2014年4月11日金曜日

「一億総白痴化」と「一億総評論家」と

いきなり余談。
白痴。Hakuchiって入力したら変換無し。白地か白雉、白雉。パソコンの変換機能ってどうなっているんだい。パソコンの白痴化かい。
文豪ドストエフスキーは怒っている。「俺の作品の題名をどうしてくれるんだ」とばかりに。

「一億総白痴化」。テレビが“市民権”を得はじめた頃、評論家の大宅壮一が放った“名言”。一世を風靡した流行語だった。
「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見て
 いると、人間の想像力や思考力を低下させ一億総白痴化になる」

そんな見解。同じようなことを松本清張も言っていたような気がする。

その頃テレビの世界に入り、“白痴化の実態”も見たし、そうならないようにとも心掛けていた。・・・つもり。

大宅壮一の言わんとするところは、送り手のテレビに向けられたものなのか、受け手としての視聴者に向けられたものなのか。やはり、送り手に対しての警鐘だったと思う。

総白痴化が進んだのか、なったのか。メディアリテラシーという考え方が生まれ、それが“防波堤”“防潮堤”になったのか。それはともかくテレビに対する見方としての「総白痴化論」は今でも生きていると思う。

そして、“白痴化”させられた1億の人が、“総評論家”になっているということ。
何事に対しても意見をいうのは良い事なんだけど・・・。

昨夜、NHKのクローズアップ現代というのを見ていた。「小保方問題」。
街頭インタビューあり。インタビューの仕方がどうなのかはわからないが、それぞれが答えている。
でも、およそ事の本質をとらえていないよう答えだし、街頭インタビューに相応しい問題なのだろうか。
マイクを突き出され、即座に答えられる事なのだろうか。

なんで街頭インンタビュー。町の声っていうのはサラリーマンは新橋、ご婦人は銀座、若い人は渋谷、年よりは巣鴨って定番化されているのだろう。

そして科学者へのアンケートというのが。返ってきた答えの一行だけ白抜きで伝える。
その番組の演出者が好んでいるようなものだけ。これってまさに「切り貼り「じゃないのかって。

1億総評論家。その現象が顕著なのがネット。それぞれのことに、それぞれの人が意見を持つ。それは“民主主義”の要諦ではあるものの。

ネットに溢れるのは、だれかの見解の引用。

ネットの引用は「3・11」以来多発した。なんども言うが「事実と異なる写真」が出回り、「愚にもつかない言説」が正論として拡散され。

人は最初に出会った言説に多くが影響され、それが刷り込まれると言う。

いったん刷り込まれた考えや見方からなかなか抜け出せない。

「子供は最初に接した文学や芸術から、その後の精神形成に大きな影響を受ける。人格が形成されてくる」。
そうした論に基づいて、3・11後、その年の暮れに出来た子供たちの遊び場。外遊びが出来ない子供たちを支援する場、ペップ・キッヅこおりやま。
そこではまず大きな砂場を作り、そこで、子供たちに、自然に、遊びのルール、マナーを会得させた。
そう、“人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ”の実践。そしてボランティアの人たちは、子供たちに絵本や童話の読み聞かせを行っていた。
今ももちろんやっているし、それは拡大される予定。

ネットの反応、インタビューの答え。そこには「立ち止まって考える」って“もの”がない。即反応するってことへの違和感。

極端に走っているようだけど、ネット、デジタルって社会は、「考える」ということをある意味人から奪っていってしまっているような気さえして。

「お前も評論家みたいなことを書いているじゃないか」ってお叱り受けるかもしれませんが、評論しているつもりもないし、そんな素養もありません。ただ、ご隠居の小言と思っていただければ・・・。

それにしてもウインドウズ7搭載のノートパソコン。やはりモニター小さくて疲れます。目がやられます。どっかの研究室や学者さんの部屋にあるような大きなモニター欲しいな。眼精疲労が昂じて視野狭窄に陥らないためにも。
はい、余談ではじまって余談で終わります。

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