2013年11月30日土曜日

「心」と「純一郎」

ちょっと前の時代、平和ボケなんて言葉が流行り、片や閉塞感なる言葉が世を覆っていた頃、さくらと一郎という二人が歌っていた歌に、“昭和枯れすすき”というのがあった。カラオケのデュテット曲の定番。

さくらと一郎に、藤波心という若い女性タレントと小泉純一郎を掛けるという無理話・・・。

藤波心という17歳のタレント、時々ネットで名前を見かけていた。14歳で体験した「3・11」、「原発事故」。
ネットで積極的に発言し、いわゆる“炎上”とやらをくったという話題で。過日、彼女がどこかの集会で語っている言葉に接した。

「今、私たちが最優先でしなければならないことは、決して原発を動かすことではありません。原発事故を昨日のことのように思って忘れない事。そして、私たちの国土に、美しいかけがえのない故郷に、2度と第二の福島を作らないという事です。
原発が安くて安全でクリーンだという神話は2011年3月11日で終わりました。経済の発展のために原発が必要なんだではなく、原発がなくてもやっていける社会を作ることが大事だと思っています。原発こそが一番経済効率の悪いエネルギーであることが今回の事故で証明されたと思います。
原発によって得られる経済発展というのは、一見豊かになったかのように見えるかもしれません。しかし、それは、放射性廃棄物という何万年も管理しなければならない膨大なツケを、私たち若い世代や子どもや孫やその子孫にそれを押し付けるという、いわば未来からの借金生活のようなものだと思います。
私は、それを決して本当の経済発展とは呼べないと思います」。

まったくその通りなのだ。

この子がどういう子だかは知らない。タレントということしか。でも、この言葉は彼女が自分の言葉として言ったのだと思う。誰かが書いたシナリオのセリフでは無く。

小泉純一郎が、言っていることとまったく平仄があっている。17歳の感性と71歳になってからの経験に基づく気づきとが。

「そりゃそうだよ。当時は政治家も皆信じていた。原発はクリーンで安いって。3・11で変わったんだよ。クリーンだ?とんでもねえ、アレ、全部ウソだってわかってきたんだよ。電事連の資料、ありゃ何だよ。あんなもの信じる人はいまやほとんどいないよ。
安全なものは動かせっていうけど、それだって“ゴミ”が出るんだよ。原発を失ったら経済成長は出来ないって経済界はいうけど、そんなことないね。昔も“満州は日本の生命線”といったけど、満州を失ったって日本は繁栄したじゃないか。ピンチはチャンス。原発ゼロでも経済成長出来るってところをみせるんだよ」。

小泉の発言。二人で一つの番組で対談しているみたいだ。


小泉は「孤高の闘い」をするという。誰とも与しないという。心ちゃんは、どこかで“大人”に利用されているようにも思える。昔流行った言葉の「広告塔」のように。心ちゃんの「こころ」を大人は潰さないで欲しい。

しかし、この藤波心という小女は不思議な人だ。垣間見たブログになんと故郷初台の名前が登場していた。駅の写真も。

「東京・初台の、新国立劇場にて、舞台に出演まっ最中です。

舞台 “国家~偽伝、桓武と最澄とその時代~”

私の役は、大和に虐げられ、謀略で処刑されてしまう蝦夷の族長、アテルイの役。

実は、この物語は、遠く1200年の昔の物語であるはずなのに、今現在の日本と似ている面が多く描かれていてとても考えさせられる内容となっています。

私も、東北の人たち、原発事故でふるさとを今なお追われている人たちの事を
毎日想いながら、演じさせて頂いています」。

参ったな。塾で「東北学」を始めた時の一番最初の話は大和朝廷と蝦夷、アテルイ、モレと征夷大将軍、田村麻呂の話だったんだから・・・。
今、この国で、どこかで同じ事を考えている人がいるということ。

♪いえ、世間に負けた~~♪。そんな「平成枯れすすき」なんて歌が出来ないことを願う。

2013年11月29日金曜日

今ほど政治が問われている時は無い

毎月連載しているコラムにこんなことを書いていた。衆院選の後も、参院選の後も。
「あなた方がいくら政治を見放しても、政治はあなた方を放ってはおかない。あなた方の日常を支配してくる」と。
選挙で棄権が増え、関心が無い、誰がやっても同じといった世論調査結果がいつものように言われていることに関して。

やっぱりそうだったでしょ。放ってはおかない。支配してくる。特定機密保護法がその最たるものでしょ。

でも、まだ、この法案が「自分たちには関係ない」と思っている人が多いのでは。
「知る権利「「報道の自由」、それは対マスコミとのこと。何ら国家秘密に関与するわけもない自分たちには無関係な話だと思っている人がまだまだ多いのでは。

この無関心さに政治は付け込んでくる。

数日前、警職法のことを書いた。その反対デモに高校生ながら参加したことを。そのデモのわかりやすいスローガンは「デートも出来ない警職法」だった。

警職法改正案は結局廃案になった。余談だが・・・。その後、こんな歌が流行っていた。♪若いおまわりさん♪
「もしもし、ベンチでささやくお二人さん。早くお帰り夜がふける。野暮な説教するんじゃないが、近ごろここらは物騒だ。話の続きは明日にしたら。今なら間に合う終電車♪。そんな歌詞だったか。
この歌詞をどう受けとったらいいのか。複雑な思いだったという思い出。

秘密保護法が成立すれば、それは、必ず市民生活に影響してくるんです。「マスコミの知る権利」が奪われるということは、あなた方の知る権利が奪われ、何も知らない中で暮らしていくということになるのです。

例えば小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」は読めなくなるのです。

法案をめぐる国会審議。ただただ官僚の書いた紙を読み上げ、自分が言っていることの意味すらわかってないような担当大臣。
閣僚間の答弁も食い違い、閣内不一致をさらけだしても、なんとか辻褄あわせに終始する内閣。
与党との答弁にも食い違いがあっても、それを追及しきれない野党。

審議なるものをすればするほど「ボロが出てくる」国会。

多分、審議打ち切り、強行採決となるはず。言論を封じるために言論を打ち切るという行為が。

この法律に酷似した治安維持法は、あまねく国民生活に影響していた。何も言えない世の中になっていた。その当時のことを知る人はだんだん少なくなっていく・・・。

この法案は国会議員も拘束する。国政報告会でも国家の“秘密”、秘密にそぐわないものであっても。職務上知り得たことを選挙民に知らせれば、それは処罰の対象になる。国政調査権なんて発揮できない。国会議員が議員でなくなる。

そう国会審議でも、官僚作文を棒読みする大臣が言っている。国会議員はそれを黙って党議拘束かどうかは知らないが、政権に加担して通せ通せっていう神経がわからない。

国会議員さんよ、あなた方も「被疑者」になるということを。知っていてもこの法律を望むのですか。

今、まさに政治が試されている。

広島高裁は先の参院選を「即時無効」とする判決を出した。“無効”の選挙で選ばれた議員さんが、怠慢を指摘された議員さんが、今、秘密保護法の審議をやっている。
大方は、どうせ高裁判決、最高裁じゃ無いとタカをくくっている。うわっつらだけ”恭順“の言葉を述べながら。

今ほど、政治が問われている時は無いと。

知らない。知る必要もない。無関係、無関心。それを止めませんか。

見放していても、政治は襲ってくるのですよ。

高裁判断ではあなた方は違憲の中で生まれた議員。秘密保護法も概念としては基本的人権を侵害する違憲法案。

国会議員の中には法曹界出身者も多い。あの担当大臣だって弁護士。司法に連なるものが司法をないがしろにしている。

そんな政治の中に我々は身を置いているということ。

円安、株高。安倍政治はそれを謳歌している。安倍ちゃんの高笑いが聞えてくる。自分の思い通りにこの国がなっていっていることに。

今、笑いが、本当の笑いが必要なのは、笑顔が必要なのは被災地の仮設で暮らす人、肩身を狭くして暮らす自主避難者なのだ。

彼らから笑顔を取り上げているのは政治家なのだ。森雅子さんとやら、あなたの選挙区は被災地なんですよ。ど真ん中なんですよ。よくもまあ、「原発」が秘密にあたるとか言えたもんだ。

2013年11月28日木曜日

「知る権利」を声高にいう人へ

「知る権利」、この言葉はいつの頃から“市民権”を得たのだろうか。というか、使われ始めたのだろうか。そんなに昔からあった言葉ではないような気がする・・・。

知る権利、それは憲法にも保障されている権利なのだろう。当然だ。それが損なわれることに人々は大いなる怒りをもって相、対する。それも当然。

すべて民主主義国家においては、人々は「知る」という権利をもっているはず。
では、その「知る」ということは何を指すのか。何かを知って、それを自分のものとしていることでいのかどうかということ。

知るということは学ぶということの前提。いや、学んで知るとも。そして、知って、学んだなら、次は考えるということ。
権利を行使して「知った」ことがどう生かされているのかということ。

いわゆる被災地では、未だに、いや、これからもっと「風化」ということが言われるようになるはず。風化とは忘れるということ。忘れるということは「知る」努力を怠るということ。そんなふうに思う。

その権利を持っている人達は、どれだけその権利を行使して「知る」という努力をしたのだろうか。

知るということを権利の一環としてとらえるのなら、知るという積極的義務も発生するのではないかと言う、いささか屁理屈めいた話の展開なのだが。

被災者意識や被害者意識に凝り固まっていうのではないが、被災地に対しての「知る権利」の行使はこころもとない。

積極的に知ろうとする努力をしている人は少ない。知るという権利を行使して、学び、考えれば、おのずから導き出されてくる帰結に対しても、それを考えようとする努力が欠けているということ。

例えばマスコミが言う「知る権利」。報道の自由との兼ね合い。権利を行使して得たものを、それだけ伝えているか、その義務を果たしているのかという問題。

復興という決まり文句みたいなものが、その実相が「つかめない」中で、“こころの復興”ということが真剣に議論される時期に入った。と思う。
こころの復興とは何か、その復興支援とは何か。それは「知る」ということの一語に尽きるともいえる。

原発のことは知ろうとする。知る権利を言う。しかし、そこで収束のために働いている人達のことは、特に知ろうともしない。もちろん”権利“も行使しない。

伊豆大島の自然災害、その犠牲者。それはもう知るということの範疇からはずされたような。フィリピンの水害事故のことも知るということの外に置かれているような。

多くの命が奪われているどこかの国のこともその枠外に置かれているような・・・。

「知るということは、それ自体が目的では無く、行動するための道具である」

ピータードラッカーが言っている言葉である。

知った以上、それを次の何かに結び付けねば意味が無い。

前にも書いた。シンボルスカの詩。
「知っていた人達は、少ししか知らない人たちに場所を譲らなければならない」。
この一行をどう受け止めるかだ。

そして・・・。たしか京都の竜安寺という古刹だったか。その蹲踞(つくばい)に刻まれた言葉。「吾是足知」の4文字。
我、ただ足るを知る。いろんな解釈があろう。足るを知るという意味を知った人は、「3・11」で、そんな思いに捉われた人は、何が足りていて、何が足りないのか。あまねく求めすぎていたことを知り、考えてみれば、原発が作る電気についても考えるはずだし、足りるため、足らすための努力、変化に行動を移すはずだとも思っているのだが。

声高に「権利」だけが叫ばれていると、つい何か言いたくなるというおかしな性分にて。

この稿、特定秘密保護法の動きとは無関係と思ってください。埒外です。

数回前の塾。最後の締めに立った塾生がこういった。
「知らないということは罪だ」と学びました。と。

2013年11月27日水曜日

それでも「国会」に信を置きますか・・・

もし、一昨日の福島市で行われて地方公聴会に、もし、公述人として呼ばれていたら、限りなく国会というところが形式主義であり、いかなら環境にあっても“欺瞞の場”であることを知っている身としてはこう言っただろう。

公聴会の冒頭で委員長、額賀福志郎に、居並ぶ国会議員に対して。
「この公聴会で述べられた意見をあなた方は参考にしますか。少なくとも国民の一人であるはずの我々の意見を審議の“要件”としますか。お一人お一人の見解を聞きたい。この場で言わせておいて、それは委員会の記録にには残るだろうが、きょうの明日、採決と言う前提でのセレモニーに使うという事ならば、私のすべてをかけて抗議するという意味で発言はしません」と。

福島の声は、決して過激でも無く、原発事故を体験した、そのことによってさまざまな事が複雑化し、生活もままならない現状にいるものの声。あだやおそろかにしてはならないもの。

見え透いた異例の福島での公聴会。普通は予算審議でしか行われない公聴会。その公聴会なるものの単なる手順ではあるのだが。

国会の“仕組み”を知り尽くしている身にとっては、それは単なるセレモニーに過ぎない、言い訳をするための手段にしか過ぎないということではあったが、呼ばれた人たちは言葉を練りにねって、どうしたらわかってもらえるかと、真剣に考え、真面目に発言したはず。

それらの労苦はいっさい報われなかったということ。

馬場町長、議会を招集しなさい。そこで、すべての顛末を町民に披瀝しなさい。
浪江町には、明治の時代、自由民権運動に身を投じた、仮宿仲衛という人を排出していたところ。平成の自由民権運動の発祥地になろうぜと町民を鼓舞してみてはいかがかと。

学校の先生も公述人として出席していた。ぜひ、あなた方が教えている学生さんたちに伝えて欲しい。君たちが生きているこの時代の民主主義とはこの程度のものなのだと。

きょうから参院での審議なるものが始まった。衆院では40時間も審議に費やしたと安倍は豪語する。同じ時間を確保しなさい。

昨日の衆院本会議。自民党から出た“造反者”、村上誠一郎、よくぞやった。
みんなの党の反対にまわった二人、キミたちは立派だった。
江田も含めて「離党のすすめ」だ。

世田谷区議がみんなの党を離党した。そうあるべきだ。キミたちの主張を支持する。

国家に秘密が存在する。そのことを決して否定はしない。外交交渉はそれが妥結するまでは秘密であって然るべき。防衛問題でも然り。
すべてが公開された中で、ことは進まない。そんなことは解りきっている。

この法案のあやしげなところは、問題の根幹は、秘密の範囲があいまいであり、いくらでも拡大解釈できるということだ。

政令で定める・・・。とんでもない政令に馴染むことではない。まして時の大臣や総理大臣が指定を決める。ふざけるなということ。
その任にあって然りなんていう大臣は、数人しかお会いしたことが無い。

いわゆる強行採決というものを何回も見てきた。その多くは「シナリオ」が書かれた与野党“談合”の強行採決。
マスコミは通り一遍の「言論の府にあるまじき暴挙」と書き続けてきたが、野党は物理的抵抗をもってしても阻止できなかったと言い、与党は多少、世間の批判を浴びても結果さえ得られればということだった。

安保国会。野党議員や秘書が、議長の本会議入場を阻止しとうと座り込みをしても、警官隊を国会に導入してごぼう抜きで排除し、野党議員が議長席に殺到しても、マイクを奪っても、何があっても法案は、条約は、“可決”されてきた。

参院でこの法案を阻止できるか。廃案や継続審議に持ち込めるか。とりあえずの最大野党である民主党にはその力はない。知恵を巡らせる人材もいない。
多分(いくばくかの期待をこめて多分という)、法案は成立するのだろう。
成立を阻む力は今の野党には無い。どこまでが野党で、どこまでが与党かもわからないような今の国会の勢力分野。

でも、自公を勝たせたのは我々選挙民、国民・・・・。

「国会は何でも出来る、男を女に変える以外は」。そう豪語していた人が昔いたな。その通りの国会運営を計っていたな。
時間切れ寸前の妥協合意。参院本会議場の時計は止まったまま。そう「時計を止める」というのも国会の常套語だった・・・。

多数決原理、少数意見の尊重。それが議会制民主主義だと学校で教わった。現実は「数の力、数の論理」ですべてが決まっていくということ。

いろいろ知っているだけに余計悔しさが募るのであり・・・。

2013年11月26日火曜日

「三猿」への退歩か・・・

塾生に薦められて「退歩を学べ」という本を買った。まだ読んでない。時間がないのだ、余裕が無いのだ許せ。
進歩の対極としての退歩。科学技術の進化と自然との対比。必読の書としてとってあるのだが。

そうなんだ、今、我々は一歩立ち止まって、退くことの意味を考えなければならない時なのだとも。本の本旨とは違うかもしれないが。

あえてこの本をもじって・・・・。いや、“退歩”だけいただく。

人間は猿から進化したものかどうかは知らないが、猿は縁起物ともされる。
日光東照宮にある三猿の彫り物。言わずと知れた見ざる、言わざる、聞かざる。

三匹の猿が両手で目と口と耳を塞いである図。出典は論語。
「不見・不聞・不言」。礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ。

そんな猿のいわれよりも人間は退歩した、いや、退歩した方がいいよ、しろ、という事か。

「物言えば唇寒し秋の風」というし。

つまり特定秘密保護法のこと。三猿になるのが一番安全なのでごザルということ。

何も見ない、聞かない、言わないが安穏の暮らせる世の中にしようということ。そんな“萎縮”した国家にしようということ。

御猿さんごめんなさい。

昨日福島で行われた特別員会の地方公聴会。大方の出席者は懸念を表明した。
いや、反対だ。自民党推薦の浪江の町長でさえも。
でも、国会の慣行によれば、公聴会で誰が何を言おうと「聞かざる」。
成立へ向けての手順にしか過ぎない。

そして“粛々”と委員会可決。本会議採決へと向かう。

そもそも福島で地方公聴会をやるということすら、欺瞞だった。福島はまたも政権の政府与党の都合にいい食いものにされた。
もともと聞く耳見持たずだったのだから。

もしかしたら、わかっていたこととはいえ、馬場町長にしても、その他の公述人にしても、何を言っても無意味だとわかっていたはず。

でも、自分たちの声が、いささかでも届けばと期待していたのかも。

真剣な声を発することは徒労だった。

しかし、こうも思おうよ。マスコミが今度ばかりは福島の声を真剣に伝えた。
この法案に無関心だった福島の人だっている。その人たちに「福島の立場」、そう、単に原発事故で被災した県民というだけでなく、ここまでも中央から小馬鹿にされているということを知ったはずだから。

まだ参院があるぞ。その声はむなしい。まだ最高裁があるぞと、かつて、松川事件の被告たちが叫んでいた如く。

国会に愚弄されているという事を。

三猿ついでに。三本の矢とやらを放った政権。経済成長の兆しありとか。ボーナスはそれなりに出るらしい。しかし、ベアはほとんど無しということらしい。
”成長“のために”雇用の確保“のために、またまた、”東北“から人は中央に吸収されていく。被災地での労働人口はきっと減る。

そして福島は・・・。謎の、いや、想像に難くなかったトライアングル。魔の三角地帯に押し込まれる。

事故処理、除染。カネを出し惜しむ財務省。責任回避の経産省。当事者意識を欠く東電と。
無責任のトロイカ方式。そういえば、政治家はトロイカ方式ってのが好きだったな。民主党政権も。かつてのソ連じゃあるまいし。

そして,三権分立も揺らいでいるし。

見て、聞いて、知った猿は、山から人里に下りてきて、人間が丹精込めて作った作物を荒らす。猿除けに作った電流が流れる柵の中で、人間は作物を作るようにさえなってしまった。

猿は木から落ちても猿。国会議員は落選すればただの人。ただの人にするのはまだ3年先だ。
だから安倍は成立を急ぐ。今なら選挙の心配は無い。多少強行しても大丈夫だ。3年先には忘れているだろう。そんな思惑みえみえ。

俺は三猿にはならない所存にて。

2013年11月25日月曜日

ドミノ倒しの福島

福島県の市長選挙、郡山から始まり、いわき市、福島市、きのうの二本松市。
いずれも現職が敗れた。富岡町長選でも、昨日の広野町でも現職が敗退した。

現職敗退のドミノ倒しとでも言おうか。

まだ市長選は残されている。来年には知事選もある。このドミノ倒し現象はいつまで続くのだろうか。選挙はゲームではないのだけれど。

いわゆる被災3県、その首長選で復興なるものを担い、それぞれの人が持っていた能力はたぶん出していたと思われるのに、現職が敗退を重ねているのは福島県だけ。

なぜか。それは「原発」なのだ。唯一の対策ともされる除染問題の進捗に、成果が見られないからだ。

仮置き場問題も含めて、除染対策は、住民にとっては愁眉の急。それがはかどらないということは、一自治体の能力を越えてきることと言えるかもしれない。

首長不信、新旧交代。おおまかに言えば、その要因は高齢や多選、重大な行政上の瑕疵。

皆が高齢だったのか。新人も似たり寄ったりの年齢のところもある。多選、福島市が一番長かったといえ4選目。
瑕疵。そこが問題だ。

「とにかく現職は嫌だった。だれでも良い。変わって欲しかった」。そういう住民の声が、この一連の選挙の実相を示しているということなのだろう。

誰でもよかったという選択。積極的意思とは言えない投票行動。

3・11で変わることを誓い、変わるべきだと思った人達。首長を変えることもその一つなのだろう。
人を変えて何かが変わるのか。郡山では変えたからと言って特段何も変わっていない。市民からは早くも“失望”に似た声すら聞こえ始めている。

とにかく何でもいい。現状を変えてほしい。変わりたい。そんな淡い期待が、選挙の結果に結びついていく。

その選択を決して否定はしない。しかし、現実、大差ない人への変更。

今、福島もある種の分断にさらされている。現職敗退と言うのも、ある意味、分断の象徴かもしれないと。

原発事故による生活破壊。環境破壊。除染も含め、生活再建は自治体で処理できる問題ではないのだ。

しかし、それらのことはわかっていても、目の前にある顔、それが見える顔であろうとも、見えなく映った顔であろうとも、そこに矛先を向ける以外になかったという地方の“民主主義”。うっぷん晴らしのような“民主主義”。

ある意味悲しい現実。だから変わった当人にしても、変えた市民にしても、勝利の喜びはほとばしってこない。

原発事故は福島の首長の在り方も変えた。

とにかく変えたかった。変えた。変えてどうなった。変えてどうなる。何も変わらない・・・。そんなメビウスの輪のような連鎖が福島県の中では続くのかもしれない。

国では、未だもって、除染費用をどこが払うのかでつばぜり合いのようなことが、まるで他人事のような縦割りの檻の中で行われている。

千葉県市川市の市長選投票率は21%余りだった。大阪の岸和田市は34%余りだった。

地方自治体の首長選、そこから見えるこの国の民主主義を誰か読み解いてはくれないか。単なる「不満」「不信」という言葉に埋没させるのではなく。

来年の知事選。それも、現職以外なら、誰でも良いからという選択肢になるのか。
国と対等にやりあえる、往時で言えば、腰の据わった気骨あふるる大名の登場を待つということなのだろうが。そんな人の動きすらも見えない福島県。

2013年11月24日日曜日

あの「金」はどこに使われているんだろう

とにかく人間はカネに弱い。よっぽどのことでないとカネを積まれりゃどうとも転ぶ。そんな代物だ。

あのホリエモンが「金で人の心も買える」と言ったのは不快だったが経験に基づく実相だったのだ。

あの猪瀬直樹が「カネ」でつまずいている。徳州会から5,000万円を“借りた」という件。
彼が文筆家だった時。かれの著作はなかなかの力作であり、訴えるものが多かった。彼が作家のままでいたなら、自分が引き起こしたような“事件”を厳しく糾弾したことは想像に難くない。

あの無様な言い訳会見にだって、すべて論破していただろう。

都知事になる前、彼のツイッターは「俺の本を買え」一色だったような。読後感がツイートされると必ずリツイートしていた。
金儲けが好きな奴なんだなという印象・・・。

彼の徳州会借金問題は、検察の朝日新聞にたいする「リーク」から発しているという。検察はだいぶ前からこの件を把握していたようだ。

検察の伝統的体質は、国家権力の体制変革を極端に嫌う点にある。カネにまつわる事件の捜査でも、常に政治的判断がつきまとう。

今度の事件の発覚、それは検察を使っての「めくらまし」だという人もいる。何から目をくらませるか。言わずと知れた特定秘密保護法案。マスコミや国民の関心をそっちに逸らせようという意図。

あながちあり得ない事ではない。猪瀬がどうなっても国家権力の統治機構が時の権力者に意向に沿うようであればどうでもいいことなのかもしれないのだから。

とにかく絶妙なタイミングだったと思わざるを得ない。

「カネ」に対する彼の“弱点”が見抜かれていたのだろう。

特定秘密保護法案をめぐって、維新やみんなの党は、修正という大義名分をたて、自公の前にひざまずいた。維新の修正案なるものは、見方によっては原案よりもひどい。そこには石原慎太郎の意志が働いている。石原は自分の後継者に猪瀬を選んだ。懇意にしていた徳州会に資金援助を依頼した。石原も「カネ」に関する猪瀬の弱点を見抜いていた。

そんな「相関図」だって描けないことは無い。

この法案をめぐって、野党と称するところにどれくらいの内閣官房機密費が渡っていたのだろうか。自民党の国対費が使われていたのだろうか。
多いに興味のあるところだ。

国会議員ほどカネに弱い職業の人はいない。

国対費や官房機密費は野党に渡された事実を、何例も知っている。ちょっと言い方を変えれば、いかにバレないようにカネを渡すかがその当事者たちの手腕だったと言われたことも。

カネは常に紙袋に入れる。それも“常識”だった。

後先するようだけど、この件をリークした検察って、法案成立後は、「秘密漏えい」の罪に問われないのかな。書いた記者も教唆の罪なるのかな。

どこをつつけばカネが出る。それを熟知していることも手錬の議員の必須資格。


原発。その立地地域には、惜しげも無くカネがばらまかれた。東電、財界は、言われるままに惜しげも無くカネをばらまいた。
電源3法。国家がそれを後押しし、立地自治体にもカネが存分にいきわたっていた。

原発の危険性とは別次元の、その「背景」をこの際置いておく、カネの危険性のこと。

あえて言えば、原発の危険性をカネというシャブでマヒさせてしまったような。

修正に応じた“野党”だけではなく、その他の野党にも、機密費や国対費が渡されているのかどうか。あまり多くを語りたくは無いが・・・。

日曜妄語は寡言をもってよしとす。ということで。

あえて附言。「金額はけちるな、言われた通り出せ。いや、言われた倍出してやれ。そうすりゃ誰だって感激するもんだ」。人心収攬に長けていたある大物政治家から聞かされた“極意”。

2013年11月23日土曜日

“ケネディ”、父と娘のこと

1960年、アメリカは第35代大統領に、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディを選出した。翌61年1月。ワシントンの連邦議会前の石段で彼は就任演説を行った。その一部をよく覚えている。学生だったが。

ask not what your country can do for you
ask what you can do for your country.

「諸君、アメリカ合衆国が諸君に何をするかを問うな。諸君が合衆国に何を出来るかを問え」。

この一節を含む演説はアメリカ国民から大いなる歓声をもって迎えられた。
そしてその演説は「ニューフロンティア精神」を説いたものだった。開拓者(フロンティア)であったアメリカ国民の、そのよってきたる精神を目覚めさせる言葉。まさに「言葉の力」が多くの人を動かしたともいえる。

いま、この言葉の意味を考える。
国の言うままになるな、あなた方が望む国はどうあるべきかを考えよ。そう受け止める。
なすがままに政治を受け入れるのではない。どういう国であるべきかを国民それぞれが考えろということ。それぞれの国民が考えないと国はよくならないという事。

覚醒させられたアメリカ国民も多いのではないだろうか。

半世紀以上も前のアメリカの大統領の演説が、今の日本にそのままあてはまると思う。

言葉に飢えていた一人の日本の大学生はこの言葉に震えのようなものを感じていた・・・。

それから2年後の1963年11月22日、そう昨日か。ケネディーは凶弾に倒れる。テレビの仕事に就いたばかりの僕は会社のテレビで、初のアメリカからの衛星中継の映像を見ていた。その映像は当初予定されていた晴れがましい映像では無く、凶弾に倒れ、崩れる男の姿を伝えるものだった。

国民一人一人に「考えること」を求めた大統領。「問え」とはそういうことではなかったのか。義務を果たせと強要したのではないと思う。

50年後、娘が駐日大使として赴任した。赴任の直前、直後、天皇陛下への信任状奉呈。テレビで見ている限り彼女の服装は簡素であり、その姿に派手やかさは無かった。
黑いパンツスーツ。傍らにいる女性警護官と同じような服装。派手な化粧も無い。顔の皺も隠そうとしない。あるがままの姿とうつった。

比較することではないだろうが、日本の女性政治家の多くの服装、化粧。その派手なこと。テレビ映りを意識してのことなのか、ほとんど原色の服。イタリア在住の作家、塩野七生が「帰国してみて」というエッセーの中でこんなことを書いていた。
「最後に、女の政治家たちに一言。なぜ、バカの一つ覚えみたいに、白や赤や黄色やピンクばかり着るのですか。原色のスーツで男の同僚たちとの違いを示せると思っているとしたら、それだけで政治家は失格。スーツの色はグレイでも違いは示せる気概は欠かせない。原色を捨てたところで本当の勝負に出てはいかが?」と。

そう、目立つんだよね。厚塗りと原色スーツ。与野党問わず。

街を歩くと、サラリーマンはほとんど全員が黒のスーツ。それはリクルートスーツとも言われている。事実、洋服屋に行くと男物はほとんどが黒。
そしてこの世の中は「灰色の空気」に覆われている。

キャロライン・ケネディーの黒のスーツ姿には気品があった。と感じた。化粧っけの無さにも。「隠そうとしない」という気概みたいなものも。

キャロラインは来週、東北を訪れるという。東北と言えば被災地しかない。彼女はそこで何を見て、何を聞いて、何を知り、何を語るか。

当座、彼女の一挙手一投足に関心を持つ。東北の地を見て彼女が何を感じ、何を語るのかに注目する。

それが、父親のように、東北の人たちの魂を揺さぶるような言葉や行動であって欲しいと願う。誰が書いた物でもない、自分自身の言葉として。

父親の言葉で再び。彼が言っているのは、「国民があるから国家がある。国家があるから国民がいる」ということではないかと。

秘密保護法その他、今、この国の政治家が目指しているものは、まさに、ケネディの”思想“と真逆。しかし・・・秘密保護法も、NSCもTPPも今のアメリカの意向を汲んだもの。対米追従ということ。

そして“秘密保護法”の空気を察してか。東電は早くも「秘密保持」に動き始めた。4号機のキャスク搬出作業は撮影するな、作業スケジュールは教えない。終わったあとから発表する・・・と。「テロ」が懸念されるからだとか。

どうやって墳怒の川を渡ればいいのか・・・。

2013年11月22日金曜日

知られたくない部分に、見えないところに“真実”がある

誰しも真実を知りたいと思っている。真実の中で生きたいと思っているはず。
真実が隠された時、人はどうなるか。あらゆることに不信感を持つようになる。

ネットではウソが度々登場する。特に福島に関しては。その人の多くは、「うそをついている」のではない。自分の書いていること、つぶやいていることが事実だと信じているのだ。なぜそうなるか。真実が知らされていないから。真実が隠され、見えなくなってしまっているから。

そのことを原発事故を体験した福島県民は知っているはずだ。冷温停止状態というあやふやな言葉。今のところ健康への被害は無いという「今のところと」というあやふやな言葉。
次々と爆発する原発。テレビの映像がそれを伝えているのに、「なんらかの爆発的事象があった」という言葉で逃げていた政府。

極めつけはスピーディー。その存在も、そこにあるデーターも隠されていた。知られたくない部分はみな隠されていた。そこに真実があったのに。

問題の特定秘密保護法。スピーディの件で苦渋を嘗め尽くされた福島県議会は、原発もその秘密の”範囲“に入ることを懼れて、あの法案への危惧をしめし、原発は秘密に指定するなという趣旨の提言をした。
福島県出身の議員は担当大臣をやっている。連日、愚にもつかない答弁を繰り返している。それがどうやら「スルー」されそうな勢い。

何故か。修正協議なるものに舞台を委ねたから。国会審議の形骸化は問題にされない。

修正協議。ふざけるな。前にも書いた。細かいことには触れないが、国会の駆け引き、政局マターとなる法案ではない。廃案にすべきものなのだ。
修正協議にうつつを抜かしている国会議員は「バカ」とした言いようがない。いや、バカと言って済むものではない。

政府にも愚弄されているような、軽視されているような国会。立法府。民主主義の根幹。

違憲状態、ここでも登場する“状態”というあやふやな言葉を使う司法。その司法からですらある意味見放されたような国会。

行政の長である内閣。その行政に牛耳られている立法、司法。そして第4権といわれるマスコミ。

それが、今僕たちが住んでいる日本と言う国。

国会議員には開会中の不逮捕特権があり、院内での言動は罪科に問われないという不文律がある。
しかし、この法案の運用如何では、国会議員の言動だって違法とされることを認識していない。国勢調査権が著しく毀損されることだって想像すらしていない。
修正なるものでお茶を濁すといったシロモノではないのだ。

秘密の基準を決めるのも指定するのも政府。いつ解除するのかも決めるのは政府。当事者の最高責任者である総理大臣を第三者なんて言うとんでもないロジック。
根幹にあるのは政府の国会軽視。国会軽視とはすなわち国民軽視。
それでも、「そんな法案のことは知らない」という国民もいる。

この法案は国会内で“解決”する問題ではないのだ。国民対政府、国民対国会の問題になっているのだ。国民に政府が牙をむくという。

日比谷の野音に主催者発表で1万に人が集まり反対集会が開かれた。でも、その集会は反原発、再稼働阻止運動の延長線のような雰囲気。ドラムが鳴らされ楽器が鳴り響き、なにやらリオのカーニバルのような“仮装”した人々が嬉々としている姿も映る。

ムードとしての反対ではダメなのだ。運動家のための運動ではダメなのだ。

その場に行きもしないで能書き垂れている身、恥ずかしいし悔しい限りだが、この地でやらねばならないことがあるのだ。ボクには。

だから託す。想いを、怒りを。国会を官邸を十重二十重に取り囲む国民が増えることを。囲んでいる限り、警官隊や機動隊は、まさか棍棒を振り下ろしはしないだろう。どこかの国のように。やれば“3等国”に成り下がる。

闘いは今から、闘いはこれから・・・。そんな歌声が国会議事堂前にあふれ、こぶしが突き上げられていた時代がかつてこの国にはあった・・・。
そんな大衆の叫びはゲバ棒とともに消えた・・・。

真実は常に隠されるという事、見えないところに置かれるということ。

2013年11月21日木曜日

終わりと始まりと

また、ときたま、この詩を使わせてもらうことになる。
ポーランドの女性詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩。

戦争が終わるたびに 誰かが後片付けをしなければならない
物事がひとりでに 片づいてくれるわけではないから

それがどういうことだったのか
知っていた人たちは 知らない人たちに 場所を譲らなければならない
そして 少しよりももっと少ししか知らない人たちに
最後はほとんど何も知らない人たちに

4号機の燃料棒取り出し作業。それを見聞きしていると、どうしてもこの詩が浮かぶのだ。

後片付け。一昨年の原発事故だけではない。もう何年も前から、原発が事故を起こし、その後片付けが時には隠ぺいされながら行われて来たということ。

そして1Fはまさに”原発戦争“の終わりとしての後片付け。

欲望と無知とが押し付けた”化け物“の、それが暴れた結果の後始末。

「誰かが後片付けをしなければならない」。その後片付けに終焉は見えないのだ。

きっと、また、その”戦争“は起きるだろう。その時後片付けする誰かとは誰を言うのか。

非常に悔しいが、ボクは40年後の「後片付け」を見ることは出来ない。
片付けに携わる人たちも、変わってしまう。

「俺たちはたとえ地下に10万年埋められていようとも、生き続けているぞ」。化け物の笑い声が聞こえるようだ。

はじまったばかりの後片付けの作業が、無事に終わることを祈る。もし、それが終われば、また新しい「片付け」の作業が待っている・・・。福島では。

5号機、6号機は廃炉にすることになった。物足りないというか、片手落ちと言うか。

2F,福島第二原子力発電所も廃炉にしなければならない。

少なくとも15万人と言う“悲劇”の主人公にされてしまった福島の人達。

それは「唯一の被ばく県」と言っていい。

だからこそ、そこは高らかに宣言し、「原発を持たない県」として生まれ変わらねば。

そして、その恐ろしさを知った福島の人たちは、知らない人達に、知るための道を譲らなければ。

道を譲られて、そこに踏み出す人たちがどれくらいいるかどうかはともかく。


原発立地地域を含め、その周辺を選挙地盤にしている女性議員さんは、担当大臣にされ、己の能力の無さを知っていながらも、毎日国会で“醜態”をさらしている。見かけは上等そうな、きれいな服に身を包んでいる。中身は反比例しているかの如くに見える。

それを誰も彼女に教えない。

「知る」ということ。「知の歩み」。それを始めることが未来を語ること・・・。

シンボルスカの詩はこんな言葉で続いていく。

誰かがときにはさらに 木の根元から 錆びついた論拠を掘り出し、
ごみの山に運んでいくだろう。
それがどういうことだったのか 知っている人達は 知らない人に・・・

始まりのとばぐちを見つけなければと思う。

原発が稼働していなくても、電気は足りている。停電騒ぎは起きていない。
でも、不安は残る。ならばどうする。

電気に過度に依存した生活の、社会システムの「後片付け」をすることじゃないかな。
ライフスタイルを変える努力をすることじゃないかな。

「企業は金儲けのためにあるんじゃない。この世界を生きるに値する楽しいものにするためにあるんだ」。
世界の自動車王が言っていた言葉。

原発は、生きるに値する楽しい世界とは対極にあるような気がするのだが。

シンボルスカの詩も、ヘンリーフォードの言葉も、2011年以前のもの・・・。

シンボルスカの詩を本のタイトルに引いた作家の池澤夏樹はその帯にこう書いていた。
「何かを終わらせ、何かを始めるためには、一つの積極的な意志が要る」と。

2013年11月20日水曜日

「労働組合」は、「労働運動」は消滅したということ

小・中学時代の同級生に「ネコ」というあだ名の友達がいた。苗字は金子。だからネコ。勉強がよく出来、級長を務めていた。
気が付いた時、ネコは動労の教宣部長になっていた。かなりの活動家だった。そのはずだが。
引退したネコは東京の三鷹に住み、すっかりおとなしくなっているみたいだ。まるで「マタタビ」を食べさせられたみたいに。
数年前、もちろん「3.11」以前、彼が自費出版の本を送ってきた。ま、彼の一代記のような。「猫の股旅日記」という題名だった。

たまたま昨夜、書棚を探していて彼の本に出会ったもので。思い出したのだが。

労働運動史を語るつもりは無い。しかし、一昨年も書いたと思うが、それは主として東電労組の存在についてだったが、また一言物申したくなった。

1F構内の作業員の職場環境、待遇のことだ。過酷な環境が言われ、被曝の事も言われ、”収束“に向けての問題として取り上げられている。
現場の作業員の人たちもその過酷さを指摘する。元作業員の人は、支援活動に励み、実態をメディアに訴えようとしている。

しかし、彼らの”発言“の中には労働組合のことは一切出てこない。東電という会社の中にも労働組合があったはずだ。あるはずだ。他の電力会社の組合とも連携、連合しているはずだ。でも、電力会社の労働組合の声を聞いたことが無い。

労働組合の“お仕事”は、賃上げ、待遇改善、雇用の確保。いま問題になっている原発構内のあらゆることに労働組合の要件が存在しているはずなのに。
下請けや孫請け。未組織労働者を組織化するのも労組の仕事のはず。


総評・同盟があった時代。労働運動の“再編”が行なわれ、連合と言う組織になった時代。

連合は民主党政権誕生と同時に、その“傘下”となり果て、権力の側についた。
どっかで、今の自公政権にもすりよろうとしている気配すら感じる。

労働組合運動とは、常に「反権力」であるべき。社会党が政権に加担したとき、労働運動も消滅したのかもしれない。社会党が蜜の味を知ったと同じように。

特定秘密保護法案。それに対して、新聞労連は民放労連はどう動いているのか。日放労、NHK労組は何をしているのか。NHKの経営委員会が安倍の意気のかっかた人たちで占められようとしている時、日放労は何を言うのか。

労働組合が経営に参画する。労使協調。それは秘密保護法を巡る第三者機関に首相が当たるということと同義にも見える。

体制に組み込まれた労働運動か・・・。

労組の悪弊の残滓だけが、例えばJR北海道の手抜き、隠ぺいに存在している。

東電労組が顔を見えることは無いのだろうか。下請け作業員の待遇改善を言わずして、会社側に1万円引き上げなんて言わしておくだけでよしとしているのだろうか。

労働運動の衰退、消滅は、そのままこの国の“劣化”を示しているともおもえて。

反原発デモでも、秘密保護法反対運動でも、ちらっと労組の旗は見える。でも、なんだか”お義理“で顔を出したというようにしか見えない。

改憲でもそうだ。日教組は借りてきたネコのように、その存在意義を感じさせない。

原発事故現場を思いながら、労働運動を“憂う”という感覚がおかしいのかな。
不甲斐なき東電労組に矛先が向いてもおかしくないはずなんだけど。


なんか無性に「ネコ」に会いたくなった、会って話をしたくなった。

2013年11月19日火曜日

漠然とした不安、漠然とした期待

漠然とした不安・・・文豪の自死の理由ではないが。
1Fの4号機の燃料棒取り出しが始まった。その作業には“漠然とした不安”が付き纏う。
何らかの重大事故を起こさないかと言う不安。瓦礫の問題、輸送中の地震の問題、作業員のヒューマンエラーの問題・・・。1年後に移管を終えて保管されたところへの不安。

収束に向けた工程表の第何段階だとか、廃炉に向けた大きなステップを踏み出したとか、節目を迎えたとか、新しい段階に入ったとか。メディアの「本記」の報道は“歓迎”の向き。
そりゃ、始まらないより始まった方がいいのに決まっているが、「原発」に関する世間の耳目を4号機に集中させているような東電のやりかた。
「画期的段階」を迎えたのにもかかわらず、それについてのコメント、見解が政府の責任者から出されないということ。

汚染水の問題は解決していないのに、マスコミの俎上に載らなくなった。1~3号機の、まったく報道されない溶融した核燃料のことも、話題にされにくい。

避難している周辺住民。なんとなく一歩前進のようにも捉え、なんとなく、何もなければいいのにと、それが帰還に結び付けばと、漠然とした不安と期待を語る。

4号機が片付いても帰還の可能性とは結びつかない。
何も言わない政府、政権。250キロ先は“異国”ということなのだろうか。

「変わるのなら誰でもよかった」。昨日も書いた福島市長選に望んで市民の一人が言っていたことば。たぶん大方の市民がそうだったのだろう。
福島市には大波地区と渡利地区と言う二つの比較的高線量地域がある。渡利の友人はその線量を巡って、一昨年から時々、漠然とした不安を綴ったメールを送ってきていた。

高線量の住宅地を抱えながら、東北六魂祭というイベントで国道を除染した市。
たかだか数時間その場を通る人たちのための除染。

漠然とした、いや、明確な不満が渦巻いていたのだろう。あのダブルスコアともいえる得票の差。

新しい市長が何かをやってくれる。新しい市長なら何かが変わる。そんな「漠然とした期待」がもたらした結果。期待はしていないが、現職は嫌だった。そんな声も。

“被災地”が抱える問題、地方自治の在り方、国への見方。ますます複相化してきている。

原発被災。首長も役所も、もちろん住民も、皆「未体験」の話だ。その被災地で地方政治を住民政治を行う事のむずかしさ。

2年間の、2年余りの”経験“”体験“は無意味だったということ。それを生かし得ることを住民は期待しなかったということ。

縮図として福島で起きたことは、そのまま国の問題でもあるのだが。国は「コメントしようがない」という。

国会の場は特定秘密保護法案をめぐり、「駆け引き」が展開されている。与野党と称する政党間で。駆け引きの道具ではないものなのに。修正云々というレベルの問題ではないのに。

多くの国民がこの法案に「漠然とした不安」を持っている。なぜこの法案が生まれ、なぜ成立を急がねならないのか。その理由は”漠然“としていて理解不能。

飯舘村の人達。仮設で暮らしている避難者たちの中から声が上がっていると聞いた。「いくらかでもカンパしてレイテ島の被災者に支援を送ろう」と。

当事者はわかる。当事者の環境や気持ちが。治安維持法で泣かされた人たちは、もうそのほとんどが居なくなった時代・・・。

ぼんやりとした不安。そんな文豪の言葉が頭をかすめる・・・。

すべてが「不安」である時代に、「安心」を仮想する人たちよ。

2013年11月18日月曜日

「不満」と「不信」と「民主主義」と

きのう行われた福島市長選でも現職が敗れた。大震災、原発事故後にあった福島県内の市長選、郡山・いわき・福島と軒並み現職にNOが突きつけられた。

投票率、福島市は49,10%。いわき市は51,13%。郡山は45,01%。

仙台市長選は30,11%、川崎市長選は32,82%。その他の首長選挙でも投票率30%台が散見されていた。

福島県内の市長選、現職が敗れた原因は、いずれも「原発被害」に起因するという。除染対策、賠償支援問題・・・。市長の顔が見えないといわれ、進まない「原発事故」をめぐるもろもろの施策。その不満が市民有権者の中に澱のようになってたまっていたことは事実だ。

それがたかだか一市長の手腕をもってしては、どうにもならないことであるとはわかっていても。
「耐えきれない」「耐えられない」。人を変えればどうにかなるのではないか。そんな思いが鬱屈していたのだろう。

双葉町の町長も、富岡町の町長も矢面に立たされていた。その職では無くなった。

なんで冒頭に投票率の事を書いたか。大手マスコミの書き方が、福島市長選の前だったが、投票率をもってして、その低さを、あたかも「福島県民の民度の低さ」といわんばかりの記事を書いていたから。
30%台の都市部の選挙の事には触れずに。

選挙というものが”民主主義“の理念、制度からして、それを具象化するものとう立場に立てば、投票率の低さは民度の劣化である。

なぜ投票に行かないのか。誰がやっても同じ。誰がやっても変わらない。選挙そのものに関心が無い。政治に何も期待しない・・・。

“ねじれ”を解消し、安倍政権の独走を許した参院選。投票率は52,61%。戦後3番目の低さだった。50%強の“民意”。
自民支持率、得票率は35%程度。選挙制度の問題はあるが、それがこの国の民意。“民主主義”。

「3・11」後、多くの国民は、変わらなければならない、変わるべきだと、それぞれの立場で考えた。その「変わる」ということをボクは、一人一人の意識であり、社会システムの問題と捉えていた。
意識と制度。その相関関係は難しいが、変えるということに於いて政権交代が実現した。しかし、被災地の実情は変わらなかった。
多くの国民も、そこそこ豊かで、ありふれてはいるものの、居心地のいい日常に戻って行った。

非日常を日常とさせられた一握りの国民がいるにもかかわらず。そして、一握りの人たちは、自分たちで「変える」ことを選択した。

あえて余談になるかもしれないが書く。三つの市長選。不満・不信の裏に、流れに影響した「逃げた」という噂、デマ。本人は「不徳のいたすところ」というが、それが流布されていたこともまた事実。

変える。いい事かもしれない。が、こんな”名言“が政界にはある。
「本の表紙を変えても、中身をかえなければ駄目だ」。福島県選出の国会議員、伊藤正義が、竹下退陣のあとを受けての総裁候補に擬せられた時の言葉。
自分を本の表紙になぞらえ、”金権政治“からの脱却を目指そうとした自民党に対して、あえて”中身“という言葉に置き換えて言った言葉。

市長とは伊藤に言わせれば“表紙”。中身とは・・・。役所と言えなくもない。
役所の体質を変えねば、市民が望んだ施策はなかなか実現しないのかも。

そして、放射能対策、除染が進まないことへの苛立ち、怒り。それは本来国に向かられるべきことなのに、現職への不満として現れたということ。
たかが福島の一つの市の選挙。でも、現職に対する「NO」は国に対しての「NO」でもないのかと。

そして、市民は“変える”ということで、民主主義によって首長を選べる。市議も選べる。首のすげ替えも出来る。
でも、役人は選べない。任免権は無い。そして、事実上、この国を動かしているのは官僚。地方自治体を動かしているのも役人。

なんか“民主主義”ってどういうことなんだと思う・・・・。

2013年11月17日日曜日

「永遠の今」

♪0n a clear day I can see forever♪“晴れた日には永遠が見える”。
英語の題名のスペルはちょっとうろ覚えだが、昔あったジャズのスタンダードナンバーの一曲。

久しぶりの秋晴れ、青空。どんな環境にいようと、どんな境遇にいようと、秋晴れは誰に対しても平等のような日差しを与えてくれているような。

朝、東京からの来客を迎えに行き、郡山駅前で開催されている、地元産の野菜の市。あぐり市へ。

前回は荒天、今回は好天。

かなりの人出でにぎわっていた。こんなに人がいるんだと思ったくらい。「元気な野菜くん」たちとご対面。しばらく野菜なる日々が続くはず。

身土不二。

そう、この言葉を実践してきた人達に、その地にいられない、いられても耕し育てることが出来ない人達には酷な言葉かもしれない。人の口には入れない、つまりその野菜が使命を達成出来ない、そんな野菜にも酷な言葉かも。

浮かれているわけではないが、事態の好転は・・・と。居心地のいい場所で居心地の悪さを覚えてしまうこの2年半の“習性”。

伊豆大島の災害から一カ月が経った。東北の被災地にあった光景の縮図が、いまだその地にはある。
援助隊や救援隊も入っているというが、フィリピンの被災地。好転の兆しも見えないような。

フィリピン人の多くは神に祈っているとも聞く。

敬虔なクリスチャンだった政治家に大平正芳という人がいた。なぜか田中角栄とウマが合い、田中派の強力な支援、後藤田正晴の知恵をもってして首相の座を勝ち得た人物。おとうちゃんというニックネーム、ア~ウ~政治家と言われるように、言葉数の少ない人だった。大平を首相に担ごうとしていた人から言われて、真夜中、彼の枕元に置いてある直通電話のダイアルを数回回したことがある。真夜中にも関わず、その人と彼とは長時間話をしていた。

大平が好んで書いていた言葉がある。「永遠の今」。忘れていたが、きょうの新聞記事が思い起こしてくれた。

その言葉について彼と話をした記憶がある。
「今はね、過去の集積なんだ。そして、今をどう生きるかによって未来が変わる。未来は永遠なんだぜ」。そんなことを説明してくれていたように覚えている。

その新聞記事にもこう書かれていた。女婿の森田一さんの話として。
「過去から評価出来るものは評価し、未来に生かそうというのが大平の考えるリベラル。まさに『神様の目線』でした」。

リベラルという定義は難しい。保守強硬派、保守穏健派という区分けも妥当かどうか。宏池会、池田派の流れを汲む人達をリベラルと呼ぶのかどうか。それも一概には言えないような気がする。

しかし、おおむね、戦争体験の有り無し。戦争をどう捉えているかによってという区分けも出来そうな気がする。戦争とは、あの戦時下だった時代を指すが。
平和主義者とでも言えばいいのか。

“過去の人”とされる小泉純一郎が「脱原発」を言い、あからさまに現政権、安倍自民党はそれを異端視する。
”過去の人“大平正芳が、仮に、今、総理総裁経験者として自民党の中に、そのOBとして在ったならば、「特定秘密保護法案」なるものについてどう言っただろうか。

戦争を知らない世代がほとんどを占める自民党と、大平が存命していた時代の自民党。政争の数々を見て来たものにとては、やはり隔世の感は否めない。

「福島原発」の後始末。それは、限りなく永遠に近い作業かもしれない。だからと言って、それを後世への“負”としてはならない。永遠に続くとも思える青空を見ながら、「今」の大切さに馳せる思いが浮かんできて・・・。

2013年11月16日土曜日

「想像力」ということ

今、いとうせいこうの「想像力ラジオ」という本を読んでいる。
数日前は、原発ホワイトアウトという本を読んでいると書いた。

ボクはおかしな癖がある。

2~3冊の本を傍らに置いて、その時の気分や、“気分転換”を図るためにたの本を手にする。同時並行、併読という癖。

想像力ラジオという小説の中身には触れない。
津波で流された人が犠牲者が、つかまっていた木の上からラジオ放送をするという物語。そこに織り成される死者との会話・・・。

なぜこの本に惹かれているかというと、かねがね、「3・11後」、死者と生者のことを折に触れて、思いつくままに書いて来た。語って来た。だから余計にそうなのだろうが。

小説で死者に語らせるということを著者はこう言っている。
「生者の声はジャーナリズムが伝えている。小説には死者の言葉を聞く回路がある」と。

死者を持った人たち、被災地の人たちからは当然責められると思っていたらしい。ところが読者からの反応は違っていた。
「これはリアリズムである。一つ一つの死者のエピソードを名前も顔もある誰かを想像して読んでいた」という反応。

震災によって未来を考える想像力を封じられていると思って来た。しかし「想像力が復活する装置として文学は使える」。著者は、そうも、感じ取ったという。

想像力の欠如。何回もそのことを指弾して書いてきた。それは政治家に向けてのことばだったが。
未曾有の大災害、未曾有の大事故。それが起きた時に必要なものが想像力。想定外ということとはちょっと違うけれど。

その想像力の欠如が「被害」をより拡大させてきたということ。想像力の欠如とは、つまり「思考停止」。そんな時代が続いていたからだろうか。

「原発」については、たとえば、黒澤明という映画監督が、「夢」と言う映画で、それを描いている。「想像力」の帰結として。
鐸木能光という作家は「マリアの父親」という小説、文学で「原発事故の限りない可能性」を書いていた。それも想像力の帰結。

災後、原発について書かれた文学は登場していないと思う。“ホワイトアウト”は小説の形はとっているが、原発小説、文学とは違うと思う。

しかし、死者と生者のことについてはたとえば姜 尚中が「心」という本で書いている。そしてこの本も。

死者との対話。死者の言葉を聞く。それは、遠野物語にもつながる。

一昨年、「3・11」を書いた文学の登場を願うとも書いた。文学こそがこころの隙間を埋めてくれると思ったから。
一笑に付した人がいた。文学にそんな力はないというように。
その人との対話はそれ以来辞めた。

きょうはこの本を読んでいたい。でも無理だ。原稿が3本もたまっている・・・。それは「想像力」とはかけ離れたものだけど。

昨日、大学時代の友人の訃報が届けられた。伝えてくれたのは、足に出来た瘤の手術の後遺症で烈しい疼痛に苦しむ日々を送っている友人。

亡くなった友達は癌であった。奥さんは痴呆を患い、その面倒をみる。双方の両親の面倒も。重なるストレスが彼の癌の進行を早めたという。

彼との思い出の記憶をたどるしかすべを持たない・・・。

2013年11月15日金曜日

秘密保護法は国会だけの問題ではないということ

例えば昨日の毎日新聞の社説。「秘密保護法案を問う。野党の対応。成立阻止が目指す道だ」。

法案をめぐる与野党の駆け引きが本格化してきた。多くの重大な欠陥を抱える法案に最大野党の民主党が反対姿勢を明確にしていくことは当然だ。修正協議の結果、部分的な手直しでお茶を濁すことなど許されない。成立阻止こそ野党が目指すべき道である。

まさに当然であり、この社説になんら異存は無い。一言言わせてもらえば、“駆け引き”という政治記事の常套句が使われていること。駆け引きの対象になるようなものではない。

今、たまたま「原発ホワイトアウト」という本を読んでいる。高級官僚が若杉 冽という“匿名”で書かれた小説。小説とは言え、小説とはいえ、登場人物の設定や事例は「現実」を書いたものとも言えそうだ。
沖縄返還交渉をめぐる密約を書いた毎日新聞の西山太吉事件も、男女を入れ替えた形で登場してくる。
原発と国家機密と。

こんなことを考えている。
昔の国会での「爆弾質問」。野党に渡されたネタ元は官僚の“内部告発”だ。
内部告発では無いにしても、国政調査権を使って国会議員が官僚に”秘密“の提供を命じた場合、その議員は教唆の罪に問われるのか。

恥ずかしながら福島県選出の担当大臣。連日の国会審議で、その不勉強さをさらけだし、あげく成立後に修正もあり得るなんて答弁も。
法案そのものの”価値“を政権側から毀損したものともいえる。所詮、部分的には修正もありうる”不完全な法案“であることを言ったようなもの。

もちろん、議会制民主主義のもとでは、法案の成否はあまねく国家に委ねられる。たぶん、強行突破も含めて、この法案は成立するだろう。いま、この法案について修正を求めたり異を唱えている政党が、かりに、まさに「仮に」だが、政権交代した場合、その法案に依存することは間違いない。

国会の駆け引き、政局を絡めての法案ではないのだ。これは。国会という場での問題と矮小化して考えてはいけない。

言ってみれば、これはそれがどの政党であろうと、国家対国民との問題。与野党対立ではなく国家対国民の対立の問題。

その間の橋渡しの役割を担うのがマスコミ、メディア。政治部が書いた政治としての法案論議、法案記事であってはならないはずなのだ。国会報道の一部であってはいけないのだ。

警察官職務執行法の改正というのが昔あった。警職法。
ボクは高校生の時、この反対デモに参加していた。安保闘争の時のような”過激さ“は無かったが、多くの人が国会を取り巻いた。
学生服の襟章をダスターコートで隠し、だって、ばれたら退学必至だったから、連日のようにそのデモの渦の中に身を置いていた。

なぜそうしたのか。学校では決して教えてくれない治安維持法のことを勝手に学び、知り、特高警察が、いかに厳しい弾圧をしてきたかを高校生なりに知っていたから。
警職法改正の一つの焦点は警察官による職務質問の権限強化だった。「警察国家」を彷彿をさせるようなものだと考えたから。

改正案は成立した。時々起きる警察の不当捜査。いまでもしばしばある。その根底の精神は、この改正にあったとも思っている。

国家権力対国民生活。大きな図式で、市民生活を脅かしかねない構造自体にまで考えをめぐらさねばならないものだと。

日常の市民生活が”権力“によって脅かされるんだよ。しかも、それは担当大臣の恣意的かもしれない”判断“のもとで。

2年8カ月の前の大きな出来事、原発事故で何も救済されていない多くの人たち。
そこから目を背けさせようとするような強大な話題つくり。

考えなければ、知らなければ、学ばなければならないことが多すぎる。でも、それから逃げているわけにはいかない。決して他人事ではない場面だってあり得る。

ボクの高校時代。週に一回、論語の授業があった。どんどん論語が好きになって行った。
鞄の中にはタバコを隠し持っているという不良高校生だった。♪ネリカン、ブルース♪を口ずさんでいた。

そんな不良高校生でも、教師にも影響されず、友達にも内緒で、警職法改正反対デモに参加せざるを得なかったということ・・・・。

2013年11月14日木曜日

「友情ある説得」と「理由なき反抗」

もちろん映画の内容と、たまたま借りたタイトルとは無関係なのだが。
不思議と昔、多感な時代に観た映画の題名はよく覚えており、しかも、ま、誰かの勝手な和訳だとしても、不思議に普遍性を持っているようであり。

宗教とは無関係だが、いや、友情ある説得の内容がそうであるから、小泉純一郎の「脱原発発言、原発ゼロ発言」、それは愛弟子安倍晋三に対する友情ある説得なんではないかとも思う。

小泉発言は、この際、裏読みしたり、真相は・・・などの下衆の勘繰りなんかはやめた方がいいと思う。ただ、行間にあるのは、言葉について行間というのもおかしいけれど、政治的にいうならば、「脱官僚」のメッセージも込められているのかなとも。

いま、その環境の中で、自民党の中でも“本音”が言えない議員が居る中で、「原発ゼロ」を言えば、歴史に残る名宰相になるという“友情ある説得”。

安倍はその“真意”はわかるまい。

子供でもわかる「論語」のお話。
“過ちて改むるに憚ることなかれ”。一応、小泉は自分の過去の「過ち」を認めている。学んで過ちに気付いたのだと思うけど。いまさら「政治的野心」があろうはずも無く。

それにしても小泉を支えていた飯島勲は、安倍に取り込まれての内閣参与。北朝鮮に行ったけど、その後は・・・。

安倍と小泉の仲をとりもっていると思いきや・・・。

過ちて改めざる それを過ちと謂う。そんなところかな。

安倍夫人が道新、北海道新聞社の講演で、「原発輸出反対、消費税引き上げ反対」を言ったという。旦那にも言ったけど聞く耳持たなかったたとか。
これって「理由なき反抗」、いや「理由ある反抗」。

自分が経営している小さな店は消費税引き上げになると困るって。うん、「理由はある」んだな。

でも、これって額面通り受け止めていいものやらどうやら。”援護射撃”のような気もするし。
「家庭内野党」だけはあてにないない。そんな事例を見て来たでしょ。つい3年前も。


自民党の大島前副総裁がきのう福島県入り。郡山のホテルで関係12町村の首長集め「説得」を始めた。
前日は県知事「説得」。
そこに「友情」があるかどうかともかく。彼の選挙区青森だって“原発”、“再処理施設”を抱えている身なんだけど。

話し合いに応じた各首長。反応はさまざまと言ってもいい。異を唱える人もいる。それは「理由なき反抗」ではない。確たる事実。住民の声を知っているから。

だから冒頭の話に戻る。“説得”に耳を貸さない安倍こそ“理由なき反抗”をしているのではないかと。彼が再稼働に挙げる理由は、もはや理由ではない。理由として通用していると思っているのは大きな勘違い。
“じゃじゃ馬女房”の手綱を握ることは出来たのかな。

冗談めかして書いてきたけれど、要するに「他人事」であるのか「自分の事」であるのか。

この論議とて難しい。自分の事とだけ捉えている人には他人が見えない。他人とはつまり、一つの例が原発作業員。

東京が危うい、脱出すべきだと力説する人がいる。あのね、仮に4号機の燃料棒取り出しで事故が、大事故が発生したら、もちろん新たに放射性物質は大量に拡散される。でもね、その前に、現場にいる作業員は確実に死ぬ。
3,000人が死ぬ。

誰かがどうにかするだろう。そんな”楽観主義“に身も心も委ね、「イイヨルの会」なんてのを作り、毎晩飲んだくれ、酔眼を酔顔を晒している人達もいる。

そのいう人たちには、そういう理由でボクは“反抗”する。

原発被災者に「とてもイイヨル」なんて言うのは無い。甘言を持って、うまい汁を吸おうと「言い寄る」輩はいても・・・。

2013年11月13日水曜日

「ツナミの涙」~忘れないということ~

風化、それは忘れること。人の記憶から薄らいでいくこと。三日前の「11日」に思い立ってまた「風化」の事を書いた。自分自身の“風化”を阻止するために毎日このブログを書いているとも。

きのう、ネットで、ツイッターである映像に出会った。「ツナミの涙」という写真集のPV映像。11分あまり。
投稿者は上田聡さんというカメラマン。陸前高田出身。彼はあの3・11の大津波で家族を失っている。

彼は東京から郷里にとってかえし、変わり果てたその町の姿を写真に撮り続けた。そして“Tears of the Earth”というプロジェクトを作り、陸前高田の町を記録していく。

そして写真集「ツナミの涙」を出版した。その本のPV,プロモーションビデオだ。
なぜツナミの涙というタイトルなのか。ツナミは海の流した涙だったのか、ツナミによって流された人、残された人の涙というのか。余計な詮索だが。それも考える。
どうもTears of the Earthというプロジェクトチーム名の“和訳”という事らしい。

そのPVは写真集にある数多くの写真をビデオカメラで撮影したもの。ナレーションは無い。日本語と英語のスーパー(字幕)ですべてが語られている。
2年余りの時の経過が語られ、多くの人々のざまざまな表情が映し出されている。
そのPVを見ながら、震災直後の原発事故直後に作られた藤原敏史のドキュメンタリー映画「無人地帯」を思い出す。

映像、画像は、撮り手の意思を反映する。撮り手のこころが画になって返ってくる。

そこにある画像や映像はどれも優しかった。そして“希望”という言葉も伝わってくるようだった。

そのPVの中にたぶん柴田トヨさんが書いた詩があった。書かれた看板を写した画があった。99歳の詩人。
「希望を失い、大切なものを流されたあなたの悲しみははかりしれません。
でも、生きていればきっといいことがあります。
お願いです。あなたのこころだけは流されないで 不幸の津波に負けないで」。

写真集には多くの祭りの光景が撮られている。祭りにすべてをかけたような大人や子供のすがた。「うごく七夕まつり」。字幕が語る。復興への第一歩、こうなったら少しでも前へ・・・。やろうと思えるようになってきた・・・。亡くなった人達への追悼・・・。

画の説明を文字でするのは難しい。URLを貼っておく。
http://www.youtube.com/watch?v=Kk8IOECrrkc&feature=youtu.be

日本社会事業大学の準教授が新聞に寄稿した「東北の伝統芸能」という一文がある。
大槌町の臼澤獅子踊り。一昨年5月、100人を超す被災者の前で“復興の群舞”をした。妻を亡くした人は泣きながら笛を吹き、衣装を流された人はジーパンとズック靴で舞った。その姿を、祭り好きの夫と義父母を亡くしたご婦人は遺影を持ち、ハンカチで目頭を押さえながら見入っていた。
新盆には三陸沿岸の郷土芸能11団体が大槌町に集まり、死者の鎮魂と豊作と豊漁を祈った。「郷土芸能とはそのためにあるんだ」と参加者は言い、舞い続けた。彼らは皆、自分たちの祖先と対話し、自分のふるさとを考えながら舞った。

そんな一文だ。この山口幸夫という先生は、郷土芸能とは地域の絆製造工場のようなものだと言う。

「ツナミの涙」。その写真集の“共著”に高梨悦子という名がある。PVでも、エンドロールのspecial thanksに名を連ねている。
「リスリス通信モスクワ支局」としても。

そう彼女もツイッターで知り合った人。モスクワ在住。震災後、彼女のツイートを見ているとたしかに陸前高田に出向いていたが、こんな仕事をしているとは知らなかった。
彼女は時々このブログをリツイートしてくれていた。ネット上で時々会話を交わしていた。

彼女が今年の3月11日に書いているブログ。「モスクワは3・11を忘れない」。
こんなことが書かれていた。
目に見えて包帯や絆創膏が必要ではないけど、
助けが必要じゃない訳じゃない。
そういう人達にとって、一番必要なのは

痛みがあるんだと、分かってあげる事だと思う。

忘れている訳じゃない。
あなたが痛いのは、知っています。
何が出来る訳じゃないけど。
あなたが早く良くなる様に、祈ってます。

それを、届けること。

今日、3月11日に行う事は叶わなかったけど
私達は、モスクワで震災を風化させない為のイベントを行います。


「この写真集を通して、津波の怖さを語り継ぎ、災害に備え、大切な人をどう守るのか考えて貰えるきっかけになればと考えています」。
上田さんはそんなことをPVの脇に書いていた。

本屋に注文した。やがて届くと思う。「3・11」後、何冊か、大手の新聞社や地方紙が出した写真集を集めた。
この本は、やがて書棚の、それらの写真集の前面にきっと置くことになるだろうとも。

ちょっと長くなるが最後に。
宮古市の姉吉地区というところに昭和8年の三陸大津波を機に書かれた碑がある。
「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪  此処より下に家を建てるな 」。

福島県会津美里町の人で、柳田邦男に師事していた地質学者、山口弥一郎という学者が調査した上で書いたという碑。その碑に書かれていた文字は今度の震災、津波で生かされていたのだろうか・・・。

陸前高田とモスクワと福島。なんかつながっているような思いがした今日のこと。

2013年11月12日火曜日

「個人線量計」が歩いていく朝

数日前から風邪をひいてしまった。すこぶる不快なのだ。眠くて仕方がない。勢い、朝起きるのが遅くなる。
今朝も然り。ようやく起きだし、コーヒーで目を覚まし、待ち構えている犬どもを散歩に。

玄関を出ると、ちょうど登校途中の近所の子供たちに出会った。「おはよう」と声をかける。犬は喜んでじゃれつく・・。

小学生、水筒を持ち、なにやら荷物も持ち、ランドセル。凄い体力。気が付いた。子供たちの首からタグが下げられている。なんだいと聞くと一様に答えが返ってくる。「線量計だよ」と。

いつも我が家に遊ぶに来る時は子供たちは線量計は下げていない。表遊びをしている時もしていない。

学校に行くときはしなければならないのだろう。

その子たちの親と以前話したことがある。母親の一人は言う。線量計の常時携行を強制することはしのびないと。それを首から下げるように諭すと、子供たちの表情が微妙に変わると。「特殊な環境」にいることの不思議さを感じているようだと。

線量計を下げた子供たちは田んぼのあぜ道を集合場所の方に向かう。僕と犬はまっすぐ行く・・・。バイバイと手を振りあって。

政府・与党と原子力規制委員会は、「1ミリシーベルトと20ミリシーベルト」の問題に結論を出したようだ。それに合わせて、モニタリングポストなどの空間線量から個人線量計による“被曝数値”をさまざまなことの判断基準にするらしい。いや、することになった。

いわゆる空間線量と個人線量計では、積算線量の数値が違う。正確なのは、いや、やみくもに数字に翻弄されないためには個人線量計の方がいいと思う。
20ミリシーベルト論も排除しない。

しかし、これとて遅すぎる指針決定なのだ。もう「1ミリシーベルト論」が定着してしまっているのだから。

一昨年、暫定基準値は5ミリシーベルトだった。学者や医者の一部がそれを猛攻撃した結果、時の政権、世論迎合政権は1ミリとした。そしてそれが「常識」とされるようになった。

多くのマスコミは言う。「個人線量計では数字が低く出る。避難している人達の帰還促進のために、低く出る数字を適用しようとしている」と。

避難している人達は、たしかに線量のことを帰還しないことの一つの理由に挙げる。でも、「帰らない」という決断の要素はそれだけではないはず。
ネズミに食われ、修復不可能な家、味わってしまった”便利な“生活。

無駄な除染よりも、それに使われる費用を移転に向ける。それも排除すべき議論ではない。

しかし、政権内で、永田町や霞が関での議論は、福島県民のことを真剣に思っての議論なのだろうか。やはり「疑問符」が付く。

昨日、格好つけて“提言”を官邸に持参した自民党の大島副総裁。彼の“言”が朝日新聞に書かれていた。書いた記者の意向はわからないが。記事の意向も理解しにくいが。
大島副総裁は11月上旬、周囲にこう語った。「どうだ、『政高党低』を押し戻しただろう」。

“被ばく問題”を政局にしてほしくない。まして、政党の優位争いの道具にしてほしくない。しかし、それが垣間見えてしまうという事。

あの子供たちは、小学生は、いったい、いつまで線量計を身に着けて暮らさないといけないのだろう。
その毎日をどう受け止めているのだろう。

彼らなりに解決していかなければならない「子供の領分」なのだろうか。

今朝の寒さは余計にこたえたような気がする。

きょうは塾の日。延々と続く「東北学」。レジュメを作り、資料を整え、このブログを書いて・・・。体調不良の身にはこたえる。
でも、塾生に話したいことがいっぱいある。話さなければならないことがある。
「ヘタレ」を言っている場合じゃないな。

2013年11月11日月曜日

「11日」、たぶん“風化”は進んでいる。

毎月、11日と言う日は来る。その11日はあの日以来“特別な日”になってしまった。
その11日に思う。27回目の。被災地の“風化”が進んでいるんだろうなということを。

石巻の防災庁舎の跡も、釜石の避難センターの跡も、多くの人命を道連れにした建物も取り壊されるという。

亡き家族を思うための場所として残して欲しいという声もある。抜け切れないから無くして欲しいという声もある。どちらが正しいのか。それを被災者ではないボクは言える立場ではない。強いていえば「残して欲しかった」ということか。

折から東北は悪天候だと伝えられている。強風が、風が大方整地されてところからも何かを運んで行ってしまうような。

いわゆる“風化”とは“心の風化”を指す。つまり、忘れていくという事。忘れていくことをどうやって食い止めるか。

実相を知ることである。実相を伝え続けることである。なにか風化を加速させるような”動き“があるような気がしてならない。
伝えることの多くを用意しているような。政治の舞台では確実にそうだ。
一言だけ。なぜ、いま、あの法案なのか。国論をそれに向けるのか。

「特定秘密保護法案のことは大事なことだとわかっている。でも、今、我々が向き合っているのは・・・」。被災地の人は語る。

一昨日、メイクとマッサージのボランティアに向かった人のことを書いた。
彼女からメッセージが来ていた。
「昨夜遅くに東京に戻りました。このボランテイアを通じて、いろんな人と出会い、いろいろ考えたり、自分への気づきもありました。メイク後に撮った写真をその場で差し上げていたのですが、ご自分の写真を見て少女のようにはしゃいでくださる姿にホッと和んだ反面、ふと話してくれた言葉の一つ一つがとても重く感じました」。

彼女が聞いた被災時の状況、その後の様子、補償の問題、立ち入りが出来ない広大な東電が地上げしていた土地のこと、国には見捨てられてと思いながら、意地で自分の家族二人をいまだに毎日捜しているということなどが書かれていた。そしてこう書いていた。

「予想して通り自分が勉強しに行ったような結果になってしまいましたが、無知でいるよりも、知ることが出来たことに意味があると思い、もっとたくさんの人に現実を知って欲しいと思いました。わたしが経験したことなど、まだまだ現実のひとかけらに過ぎないと思いますが・・・」。

返信を書いた。長い返信を。
「知るということが一番大事なんだよ。風化が言われている。風化とは忘れるということ。知ったことは忘れないで欲しい。“ひとかけらの真実”が多くを物語る。せっかく得られた機会だ。今日から、忘れないための努力の日々を送って欲しい」というようなことを。

来月、ある大学の同窓会での講演を頼まれている。その講演の演題は、期せずして「知るという支援」としていた。

「知る権利」と裏腹に「知る義務」というのもあるのじゃないかと。

風化を知らず知らずに受けいれてしまっている人達もいる。風化に立ち向かっている人達もいる。
前にも書いた。「風に向かって立つライオン」になろうぜと。

フィリピンが大きな自然災害に襲われた。レイテ島では死者が1万人を越える見込みだとも言う。

レイテ島。かつて日本軍が進攻し、占拠していた地域だ。

3・11直後、「ともだち作戦」で多くの米軍が被災地の救援に駆け付けた。
被災者は感激して迎えた。政府も多とした。
フィリピンにどれだけ国際社会の目が向いているのか。光景は「3・11」直後と同じだ。

きょうになって。ようやく日本政府が動いた。医療チーム25人を送る。その他はフィリピン政府と調整中だと官房長官は言う。

余りに対応が遅すぎるのではないか。瓦礫除去だってままならない現地。
南三陸に向かって走っていった自衛隊の車列の雄姿を思い出している。

2013年11月10日日曜日

「よらしむべし、しらしむべからず」


東日本女子駅伝を見てしまった。駅伝でもマラソンでも、ただひた走る姿を見ているのが好きなのだ。

思いだす一昨年。この福島市を駆け抜ける駅伝に「若い女の子を将来子供が産めない女性にするのか」というばかばかしい、ほんと愚にも付かない言いがかりをつけていた高名な学者、それに追随するネット族。たしかあの今は議員さんも言っていたと。

国会議員の質もまあ、よくここまで落ちたものだと思う。

論語にある言葉。為政者の心得を言ったものとしてよく使われる言葉。
「民は、由らしむべし、知らしむベからず」。

子曰、民可使由之、不可使知之。

特定秘密保護法案をめぐって、この言葉が引用される。もちろん安倍の「専制君主的」な考えを批判して。

論語の解釈は難しい。簡裁に書かれた漢字を読み解くのは難しい。字間や行間にある意味や言葉を読みとらなければないから。

民は従はさせればいい、何も知らせる必要はない。民を衆愚と見立て、そういう解釈をする向きが多い。だから、この言葉が安倍に向けられる。

ある師はこう読み解いてくれた。
「民に慕ってもらえるような政治をすべきである。何を考えているのかわかってもらえるような努力をすべきである。しかし、わかってもらうにどうするかは難しい。が、そのことに腐心すべきである」。それが孔子の教えの真意であると。


どうも、この論語の“間違った”解釈がまかり通っているようだ。いた、安倍はその間違った解釈を是としているのだろう。論語を読んだことがあるかどうかは知らないが。

少なくとも、ボクの師が教えてくれたような解釈は念頭にはないのだろう。

ま、なんにしても「不」という一文字の解釈は難しい。

「私の考えは理解していただけるように縷々ご説明申し上げているつもりです。頭っから理解しようとしない方がいることが不思議なんです」。

こんな答えが返ってくるのかもしれない。

安倍のアナクロニズム的な政治思考、専制的な国家観。どうも目に余る。

日本版「NSC法案」から、官僚の統治を目指す「国家公務員法の改正」、つまり多くの高級官僚なるものの人事権を官邸が握る。そして秘密保護法案、あげくNHK経営委員の人選。

官僚もメディアも自分の意のままに動かそうということか。

殿、ご乱心。

昔の保守政治家は、知恵を碩学に求めた。論語にも精通していた安岡正篤氏も重用されていた。箴言を為政者は聞き入れていた。

今、そんな人は安倍の周りにはいない。いても寄せ付けないのだろう。

学者と言いながら、文化人と言いながら、多くは権力に擦り寄る輩ばかりのような。

衣の下の鎧。そんな言葉も浮かぶ。

この法案、どう考えても、知れば知るほど、見聞きすればするほど、危険な法案なんだと。民草にとっては。

そして議員はあまりにも無知、お粗末すぎる。その一例。
「総理大臣の動静は秘密です。毎日の動静を新聞に載せるのはおかしい」。そう真顔で言ったあの女。

自民党ともあろう政党がよくそれを容認しているとは。

開かれた政党が自民党のうたい文句だった。はず。

与党の公明党、あの信濃町の内部は秘密のベールに閉ざされたまま。

野党。共産党はかつて、ソビエトは鉄のカーテンの中にクレムリンの姿は覆い隠されていた。

野党は機能不全。

言論人も、文化人も、マスコミも、それに反対するには迫力を欠く。

民放会長は勲章貰ってだんまりを決め込む。彼だってもとは報道畑出身だったのに。

ちょっと歴史を、それも昭和の歴史をひも解けばわかるはずの危険さ、恐ろしさ。世論はもっと気付いていいはずなんだけど。

秘密。その言葉は今でも恐ろしい。原発事故後は、その影響や実相は「秘密の中」に隠されていた。そして、あの時の本当の経緯は未だ明らかになっていない。

FAXをだれがどこに送ったか。だれが受け取ったか。どうしたか。そんなことすら明らかになっていない。

公務員は委縮するんだろうな。国を思って“反乱”を起こすような気概を持つ人はいなくなるんだろうな・・・。

秋空の暗さは心の暗さに連鎖してくるようで・・・。

2013年11月9日土曜日

「メイクやマッサージのボランティアに行きます」

東京の有名化粧品会社に勤めている知人からメッセージが届いていた。
発信は昨夜。読んだのは今朝。風邪で早寝してたから(笑)

「実は今夜の夜行バスで南相馬に行きます。会社が支援しているボランティア活動に応募して、今回参加することになりました。
団体行動なので郡山には寄れませんが。
私の役割は、仮設の集会所でメークやマッサージなどのサービスをすることです。少しでも気分転換になっていただけると嬉しいです。
自己満足にならないように、しっかりと行動したいと思います」。

今朝、返事を書いた。
「ありがとう。とうか、嬉しいというか。実情を知ってきてください。何かを感じてもらえればと思います。それが“風化”させないということだと思うし。それと“方言”に触れてみてください。それも勉強。
女性は何歳になっても綺麗になりたいという願望があるとか。笑顔にしてあげてください。笑顔を土産に持って帰ってください」。

また返事が来た。
「5:30頃、南相馬に着きました。メークアップのボランティアは震災以前からも私が将来的にやりたかったことなのです。今回は様々な現実を感じてきたいと思います」。

そう言えば、彼女は震災後、一昨年、郡山に、我が家に来た時言っていた。被災地でメイクアップボランティアの仕事をやりたいと。

自分がそう思っていたこと。それを会社が支援しているということ。

ややもすれば、僕は、毎日これを書いている時、「東京」という括りで、一刀両断の如く切り捨てている。それはある意味”安易“な表現でしかないということをわかっていながら。

やはり彼女の友達で、大手の商事会社に勤めている子がいる。その会社では、半ば“強制的”に、業務として被災地へのボランティア活動参加を義務付けているとか。そこそこの長期に亘って。

「どこの、どいいうボランティア活動を希望すればいいのでしょうか」と聞かれた。「それも自分で考えることだね」と問題提起みたいなことをしておいたが。

もう10年位前か。CSという言葉がどこの会社でも言われていた。社是に書いていた会社もあった。
意地悪な僕は、その会社の社長にCSの意味を聞いた。
「カスタマーサービス」だと社長は答えた。
「違う。カスタマーサティスファクション」だとたしなめた。
意味が違うから。意味が違えば、やることも違う。

その後、CSRという言葉が言われ始めた。「企業の社会的責任」。それを追求したいと考えていた若手の経営者もいた。

経済成長の大合唱。一部での景気回復。三本の矢とやらでの成長戦略。自動車会社の収益率は大幅に「改善」された。兆の単位での営業収益。

その会社だって「企業の社会的責任」はそれなりに果たしていると思うのだが。

仮設にいる高齢の女性のメイク。時々マスコミの話題になる。そこには笑顔があり、笑い声が溢れていた。

女性にとって化粧をするということは、身だしなみを整えるということは、きっと大事なことなのだろう。
メイクをしてもらうことでの一時的ではあるにしても、本来持っている願望に答え、非日常の世界に浸れるということ。

いや、それがある時代までは日常だった。
朝、母親はきちんと着物に着替え、割烹着を付け、家族の朝ごはんを作っていた。パジャマ姿でのお見送りなんていうのはなかった。
子供は母親の寝巻姿を見たことがなかった・・・。

震災後、原発事故後、子供たちの被ばくを気にかけていた郡山の女性小児科医がいた。先ごろ亡くなった。101歳。
車椅子生活だったが、病院でも朝起きると、必ず着替え、口紅を差していたという。子供といえども見舞客には寝巻姿は見せなかったという。70歳になった息子はそんな母親が誇りだったと先日、述懐していた。

ボランティアに行った彼女に得るものがあって欲しいと願う。
綺麗になった仮設の女性がこぼれんばかりの笑顔で照れ笑いを浮かべ、仲間と楽しく談笑している。そんな光景がきっとあるだろうことを勝手に想像している。なぜか、やはり「うれしい」。

身のまわりにあった小さな小さな話の一つ。

2013年11月8日金曜日

「秘密についての秘密」

郡山の嫌な季節が巡ってきた。木枯らしだ。安達太良下しか、磐梯おろしか。郡山は風の街。

物言えば唇寒し秋の風。そんな句があったな。芭蕉だったか。芭蕉の句の意味とは多少違うが、ものを言えば、口は災いの元になる可能性だってある。
下世話なたとえだが。

特定秘密保護法案なるもののことだ。
結論を言う。受け入れられない。廃案にすべきだ。

一番の問題は「秘密」なるものの定義が明らかでないこと、その特定は一介の大臣にゆだねられるということ。大臣、閣僚なんていうものはそんなにたいしたもんだろうか。違うね。任命権を持つ総理大臣の顔色を伺う金魚のウンコみたいなものじゃないか。

国家に機密が存在する。当たり前だ。当然だ。外交は秘密裏に行われないと成果を上げることは出来ない。なんでも公開なんてありえない。
防衛だってそうだ。経済問題を巡る外交交渉だってそうだ。そんなことは百も承知だ。

ある時代から、なんでもかんでも「密室協議」なるものを否定する動きが出てきた。マスコミだけが言ったのではない。国会議員だって言った。
なんでも「公開すべき」だと言った。権力を側は、いや当事者は都合のいいとこだけ公開する。
民党政権時の事業仕訳なるもの。それがその典型。

3・11後、原発事故後、東電をつるし上げる場だけは公開する。マスコミが見ている、カメラが回っている中で、本音は言えない。

しかし、今回の特定秘密保護法案。それらのケースとは異なっている。何が秘密にがいとうするのかが秘密だということ。
恣意的に秘密が指定されるということ。そこが一番の問題。

安倍晋三も、その他の閣僚もご存知ないだろうが、昔、三ツ矢研究問題という事案があった。防衛庁が密かに研究し、図上演習をしていた仮想敵国を作っての軍事作戦。

それを国会の場で、社会党の岡田晴夫がすっぱ抜き、その秘密文書を入手し、佐藤政権を追及し、国会は大混乱に陥った。
時の防衛庁長官は小泉純一郎の父。苦境にあった。

この場合、資料を漏らした防衛庁の官僚は処罰の対象になる。今度の法案でも。いや、現在ある国家公務員の服務規程違反になる。
問題視した国会議員はどうなる。どうなった。爆弾男として名を馳せていただけ。

秘密を洩らした公務員などは法によって罰せられるという。それをそそのかした者も処罰の対象。そそのかし。それは、ネタをとろうとするマスコミのことだ。

報道の自由との兼ね合いで、取材の自由との兼ね合いで、そこを追及する。安倍は答える。「通常の取材行為は対象にならないと」。通常の取材とはなにか。
答えはない。あいまいなまま。

沖縄返還協定をめぐる「西山事件」を思い出す。女性事務官と親密になり、そこから資料をもらった。これは明らかに通常の範囲を超えているということになるのだろう。

取材行為の是非、良し悪しは政府が決めるものではない。

議員秘書だって、特別職の国家公務員だ。秘書が洩らしたらどうなる。その議員は。

国会議員さん、よく考えなさいよ。あなた方にも影響してくるような法案なのだぜ。

罪科は司法の適正な判断に委ねると安倍は言う。

日本は三権分立の国だとされている。マスコミは第4権力だと言われる。いいじゃないか権力だって。三権を監視する権力だって。
ただ、問題なのはこの4つの権力を握っている人達の「資質」の問題。

この特定秘密保護法案をめぐって世は「疑心暗鬼」に陥っている。秘密保護を目的に、あらゆる監視の目が張り巡らされるのではないかと。
社会の不安を助長しているようにも映る。

原発の警備は特定秘密の入るという。
かつて総理大臣の警備は「見えない警備」だった。ある時から「見える警備」に替えた。SPという警護官が皆赤い色のネクタイを締め、周りを囲む。その方が抑止効果があると判断したから。

原発の警備だって時には見えるようにした方がいい場合だってある。その強固さを見せるために。

野党なるものの体たらくはどうだ。民主党の枝野は情報公開法で対抗すると演壇に立っていた。そんなこと今更言えた義理かい。

原発事故後、SPEEDI、スピーディーの存在を伏せ、隠し、秘密にしていたのは菅政権。公開していれば「福島の悲劇」は別の展開をたどっていたはず。
この種のことは、たぶん、今後もあり得るだろう。

だからね、コントロールされてないで、マスコミに名を連ねる人たちは、会社は、こぞって「反対」「廃案」を堂々と打ち出すべきなんだ。

なんか、この国は本当に「危険な国」になっていきそうな気がして・・・。
この話、書き出せばキリが無い。またにする。

唇寒しが悪寒に変わってきているようなので。

2013年11月7日木曜日

土地を奪われるということ・・・

どうやら政府は「帰還困難区域」を、まさに「住めない区域」とするようだ。

「どうやら」と書いたのは、その方針は決めているにも関わらず、時には石破に言わせて“観測気球”を上げ、経済産業大臣に言わせて“住民”の反応を探る。

住民理解、住民合意という不可解な言葉が横行している。それは政治の場だけでなく、マスコミや学者の間でも。

何を書いても最後に「住民の理解が必要」と”逃げ“を打つ。住民合意とか住民理解とか。地元の理解とか。それがあり得ないことだと知っていながら。知っていないでそんな言葉を常套句のように使っているなら卑怯だ。無知だ。

それはともかく、帰還が出来なくなる土地、そこの住民。「土地を奪われた民」と言ってもいいだろう。移住を支援するというが、どんな支援になるのかこころもとない。

安倍は発言しない。いつもそうだ。自分に都合のいいことは前面に出てぶち上げ、誇示する。
不都合になることは“部下”に言わせる。
きのうのクスリのネット販売解禁問題の決定だってそうだ。以前の国会答弁が食言にも成りかねないから。

放射能汚染がゆえに土地を奪われる。そう、奪われたという言葉が一番的を射ている。

例えばパレスチナ問題。その根源は土地を奪われた人たちの奪還運動、闘争なのだ。延々と続く争いの根源。

中国、新疆ウイグル地区の住民の”テロ“。それも、侵略され、そこには住んではいるものの、中国領土とされた人々の格差をめぐる闘争なのだ。

ソビエト連邦の崩壊、それも少数民族の、ソ連に土地を奪われた人たちの暴動に端を発したもの。それが”国“を崩壊させたということ。

大方の戦争なるものの発端は領土問題。古くからもそう。領土拡大を人は求めた。奪われた側はいつかは反撃に出る。

今、日本と言う国も領土にこだわる。竹島、尖閣、そして未解決の北方領土。

そしてTPPに絡んで、農政の転換、減反。農民は農地を放棄せざるを得なくもなる。

NHKの被災地からの声。福島市の大波地区の農家。コメを作る。それは生計の手段だけではない。土に触れてていること、コメを作ること、それが生甲斐なのだ。

田んぼは1年耕作放棄すれば、“復活”は至難の業。田んぼは毎年、季節が来ると、自然の摂理に従って耕さなければならないのだ。

それが線量検査で出荷停止になろうとも、土に生きる人たちにとっては、耕すことが“必然”なのだ。減反もある意味「土地を奪う」こととも言える。

原発事故で土地を奪われることになる人達。どこかに自らの“国”を作れるのか。「双葉自治区」なんていうのが誕生するのか。

とにかく言葉を発しない県知事。県の役人。国によって土地を奪われる人たちは、どこに寄るすべを見出せるのか。県は「機能不全」だ。
だから「自治区」とも言いたくなる。

永久に帰れない土地。それは古くて新しい問題。それが発生することは一昨年の時点でわかっていたこと。政治音痴の民主党政権が、何を恐れたのか、想像力の欠如による大失政。安倍内閣だけを責めるのは酷かもしれない。

しかし、「土地を奪われる」という事が、将来、何をもたらすのか。

天下国家を論じる人はまことにおかしなことを言う。被災地にには住民理解とやらを押し付ける。事故収拾に国費、税金をつかうことは「国民的理解が得られない」と言う。
理解を得る「国民」とは誰を指すのか。

2020年を控え、東京では地上げ屋が蠢動しはじめているかもしれない。
いや、移住先ともくされる県内でも、すでに地上げの動きが始まっているかもしれない。国費で移住を進める。またもや「国民的理解が得られるのだか」。そんな論調がまかり通るのかもしれない・・・。

2013年11月6日水曜日

「食の偽装」と“福島”と

大阪のホテルで発覚した「メニュー偽装」、「食の偽装」。出るは出るは。その他のホテルも高級料亭も、挙句有名デパートも。

さも有りなん。いつの頃からか、この国は“偽装国家”になったんだから。

10年も前か。耐震偽装があった。一級建築士が逮捕され、一時は大騒ぎ。でも、それだって今も行われているのかもしれない。

あの時、友人のジャズピアニストが上手いことを言った。
「耐震偽装の姉歯さん、頭部偽装も見えてます」。

外見の偽装は心の偽装につながる。外見を飾るといういうことは、心も虚飾で満たすことになる。

一昨年、原発事故後、前任者に替わって毎日会見していた、保安院のあの男。ばればれの頭部偽装。しゃべっていることも偽装だらけ。挙句、人生も偽装していたようだ。
彼のいう事は一言も信用出来なかった。

今回の偽装事件、どこまで引っ張られるのか。社長が辞めたとか、法改正がどうだとか、当面、尾を引くのだろう。
世間の目は、偽装した「食の提供者」にだけ向けられる。そこを利用した「消費者」なる人たちは皆“被害者”として扱われる。

でもね、高級ホテル、高級デパート。高級、高級。日本人の有名好みの体質がうまく利用されたんじゃないかな。
ブランド志向とでもいうのか。

高級なものは美味い。高級なものは安心。客の方だって自らが抱いている思い込みの中で“自爆”しているんだ。

まさか一流ホテルで、まさか一流のデパートが・・・。
「まさか」という思いこみ。「かさか」という原発事故があったにも関わらず。
原発の安全神話は崩れたとかなんとか言いながら、食の安全神話に酔っていたのではないかとも。

ダライラマがこんなことを言っている。
「私たちの住む家は大きくなったが、家族は小さくなった。知識は向上したが、判断能力は衰えた。利益は大幅に増えたが、その人間関係は少しも深くない。今の時代、窓の外側には多くがあるが、部屋の内側には何も無い」。

いつの頃からか「高級志向」がいいことだとされ、「食の安全、安心神話」にひたった。

東京や大阪や京都、都会で提供される食べ物、高級なもの、それらは、店構えの立派さと相まって、すべて安心、安全なものだと信じていた。自分の味覚や判断力は度外視して。

そして“福島”のものは、なんでも汚染されている、危険な食物だと思い込んだ。福島に人は住んではいけないと思いこまされた。
福島のコメを産地偽装しただのとはやし立てる。

なんか笑える、嗤える。

どうぞ、高いカネを出して、あやしげなものを食べて、心を満足させてくださいよ。
「ブランド信仰」を深めてくださいよ。

何かあると“生産者”を悪しざまに言う。消費者は”正義“の仮面に隠れる。

生産者体消費者。そのはざまにあるものは。“福島”から学んだはずだと思ってのに。
相変わらず消費者は被害者であり、生産者は加害者だという構図。

決して、「偽装」した側を擁護しているわけではない。まわりまわって“福島”にも影響してくる問題かもしれないから。

無条件にブランド、高級を信頼するという、“思考停止”が、この件にとどまらず、この国に蔓延している風潮だと指摘したかったから。

昨夜もすすけたような居酒屋で、福島県産の野菜を食べ、郡山でとれたイモで作った焼酎を飲み、自家製の漬物を食った。果物で締めた。

美味かった。

2013年11月5日火曜日

もう一つの「汚染」

原発作業員の賃金がピンハネされている。下請けのどこかの段階に暴力団関係の会社が入って、そこに“雇用”された、にわか仕立ての作業員の賃金が中抜きされている。

今に始まったことではないが、作業員自体が暴力団関係者ではないだろうが。
なにやらわからないが、4号機の燃料取り出し作業も準備や実証実験不足とやらに理由で延期になったとの報道もある。

何にしても作業員にまともな報酬はわたってないということ。国が前面に出ようが、金をつぎ込もうが、現場にある「カネ」をめぐるもう一つの“汚染”。

国が前面に出ることで、それが解決されるのだろうか。監督官庁の労働局も手をやいているのかも。

最近は暴力団を「反社会的勢力」と呼びならわすらしい。こじつけのようだが、東電には多くの金融機関、銀行が融資している。その事故を起こした現場には反社会的勢力の翳がある。

みずほ銀行は、反社会的勢力に、“不正融資”をしていた。この金融機関の“不正融資”なるもの、他行にもあったとか。

ばかばかしいからとりあえず年末ジャンボを買うのはやめた。だって、宝くじの売り上げが暴力団の資金源になっているなんてくだらない。

友人に暴力団関係者がいる。組員そのものではないけど、どうもかなりの影響力のある奴らしい。

「除染やらないかって話あったけど、面倒なので断った。やっていれば随分儲かったはずなのに・・」。そんなことをぼやいていった。
詳しは聞かなかったが、”除染“にも暴力団が入り込んでいる。

反社会的勢力が、社会的事業をするというこの不思議。

“原発”は、さまざまな意味で「カネ」に汚染されている。銀行もカネを扱うとこ。

大手銀行の幹部は年収1億円を超えていた。あり得る話だけど、一時は国に支援を求めていたはずの銀行。
責任をとって役員報酬を半年間半分にカットするという。半分だって5千万円。
それが許される社会なのだ。まっとうな企業経営者なのだ。

カネ、カネ。暮らしに戸惑う被災者がいる。それを食い物にするカネの亡者がいる。

暴力団って社会の“ダニ”か、いや、必要悪なのか。ゼネコンだって、どこかかで“水脈”を持っているとか。

カネ、カネ、カネ。

一流ホテルでの食い物が“偽装”されていた。どう言いわけしようが、金儲けじゃないの。目先の欲に目がくらんで、たぶん信用を失墜し、大損こくんじゃないかな。

そこの従業員がかわいそうに思える。

東電の黒字決算。コストカット成功がその一因だという。コストカットの経過で暴力団の「しのぎ」はどうなったんだろう。

東電にも、そこに融資している銀行にも、垣間見える反社会的勢力の影。そして東電も銀行も社会的企業だとされる。

むりやりの「こじつけ」もまんざらでもないかも。

事故当時の東電幹部、会長や社長。今はどこで何をしているのやら。一時は企業年金の返上も退職役員に迫った時もあったけど。
彼らの年収も銀行並みのものはあったはず。辞めても食うには困らない。食うぬはどころじゃない、贅沢な海外生活をしていたって何の心配もないはず。

貧乏人は僻みっぽいのであります。

そういえば昔はいたな。暴力団員だった国会議員。それを堂々と吹聴する。暴力団と“親密な関係”にある議員さんもずいぶん居たな・・・。

2013年11月4日月曜日

「3・11」が楽天を日本一にした

昨夜、少なくとも東北は野球に酔った。楽天イーグルスの日本一を喜んだ。
東北には巨人フアンが多い。阪神フアンもいる。でも今回は楽天の日本一を喜んで迎え入れていてくれていたようだ。

東北楽天イーグルス。プロ野球界の“綾”で生まれた球団。創立して10年になるかならないか。

いつも最下位か下位を低迷している球団だった。本拠地は宮城県仙台。東北という地に根付いた球団かどうかは、たとえば広島のように、微妙なところだったような気がする。

相撲で言えばいわば“平幕”。巨人は“横綱”。その横綱を食った。

東北出身の選手も少ない。岩手、普代村の銀次。仙台出身の斉藤隆などごく少数。

野球は個々の選手の能力もさることながら、やはり「皆でやる」スポーツだ。それは高校野球が証明している。

「3・11」当時、楽天は本拠地にはいなかった。キャンプで仙台を離れていた。やがて交通網が回復。彼らは“被災地”に赴いた。何度も訪れた。
被災者と交流を深めた。

被災地の人たちは、なにかの「支え」を必要としていた。物でなく心の支えを。
そして被災地の人たちは「皆で」という精神を持っていた。

リーグ優勝、クライマックスシリーズ優勝、日本シリーズ優勝。球場に駆け付ける多くの被災者がいた。
チームメートは被災地出身の銀次の同化していた。

野球を通して何か出来ることは。それをたぶん選手たちはわかっていたはず。嶋の言葉にそれが表れていた。
「見せましょう、東北の底力を」。

その言葉に被災地の人たちは奮起した。

仮設の集会場で、大泣きしながら勝利を称えていた人たちの姿がその証左だ。

星野監督はいいことを言った。「雀の涙ほどのものでも、東北の人たちに癒しを与えることが出来た」と。

同じようなことを、音楽家も言っていた。
「音楽に大きな力は無いが、少しだけ音楽を聞いて心を揺さぶるものがあれば」と。

被災地を知った人、被災地で学んだ人達は、皆、謙虚なのだ。

武道館を満員にしたアリスのツアー最終LIVE。会場とステージは一体化していた。
昨夜の宮城球場も観客も選手も一体化していた。

そこから生まれるものは何かあるはずだ。

政治とか行政とかとは全くのように無縁なジャンルに「力」がある。
東北の被災地は、多くの物を失った。人の命をはじめとして。さまざまな「負」をももたらした。

でも、そのおかげで、かけがえのないものを手に入れることも出来た。若者の力、皆なという精神。

それを具現化した一つが昨日の野球。

田中将大は人気ナンバーワンだ。しかし、一昨日の試合では負けた。きのうベンチ入りしていた。自ら「投げたい」と言ったという。それに星野は答えた。
彼を使うことが被災地の人たちの願いに通じるものがあり、何よりの励まし、プレゼントになると思ったからだろう。

負けても這い上がる。それをマウンドで確かめてもらいたかったからだと思う。
田中はピンチを招いた。勝ちにこだわる野球をする監督なら決して田中は使うまい。それを敢えて使った。そして、それに応えた。

「3・11」という出来事が、一つの球団を、そこの選手を成長させた。被災中の人たちが楽天を勝たせたのだ。勝手にそう思っている。

そして横綱、巨人の監督、選手も立派だった。負けてわるびれず。原監督は被災地に言及していた。

福島からも多くの人が宮城球場に駆け付けていた。球場内では「東北は一つだった」。

同じ時間、同じ場所で、同じ思いで声をあげる。それを共有した時に、新たな一条の光がみえるかもしれない。

たまには人は単純であったほうがいいのかもしれない。

福島県の高校サッカー。全国大会に富岡高校が行くことになった。強豪、郡山の尚志高校に勝って。きっと富岡の生徒たちを支えていたものがあるはずだ。
富岡の選手は、3・11で亡くなったチームメイトの遺影を持っていた・・・。

東北は立ち直れる。そんな予感がする。

2013年11月3日日曜日

「はせがけ」のある光景

稲を刈りとったあと、その稲を天日干ししてある光景。
この辺では「はせがけ」と言い、「はさがけ」とか「はざかけ」とかいう地方もある。「稲架掛」という字を書く。

稲刈りの時期、多くの稲は機械で刈り取られ、機械乾燥にされる。今の時代は。
天日干しは手間もかかるし、稲ワラを畳にするとか、家畜の餌にするとかもあったらしいが、「近代化」の名の元、多くはJAで機械乾燥され、保管、出荷ということになる。

手間をかけて、熟練の技で田んぼに置かれている「はせがけ」。天日干しの米はやはり、美味いという。

一昔前までなら、どこの田んぼでも見かけられた光景なのだろう。支柱にバツ印をかくように稲藁で固定された稲。

刈り取りの成果を誇示するようでもあり、時には田んぼの守り神のようにも見える。

そしてその姿には凛としたものをも感じる。

放射能で汚染された広大な福島の農地。30キロ圏内。川内村でも今年はコメが出荷された。その跡には「はせがけ」の風景があるのだろう。

試験栽培をしていた飯舘村。除染効果を調べるための田んぼ。そこでも稲刈りが行われた。避難先から農家の人が通って来ての稲刈り。手作業での技の刈り取り。

そこでも「はせがけ」はあるのだろうか。

食べられない米、誰にも食べてもらえない米。それを作る人たちの気持ち・・・。

手作業で植え付け、手作業で刈り取り。農家ならではの熟練の技が求められる。その担い手は高齢者ばかり。
「はせがけ」を作るのも伝統の技。

早期帰還を目指す動きがある。除染をして。でも、そこで従来通りの農作業はあるのだろうか。

おそらく「後継者」はいないはず。除染をして作付可能になったとしても、そこに「はせがけ」の光景は見られるのだろうかと。

日本の田園風景の一つが失われる。

TPP交渉がらみで、農政は大きな変革を求められることになるとか。減反問題だ。

昔から、まだ米価審議会というのが存在し、政府の買い取り価格を決めていた時代から、「猫の目農政」とよく言われた。毎年、毎年、農業政策がころころ変わるということを揶揄して。

政治の場で、農政は経済政策なのか社会政策なのか。

民主党政権時代、農家の戸別所得補償方式という政策がとられた。
減反政策、生産調整。

またぞろ農政が転換期を迎えた。TPPなるもので。

大規模農家に集約、企業による農地経営。すべてが「機械」に委ねられるのだろう。

農家は減少する。米の消費量は減る。後継者は不足する。それは実際の現状。
でも、農家で無いボクには、いかなる農政が正解なのかは論じられない。

傍観者として、ただ、美味いコメを食べたいという一消費者に過ぎない。

「米粒は残してはいけません」と親から教えられた。
「蓑着て傘着て鍬持って、お百姓さんご苦労さん」という歌を小学校で教わった。

そうだ、百姓という言葉も無くなったようだ。水飲み百姓という言葉もなくなったようだ。

専業農家は減り、多くが兼業農家になった。
食料自給率がどうだとか、耕作放棄地がどうだとか。

たんぱく質ダイエットなんて誰かが言い出し、米を食べない人が増えた。

「補償」の中で農家は存続していくということか。

我が家の犬は納豆ごはんが大好物だ。決して太ってはいない。

「はせがけ」はいつまで置いておかれるのだろうか。その光景を見ながら犬と散歩する。犬は田んぼには決して入れない。

犬の散歩を尻目に、猫が「はせがけ」の下をのんびり歩いて行った。小春日和の今朝の光景。

福島県産のコメを“一部の福島県民”が忌避する、そんな話がまたもや話題になっているし・・・。

2013年11月2日土曜日

「政治利用」ではない、「マスコミ利用」なのだ。

この男のやったこと、言ったことに言及するのは全く持って本意ではない。無視するのが一番なのだが、事、天皇に関することであるから書いて置く。

毎週金曜日の夕方、官邸前で行われている“反原発”の集会、再稼働反対を叫ぶ集会。そこのヒーローの一人が山本太郎なる人だった。

集会が盛り上がりを見せようとしていた時、「なんでマスコミは取材に来ないんだ」と口々に言っていた人たち。ネットで集まって来た人達。普段は「マスコミはけしからん」と罵詈雑言を浴びせていた人たち。

ある日、報道ヘリが来て、中継車が来て、名の知れたアナウンサーが登場すると、どこの局の誰が来たと歓声を上げていた。

もちろん参加者全員がそうではないが、「目立ちたがりや」の集まりのような気がしていた。

園遊会でこの男が天皇陛下に手紙を渡した件、マスコミはきょうになって大々的な報道を展開し始めた。しかも天皇の政治利用という視点で。

彼に対して怒りを持つこと。それは福島を利用しているということ。手紙には福島の子供を守って欲しい、原発作業員を守って欲しいというような事が書いてあったとか。

彼が先日福島に来た時、なんと、そのいでたちは“防護マスク”を着用しての福島市と郡山市での街頭演説もどきのようなものだった。彼の周りには、“おっかけ”のような人達と、被ばくを恐れる母親たちが囲んでいた。その横では普通の格好をした子供たちもいた。
「おかあさん、そんな恰好で子供を遊ばせていてはだめですよ、危険です」。そんなことは一言も言わなかった。

福島の子供たちを守る。彼にとっては「都合のいい口実」だったのに過ぎない。

看過出来ないのは、福島の実情を天皇陛下に知ってもらいたかったということ。
「お前よりはね、天皇陛下や美智子妃殿下は実情をよく知っているんだよ」。

皇室は何度も福島を訪れている。福島の実情をよくご存知だ。

山本太郎よ、キミは水俣に行ったか?、キミは広島、長崎の被爆者と話をしたか?沖縄の歴史を知っているか?

陛下の発言は、“制限”が多い。その限られた範囲の中で、言葉を発せられる。
水俣で「真実」と「正しさ」ということについて予定外の言葉を発せられたのはその証左だ。

その裏には、「政治利用された」ことへの不快感があったのだと推察する。例の憲法記念日に出席を“強要”され、そこでは何も発言されず、会場に突然こだました、安倍も唱和した天皇陛下万歳!の時のあの苦々しい表情。それを、婉曲にたしなめられたものだと思う。水俣での発言は。

新聞各紙やテレビが山本太郎のことを大々的に報じる。彼はたぶん「ほくそえんでる」だろう。うまく露出が出来たと。とにかくマスコミの寵児でありたいという欲望の持ち主なのだから。

まんまとマスコミは乗ってしまった。紙面の多くを使って。政治利用がどうだこうだと。

もうひとつ、マスコミの視点でのおかしさ。田中正造の直訴と合わせて論じていること。まったく次元の異なることなのだ。

明治天皇と平成天皇は置かれた地位が立場が違う。国家元首であった天皇と象徴天皇である平成天皇。
しかも田中正造は「覚悟」の程が違う。まさに身命を賭してだ。国会議員を辞職した上での行動。

田中正造と同列に置くのは、田中正造に対してあまりにも失礼だ。

皇室の目は、福島だけではない。被災3県、多くの被災者にも向けられている。津波の死者、津波で家を流されて今なお仮設暮らしを強いられている人たちに、あの“山本教団”の人たちは目がいかない。

「原発」を叫べば正義だと思っている。いや、彼らに正義と言う言葉は当てはまらないだろう。目立っていればいいのだから。

バカが一人いる。バカを国会議員にしてしまった人がいる。そのバカを教祖のように崇める人たちがいる。

だから、原発を阻止できないのだ。原発ゼロの国に出来ないのだ。

何も知らないのは彼ら。陛下はよく知っている。これも「無知」なるが故の浅知恵。原発推進派を勢い付かせるだけの愚行。

マスコミは“ネット”の代弁者ではないはずだ。いや、もうなってしまっているからな・・・。

2013年11月1日金曜日

「東電の黒字決算」に思うこと

東電の9月期中間決算で1,400億円を超す大幅な経常黒字となった。
最大の要因は電気代値上げによるものだという。
東電以外の10の電力会社も軒並み黒字決算。

今、日本では原発は一基も稼働していない。
「原発が無ければ、電力会社は赤字に転落する」。こぞって言われていたのに。

短絡的に言えば、原発が無くても電力会社は経営が維持できるということになる。

しかし、東電の決算は“粉飾”とは言わないが、うまいからくりの計算になっている。3兆円支払った損害賠償は特別損失。3兆円の除染費用も計上されていない。政府の支援があったからだ。

コストカットの影響も大きいという。その経費削減、コストカットが福島第一原発の作業員の待遇劣化につながっていないのか・・・。

黒字決算にしないと銀行からの融資が受けられないという理由から、無理矢理作った「決算」とも受け取れる。

とっくに“経営破綻”していてもいいはずの東電。それを「うるかして」おいて、黒字決算を作り上げる。
なんでだろう・・・。

黒字決算、1,400億円の利益計上。ならば福島県が請求している賠償費用や除染費用の請求に応じてもいいはず。町や村が起こしている請求に対しても。「金が無いから出せない」という理屈は通らなくなるはずとも。

東電への国の援助。税金を東電に注入することに多くの国民は異を唱えた。電力料金値上げにも異議を唱えた。

黒字である以上、その企業は存続する。
黒字ならもっと損害賠償などに手厚くしろよという議論にもなる。
でも、拒み続けるんだろうな・・・。

電力料金の値上げで黒字が出るという事は、それだけ電気の消費量が多いということにならないか。

冬場を控えて各電力会社は節電を訴える。

もし、仮に、電力依存のライフスタイル、社会システムを変えたらどうなる。電気の使用量が減ったら、電力料金による収入は減ることになるだろう。

とりあえず、今は、原発が無くても電気は足りている。電力会社は儲かっている。

「黒字になったのは一時的なもので、経営は依然厳しい」と経営者は言う。
「収益基盤は安定していない」とも。

電力各社は、再稼働を求める。「赤字体質はかわらない」として。

多くの国民は、数字の“マジック”かもしれない黒字決算と、原発再稼働のはざまで、揺れているはず。今は電気は足りているのだから。節電すればしのげると実感しているのだから。

節電による“減収”、値上げによる“増収”。

税金投入による東電の救済、値上げによる増収。いずれも「国民負担」を強いるもの。

傍ら、会計検査院がまた見つけた。復興予算の1,3兆円にも上る「流用」。被災地とは無関係に使われる復興予算と言う名の税金。
除染費用は60%が未消化だと指摘する。やる気があるのかないのか。

なにやかにやと理由は延べられるが、原発ゼロでも経営は維持されているというのが目下の現実、事実。

廃炉に向けての作業には、想像も出来ないような資金を必要とするだろう。一部地域での除染を断念し、移転計画にカネを使うという政府与党の方針。
中間貯蔵施設建設に向けての資金計画は。使用済み核燃料の貯蔵問題は、そのための積み立てに回るのかな。

結局、電力会社って「伏魔殿」なんだよな。黒字決算を喜んでいる奴はどういう奴らなんだろう。
配当を期待する株主か、金を貸せる銀行か。まさか役員報酬“引き上げ”ってことにはならないだろうな。

東電の決算が赤字であろうが黒字であろうが、福島の実相は何も変わらないということ。