2013年3月26日火曜日

「無言」が多くを語っている

新聞の投稿欄でこんな記事を見かけた。埼玉県から岩手県にボランティアに行った女子大学院生の投稿。数日前。

「先日、大槌町に行った時のこと。宿泊先からタクシーで移動中、運転手が一本道で突然スピードを落とした。ゆっくり進む車中、運転手の意図がつかめなかった。
ふと、窓の外に目をやると、そこには津波に流されたままの姿の大槌の町並みが広がっていた。そこにあったはずの家も店もなく、ただ基礎だけがむき出しになっていた。一本道を抜けると車はまたスピードを出した。
あの時の運転手はどこか怒っているようにも見えたのだが、その後思いなおした。おそらくこう言いたかったんだろう。この景色をよく目に焼き付けて忘れるなと。東北の今と向き合い、そして忘れてはいけないと強く思う」。

その「運転手」をボクは勝手に想像する。もしかしたら話したかったのかもしれない。でも、町の状況を話すと、涙で言葉が出なくなるので無言だったのかもしれない。もしかしたら、津波で家族を亡くしている人なのかもしれない。
いや、口にすることによって、感情が入る。敢えて無言を貫く方が、その光景を見て貰うことの方が、意義があると思ったのだろうと推察する。

観光タクシーとは違うのだから。乗せた客が他県の人だとわかってあえて、説明を加えず、そこにある事実、現実を見て貰いたいという思いだったのかもしれない。

たぶん、彼が饒舌であったなら、投稿した学生も話に気をとられ、その姿を焼き付けることがなかったのかもしれない。

無言であるということが、実は多くのことを物語っているのだ。

東北人は寡黙であると言われる。寡黙かもしれない。黙っていると言われる。
そうかもしれない。しかし、無言であるという事が実は様々な意思表示につながっている。

東北人の魂だとも。

だから、例えば、テレビの被災地でのインタビューよりも、一枚の写真の方が、”饒舌“に多くのことを語りかけ、見る人に、その「読解力」を問うている。そんな話につながるような気がする。

あるエッセイストがこんな一文を書いていた。
「家の取り払われた空き地にぽつりと立っていた手書きの看板の文字が目に焼き付いている。“ご支援ありがとうございます。いつか必ず恩返しいたします。気をつけてお帰りください”と書いてあった。こんなところでも見知らぬ他者を気遣っている。」

見知らぬ人への気遣い。それは、遠野物語にも散見される東北人の魂。
「まれびと信仰」。信仰といっても宗教とかでは無い。魂だ。稀人。他所から来た人、その人達を迎い入れ、手厚くもてなす。それはたまに来る先祖の霊なのだからという“思想”。

被災地にあっても、それが、今も生きているという、この東北魂(たましい)。

一昨年書いた福島の幼い姉弟の話しを思い出す。支援に向かう警察車両や自衛隊の車両の列に手を振っていたあの二人。朝は「ご苦労さま、行ってらっしい。よろしくお願いします」。日暮れ時は「お疲れ様でした、ありがとうございます。気を付けて」。手書きの紙を高々と掲げ立っていたあの二人の姿を。

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