2014年9月8日月曜日

今宵は中秋の名月にて候

小説家、劇作家の井上ひさしが書いた芝居の中にこんなセリフがあるという。
「なぜ、月はあんなにも美しいのだろう。なぜだ。たぶん、月に持ち主がいないからだろう」。

井上ひさしは山形県出身。東北人の気質が浸みこんでいる人のような気がする。
小説「吉里吉里人」。それは、まさに“東北独立宣言”だった。

中央の搾取に耐えかねた大人しい、忍耐強い東北人が決起する物語。

ひょっこりひようたん島は津波の被害にあった。

東北人は、ある時代から「農耕民族」とされてきた。それは自然から学び、自然の摂理とともに生きていうということ。

友人の農業経営者は、農作業は「月齢」の則って行っているという。種まきの時期、田植えの時期、刈取りの時期など。

月の満ち欠け。人間はじめ、生物に与える“影響”も大だ。

知り合いの“介護施設”で働く人が言っていた。そこに入所している“障害者”の中には、満月の時には、普段より“興奮”するとか。ピュアな心には月の「働き」がわかるのだろう。

もちろん勝手に思っていることだが、そして勝手に言って回っていることだが、月はウサギの住むところでよかったのだ。
月の満ち欠けに感謝して、お団子を供える。
それが人間本来の姿。

月の働きで、自分たちの日々を送ってきた人類が、なにをトチ狂ったか、月に行くと言いだし、月に降り立ってしまった。
それは、何事かの禍をもたらしてくれたような気がする。

「侵してはならない領分」というのがあるのだ。科学技術の進歩一辺倒の人類は、月をも”征服“しようとした。月面着陸を多くの人類が称賛した。

その「行為」には、ある種の“恐ろしさ”を感じたものだが。

村上春樹は「1Q84」という小説で、「二つの月」をテーマに据えていた。月が二つあるとうこと。それは、アイロニーとしての文明への“警告”ではなかったのだろうか。

福島県の川内村には、満月祭という催しがある。古くからあるわけではないが、川内村に住み着いて「獏原人村」を作った主が始めたもの。

一時は、「ヒッピー」のような人達も各地から集まっていた。そこでひと時の解放感をおぼえていた。

ヒッピーと称される人達が溢れ、ウッドストックが称賛された時代。おおまかにいえば、「自然回帰」を経済成長の渦の中から否定し、逃れようとしてしていた時代。そこに集まった人達は、「平和」を希求していた。

あのウッドストックのあった時代も歴史の彼方のことになった。

そしてこの国は、「我が世ぞと思う、望月の欠けたることの無きを」と言わんばかりの人が強引に支配している。

新古今集の一句。
「秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ」。

今宵の天気はどうだろう。異常気象なるものも、月の怒りかもしれないと思う昨今。
「月も雲間の無きは嫌にて候」と達観するのか。明日のスーパームーンに期待するのか。

潮位の変動。それだって月齢によるものだということ。瞑すべきかと。

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