても然り。押し付けである。一種の。それを受け入れることは、またもや新たな犠牲のシステムが出来ることにつながらないのか。

原発だって、ある意味、外国からの押しつけであったという見方は一概に否定できない。

極端な言い方かもしれない。食べ物から始まって、およそ「犠牲のシステム」の中で、人間社会は構築されているのではないかという思い。

犠牲者が、国策による犠牲者が、いつまでも犠牲者でありつづけなければならないのかという疑問。

「重い」ことを問いかけてしまった・・・。「自己犠牲」を視野の外に置いて。

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