2013年5月31日金曜日

水の行方・・・続き。


原発事故現場の「水」のことで懸念を書いたら・・・びっくり。
昨夜のテレビニュースや今朝の新聞。妙案が出て来たそうな。

地下水流入を防ぐために、周囲の土を凍らせ、凍土壁なるものをつくるのだという。
政府の汚染水処理対策委員会の提案。どうも持ちかけたのは大手ゼネコンの鹿島とか。

すぐさま飛び付いた経産省。大臣が東電社長を呼び出し、紙を読み上げながらの「実施指示」。

この案、以前からあったらしい、提案されていたらしい。どっかで“無視”されていた様子。

素人は「朗報」と受け取る。しかし・・・来月に国と東電、ゼネコンによる作業部会を設置して検討、運用開始はなんと2015年末だと。

2年以上先の話し。メディアの伝え方は、いかにもそれですぐ作業がはじまるかのような伝え方もあった。

どうも「うがった」ものの見方をしてしまう亭主。これってもう以前から東電が検討していたものじゃないのか。ゼネコンとつるんで。東電の方策というと何かと、何でも批判の矢面にさらされる。で、うまいこと政府を使って、「花を持たせた」ってことじゃないのかとも。

ま、それはどうでもよろしい。一日で400トンの“流入”が抑えられるなら。

でも2年半後。しかもその凍土壁の有用性は。その確実性は。いつまで使えるのかその土に入れられる冷却剤。
保冷剤だって数時間すれば効果は無くなる。

「維持には費用がかかる。長期間の運用実績が無い」。早くもメディアは“悲観的観測。

完璧で無い地下水対策。思えてしまう。付け焼刃ってのが。

地下水を途中でくみ上げ海に流す。この方法でもとらない限り、2年半汚染水対策で悩み続けるのか。
海への放水。まだ漁協などとの話し合いはたすかないまま。地元への「説明」が功を奏しているのか、いないのやら。

1Fには様々な問題が複雑に交錯しあっている。危険な号機対策もあれば、労働者の問題も。

どうも原子力政策という大局的な見方からすると、水の事は“些末”な問題とされているようだ。
些末では無い。ある意味根源的問題だ。

2年半後、この凍土壁が成功したとする。行き場を失った地下水はどこに行くのか。
水は高きから低きにながれるもの。上から下へながれるもの。

遮蔽されて水はどこかに行くしかない。あの界隈を地下水が水量を増し、脆弱な地盤にしてしまうのか。

遠く離れたところから海に流れていくのか。

環境はすべて自然の循環サイクルで成り立っているはずなのだから。

ここ郡山が今のような中核都市にまで発展できたのは安積疎水によるところ大である。猪苗代湖から水を引いてきた。その水で開拓が成功した。その疎水工事にあたったのは、知恵を出しつくしたのはオランダ人の技師、ファン・ドールンによるところが大きい。

貞観政要に曰く。「君は舟なり、人は水なり。水は能く舟を載せ、亦能く舟を覆す」。

そして永平寺にあるという水五訓。

・自ら活動して他を動かしむるは水なり
・障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
・常に己の進路を求めて止まざるは水なり
・自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
・洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり 雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり

2013年5月30日木曜日

「カネには代えられないものがある」

一時帰宅した原発避難者の人が言っている。
自分の家の縁側に座って。
「ここに帰ってくるとほっとするんだよな。片づけしていて一銭のゼニにもなるわけじゃないけど、ここにいるとほっとするんだ。なにせご先祖様から譲り受けて住んでいたところだからな」

除染で庭の表土を剥がされることになるとう人が言う。
「いくら賠償金貰ったって、この庭の草木も何もみんな剥がされちゃうっていうじゃないの。元には戻らないわけでしょ。いくら金貰ったって・・・お金に変えられない物があるんだよ」

小さな工場を経営していた一家が言う。
「いくら金もらっても戻ってこないものがある。お客さんとの会話、笑顔、コミュニティー・・・」。金いらないから元に戻してくれよ」

賠償金や補償金を貰って、仮に工場が再建できたとしても、意味が無いのだと。
商売とは金が儲かればいいというのではない。
お客とのコミュニケーションがあって成り立つもんだよと。

日々、これらのことに悩み、眠れず、睡眠薬を常用している人もいる。酒に頼る人もいる。

それらが原発被災地の現実。

なにかと東電は、賠償金の支払いにさえ難色を示している向きもある。
浪江では町が代理人になって賠償請求。一人10万円だったのを35万にしろと。
現実、「金」でしか解決できないことはもう百も承知。だけどおさまらない胸の内・・・。

山に山菜を採りに行けなくなった。生き甲斐が無くなった。川で魚を捕れない。庭に草木を植えて、見る人達を楽しませたいと言う「優しさ」。

金には代えがたいものが山ほどある。
そんな“隔離”されたような東北の一部。

東京では金がすべてとばかりに、原発を売って歩いている人がいる。株価の上下に一喜一憂している人がいる。
円安・株高で儲けた自動車会社では役員報酬が2,2倍になったという。

テレビではこれを買え、あれを買えのCMが楽しそうに流されている。

電力会社は原発再稼働に大きく動いている。
北海道、関西、四国、九州の4つの電力会社は7月にも再稼働申請をするという。
政権は受け入れるはず。

再稼働反対のデモが官邸前では続いている。再稼働反対に異論は無い。しかし、彼らの言い分は再稼働反対。
福島は一つの「経験」。

福島県民という人が時々ハンドマイクを持って、自らの“体験”を話す。その人の言うことにいちいち目くじらを立てるつもりは無い。論理に飛躍があったり、どこかで刷り込まれた「話し」を、体験のように話していても。

でも、その人に最後に「再稼働反対」を言わせるところに、「ダシ」にされた福島県民を見る思いがする。

若い女の子が死んだでしょ。死体に若い人がマスクをかけていましたよ。福島の何処の話だ。福島では若い人も働き盛りの人も、高齢者も、心筋梗塞で死んでいますよね。
本当の福島の姿を報道機関は発表すべきです。

原発から1,2キロのところに住んでいて、着の身着のまま裸で逃げてきました。会場からは「おお」って声があがる。その中年の女性は福島の人であろう。避難して来た人であろう。

デモの中心に立って、それを言うこと。おそらく、言ってくれと言われたのだろう。

一昨年から時々書いている官邸前のデモのこと。福島を利用してくれるな。

再稼働反対を言う前に言うべきことがある。「苦しんでいるわが街、わが村の“仲間”達をどうにかしてくれ」。帰るところが無い人達の無念さを語ってくれ。

東北の人達は、福島の人達は、昔から、明治時代から、昭和になってから、そして今も。いつも、何かに、誰かに「利用」されているような気がして・・・。

2013年5月29日水曜日

「水」の行方・・・

水のことが気になって仕方が無い。梅雨のことではない。飲み水でも無い。原発事故現場に溜まっていく水の事だ。

水は天や地からの人間にとって最大とも言える「恵」である。だからだろうか。
あちこちに水を祀った神様がある。水神さまとも言われる。

東京にだってある。水天宮が。郡山にも久留米の水天宮というのがある。水天宮の本営は福岡県久留米市にある。水天宮は水と子供を護り、水難除けや農業、漁業の“神様”である。
言わずもがな、郡山の久留米という場所は九州の久留米藩が入植、開拓した場所。当然、守り本尊を持ってくる。

天地の「恵み」は循環するもの。土や川から生まれた水は海に注がれ、海はそれを蒸発させて雲を生み、雨を降らす。
自然は循環しているものなのだ。自明の理だが。

文明の進化の結果、科学技術の粋を集めて(のはず)作られた、原子力発電所が一番必要としているのが水だということ。原子が原始からあるものに頼っている・・・。

溜まり続けていく“汚染水”。

一昨年の爆発時は、何よりも冷却のための水を必要とした。原子炉を水で冷やすために、空から水を撒き、地上からは放水が行われ、海から水をくみ上げて冷やした。何よりも必要なものが「水」だった。

それが、“小康状態”を保っている中で、水は「邪魔物」になって来た。
汚染水を浄化処理するための「アルプス」という装置も、ある種類の核物質が除去できないとして機能するメドが無い。

地下に作った貯水槽からは水が漏れ、全部地上のタンクに移し替える。来月中にはそのタンクも満杯になる。
増設するしかない。間に合うかどうか。

建屋内に溜まった水の半分は地下水だという。地下水を途中で“せき止め”、海に流そうと試みる。その地下水は途中で遮断された地下水の汚染濃度は、近くの川や井戸の水と変わらなない数値だという。
でも、それを海に流すことには漁民は反対する。

なぜか。「風評」に懲りているからだ。

魚が汚染されている。もうこんな風評には懲り懲りしているからだ。何でもかんでも、味噌クソ一緒に、「いたぶる」輩がいるからだ。2年間の苦労が水の泡になってしまうことに耐えられないからだ。

地下水は、まともな「機関」が線量、汚染検査をして、問題無いということになったら海に流すこともやむをえないと思う。海もきっとそれを許してくれると思う。問題は「風評」なるものにどれだけ耐えうるかだ。

干ばつの時は、人は雨乞いをして、神に祈って水を乞うた。今度は、地下水止まれと乞うのか。

貯蔵タンクの増設はどこまで可能なのか。廃炉まで続くのか。汚染水問題を解決する手段を今は誰れも持ち合わせていない。

なるようにしかならない。そのうち誰かがどうにかするさ。そんな安易な楽観主義が、この国の空気となっているような気がしてならない。

沖合に巨大タンカーを並べて、そこに汚染水を溜めるのか。それだって限界がくる。

静岡県から5億円で買い取ったメガフロートはいまどうなっているのか。
去年、満杯になっていると聞いたがそのままなのだろうか。汚染水を積んだままどこかの汚染水処理能力がある原発施設に運ぼうとでもしているのか。

水の行方・・・。誰にもわかっていない、様々な水の行方。

我々門外漢はだまってその推移をみているしかない・・・。せめて久留米の水天宮さんにお参りしてくるしかないのか。

2013年5月28日火曜日

「区域再編」、それへの限り無い疑問

今日の午前0時をもって、双葉町の区域再編が行われた。双葉郡は96%の人が住んでいた帰還困難区域と4%の人が住んでいた避難指示解除準備区域とに再編された。

テレビのニュースは言う。「福島県内の警戒区域はすべてなくなりました」と。

それだけを見た人、聞いた人は、もちろん遠くの地方の人だけど、「明るい、前向きなニュース」と捉えるだろう。“最悪”の区域が無くなったのだから。

「解除準備区域」はほとんどが津波で家を流されていたり、倒壊したまま放置されてきた場所。そこの喜んで帰る人がそれほどいるのか。

帰還困難区域。解除までには最低6年と国は言う。日中の人の出入りは許可される。宿泊はダメ。

純粋な子供ならば聞くだろう。「なんでお昼間は帰ってよくて、夜はダメなの。夜になると放射線量が増えるってこと?」。

放射線量の計算には24時間で・・・という“基準”がある。被曝線量が。
年間1ミリシーベルトと年間20ミリシーベルト。

その「数字」がまかり通っている間は、いやずっと続くだろうが、何としても1ミリシーベルト以下に抑えなければならないのだ。

区域再編を、当該町村長はおおむね“前進”とみなしているようだ。除染を進め、復興の第一歩をと言う。

多くの住民は疑義を持っている。帰ったって何もないじゃないか。何をしろっていうんだよと。

本当に除染なるものが可能であり、6年後には、事故前の線量になっているのか。あり得ない。ならない。例え、1ミリシーベルト以下になったとしても、それは事故前よりはるかに高い数値だ。

近くのいわき市に住居を構え、新生活をスタートさせようと考えている人も多い。
ある意味、今のいわき市はパニックだ。住む家が無い、見つからない。そしていわき住民と双葉郡の住民との間に「賠償金」をめぐっての軋轢が顕在化している。時には“醜さ”さえも伴って。

要するに「区域再編」をしたところで、何も変わらないと言うことなのだ。一人一人の生活にとっては。

1ミリシーベルトと20ミリシーベルトの狭間。一時細野は5ミリという考えを提示しようとした。
郡山に避難させられた川内村の人達。その一部の人達の住居の線量は、郡山の避難所より低かった。

福島市や郡山市にも、いわゆるホットスポットというか、高線量の地域があった。まだあるはず。1ミリは越えるが20ミリには行かに地域。
まさにまだら模様だ。

福島市にも郡山市にも「避難指示」は出されなかった。受け入れ先が無い、人口流出を避けたい。そんな“思惑”が働いていたのではという確たる機関の調査結果のようなものもある。

区域再編も、真の狙いはそのあたりになるのかもしれない。とさえ思う。
毎日福島県のメディアからは線量の数値が伝えられている。最初は平均値であり、最小値と最大値。

区域再編が為されてなにがどうなるのか。変わるのか。同じだ。一時帰宅が“自由”に出来るだけ。

原発事故をおこした1F。そこは1号機のあるとこでも3号機の所でも、依然として高線量だ。今は、放射線もその場に留まっているのかもしれないが、そこだけを危険区域としていればどうにかなるってことかもしれないが、いつ、何どき、何かの“異変”があれば、その時、風がどう吹いているかによって、またも警戒区域が発生することだって在り得るのだ。

政治家や官僚のお好きな言葉だが「可能性は排除されない」のだ。
2年前に頭がタイムスリップしていくようだ。

一言だけ言っておく。1ミリシーベルトと20ミリシーベルトの間で暮らしている人達も、癌をそれが原因で発症した人はいないし、奇形児も生まれていない。

放射線へのかすかな不安、将来の、いや、明日の生活への確たる不安。そんなことを感じながら多く人たちが暮らしている。
多くの郡山市民は“普通”の暮らしを営んでいる。それは事実。

2013年5月27日月曜日

「三つのスフインクスの“謎”」

ギリシャ神話にあるスフィンクスの謎かけ。
「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足の生き物は」。

旅人にこの謎をかけ、答えられない人は殺して行ったという。ある日答えた人がいた。オイディプスだ。実の父を殺し、母親を妻にしてしまったという・・・。

答えは「人間」。

諸橋近代美術館について、また書く。サルバドール・ダリの作品を収集してある常設展示してあるモロキン(通称)。

特別展の岡本太郎展。歯車という作品は機械文明の象徴としての歯車が、長ネギを押しつぶしている。農耕民族と言われる日本人がいつしか西洋式の機械文明の虜になってしまったことの、その“対極”のメッセージ。
太陽の塔に込められた「文明の進化と調和」へのアンチテーゼ。

岡本太郎展の隣にダリの絵画が展示されている。

「ビキニの3つのスフインクス」。油絵。1947年の作品。

ビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験に驚き、困惑し、怒りを感じたダリが描いた。

アインシュタインの脳とフロイトの脳。間に佇み、遠くから眺めているようなダリの脳。その脳はきのこ雲のモチーフだ。そして脳を支える三本の木。それは広島、長崎、ビキニの原爆。

ダリはある日、フロイトに尋ねたという。「この世から戦争は無くならないのか」と。フロイトは冷徹に答える。「それは不可能である」と。
アインシュタインは原爆製造の元を作った人ともいわれる。やがてアインシュタインは核廃絶運動に取り組む。

アインシュタインの核廃絶への思い、フロイトの人間観察、人間同士の争いを極端に嫌ったダリ。
核に対するダリの墳怒がこの絵に込められている。

キノコ雲のような形をした脳の中に、だまし絵のように、フロイトとアインシュタインが描かれている。

絵の中で、彼らは、ダリも加えた3人は会話を続けているのだろう。多くの疑問や懐疑をぶつけあっているのだろう。
科学とは、人間とは、文明とは・・・。

だからタイトルはスフインクスなのだと思う。オイディプスによって殺されたはずのスフインクスが、今も「謎」を投げかけている。

その謎を解こうともせず、核開発は進み、原子力発電所が出来、核爆発を起こし、それを収束させる手立ても持ち合わせていない。

3つのスフインクスの謎を誰が解くのか。かつての謎の答えが人間だったように、人間が解かなければならないはずなのに。

「芸術は爆発だ」と岡本太郎は言った。その爆発は原子力の爆発とは全く違う。

作品を残した、作品に登場する人物はもう誰もいない。

もし岡本太郎が生きていたら、ダリが生きていたら・・・。今の「フクシマ」に対してどんなメッセージを投げかけ、どんな作品を描いたのだろうか。

この国を、この世界を、救うことが出来るのは学者や政治家、科学技術ではないのだろう。
芸術であり、文化なのかもしれない。それに多くの人々が触発されることによって。

スフィンクスの謎、解けない謎・・・。

ダリはシュールリアリズムの作家だと言われる。シュールルイアリズムとは”不条理”をも言う。



2013年5月26日日曜日

「昔、言葉は思想であった」

きのう裏磐梯にある諸橋近代美術館に行ってきました。
特別展の岡本太郎展、そしてダリの新たな入手作。
岡本太郎の作品に添えられた言葉に打ちのめされてきました。

まさに、彼の「思想」がある。思想とは決してイデオロギーを言うのではなく。
普遍的な言葉として。

「進歩と調和」をテーマにした大阪万博。そこに彼が作った「太陽の塔」。

彼は言葉にして語る。
「“進歩と調和”というのは、ぼくはストレートに扱いたくない。
進歩というのは化学工業の進歩であって、人間は果たして進歩したかというと、少しも進歩していない」。

4年前から始めた塾。粒々塾。その第一回目の講義のタイトルは「昔、言葉は思想だった」。

言葉が乱れている時代、塾生に「言葉とは何か」。その重要性を考えて貰うために選んだタイトル。それから何回も、2011年3月まで続けたタイトル。言葉についての様々なこと。

最近知った。保守の論客、思想家で評論家の西部邁氏も同じような題名の本を書いているという。

ヨハネの福音書。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった」。ギリシャ語では言葉はロゴス。論理・意味・真理・理性・哲学を指す。またイディアとも言う。それは観念と訳す。

いわゆるコンビニ敬語とか、マニュアル敬語のことはおいておく。

日本語がおかしい。日本語というか「言葉」が。
言葉がおかしいということは論理や真理、理性、哲学がおかしいということになるのか。

いわゆる「ヘイトスピーチ」なるものが話題になっている。現場を見てはいないがネットでの動画を見ると背筋が凍る。
殺せ、出て行け、叩きのめせ・・・。明らかに韓国や北朝鮮籍の在日外国人を指した言葉。中国人も含まれているのか。

ヘイトスピーチを法規制すべきという意見がある。法学者は憲法の表現の自由という観点からその整合性が無いとし、法規制に馴染まないとする。
そりゃあそうだ。これは法の問題では無い。真理、理性、倫理観の問題なのだ。

当該国はもちろん、アメリカもこの現象を懸念する。日本人の“民度”が問われている。もっとも、”ジャップ”という言葉を浴びせられた時もあったが。

安倍政権が誕生した以降、それは目立ってきた。在特会という団体が主導しているらしい。その原点は「歴史認識」にある。「侵略の定義」。それらへの”思想”が言葉になっているということか。
石原慎太郎も然り。憲法問題での“過激”な発言。
そして橋下大阪市長の慰安婦や風俗をめぐる妄言。

「言葉は思想だった」。過去の言い習わしかもしれないとも思う。
言葉が思想であるならば、それがコロコロと変わり、訂正され、いつの間にか言い替えられている。思想とはもっと確固たるものではなかったのか。

ヘイトスピーチなるものは、形は違えども、福島に対して寄せられている。
福島はその種の”ヘイトスピーチ”に曝されているともいえる。
その論理性を欠き、誤謬に満ちた、デマの類いが公然と流布されている。不用意に何の疑いも無く拡散されている。

2年余り、それに福島県民はさらされ、耐え、時には反論し、悩み、傷ついて来た。さらに手を変え品を変え、それらは流布されるだろう。

ヘイトスピーチなるものの根源にあるのは「差別意識」だ。世界の歴史を見ても、例えばナチスドイツを見ても、人間は常に“差別”とともに生きて来た。

ヘイトスピーチなるものが町中を”闊歩”している時、街角に飛び交う”憎悪”を見る時、そこに見る。
「少しも進歩していない人間」を。日曜妄語でした。

2013年5月25日土曜日

"名称"はその場の歴史だ。命名権をめぐって。

いつの頃からか。命名権ビジネスというのが流行り、野球場が企業の名前に続々と変わっていった。
どっかの地方自治体でも、その名前を売りますみたいな事があった。

企業にとっては大きな宣伝効果なのだろうが。嫌だ。

脇道に逸れるようだが、郵便番号制度が出来てからというもの、東京でも地名がどんどん変わっていった。

例えば西麻布。今はどう呼んでいるのか知らないが。かつては麻布笄町と言った。たぶん笄を作る店が多かったからであろう。やがて霞町になって・・・。

隣の町、長い間そこの会社にいたとこ。そこは材木町だった。やがて六本木6丁目に変更に。

文京区には真砂町があった。今は本郷何丁目に。泉鏡花の娘系図だったか。「真砂町の先生」というのが登場している。芝居にもなっている。文学作品にあった町が無くなる。まさか今の地名に書きかえられているわけではないだろうが。

郡山にも戦後は稲荷町と北町とか、その地の由来がわかるような地名があった。今は無い。大町何丁目とか、駅前何丁目とか・・・。

地名はその場所の町や村の由来や歴史を物語っている。安易に変えて欲しく無い。“合理性”なるものの為せる業か。

福島の県営あづま陸上競技場が命名権を東邦銀行に売った。5年間で5,250万円。新たに「とうほう・みんなのスタジアム」ってのが登場する。銀行の頭取と県知事が文書を交換した。久しぶりに見ましたよ。県知事の間抜け顔。
曰く、「とうほう・みんなのスタジアムから元気を全国に、世界に発信してほしい」。
名称が変われば元気が発信出来るってことかと絡みたくなる。

「あづま」は県内の雄峰、吾妻山に由来していることは当然だ。事実、あそこからは吾妻山が望まれる。冬から春にかけて見られる有名な光景、吾妻の雪うさぎ。

古都鎌倉でもそうだ。由比ヶ浜、腰越、材木座。有名な海水浴場の命名権が地元の豊島屋、鳩サブレで有名なお菓子屋さんに譲渡された。
名前はまだ決まってないというが・・・。歌にも歌われ、鎌倉を代表する地名だったのに。

まさか浪子不動まで、その碑まで売らないだろうな。徳富蘆花が怒るぜ。

これじゃユネスコも文化遺産には登録しないだろう。

なんか嫌だ。短絡的だがカネのために地名をすら売るってことが。カネが歴史を消していくようで。

1F含めて日本には原発が54基ある。県名がついているのは福島と島根だけ。あとは市町村名。
福島第一原子力発電所という名前で無かったら、福島県全体に及んだ風評被害なるものも、風向きが変わっていたのかもしれない。
まさか東京電力が福島県という名前を買うわけは無いだろうが。

苦悩が続く双葉郡。人が戻らない地域もあるかもしれないが、その地名は消さないでね。
その地は日本人が永久に忘れてはならない地名であるはずなのだから。

そして津波で流された地名も。そこに何も無くなっていたとしても。たとえ沖の小さな小島や祠だとしても。

なんでもビジネスなんだな・・・。地方財政が逼迫してるって言えばそれまでだけど。