2014年11月30日日曜日

「風」のこと

「追い風も向かい風も感じないな。風は吹いていないってことじゃないか。だから盛り上がっていないってことじゃないの」。

こんなことを斜に構えながら言っていた。副総理麻生太郎。
正鵠を射ているのかもしれない。もちろん選挙のこと・・・。


風を読む、空気を読む。風はどんな風に流れるのか。今の風と2週間後の風と。
風とは空気だ。自然現象として捉えるのではなければ。

2年ほど前から、この国にはおかしな風が吹き始めた。空気はそれこそ閉塞感を助長させ、重苦しさが伴ってくる。

真の意味で無い、ムードとしての右傾化。自由にものが言えない空気。
独りよがりの“おぼっちゃま”の“独裁思考”のような「幼児性」。

本当の幼児は違う。幼児は哲学的であり、本質をわきまえている。大人に(真の意味での)対して使わせてもらった悪い意味での「幼児性」。

昨日書いた「朝生」のことにまたちょっと触れる。

結果的にそうなった番組の国会議員同士での討論。
国民と言う言葉は使うけど、それは自己を正当化したいための方便。国民は眼中に無い。相手の政党をけなす、攻撃する、自党の主張だけを声高に言い募る。
それだけの応酬。

ほとんどの国民はそんな番組を見たいとは思っていない。

まだ、そこには“恣意的”な“演出”がほどこされているとしても、名も無い民が何を思っているかを自分と置き換えて感じたいと思っているはず。

「公正・公平な報道を」。監督官庁の総務省が言うならまだわかる。一政党が恫喝する。
ならば、野党と言われるところもテレビ局に同じような「要望書」を出したらいい。

少数政党と大政党(自民)の発言時間が同じと言うのはおかしいとクレームを言っていていたのはなにを隠そう自民党だったのだ。自分たちが公平をおかしなことと決めつけていたのだが。
議員数に応じて発言時間を決めろと頑強に言い張って来た時もあった。

「朝生」だけではない。テレビは完全に萎縮したように見える。

今や、政治家はテレビの有用性を知るようになった。政治家だけではない。テレビの出たか出ないか。それを殊更重要視する人達も多くなった。
菅か野田政権下だったか。官邸前には連日のようにデモがあった。そこの参加者からはネットを介して、「なんでテレビは取材に来ないのだ」と叫ばれていた。

情報リテラシーという言葉がとみに言われる。その中には、それをちょっと拡大して考えてみれば、今度の自民党の“通達”だって、有権者のリテラシーで解釈できる問題。

とにかく、テレビにとどまらず新聞も萎縮し始めている。朝日新聞の「誤報」問題、その後の展開が根底にあるのかもしれないが。

たまたま今日、長谷川如是閑のことを書いていた人がいた。彼の記事が朝日の不買運動につながり、朝日の凋落を招いたという“歴史”。

「幼児性」ということを言った。その一つがツイッターに小学4年生生を名乗った大学生が投稿していたことを安倍が敏感に反応したこと。

敵意丸出し。

とにかく「自分の意に沿わないこと、気に食わないことは排斥する」。その心情を言ったのだ。
「彼が気心のあった人達と談笑しているのが、彼の一番気の休まる時だ」。去年だったか、そんな官邸の空気を教えてもらったことがある。内部の人の話だ。
そうなんだなとあらためての納得。

気に食わないものは断固排除する。自分の好き勝手にしたい。そんな精神性が彼の中には宿っているのだろう。

マスコミだって営利企業だ。視聴者離れや購読者離れは一番困ることだ。広告出稿がなくなれば会社の存立さえ危うくなるかもしれない。

しかし・・・だ。ジャーナリズムの本旨に立ち返れ、“圧力”には屈するな。
その道に入ったことの本意はそうではなかったのか。

「風は吹いていない」と麻生は言っていた。そりゃそうだ。風を止めているのだから。

2014年11月29日土曜日

「山」のこと

阿蘇山が噴火を続けている。マグマ噴火だという。
ちょっと前は御嶽山。
蔵王も不気味だ。活発化している。桜島も噴煙の量が増えている。
富士山も。立山も・・・。

火山活動が活発化しているような気がする。

地震噴火予知連絡会は八甲田山など三つの火山の常時監視を緊急提言したという。

やはり火山列島なのだ。

長野ではいまだ余震が続いている。長野以外でも三陸沖などできょうも軽微な地震が4回・・・。

地震列島なのだ。

だから原発再稼働はーー。短絡的にそう言っているわけではないが。

阿蘇にのぼる噴煙。火炎。やはり恐怖だ。岩石は山頂から1キロ四方だとしても、灰は風によってどこにでも飛散する。

桜島の灰。もう何度も“体験”した。

火山、煙・・・。日本列島だけではない。世界の各地で、火山の活発化の様子が時折伝えられる。

地球規模で、「異変」が起きているのだろうか。
「異変」と今に生きる我々は言うが、地球にすれば、当たりまえの「周期」なのかもしれないとも。

人間の仕業に無関係に、それは何等の意志も意図も持たずに、そこにある活動なのだ。

映像が“連想”を呼ぶ。

火の無いところ煙は立たないという。風評とは“煙”だ。火の恐ろしさが想念を拡張させ、あらぬ言辞となって駆け巡る。

長野の地震、被害の大きかったのみ映像化される。白馬観光。取りやめ相次ぐ。
現地の人は言う、「風評被害が恐ろしい」と。

その風評なるもの。未だに福島に向けられる風評。原子の火に端を発した風評。
75日どころか3年半以上もたっているのに。


山が動いた。かつて社会党が選挙で大勝した時、党首だった土井たか子が発した「名言」。
人格の無い山に意志を当てた。

安倍政権と言う山は巨大な岩盤なのか。動かそうとしても動かない山なのか。

奇怪なことが行われている。テレビの選挙報道に、自民党が注文を付けた。

テレビは、反応しているようだ。それが「山の声」の如くに。

毎日新聞が報じていた。テレビ朝日の朝まで生テレビという番組が、ゲストを下した。出演を真近になって断った。荻上チキとか小島慶子とか。

思い出す。あの毒舌をもってならした映画監督、大島渚のことを。

番組は結局、国会議員だけの討論会のようだったと聞く。
ならばNHKの日曜討論と同じじゃないか。

あの番組、田原総一朗が内容や、出演者にも関与している。事の顛末について田原はなにか言うべきだ。

朝日新聞の系列としてあるテレビ朝日。亭主の“青春”の場。なんとも心境複雑であり。

あらためて思う。テレビは何を伝えるべきかということ。自分たちの伝えたいことを伝えるのか。視聴者が伝えて欲しいことを伝えるのか。

自民党の“通達”にあったのは椿発言の事例だ。あの時、亭主はすでに福島にいた。系列の報道局長会で、椿に猛抗議したのを覚えている。
彼の発言があったからといって、局内はそれに従ったわけでもなかったし。

彼の発言が世間にそんなに影響を与えたとも思えなかったし。

だから、昨夜の朝生。番組内で、議員じゃない人が何をいうか、それは安倍を怒らせた「街の声」とても同じ。視聴者は当事者でない人が何を語るかを知りたがっているのではとも。

テレビが何を伝えるか。選挙を挟んでの正念場だ。見放されないようにしないと。

山からの連想で思ったことの断片。言いたいことを言いつくせていない感ありなのだけど。

安倍自民党ってそんなに大きな山なのだろうか。それとも動揺している山もどきなのだろうか。

2014年11月28日金曜日

「不毛」を「不毛にしない」ために

選挙そのものの話しでは無い。
総選挙の投票にいくと、ついてくるのが最高裁判事の国民審査というやつ。

○か×かの印つけ。その対象者は判事全員ではないが。今まで「審査」を受けなかった人だが。

最高裁判事は内閣によって任命される。だから、内閣が代わる総選挙時にその信任投票もという理屈なのだろう。

多くの人が、それを不毛な“行事”だと思っている。
「だいたい、だれがだれだかわからないし、選挙程身近ではないし、意味ないじゃん」というのが誰しも考えること。

当然だ。

だけど、それも国民の権利として与えられている以上、それなりの対応があってもいいのではないかということ。

今、選挙を控えて、一つの問題になっているのが国会の姿、国会の形。つまり、議員の身分、議員の定数、選挙制度改革ということ。

衆議院の定数は、駆け引き、目くらましで「0増5減」となった。それで選挙が行われる。それが「妥当」な定数であるか、つまり、言われている1票の格差、選挙の平等ということに関していいのかどうかという問題。

選挙後には全国各地で、弁護士団から、選挙無効の訴訟が起こると言われている。
それらは各地裁に起こされるものだが。

たまさか、前回の参院選についての最高裁の判決が出された。
1票の格差が最大4,77だった去年の参院選。最高裁大法廷はそれを「違憲状態」とした。

違憲ではない。状態だ。状態とはいわば注意喚起みたいなもの。合憲の範疇だが。
違憲状態という司法の判断はすでに出されている。しかし、国会の動きはあまりにも鈍すぎる。

大法廷の裁判官は15人。そのうち11人の多数意見としての違憲状態。4人が「違憲」だとした。その中でも元内閣法制局長官だった山本庸幸裁判官は、はっきり「選挙無効」を主張した。

たしか、彼は集団的自衛権の問題で、内閣の意向に異を唱え、最高裁判事に回された人のはず。

違憲と判断した裁判官は、鬼丸かおる、山本庸幸、大橋正春、木内道祥の4人の裁判官。

このうち3人は国民審査の対象者。

この名前は新聞を切り抜いておけばわかる。投票所に持っていってもいい。

最高裁の判事が、これまで、どんな裁判に関わり、どういう判決を出していたのかを、まことに面倒なことではあるが、○×の判断材料にするべきだと。

それでこそ、全員に○をつけるか×にするかの「不毛」な行為の分かれ道になるのだ。

不毛を不毛で無くするための多少の労苦。

格差を是認する人は、この人達に×をつければいい。格差がおかしいと思っている人は他の人に×をつければいい。

国民が「司法」に「介入」出来るのはこの時だけなのだから。

福島では原発をめぐり、東電や国を相手にさまざまな訴訟が起きている。それに司法がどれほど真摯に向き合うのか。

「大飯・高浜原発」の再稼働差止めの仮処分を求めた裁判では、きのう大津地裁が請求却下の判断をしめしてはいるが。

原発問題が最高裁の“舞台”にはなかなかのぼらないだろう。そして、大方、これまでもあった高度な政治判断を要する事案は馴染まないともするだろうが。

政治に絶望し、司法に絶望する。それじゃすべてが成り立たなくなるんだけどな。

それを「不毛な作業」とは言わないが、1F構内。2号機の冷却装置がまた止まったと報道されていた。その後どうなったのか。
一日6,000人の作業員。彼らの中に「不毛」の意識が蔓延した時、そこはどうなっていくのか。トレンチの止水はどうなったのか。
3年半以上を「不毛な時」としたくないための作業が行われていると信じたいが・・・。

2014年11月27日木曜日

「不毛」ということ

土地がやせていて、穀物その他の作物ができないこと。
一般に、成果の実らないこと。

辞書で引くとこんな字解が並んでいる。

なにも、今度の選挙を「不毛」という二文字で切って捨てるってことではないが、成果ってあるのかなと。

自民はたぶん議席を減らすだろう。自公で改憲を発議することは出来なくなるだろう。
しかし、自公は勝つ。
安倍は「信任された」とくるだろう。


マニフェスト。あんな不毛な言葉はあっただろうか。菅直人が英国かぶれが持ち込んだともいうが。前回の選挙。参院も衆院も。マニフェストという言葉が溢れていた。自民党もそれに飛び乗った。
あげくアジェンダまで。
「止めろよそんな選挙」とボクは書いた。公約でいいじゃないかと。でも、メディアには連日「マニフェスト」なる言葉が飛び交い、地方選でも使われた。
マニフェストということと、公約ということとどう違うのか。
きちんと説明できた議員さんはいない。

ま、その程度のものだと言ってしまえばそれまでだが。
マニフェスト選挙、それは不毛な選挙そのものだったという気がする。


今回の選挙。ものの見事にマニフェストという言葉が消えた。公約に戻った。
多少は散見されるものの。

全くの「不毛」なるものでしかなかったマニフェストなる代物。
その違いは何か。
数値目標があるということか。

で、その公約なるもの。おおよそ自民の公約は安倍内閣の“実績”強調。
将来の話は、従前通りときたもんだ。

野党は、これまたさっぱりわからん。やたらと並べられる項目。
どんな国にしたいのか、これまた不透明。


若者は選挙に無関心だと言う。だから、関心を持って選挙に行けと大人は言う。

違う。若者は無関心なのではない。関心はあるが、選挙なるものに失望しているだけだ。
「不毛」に手を染めたくないと思っているだけだ。

若者をどうやって政治の場に引き戻せるのか。
それを政治家はしない。怠慢なのだ。
若者がどうであろうと、投票率がどうであろうと、自分が当選すればいい。それだけの我欲。

むしろ、無関心を通り越して醒めてしまっているのが大人、特に高齢者なのかもしれない。

大義なき選挙と呼ばれる今度の選挙で、そんな声が噴出している。
「私はいままで一度も棄権したことはない。しかし、今度は棄権しようかと思っている」。身近な人の言だ。

新聞の投書欄にもこんな投稿があった。80歳前後か。
「民主党にも騙された。自民党にも騙された。もう騙されるのは嫌だから投票に行くのを止めようと思う」。

やはり投票所には行くべきだと思う。小選挙区には「入れたい候補者無し」と書いてくればいい。
比例区では白票でもいいし、不毛なる選挙制度だと書いてきたっていい。

そんな無効票が増えたことをメディアが検証して報道すればいい。

安倍がきのう陸前高田に行った。

前回は福島で第一声。誰もが覚えている。「福島の復興無くして日本の再生無し」と大声で言った事を。で、何をした。ということだ。

選挙で人気取りのように長野の震災現場に行く、こんどは陸前高田。
海江田も長野のおっとり刀だし。

こんな「しらじらしいこと」を平気でやっているから、若者はしらけるのだ。

そして不毛地帯。福島県の一部の地域は穀物を作れない不毛地帯になった。された。荒れ果てているのだ。豊饒の大地だったところが。

セイタカアワダチソウが繁茂している。

ヒースクリフ今在りせば、何を思うのかと・・・。

2014年11月26日水曜日

「道」のこと

自民党の選挙公約。表題は「景気回復 この道しかない」。だったか。

この道ってどんな道。いやらしく言えば、景気回復しかない、この国を“取り戻す”ためには、とも読めるし、景気を回復させるいためには、アベノミクスなるものによる“道”しかないとも読めるし。ま、当然後者に決まっているが。

だけどね、この道、つまり方法ということならば、どんな道を指すのかもっと知りたいよ。

アベノミクスはすでにして失政なんだし。
追加の金融緩和。市場にお金ジャブジャブ。日銀の議事録見れば、5対4の僅差の決定だった。
あげく、黒田総裁も見通し含め、“誤り”があったと暗に認めているし。

9~11の経済指標見ても、消費は冷え込んでいる。安倍自身だって認めている。景気の後退を。

ま、こんな話は新聞の社説にお任せっていうことで・・・。

この道って、あの道かな、いつか来た道かな。戦争があった時代の・・・。

こんな話もそちらの専門の方にお任せして・・・。

道と言う字。音読みと訓読み。“みち”であり“どう”であり。

ちなみに辞書。

人や車が往来するところ。通行するところ。道路、通路。
転じて、人が考えたり行ったりする事柄の条理・道理。
仏教などの特定の教義。
手だて、手法、手段。
方面、分野。

「道」という一文字でいろんな意味があり、いかようにも受け取れると言う、日本語の妙か。

♪この道はいつか来た道、ああ、そうだよお~~♪。童謡よく口ずさんだもんだ。

人生のもの悲しさを描いたフェリーニの映画「道」。♪ジェルソミーナ♪という音楽。
若いころよく聴いたもんだ。

「人は人、吾はわれなり それゆえに 吾が行く道を我はいくなり」。
西田幾多郎の句碑。
京都、哲学の道にある碑。

西田哲学、いかに解せばいいのか。


「この道を行けばどうなるのかと危ぶむなかれ、踏み出せば、その一足が道である。その一足が道をなる。迷わずに歩いていけ」。
法然か親鸞かの言葉と記憶。

「この道しかない」・・・・。安倍自民党、難しい問題提起をしてくれたもんだ。

福島の道・・・。

常磐道が来月6日に浪江、南相馬間が開通する。仙台まで結ばれる。
途中の数カ所。国道6号と同じ。窓締めて、ノンストップ時速70キロ。

それが何を物語るや。

双葉郡に向けての道は各所で通行止め。道は突然行き止まりになる。

通れない道が今なおあるということ。封鎖された道があるということ。
何を物語るや。

でね、安倍自民党の言う道を信じて通って行けば、どこに行きつけるのか。
この道しかないというが目的地は記されていない。

その道程に確たるナビは装備されているのか。


昭和の時代、♪銀色のはるかな道♪という歌がはやった。

//遠い遠いはるかな道は、冬の嵐が吹いてるが、谷間の春は花が咲いてる
ひとりひとり今日もひとり、銀色のはるかな道

ひとりひとりはるかな道は、つらいだろうが頑張ろう
苦しい坂も止まればさがる、続く続く明日も続く、銀色のはるかな道

続く続くはるかな道を、暗い夜空を迷わずに、二人の星よ照らしておくれ
近い近い夜明けは近い、銀色のはるかな道

続く続くはるかな道を、暗い夜空を迷わずに、二人の星よ照らしておくれ
近い近い夜明けは近い、銀色のはるかな道、はるかな道//。

今、我々の前に銀色の道は開けていない。今日の空模様のように、どんより鉛色の道だ。その「道」は明日も続くが、決して夜明けは近くない。

「道」って言葉、難しいんだよな。特に「どう」と読ませれば・・・。

そして、ほら、そこからはけもの道だぜ・・・。

2014年11月25日火曜日

「豊かさ」に思う昭和と言う時代

高倉健に刺激されたというわけでもないが・・・。

あの任侠映画がなぜ人気をはくしたのか。若者に。
全共闘運動に敗れ、“破壊”することの無意味さを感じたからか。
自分たちの無力さを彼に託したのか。
“立ち向かう”勇気を、それも孤高で。それを取り戻したいと思ったからか。

全くの個人的感想である。でもそれは僕の中に“内在”していたものかもしれないから。

もちろん高倉健も相知らぬ、関知せざることである。いやゆる、当時の“左翼”にシンパシーを持っていたはずもないだろうが。
「満員の観客に驚いた」と言っていただけである。
自分の映画を小屋に一人見に行って。

今日は病院の定期顔見世の日。医者も高倉健の死去が悲しいと言っていた。そのことを話したかった様子あり。でも、またの機会に。患者さん待っているんだから。

任侠の健さん、昭和と言う時代。

―その時の事象には、それなりに意味があるー。誰かの言だ。

なぜ、高倉が任侠の世界から離れたのか。
男の生き様が、価値観が、時代と共にかわったからかもしれない。

「男は強くなければ生きられない。男は優しくなければ生きてい居る資格が無い」。

強さから優しさへ。「モーレツからビューティフルへ」。
一人の映画俳優はその二面性を持たなければならなかった。
いや、持つ必要があると感じたからだろう


「豊かさ」。

高度成長時に求めた豊かさ。政治も国民も、それはこの国全体が豊かになることと思った。そういう政治もあった。

そして経済成長は、高度経済成長は、その望んでいた「豊かさ」をもたらした。

それが“副作用”を生んだ。水俣をはじめとした各種の公害。そして、原発。

その副作用は「一部のこと」として、視界から外されてきた。

豊かになれなかった人もいた。山谷や釜ヶ崎のドヤ街に巣食う人達・・・。
豊かさに疑問を持つ人は、いわゆる「ヒッピー」となって、白い目をして見られながらも独自の社会を築こうとしていた。

三種の神器は手に入った。車も持てた。団地に住めるようになった。車が公害を引き起こすなんて考えてもみなかった。便利なのだから。便利と豊かさは同居していた。団地が崩壊し、“負の遺産”になることも想像の外だった。

バブルの崩壊、リーマンショック。時代にズレはあるが皆「カネ」にまつわること。

そして原発は健在だった。もう一回「豊かさ」を取り戻そうとした。その豊かさは、平成になって求められた豊かさは“平等”を目指した豊かさではなかった。

富む人はより富み、貧しき人はより貧しく。

今の経済政策。「トリクルダウン」と言われるその考え。上を富ませばその余慶が下に滴り落ちてくるという経済理論。

落ちないんだ。

例えば結婚式であるシャンペンシャワー。上のグラスから下のグラスにシャンパンは落ちてくる。そのピラミッドが上手く積まれているからだ。

今の社会構造の中では、うまくピラミッドは構築されていない。一番上の豊富な水を持っている人は、水を落とさないのだ。

ジャブジャブと市場に供給されたカネ。呼び水。それはどこかで堰き止められている。

平等を目指した豊かさ。格差を生み出す豊かさ。それは昭和と言う時代をどう見るか、いま生きている平成と言う時代をどうみるかにかかっている。

戦後の平和と豊かさを支えたはずの沖縄米軍基地。多くのエネルギーを供給し続けた原発。そして今なお、依然としてそれらに頼ろうとする人達・・・。

高倉健の背中に「昭和」という文字を感じるのは、けだし、当然なのだろうが。

「昭和レトロ」という“文化が、もてはやされているとも聞くが。

2014年11月24日月曜日

♪まことに遺憾に存じます♪

元祖スーダラ男、植木等にでも登場いただこうか。

「こりゃまたどういうわけだ
 世の中、間違ってるぜ。
 まことに遺憾に存じます」。

この歌知っている人は相当のご年齢か、通だね。作詞は青島だ~~。
いまならさしずめ綾小路きみまろってことか。

歌はサラリーマンの悲哀・・・。でも、今の世相にもこの極めのフレーズはぴったりかとも。

選挙報道の中で、さまざま俎上に上らない事、選挙の陰で隠れてしまっていることもあるということ。報道されていても、扱いは小さいし。

福島原発。事故現場。トレンチの水抜き。結局失敗だった。お手上げ様子だ。
コンクリでかためるとかなんとかもうまくいかない。

果たして“勝算”あっての作戦だったのだろうか。結果みて「あげつらう」ようで遺憾ではあるのだけど。

汚染水が海に流れているのかどうか。これだってずっと続いている頭痛のタネ。

延々と続く除染作業。たまる一方のフレコン。すでに老朽化で破れはじめている。

今は「再開」されたともいうが、再生可能エネルギーの買い取りストップ問題。

政治は止まったまま。「福島」の時も止まったままの感。

福島をどうする。立派な選挙の焦点なのだ。

知事選以降、語られなくなった沖縄。辺野古では住民の“強制排除”が続き、小競り合いの毎日。
なぜか沖合にあった「ブイ」が撤収されているという。

選挙を意識しての事という解説もあり。

来月には特定秘密保護法が“施行”される。

選挙があければまたぞろ集団的自衛権問題が・・・。

消費税問題、それにからめた経済問題だけが争点にされる。なぜ、野党はそれに乗るのか。その矛盾した論理に。

新聞数紙が書いている。選挙の投票先を。自民へが30%強。民主が7%から10%。
そして多くが「無関心」。

やはり「安倍政治」は支持されるのだろう。狙った通りの帰結となるのだろう。

「世の中とはなるようにしかならないものさ」。そう豪語した慎太郎や麻生。

新聞は書く。勝敗ラインは何議席と。選挙区ごとの“分析”に余念がないかの如く。

景気の問題、円安のよる物価高。あがらない賃金。何がどうあろうと。すでにして「あきらめ」が支配しているような。

そして原発再稼働とくるのだろう。

長野県の地震。家を無くした人たちは、どうやってこの冬を過ごすのだろう。余震は頻発している。

あの東日本大地震を体験し、その被害を目の当たりにしたものには、特に福島県民は、大きな地震と聞けば、すぐ「原発はどうだ」となる。新潟の原発はと。

とにかく植木等のおでましだ。こりゃまたどういうことだ、世の中間違ってるぜ。

大相撲で32回の優勝を果たした白鵬が言っていた。

大相撲が一連の不祥事で場所の中止が決まった2011年3月11日。その数時間後に来たあの災害。3か月後、相撲協会は被災地へ慰問を行った。
土俵入りを見つめる人たち。

横綱の四股を踏むということには「大地を鎮める」という意味があるという。四股を踏みながら目に入ってきた、家を、街を、家族を失い、避難所で辛い日々を送っている人の姿。その人たちが自分を拝んでいた。

それを見て、横綱とは何か、相撲とは何かを自問したという。横綱とは日本の魂ではないかと。

彼の中には「3・11」が刻まれたままなのだろう。

昨夜高倉健の“遺作”、「あなたへ」をテレビで見た。エンドにあった山頭火の歌を思わず投稿した。

あの作品の彼の台本には、一枚の写真が貼ってあったという。毎日その写真を見ていたという。

瓦礫の中を大きなペットボトルを二つ持って、歯を食いしばるようにして歩いている小学生の写真。たぶん、高倉健の心の中にも刻まれたものがあったのだ。

そんな逸話を目にするからだろうか。したかららどうか。やはり真面目に思う。

「世の中、間違っている」と。

2014年11月23日日曜日

“事実上の選挙戦”という常套句

昨夜のNHK。各党の代表者を集めて選挙の「討論会」をやっていた。
番組名のスーパー。「事実上の選挙戦へ」。
やっぱり来たな。この常套句。

常在戦場と言っているのだから、いつも選挙選でしょ。解散になったら選挙はあたり前。事実上っていうことは、そうではない選挙戦ってあるの。
いや、わかるけど。公示されてからが”本格的選挙戦”だってことも。

「成り行きが注目されます」。”ナリチュウ原稿”と言った。まともなデスクからは叱られた。
「何、何が問われています」。自分の意見を言えよ。人に預けるなって言い返す。
「警察は原因を詳しく調べています」。当たり前でしょ。調べるのは。ニュースでもでもない。

相変わらずのテレビの”世界”。常套句、慣用句を使っている。つまらないんだよね。

そして「討論」の内容。アベノミクスなるものの是非。
「それが争点ではないでしょ」と言っていたひとも居たにはいたけれど。

すでにして、「安倍の土俵」での相撲が始まっている。政党もメディアも。
先延ばし増税の是非。くだらない。消費税をやめるかやめないかが争点ならばともかく。

あげく、公明党が言う。「軽減税率適用を検討目標に入れたのは我々の力だ」と。
それって8%の時に決めるべきことだったはず。しかも、内容は全く不透明なままなのに。

面白い”記事”に出会った。石破のブログだ。
・・・私自身はこの選挙を「日本創生・地方創生」を訴える選挙にしたいと思っております。 新しい経済政策(いわゆるアベノミクス)の是非を問う選挙と位置付けておりますが、大企業もなく、株を保有している資産家もおらず、賃金上昇が十分ではないような地方においては、消費税率アップや円安によるガソリン・燃油・輸入資材等の高騰が、都市部よりも厳しい形で生活を脅かしていることを我々はよく認識しなくてはなりません・・・。

解散名を何にするかと躍起になっているメディア。アベノミクス解散だと豪語した安倍。それを否定しないと言いながら、石破は選挙の実態を把握しているような。

そして、小泉進次郎の弁。彼は解散の「バンザイ」をしなかった一人。そういえば石破もしていなかったような・・・。見間違いでなければ。
その小泉。たしかに仕事柄もあるだろうが、福島はじめ、被災地をよく訪れている。選挙区とは全く関係ないのに。
なぜバンザイしなかったのか。

「私は万歳できなかった。万歳することで、余計、国民との心の距離を生むのではないか。国民には、なぜ解散なのか分からない」。安倍の判断に疑問を呈したのだ。そしてさらに言う。
声を大にして言いたいのは被災地の復興。なぜ今、解散なのかと思っている人がいるなら、被災地の人はもっと思っているだろう」。

至極まともな感覚だと思う。

アベノミクスへの「不安」が党内でも露呈されているということなのだ。

その他の自民党の議員さんだって言っている。「アベノミクスというものは地方には浸透していない」と。

安倍は連呼する。経済成長、経済成長と。それが選挙の争点だと。

メッキの剥がれたアベノミクス。
未だに「アベノミックス」と呼ばれるしろもの。
政策に自分の名を冠して悦に入るということ。

”ミックス”はピザか、サンドウイッチでよろしい(笑)。

かつてアメリカのレーガンが打ち出した経済政策。レーガノミクス。エコノミクスのミクスに由来するもの。ミックスなら、ただの「混合物」でよろしいが、それじゃ安倍ちゃんも不本意じゃないかなって。

昨夜と言えば、あの長野の地震。緊急地震速報のけたたましい音で風呂から飛び出し・・・。やはり一夜明けると被害は大きい。

地震列島。そこにいることの実感。

2014年11月22日土曜日

そして誰もいなくなった・・・

福島の帰還困難区域の話しでは無い。政党のことだ。

衆院解散となり、多くの前議員は地元に飛んだ。

そして誰もいなくなった・・・。

議員会館は閑散とし、夜間照明されて国会議事堂の姿もなにやら虚空にたっているような感ありだ。

永田町に集う人たちの多くは「地方」の人だ。永田町にいる時だけそこの人に変身する。

選挙区は「地方」だ。

選挙区に戻り、どんな地方の声を聞かされてくるのだろう。
後援会の集まりで出れば、皆、身内。

それらの声ではない。街角の声、さびれた地域の声・・・。それをなんと聞くかだ。

考えてみれば、自民党に対抗してきた、反自民を貫いてきた政党は共産党だけかもしれない。
野党であった社会党も、党名変更などの挙句、村山内閣の経緯はともかく、民主と連立。いわば与党の密の味をあじわった。

民主党だって、いわば自民の別れ。維新も。次世代も。

あの一時栄華を誇った小沢一郎。自分が作った(途中経過はともかく)民主党から離れ、生活の党。そして凋落の一途・・・。

離合集散、有為転変。それがまさに政治の世界なのでありまして。

小沢はやはり政治家としては手練れだ。読みは間違ってきたが。選挙のテクニックを熟知している。

不甲斐ない野党。自民に対抗しうる野党勢力の結集。それに陰で動いていることは想像に難くない。

生活の党の議員には、離党を「勧めた」。勝手にすればいいというのは、投げやりで言ったのではないはず。

彼の生活の党からはそこそこ民主党に走ったひとたちがいる。民主を軸に野党の再結成ということなのだろう。
維新の党ともどこかで“連携」をはかろうとしている。民主党と維新とは対決させない。

生活の党、そこからは「誰もいなくなった」の感ありだが。

“自分の党”を“みんなの党”と言い換えていた人がいる。
その党は解党“した。まさに「誰もいなくなった」だ。

安倍は何を勘違いしたのか。いや、もともとそういう人なのか・・・。

「アベノミクス解散」だと豪語した。

アベノミクスなるもの、その実態や本質、それの意味。どれだけの人が理解しているのだろうか。
自分の名前を冠したもの。それが争点。自己中解散だ。

安倍の選挙区、地元。山口の街。そこは疲弊した地方の象徴のような街。それを彼はほとんど見ていない。

彼は東京の人だ。富ヶ谷の人だ。毎日通るそこの光景。山手通りにも。井の頭通りにも車は走り、静かだったあの街も、今や東京の“有名地”となった。
かつてとその姿は様変わりしたようだ。

あ、俺だって富ヶ谷は地元なんだけどな・・・(笑)。懐かしいなあの商店街が。(笑)。

人間は、想像力の働かない人間は、自分の見たこと、聞いたことでしか物を語れない。

富ヶ谷にはアベノミクスの恩恵がある。山口にはそれは無い。

地元に帰った議員たちは、2年ぶりに見るのかもしれない。“だれも居なくなった”町や村を。永田町とのギャップに驚くのかもしれない。

「そして誰もいなくなった」。アガサクリスティーの推理小説だ。もちろん政治の話ではないが。
原作の原題。 And Then There Were None。

田舎町のマルシェなるところに行った。それなりに人は集っていたが。そこで数時間。そして浮かんだ言葉が、きょうのタイトル。

2014年11月21日金曜日

しらけ鳥飛んでいく~~みじめ、みじめ


「ばんざい~、ばんざい~」。相変わらずの光景。
衆院が解散された。

どうでもいいことだけど、万歳は二回もあった。御名御璽の読み上げが無い中でのそれを待っていたかのような、それを“叫ぶ”ためだけに居たようなバカな議員、いや、もう前議員。

伊吹議長「ここで万歳をいうのです」。滑稽なりやこの光景。

なぜ解散の詔書が読み上げられた時に万歳を叫ぶのか。天皇が発した詔書だからいうのか。
それとも・・・。

屁理屈言えば、万歳とは陛下の御代が万年も続きますようにといわれる言葉のはずだけど・・・。

万歳で“失職”し、当選すれば、また万歳で戻ってくるという“慣例”。

両方とも「しらける」んだよな。

今度の選挙。「関心が無い」からはじまって「大義が無い」「意味が無い」など“ない、ない選挙”てことかも。


選挙の中で、経済成長が、成長しなければ国が滅びるかのごときことが言われるのだろう。いや、すでに安倍が再三、声を張り上げて言っていた。

解散前に駆け込み採決、成立した法案。

最終処分場設置の法案もある。それは30年後に県外処分するということだけのもの。細部は無い。

地方創生。これとても内容は無い。いわば「方針」だけ。

安倍は声を張り上げる。
「税制は民主主義の基盤だ。税制の変更を国民に問うのは当然だ。
経済政策が間違っているのか正しいのか選挙選を通して訴えよう。
民主党なんて烏合の衆だ」。

このロジックのマジック、おかしいよ。選挙しなくても消費税の引き上げ、凍結は政権の決定、国会の議決で出来るんだから。

狙いは民主潰しだな。たいした相手じゃないのに。

だから余計にしらけるのだ。

「しらけ世代」というのがあった。
全共闘世代のあと。政治に無関心の世代が急増した時代。1970年代の終わりから80年代にかけて。そのころ成人した人達。

少なくとも福島原発が続々と作られていった時代とも重なる。

そしてその頃・・・。

♪しらけ鳥音頭♪というのが大流行していた。

・・・しらけ鳥飛んでいく南の空へ、みじめ、みじめ
しらけどり しらけないで しらけたけれど みじめ みじめ・・・

しらけ鳥は東西南北に飛んでいっていた。

まるで国会のことを、解散のことを歌っていたみたいな。

しらけ選挙。

同感だ。でもしらけ鳥を飛ばしてはいけないのだろうな。
飛ばせばみじめになるだけだから。
しらけ鳥がアホウドリ(本当の鳥ではない)にならないために。

実はしらけている親爺の“コゴト”なんだけど。

「しらとりは かなしからずや 空のあお 海のあおにも 染まず漂う」

阿武隈川畔や猪苗代湖畔に傷ついた白鳥がいる。飛ぶこともかなわない白鳥。
福島にある小さな鳥のこと・・・。

2014年11月20日木曜日

「安倍の土俵で相撲をとる」ということ

昨日、菅官房長官は選挙のテーマについてこう言ってのけたという。
「何を問うか問わないかは政権が決めることだ」と。

争点の無い解散、総選挙だと言われている。たしかに何を問うかは政権が言うことではある。
で、「消費税問題」を、争点にということなのだろう。

いささか唖然、そしてそこに見えた傲慢さ。

3年半先の消費税引き上げ。3年半先のことをなぜ今問うのか。
今、問わねばならないことは山積しているはずなのに。

経済成長、アベノミクス。それをもってして、豊かな国にするということ。
この話し、すでにして矛盾がある。

「経済は生き物」と言いながら、つまりどう転ぶかはわからないと言いながら、3年半後には景気回復を前提にした消費税引き上げをおこなう。それも断固。

わけのわからぬエコノミストなる人たちの言や分析に惑わされてきた。
その人たちの判断はおおむね間違っていた。つまり好意的に見ても、生き物はどうなるかは誰もわからないということ。

3年半後の経済情勢、景気。いまからわかるなら苦労は無い。

いまさらながらのそもそも論。

消費税引き上げ。いや、その税そのもの。それは社会福祉に全額当てると言ってきた。
それが2割しか行っていない。その“事実”は安倍ですら国会論議の中で認めている。8割が他に行っているということ。

なぜ福祉に向けなくてはならないか。財政赤字で予算が無い。だから消費税でということだったはず。
財政再建を図ると公言していたはず。
直近で言えば、税を取る側も身を切る痛みを共有すると言っていたはず。

消費税引き上げと裏腹にある国家としても問題はなぜ争点とならないのか。しないのか。これって屁理屈だろうか。

赤字国債の増発。国家の年間予算の10倍にもなる国としての赤字。入るをはかることではなく出ずるを制す。それが常道だと思うのだが。

この話は国会議員すべてに対しても言える。選挙制度から始まって、政党助成金、歳費以外の支給金、そもそもの議員数。
政策経費以外にも、大いなる無駄があるということ。

さらに一部の国民に対しても言おう。予算の分捕り合戦に血道を上げている人達がいるということも。

昭和40年代、最初に国債を発行する時の論議はすざまじかった。赤字公債とは言えずに建設国債と称した。議論は割れていた。

赤字国債。麻薬と同じ原理だ。一度味わってしまえば、もう密の味。後は野と成れ山となれ。麻痺してしまった累積赤字。

マスコミは財務省の言われるままに書く。国民一人当たり何百万円の借金だと。
借金してしまったように思わせるマインドコントロールか。

赤字を作ったのはどなたか。悪知恵を出した政治家や官僚ではないのか。
その人たちは、返す努力もなのその、税金で穴埋めに走ると言う構図。

「消費税問題」を唯一の争点にするというなら、このこともその中に入れたらいかがと。
10%に引き上げたら、抱えている問題、例えば貧困、少子高齢化。行き場の無い老人、子供支援・・・。解決できるのか。
有り得ない。

今、問うべきこと。些末なことでしかなくなったのだろうが、福島の問題、原発の問題。未だに苦悩する東北の被災者。

何よりも問題なのは改憲と絡んでの集団的自衛権の解釈改憲。国家の基本でもあることをたかが閣議で決めてしまって国民の信を問うことすらしなかった。

それに対しては開きなおる。「前回選挙の公約の中に入っていた」と。なにおかいわんやだ。

だから、どこかの新聞が社説で書いていた。「安倍政治を問う選挙」。そういうことじゃないかなと。政権の側でもそういうべきだ。実績も含めて。
「安倍政治」を列挙して争点に上げろと。

政権が思うがままの土俵で相撲を取ることを野党はいかに考えているのだろうかと。

2014年11月19日水曜日

傲慢と欺瞞と“正直さ”と


ほんと「安倍政治」について語るのは、考えるのはほとほと疲れることなのであり・・・。バカバカしくもあるのだが。
この国の首相として彼は存在している。最大権力者として。

昨夜の記者会見。解散に言及した会見。それをめぐる論評はメディアに委ねておこう。それが当を得ているかどうかはともかくとして。

会見は7時10分からだった。NHKのニュース時間。この種の会見は大方が夕方5時から。
今は大相撲期間中。それが終わらねば。そして比較的在宅率が高い時間。それは午後7時。
高倉健の死去と言うニュースがあった。それこそ国民の支持率100%近い俳優の訃報。NHKとて報じないわけにはいかない。10分間がそれにあてられた。

なんと内閣記者会の幹事社はNHKときたもんだ。阿吽の呼吸のタッグマッチ。
プロンプターを見つめながら滔々としゃべる安倍。時折、眼はプロンプターにくぎ付けで。

冒頭発言終わって幹事社の代表質問。それは事前に通告済み。これまた答弁はプロンプターにある。これまた滔々と。
質問通告がなかったのかもしれない2社の質問。それへの答えはほとんど無味乾燥な物だった。

会見を仕切っているのは官邸の広報室。わずか30分足らずで打ち切りといった“官制会見”。

たった30分で「選挙」が語られたということ。

「消費税」がそのすべてだった。1年8か月引き上げを延期する。その後は絶対に引き上げる。経済成長のために、アベノミクス達成のために。

消費税。薄く広く、かつ強制的に網をかぶせられる税。2017年4月には10%となる。
増税は国民に犠牲を、痛みを強いるもの。それに対して「痛みを与えて申し訳ないが・・・・」というような言葉は一切なかった。

我が道を行く。その傲慢さ。

あの増税延期を決めさせた、7~9のGDP速報値。もしかしたらそれさえも“意図的に作られたもの”とも思いたくなってくる。

増税について、その重大な問題について「信を問う」と言う。選挙しなくても見送りは政府の判断、国会の判断で出来る。

特定機密法案、集団的自衛権。重大な問題ではないということだったのだ。国民の信を問うていないのだから。

あきらかに欺瞞に満ちた恣意的政治。

安倍が言う「国民」とは誰か。彼をとりまく、彼を支持する、わずか0,9%の超富裕層。それに準じる10,1%の富裕層ということか。
消費税が上がろうとどうしようと生活に関係ない人達。

深夜、TBSの番組に出ていた。プロンプター無し。思わず出る本音。
国民の声は・・・とVTR見さされて、「この人達は誰なんですか・・・」のような本音。正直なんだ。
反対意見を排除しようとする、いや、それが当然だとしている彼の「正直さ」。

この世をば我が世とぞ思ふ・・・・。ってことなのだろう。

信を問わなくても出来る消費税増税延期。それに解散権を持って対応する。

本音は民主党潰しなんだろうな。どうも国会論戦見ていても彼は心底民主党がお嫌いと見える。
いまやそんなに恐るるに足る政党ともおもえないのだが。何かの怨念のような殲滅作戦にも思える。

受けて立つ野党。これまた箸にも棒にもかからない。とるにたらない輩ときたもんだ。
選挙まであとひと月も無い。新党なんて有り得ない。選挙態勢なんて出来ない。

民主党が、海江田がぐちゃぐちゃ言ったってそれに“共感”を覚える人って少ないのでは。

まともに分析しているのは江田と共産党くらい。でも所詮は・・・。

「大義がない」「消費税なんたら」解散と遠吠えしても致し方なく。

もはや、「福島」はそこには無い。沖縄につての質問も無かった。原発再稼働を問う気の抜けたような質問はあったけど。

日本プレスクラブや外国特派員協会主催の会見てあるのだろうか。多分各党そろい踏みということになるのだろう。
安倍政治を問う会見が成立するのかどうか。

おかしくて、やがて悲しき政治かな。と投げ捨てて見るが如何。

2014年11月18日火曜日

「亡くしたものは取り戻せるのか」

高倉健が亡くなっていた・・・。83歳。その報に接した時から虚脱状態が続いている。

言い様のない「喪失感」に覆われている。
冥福を祈る。その言葉でしか表現できない追悼の意。そのありふれた言葉しか持ち得ないことが悔しい。

去年の今頃、文化勲章を受章した時の穏やかな笑顔が印象に残っている。

何よりも彼の、それは遺作と言っていいのかどうか。降旗康男監督の「あなたへ」という映画。
東日本大震災の翌年の映画だった。テレビのメーキング番組でしか見ていなかったが、亡き妻の遺骨を海に散骨するために老漁師の大滝秀治に船を出してもらったシーン。

大滝が言っていたセリフが忘れられない。深々と礼をする高倉に。
「久々に綺麗な海ば見た」。

「3・11」を引きずっている身にはあのセリフは忘れられない。海一筋に生きてきた男の哀歓。そのセリフを引き出させたのは高倉健だったと言う・・・。

大滝と言い高倉と言い、いい俳優さんを失った。俳優、役者という言葉は無くなり、タレントと言う言葉しか残らなくなるのか・・・。

海、失ったもの・・・。沖縄への連想。

知事選で当選した翁長が言っていた。安倍に何を問いたいかと聞かれて。
「日本を取り戻すと言われるが、その日本の中に沖縄は入っているのですか、と聞きたい」と。

こんな明確な意思表明を聞いたことが無い。沖縄人の、日本人への“同化”を求められ、強制されてきた民族の底にある意識なのだ。

切り捨て。無意識の差別。そして無関心。

それら本土にあるものに対する沖縄県人の真っ向からの直球勝負と感じた。

死者は蘇らない。亡くしたものは大きい。失われた日本。それを取り戻すと言うことへの体験に基づいた警鐘・・・。

日本人は覚醒すべきだ。そうあらためて思う。

政府は沖縄に対してどれだけの誠意を見せたのか。痛みを分かち合って来たのか。残念ながら分かち合っていない。本土にあった基地を沖縄に押し付けた。
そのことの「痛み」も感じていない。

基地に関して言えば、アメリカの意向を「忖度」しているに過ぎない。

それは福島の「痛み」についても言えることだ。いや「東北の痛み」もだ。

分かち合うと言われて“合言葉”はどこかに消え失せたように。

東北は3年8か月。沖縄は69年間。

69年後の東北、福島の姿は想像の彼方のようだ。

今夜、安倍は解散を表明すると言う。何を言うのだろうか・・・。

そして、政治のうねりの中で、沖縄は埋没する。福島はしばらくは忘れ去られる。

1F構内では、汚染水の問題すら、結局何も前進していない・・・。

日本はどこに向かおうとしているのだろう。

寡黙であり、謙虚であり、常に他者を思いやっていたという高倉健。背中で語っていた男。

世間は常に饒舌であり、強者は時として横暴なくらいに、“支配”し、他者への思いやりは無くなっていく。

喪失と虚脱感・・・。

2014年11月17日月曜日

「イデオロギー」より「アイデンティティー」

沖縄知事選、やはり翁長が勝った。争点は辺野古。
たしか彼の言葉だったと思う。「今度の知事選はイデオロギーではなくアイデンティティーの戦だった」と。

イデオロギー。つまり思想と言うことか。しかも政治的な。保革対決。それをイデオロギーと呼んだ時代もあった。
左翼と保守ということか。
今、この国の政治にイデオロギーというのは存在しているのか。自民党は保守政党だ。しかし、彼らが考えている保守は一様ではない。

革新政党と言うのはあるのか。共産党がかろうじてその呼称に合うくらいだ。

沖縄知事選。地元のメディアも「保革対決」という言葉は使わなかった。彼らが問うたのは沖縄と本土。沖縄と国。つまり“自己存在”としてのアイデンティティーだったから。

沖縄には「保革対決」という言葉も図式も存在しなかったということ。

少なくとも県外移転。普天間についてそう言った鳩山は、その一言で失脚した。
アメリカ政府の意向を確かめることもせず、当時の官僚の甘言にうかうかと乗っての結果。

アメリカよりも日本政府が望んでいる米軍基地、沖縄に固定化した。

安倍との会談で何百億かの地域振興金を約束され、「いい正月がむかえられる」。そう笑顔で言った仲井真。県民はあの一言で怒りに震えたとも言う。

翁長が勝った。しからば素直に「辺野古」を止められるのか。普天間の問題を解決できるのか。さまざま困難が横たわる。
勝ったからと言って浮かれている場合じゃない。それは翁長は十分承知しているはず。

政権はこれから、甘言ではなく、それこそ「鞭」を持って沖縄を攻めるだろう。
あらゆる策略を弄してくるだろう。“兵糧攻め”だって有り得る。

それらにどうやって耐えるか、抵抗するか。まさに県民の覚悟が求められると思う。その覚悟、それがすなわちアイデンティティーという言葉に言い尽くされているのではないか。

早くも政権の側では「一地域の知事選で、国が決めたことを覆すことはない」と言い切る。
官房長官も「過去の事」と切って捨てていた。辺野古の経緯を。

沖縄で、まさに日本の民主主義が試される。「地域の声」としてそれを無視せんばかりの“思想”に。

沖縄の69年間。それはイデオロギーの闘いではなかった。かつての琉球民族の誇りをかけたアイデンティティーの闘いだったから。
イデオリギーを持った“活動家”がそこに入り込む隙は無かったはずだ。少なくとも主流になれるような。

「原発問題」。国策としての原発。そこにもイデオロギーは存在しないはず。
多くの福島県民が問うているのは、アイデンティティーなのだ。そこに原発があった、それが爆発した。生活が奪われた・・・。土地を失った・・・。そこには“接収もどき”ものもあるということ。

こんなことをつらつら考えながら、今日、明日、安倍が何をいうのかを想像している。沖縄知事選についてまだ彼の言を見聞きしていない。

沖縄の問題、辺野古に関しては現知事の在任中とう一つの「期限」がある。たしか来月5日だ。

やはり選挙はやるだろう。その中でまたも「沖縄」は埋没されるのか。

辺野古が選挙の争点だった。でも、それだけで「沖縄」が解決したわけではない。これが新たな沖縄にとっての闘いにもなるはず。69年をしての。

2014年11月16日日曜日

「小異を捨てて」と「同床異夢」

小異を捨てて大同につく。かつての自民党、派閥全盛時代の自民党はこの言葉でよってまとまりをかろうじて保ってきた。
今も“党是”の如く、それが生きているのだろうか。

同床異夢。選挙を控えて野党間で“合従連衡”の動きが盛んだ。
巨大与党の自公に対抗しうる野党の存在は必要だ。
それは“選挙”後の政局、国会を展望しても。

でも、一本筋の通った野党。望むべくもない。「野党再編」の主導権争いやっているのでは。
まさに小異を捨てて大同にとも思うのだが。

それにしても、それよりなにより、きょうは沖縄県知事選の投開票日。

知事選の争点は辺野古移転とされている。普天間の危険除去。辺野古に移転されれば危険は去るのか。
5年以内の返還。アメリカは確約を与えていない。

沖縄と福島。そこにある同じような「構図」。封じ込め。

沖縄問題の基本は県外移転かどうかにあるはず。辺野古移転が問題解決の全てではない。

沖縄の米軍基地が日本の安全保障に寄与してきた。
福島原発も日本のエネルギーに寄与してきた。

米軍基地があることによって、沖縄の経済は潤い、政府もさまざま財政支援している。
原発があることによって、いや、原発を誘致したことによって、立地地域も福島県全体も潤った。それが「危険」だと承知していた人ですら、“経済”の前には黙するほかは無かった。

辺野古移転を巡って沖縄県内は揺れている。県民感情は二分されている。
原発事故後の「カネ」を巡って、福島県内も揺れている。

放射性廃棄物の最終処分場。30年後の県外移設。保障はどこにも無い。

基地は沖縄に「封じ込め」。廃棄物は福島に「封じ込め」。

短絡に比較すべきものではないだろうが、非にて似たる構図なのだ。

辺野古に基地を一部移転したとして、基地があることによる「危険」は除去されるのか。
少なくとも辺野古の海の自然は“破壊”される。

とりあえず中間貯蔵施設に移送が出来たとして、福島の「危険」「危惧」は除去されるのか。すでにして自然は“破壊”されている。

全国紙や全国ネットのテレビをみていても、沖縄に関する、知事選に関する報道はあまりにも少ない。

今夜のテレビ。沖縄報道を告知しているのはBS-TBSだけだ。
福島に関する報道もめっきり減った。
何かが起きないと報道の対象にならない。

沖縄の地元紙は残念ながら日々目にすることは無い。福島の県紙が伝える原発の今、福島の今。それは全国にはいきわたらない。

辺野古移転問題は基地をめぐる小異なのか。県外移転が大同なのか。
その「本質的議論」が知事選を通して俎上にあがっていたのだろうか。

基地の是非よりもとりあえずは今の生活。県の市の活性化。それをもってして沖縄を語るということは“同床異夢”に値することなのか。

そして中央の意志に反した翁長が勝った場合、政権は沖縄にどう関与していくのか。

知事選。福島の与野党相乗り。沖縄の各党“分裂”。

とにかく、どこかに犠牲を強いない限り、成り立っていかないのかこの国は。
解散風の中で、沖縄知事選はかすむのか。埋没されてしまうのか。
今夜、沖縄にはどんな風が吹くのだろう・・・。

福島に居て、沖縄を想う。その一言のみにて。

2014年11月15日土曜日

風が吹けば・・・誰が儲かる。

風が吹けば桶屋が儲かる。ま、なんとも古い小噺なんですが・・・。
この小噺、回りっくどいんだけど。眼病み、あんま、三味線、猫、鼠といろいろ登場するんで。

解散風、まだ「風」だと言い張っている人いるらしいが、もはや誰も止められない。決まりだぜ。

常在戦場――笑わすなって。議員活動ってのはすなわち常在戦場なのだぜ。
何も選挙の事だけを指すんじゃないぜ。
「いつ選挙があっても困らないように、常に田の草取り、手入れをしておけ」っていう喩えなんだけど。

なになに、アベノミクスの“成果”を問う「念のため解散」だって。じや言わせてもらう。「“安倍隠し”の安倍のため解散」だと。

「消費税逃亡解散」って新聞の読者の投稿があったけど。重なる「失政」をチャラにしようって魂胆じゃないのかってね。

拉致問題だってそうだ。鳴り物入りで言い出して、安倍が北朝鮮に飛んで拉致被害者を連れて帰ってくる。政権浮揚。そんな図式を論じていた政治記者や評論家もいたっけな。

北に足元みられたかのように、進捗しないじゃないか。

国会はすでにして閉会状態。今日、明日は皆さま選挙区入りってことでしょう。

「失政」と言えるかどうかはともかく、福島にとってはある種の“迷惑解散”だ。

最終処分関連法案流れれば中間貯蔵施設問題も影響うける。その一例。ま、福島など眼中に無いってことは先刻承知だけどね。

我がままお坊ちゃまのしたい放題。
それは意のままにならないことは攻撃する。国会論戦見ていれば彼の性格わかる。

多くの人がすでにしてしらけ始めている。投票いかないって。
それが安倍のねらい目なのかもしれない。

野党の体たらくを見据えた上で。投票率低ければ勝つのは自民。組織票。

でね、この解散の選挙の狙いは何かって妄想してみた。

「安倍隠し」なんだって。

このまま行けば安定多数のはずなのに。だから党内でも解せないとくるんだ。

でもね、このまま行けば、またぞろ「スキャンダル閣僚」が続出する。改造をするわけにはいかない。今いわれている閣僚の、特にカネにまつわるスキャンダルは調べてみれば本当だった。こりゃヤバイとなったのか。

首を切るには解散しかない。多少議席減らしても、安倍は首班再指名。第三次安倍内閣誕生。

正々堂々、新閣僚で組閣出来る。それが本音のガラガラポンってことじゃないのかな。

意に沿わない閣僚だって、外すことも出来る。お友達内閣再登場ってことなんやないの。なにしろ「仲間」に囲まれていないと不安な人なんだから。

だからさ~風が吹けば晋三儲かるってことになるんじゃないかなと。

野党はともかく、自民党のみなさんよ。それでよろしいのかとも。断固、消費税引き上げ論者もおいでとというのに。

外は木枯らしなんです。きょうは寒さが身に沁みます。風が吹いているから古着を見込んでみますかね。

2014年11月14日金曜日

ならば選挙の争点は何になるのか

消費税増税。やはり国民の支持は低い。反対が7割にも上っているという。
で、安倍は考えた。引き上げの時期を引きのばそうと。

“期限”である今年中に10%を決めてしまうと、完全にアベノミクスなるものは失敗だったという結果を招く。引き上げ時期を延ばすことによる“延命工作”なのかとも。

株高、円安。目下の市場の実態。例えば円安で喜んでいるのは“金持ち”の中国人。秋葉原や銀座に繰り出し、大量に買い物をしていく。それこそ何百万円の単位で。その店はほくほく顔だろう。

輸出に頼っている会社。例えば自動車。大儲けだ。兆円の単位で。

我々の身の回り。輸入品は軒並み値上がり。必要最小限の食材が直撃される。
ほんと、年金生活者はたまらないぜ。
値上がりはまだまだ続く。連鎖作用も起こしていく。

そこに消費税増税ときたんでは・・・。まして、その増税分は福祉にはまともにまわっていない。目的税化しなかったからだ。

そもそも、この消費税増税。自公民の三党で合意したもの。
消費税問題は選挙の争点にはならない。いや、しない。だって自公民で決めたことなのだから。
だけど「福祉」に向けるって話だったよな。でも、安倍も認めている。福祉に使われているのは2割だと。

だから「消費税隠し解散」とだって言える。

争点無き選挙。そのむなしさを先の福島県知事選で味わっている。その結果がどういうものだったかも。

たぶん特定秘密保護法も集団的自衛権も、自公は争点にしないだろう。
選挙公約に何を掲げるのだろう。

任期満了では無い。安倍が打って出る選挙だ。やはり消費税には触れぬまま「アベノミクスの成果」とやらを述べていくのか。

不可解な選挙だ。

安倍だって知っている。消費税を争点にした選挙では負けるとう歴史があったことを。

改造人事に失敗した。政治家の「カネ」をめぐる話題は続出する。もう一人辞任が出たら、それこそ内閣は持たない。普通の感覚では。

だから「小渕優子隠し」って揶揄されるのか。ガラガラポンとするつもりなのか。

選挙で洗礼っていうことか。これもよくあるセリフ。永田町用語。

原発再稼働を言うのか。再稼働論者は野党にだっているし。

ああ、さっぱり理解不能なのだ。

安倍の内閣支持率は50%弱だと言う。2年前の総選挙。自民の獲得票数も5割に達してない。しかし議席は大幅に増えた。野党の側に問題があったのだ。
いわば「敵失」の勝利だったのだ。

またもそれを狙っているのか。

自公に代わる政権、その選択肢に当てはまる野党は存在しない。現実問題として。民主党だって「ぬえ」のような政党になってしまったし。

そして、政治改革、選挙制度、まったく手が付けられていない。身を切る改革なんて大ぼらふいたまま。
定数削減、安倍だって党首会談で、野党時代だったが大見得切ったじゃないか。喧嘩腰で。「やりましょう」と。

都合の悪いことは忘れるってことだな。

何を掲げようと、自公は勝つ。議席は多少減らしても。そのまま任期いっぱいまでもっていけば安倍の悲願は達成だ。6年間の総理大臣。

ああ、さっぱりわからない選挙だ。そしてメディアはこぞって言うだろう。投票率の話を。

争点の見えない選挙。選択肢の少ない選挙。それでも投票所へ。なんかボールは国民に放り投げられたままのような。

選挙に要する費用は700億円と言われる。もちろん税金。
安倍政治をよしとするわけではないが、選挙以外に安倍政治から逃れる術はないのだが、もっかは結果が見えているような選挙。有るのかないのかわからない野党。

とにかく「変」な選挙なんだよな。

富めるものはより富み、貧しきものはより貧しく。そういうことなんかなとも。

本日、八つ当たり気味にて。

2014年11月13日木曜日

やぶにらみ「政局論」~沖縄・福島隠しの総選挙~

藪睨みーー斜めから見ること、あるいは見当違いと理解してもらってもいい。
まともに「政局」を語るには、もはやばかばかしいからという思いもあるし、それはいわゆるメディア(比較的まともな)に任せておけばいいし、政局を語るといことに、“世捨て人的爺い”が何を言っても無意味であり、泣き言ともとられないから、だから斜めに見て書く。

どうやら解散総選挙があるらしい。「らしい」というのは解散権を持った当のご本人の口から公に語られていないから。

だけど自民党の幹部や友党公明党の幹部には「年内解散」と伝えている。
そこから話が伝わってきているということ。

政界には、永田町にはいろんな“語録”めいたことがある。

「総理大臣は孤独だ」というのもその一つ。それは歴代総理からもよく聞かされた。
決断は一人でしなければならないということ。孤独に耐えられない人は総理大臣の器ではないということ。

安倍は極めて「孤独」を嫌う人だと聞かされた。多忙な日程。秘書官は健康に気を使う。なるべく日程を減らそうとする。ところが当のご本人、勝手に日程をいれてしまうと言う。

秘書官の一人が、出身省庁の上司に言った。それをその人から聞いた話。

外遊前に「解散」を気心知れた人たちに相談していたのだろう。一人では決断できなかったのだろう。つねにお友達に囲まれていないと安堵出来ないと言う性格なのだろう。

「解散」。それは議員のクビを切ると言うことだ。もちろん帰ってくる人もいるが。失業者になる人だって出る。勇気が要る決断なのだ。

「すべてのことに時がある」。聖書にある言葉。「すべてのことに理由(わけ)がある」。仏教書の言葉。

なぜこの時期に解散総選挙なのか。なぜ、何のための解散総選挙なのか。

永田町の住民だって戸惑っている。国民をしてすれば尚更だ。

そして持ち出されるのが「大義」ということば。不可解な解散とも評される。

外遊から帰国した安倍は、解散を言うのだろう。その時には何のための解散かということを言わねばならない。その「大義」を。

「この2年間の安倍政治の評価を問う」と言うのだろうか。“アベノミクス”なるものの自己撞着的評価を滔々と語りながら・・・。

来月14日が投票日だと報じられている。

それよりなにより、ここ数日解散風が吹き荒れたのはなぜか。
「沖縄隠し」だ。今度の日曜日に迫った知事選。今は選挙戦最終盤。沖縄から少しでも目を逸らさせようとする意図か。

安倍の帰国は沖縄知事選の翌日。うまく組まれた外遊日程。

そして解散を公言すれば、まさにいつものごとく「日本列島選挙一色」とメディアは書きたてる。
沖縄知事選後のさまざまな問題は、蚊帳の外に置かれる。

そして「福島隠し」。国が政治家が積極的に関与しなければならない年内の課題だって山積なのに。
すでに仮置き場の問題や、中間貯蔵施設の着工遅れは「通知」されていることとは言え。

福島に向けられる目は無くなるに等しい。地元紙だって選挙情勢だらけの記事になるだろうし、もちろん「原発と総選挙」なんて連載も書かれるだろうが。

沖縄隠し、福島隠しの嫌な選挙って感。

安倍は選挙公示第一声を、また福島であげるのだろうか。あの時と同じフレーズを絶叫するのだろうか。

木枯らしが老骨にはしみるぜ。藪睨みしてたら目が疲れたし。また明日もこんな話かな。お目汚しで失礼。

2014年11月12日水曜日

「福島」をめぐる“不幸”と“幸福”

昨日の塾でこんな話をした。テーマは「福島を“哲学”する」。
なぜ“哲学”としたか。

哲という字は「折」と「口」が合わさって字だ。「折」と言う字は「絡み合った複雑な物事をばらばらに分離する」という意味がある。それに「口」を重ねることで、「言葉で道理を明らかにする」という意味があるからだ。

「自然と文化とは相反するものではない。自然は文化の根である。深い大きな自然を離れた人為的文化は退廃に終わるのほかは無い」。

関東大震災後、哲学者西田幾多郎が述べた言葉である。そのまま「3・11」後の福島にも当てはまると思ったからだ。福島は哲学の場でもあるからだ。

「未来に不安を抱く人は、しばしば、過去の記憶の世界への逃避を試みる。しかし、人はかこの記憶の世界への逃避によって救われることは無く、いずれは“現実”に向き合わねばならない時がある。
常に新たな創造を行うのでなければならない。新たな自分を創造し続けながら生きて行く」。

この言葉も今の福島に、向けられたものであるかもしれないと思ったから。
哲学とは自分自身の経験などによって得た世界観、価値観、理念だと理解したかったからだ。

哲学的に福島を見たとて、何が解決するわけではない。ただ、そういう観点から考えることで、自分自身の中で、常に絡まっている事柄を解きほぐすことが出来るかのしれないと思ったから。

まさに「我言思う故に我あり」だ。

プラトンの言葉も引用した。「思い出すことが哲学の機能だ」とも。「忘れてしまった事を取り戻す作業が哲学だ」とも。

「かつて見たものは今は見えなくなった」。先人が今の福島を予測していたようにも思えたから。

実存主義哲学は「人間は不条理とともに生きる」としている。そして、「不幸があるから、幸福を感じ取っている人がいる。私たちは幸福が有り過ぎるから、かえって満足を得ていない」とも言われる。

こんな言葉を紹介しながら、「福島の不幸は、誰か他者に幸福を与えているのかもしれない」と投げかけてみた。

普段は比較的寡黙な塾生が、積極的に反応した。
「福島の不幸とは何を指すのか」から始まって、他者の幸福とは何を指すのか。彼の意見は、福島を敷衍して、沖縄、香港の事にも及んで行った。
自分は何か行動したいと思っているとも。

2011年3月12日夜。彼はすでにして避難所のボランティア活動に単身参加していたのだが。

「そうだな、不幸を味わった福島県人は、もしかしたら不幸を知らない人達よりも幸福なのかもしれないな・・・」と膳問答のような投げ返しをしてみたが。

11日の夜。哲学の一端に触れ、それを考え、「福島」を語り合っていた人達がいたと言うこと。
熱い雰囲気と風があったということ。

家に帰ってテレビを見たら、「地獄とは他人のことである(サルトル)」と思っているような人たちの“世界”で、解散風というのが吹き荒れていると伝えられていた・・・。

2014年11月11日火曜日

「語る」ことと「沈黙」と

きょうは11日。あれから3年8か月。だからというわけでも無いが、なにやら面倒くさいことを書く。

「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」。
イギリスの哲学者、ウイトゲンシュタインは著書の中でこんな事を言っている。

「私は他者である。だから私は沈黙する。それがすべてを解決する」
フランスの詩人、アルチュール・ランボーの言葉。

以前、新座高校の校長の卒業式での式辞を引用した。そこにもあった言葉。
「福島の海を見よ」と題された。

“自分を取り巻くすべての情報から離れるのです。あまりに過剰な情報に沈黙を与えなさい。行為としての沈黙を作り出すのです”

先頃書いた、岡映里の「境界の町で」という本。あの時は「言葉は瓦礫となる」という著者のフレーズを引用した。

本を読み終えた。

“ある人”のペンネームである岡映里はエピローグでこんなことを書いている。
一つの問題提起かもしれない。

前後の文脈、脈絡ははぶく。

「福島を、福島の人達を、どれだけ深く知っても、所詮“よそ者”でしかない私の言葉は、“福島を消費”し、“福島を踏み荒らす”ことになるのだろうか」。
その罪悪感から逃れられなくなった。とも。


サルトルは言っている。
「生きている」ことと「物語」とは違う。とも。


たまたま福島に住みついてしまった僕が、よそ者であると思われているかどうかはともかく、3年8か月たった今、またも思うこと。

福島をどう語っていけばいいのか。福島の何を、どれを日々思っていけばいいのか。

「3・11」直後、世の中の情報源はテレビと、スマホで繋がっていたツイッターだけだった。

そのネットからは、拡散希望と書かれたさまざまな情報、真偽不明な情報が、まさに“洪水”のように吐き出されていた。

経緯は記憶にないが、岡映里とおぼしき人をフォローしたような気がする。

本によれば、3月14日の3号機爆発時、彼女は錯乱状態になって茨木のり子の詩を投稿していたという。
“私が一番きれいだった時”

それを当時みていたかどうかの記憶も無い。ただ、一週間後くらいか。パソコンが“復活”した時、同じように茨木のり子の詩を引用していた。

でも、それは、“馬鹿者よ”であり、“倚りかからず”だった。

 もはや、 できあいの思想には倚りかかりたくない 
 もはや、 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや、 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや、 いかなる権威にも倚りかかりたくない
 ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは 椅子の背もたれだけ

そうなんだ。僕は詩に溢れる言葉に倚りかかろうとしていたのだ。そして、待った。災後を書いた文学の登場を。
なかなか出会うことはなかった。書かれたものはあったが、それに浸ることとは出来なかった。語られている言葉が、書かれている言葉が、どこか空虚に感じられていたからかもしれない。

「境界の町で」がそれを埋めてくれたかというと、また別問題なのだが。

記憶の伴奏者もいなかった。居る訳がない。記憶とはその人個々人の、残すかどうかの価値判断にもよるのだろうから。

まもなく午後2時46分がくる・・・。数分間の沈黙を与えてくれるために。

2014年11月10日月曜日

「福島の今」ということ

原発1号機の建屋を覆っていたパネルの2枚目が外された。
空撮では散乱する瓦礫が見てとれると言う。

福島県の特に県北の名産品、「あんぽ柿」作りが4年ぶりに再開された。

きょうの「福島」の様子である。「事実」である。

それへの論評、評価は別として。

数日前、郡山の小児科医でありペップキッズこおりやまの理事長をしている菊池信太郎君がこんなことを投稿していた。

「ニッポンのみなさん
そして福島のみなさん
3年半経っても、原発周辺地域はまだまだ本当に沢山の問題を抱えています。
自宅があっても、バリケードで入れない。
草はボウボウ。動物や泥棒の足跡。
つい先日、国道6号が自由に通行できるようになりました。
ぜひ、一度は帰宅困難地域を通過し、
富岡駅を訪れてみてください。
さらに、津波の被害を受けた沿岸地域にも。
そして、この地域に普通に生活していた方々の無念と、
一瞬にして生活環境が変わってしまった福島の子ども達の日々を、
想像して頂きたいとおもいます。
ここが同じニッポンであることに、
疑いを持つはずです。
私たち福島県民も、どうしたら本当に復興できるのか、日々真剣に考え自分たちが出来ることをやっていかなくてはと教えてくれます」。


写真と共に。6号線、これから先帰還困難区域につき自動二輪や歩行者は通行できないという注意の看板。まったく「あの日」のままの富岡周辺の画像。荒れ果てたままの風景。

積まれた汚染土のバッグの山・・・。


この投稿について彼と話はしていない。書かれた文章を勝手に判断する。

なぜ、あえてニッポンのみなさんと併記して福島のみなさんと書いたのかということを。

彼の中に「県民ですら、忘れていっている」。そんな彼なりの危惧があったのではないかと。

100キロも200キロも、いや、もっと以遠からこの地に、帰還困難区域に、富岡に来ることは物理的にも、経済的にも不可能な人もいるだろう。

それでも「通ってみてください」と彼が言うのは「福島の今」を知ってもらいたいと言うことではないのだろうか。と慮っている。

「知るという支援」。そんな演題で講演したことが再三ある。それは、3年8か月前からの福島であり、今の福島をということでもある。

見るに越したことはない。その地の空気や臭いも含めて。でも、それがかなわないならば、その時、その時の「福島」を知ってもらいたいということだ。

何かをしてくれと言うわけではない。知れば、その人の価値観、人生観も変わるかもしれないという意味でだ。「3・11」前の生活に戻り、その中に変わらぬ日々を送っていていいものかという問い掛け。

それは県内にも通じると彼は感じていたからではないだろうか。

最近、またネット上では去年の映像が流されている。
外国メディアの映像だ。

「外国人カメラマンが撮った福島警戒区域内の今の姿40枚」。去年の10月の撮影とされている。

映されたものは事実としての光景。
でも「警戒区域」という呼び名は、去年の10月で無くなっている。

実態はともかく、「警戒区域」は、今の福島には存在しない。

「福島」を語ると言うことは難しいことだと思う。どこに目線を当てるかを含めて。

あの日以来の福島を忘れてはいけない。記憶にとどめて置かなくてはならない。
その3年以上の時間の経過も。

それと同時に、「今」をどう捉えるのか、そしてどうするのか。何を思うのか。

過去、現在、未来・・・。思考は「螺旋の森」のように行きつ戻りつすることではあるが。それはいずれをも可とすることでは無く。

2014年11月9日日曜日

「責任」という言葉の無責任

川内原発再稼働にあたって伊藤鹿児島県知事はこう言っている。同意の理由をだ。
「事故時に国が責任を持つことなどを国が約束してくれた」。
「原子力規制委員会の審査で安全性が確認された」。

国が約束したから、規制委が安全だと言ったから。いわば「他人」がこう言っているからこうするって論法だ。自分自身の“判断”はあるのか。
なぜこういう風に言うかと言えば、それは福島県知事のスタンスとあまりにも酷似しているからだ。

国の責任、国の責任。この言葉に何度振り回されてきたのだろう。福島県において「国の責任」なんてほとんど果たされていない。多くが国を信頼していない。いちち、その事象を挙げればきりがないくらい。

責任とは何だ。事故が起きてとるべき責任とは何か。国の国民に対しての責任とは生命、財産、安全を守ることだ。
それらは福島に置いてはまさしく無責任に放棄されている。

その場しのぎの言葉の羅列で。

原発事故に対して責任をとれる人なんていないのだ。

あの「かわうち原発」と言ったど素人さながらの大臣が「責任をとる」と言ったことが、その論拠であるならば、勘違いも甚だしいし、それを隠れ蓑にしているとしか言いようが無い。

規制委員会の委員長も「100%安全とは言わない」と公言している。それは何の“担保”にもならない。まして規制委は火山学者の警告や見解を、まったくのように排除している。

「3・11」以来、「責任」と言う言葉がそれこそ濁流のように溢れ返っていた。
責任という言葉を使えば、それで事足れりというような風潮に始まって、責任追及という言葉にも及んで。

誰も責任は果たしてない。いや、そもそも「責任とは何ぞや」ということも議論されていないし、その解釈も無い。言葉だけの独り相撲だ。

刑事責任。それは裁判所が問える。判決が出ればそれが“責任の所在”ということになる。

福島の事故の責任は誰もとっていない。それを追及する動きも寡となった。それは無かったことのように、この国は「元に戻ろう」としているみたいだ。
それを多くの国民が“納得”してしまっているような風潮。

武士の世界では、侍の時代では責任をとるというのは「腹を切る」ということだった。責任と言う言葉には命を賭すという覚悟が要求されていたはず。

責任と言う言葉をあまりにも安易に利用しているのではないか。

そうだろう。戦争の責任だって不明確なままなのだから。戦争だって原発だって誰も“総括”出来ていないのだから。しようとしていないのだから。

しかし、純朴な国民は「責任」という言葉を聞くだけで、それに安堵の気持ちを託す。

責任と言う言葉の欺瞞。責任という言葉の、それを安易に使うことの無責任さ。
たとえば「説明責任」なんて言葉だってそうだ。

「実態の無い言葉」だけがまるで“幽霊”のようにさまよい、投げかけられているということ。それは「復興」でもあり「絆」でもある。

言葉だけの“快感”と言っていいのか。

すべからく「本質」を問うべきこと、問うのが人としての在り様だとも思うのだが。

2014年11月8日土曜日

そこに「福島」は存在していなかった

鹿児島川内原発が再稼働されることになった。多少の手続きはあっても来年早々には。

県議会が同意し、県知事も薩摩川内市長も同意した。「地元」としてOKを出した。

鹿児島だって福島のことを知らないわけではない。鹿児島には福島からの避難者もいる。

避難計画は策定されていない。繰り返す。
「起こりえないことも起こる」と。

何で急いだのか。裏事情だってあるのだろう。とりあえずは表面的な起きた事象でしか語り得ないが。

再稼働によって「地元」が潤うというのが、税収、地域経済含め、その大きな理由だという。

たしかに衰退していく街を見るのも、そこに暮らすのもしのびない。

過疎、高齢化をあげる向きもある。それは全国的な問題なんだけど。
いわゆる「増田レポート」、地方消滅。それは全国的なことだ。人口を基軸にした、この国の姿。それが与えた心理的影響も大きいかもしれない。

「地元」とはどこを指すのか。

“30キロ圏内”めぐるやり取りがある。30キロ。それは福島に引かれた線だった。同心円としての区域分け。

事故による放射能の飛散は30キロを超えていた。

わけのわからな福島県議会ですら全機廃炉を決議した。一時は「潤って」いたはずの立地地域だって、徐々に財政はひっ迫していた。

事故があったら・・・。第二の「福島」が生まれるのだ。うたかたの豊かさを求めていたことの対価の大きさを知った。

事故から3年八か月になる。福島では依然「悲劇」が繰り返されているのだ。

再稼働が決まった昨日、金曜日。官邸前の抗議活動に参加した人は少なかったという。

それは「諦め」が支配していた結果なのか。そうは思いたくないが・・・。

全国の市町村に「同意」の範囲を聞くと、50%近い自治体が「30%」を支持している。「地元」とは決して立地地域だけではないということ。それを福島では立証されているのに。

それなりに「豊かな生活風景」がテレビを通して毎日流されている。それが「当たり前のこと」と錯覚するのは当然かもしれない。
過疎なら過疎での暮らし方を模索すべきではないか。原発マネーに頼らずに。

事故が起きた。避難。避難先とはまずは避難所。その「悲惨さ」をあなた方は見たか。やがて急ごしらえの仮設。
そんな暮らしに何年も耐えうるのか。耐えている福島県民はいるのだけど。

昨夜、ある会合にいた。そこでの話題は消費税だった。再稼働のことは福島でも話題にされていなかった。

福島県内で避難生活をしている人ですら言っているという。
「再稼働は地元が判断すること。こっちが口を挟めるものではない。事故がおきる可能性はある。それをわかって引き受けるなら」と。

原発事故は地元で完結できることでは無いはずだ。

体験してみないとわからない避難生活と言う「くらし」。

それを見て来た者にとっては再稼働への怒りよりも「悲しみ」に包まれてくる。

電力会社の利益が優先される社会。電気がなくては暮らせない社会。原発が無くてもしのげた猛暑や極寒・・・。
再稼働に頼らなくても生活できる地域社会の構築。その道を模索すべきだと思うのだが。

川内原発再稼働方式。それは一つのモデルケースともなり、他の地域にも応用されるのだろう。

再稼働の容認、それは福島が「忘れられた地」となっていることに等しいとも思えてくる。

2011年の3月から5月、6月。この「国」を覆っていたあの風向きはどこに行ったのだろうかとも。

2014年11月7日金曜日

「言葉は瓦礫になってしまった・・・」

さっきスマホのお知らせメール。ニュース速報。
鹿児島県議会は川内原発再稼働を承認したと。県知事も“同意”しているはずだ。“地元”の市長も然りだ。
延々と続いていか県議会。傍聴席からは怒号が飛んだともいうが、いわば「予測した」結果になった。

国会では東電の常務が、「地元とは30キロ圏内」だと答弁していた。それを官房長官は否定していた。昨日の話しだ。

川内原発は再稼働する。またも「福島の悲劇」が起こりかねない。可能性はそれこそ排除できないはずだけど。

再稼働反対の声は、言葉は、「無力」だったのか。

とにかくもうこれ以上「悲劇」を見るのは嫌なのだ。ありうべき悲劇を。

有り得ることは起こる。有り得ないことも起こる。政府事故調の畑村委員長の言葉を確かめる。

今、一日数ページしか進まないが、「境界の町で」という本を読んでいる。
過日記した毎日新聞の写真記者が推奨してくれた本だ。

小説なのか文学なのか、フィクションなのかノンフィクションなのか。はたまた私小説なのか。それはわからない。著者の岡 英里という33歳の女性ライターのことは初めて知ったのだから。

引き込まれる本だ。

東京の出版社に勤める主人公。つまり著者自身。
東京のビルの中で「3・11」を体験し、テレビで流れる「人探し」の報に接している。私には探す探す人がいない。誰も私を探してはいない。安否確認のことだ。孤独と言う表現があったかどうか。
数年前に「別れた、捨てられた」男に会いに行く。その男は銀座でバーをやっている。自転車でたどり着いたその店はやっていた。いつものように。客が来るはずもないのに。

とにかく、彼女は福島に引き寄せられる。郡山に着く。「彼」とよぶ男に出会う。元暴力団。避難してきている。若い衆を使って除染にあたっている。
彼の故郷、20キロ圏内。楢葉町で父親が蕎麦屋を始めていた。

東京と福島。何回もの往復。足は伸びて行く。飯舘にたどり着く。そこの住人の老婦人と言葉を交わす。借り上げ住宅、桑折町のアパートに引っ越す直前。


「私のどんな言葉もこの場所では無力だ。私の言葉は、彼女が彼女自身の言葉で再現した津波と原発災害と家庭の離散劇の前で、すべて瓦礫になってしまった」。

昨夜、そのくだりに傍線を引き、本を閉じた。まだ読み進めなければ、筆者の心情は見えて来ないが・・・。
2014年、この筆者が福島とどう関わっているのかもわからないが。

ネットで検索したら柳美里と親交がある人であり、相馬のFMラジオにも出演しているということのようだが。


2011年3月11日。その夜は小さなテレビを前にして、三陸を襲う津波の映像。原発の危機の情報、いわば身近なことに神経が集中していた。翌日もその翌日もだ。

“故郷東京”。そこの模様もテレビは伝えていた。駅の構内で泊まる人、とにかく歩いて「待つ人」がいる家路を目指す人・・・。

例えば東京で、そこで、それぞれの人が、あの出来事をどう捉え、何を悩み考えていたのか。そこに思考は及んでいなかった。

この本の中にも「風化」という言葉が出てくる。忘れるということも出てくる。

もちろん「社命」ということもあるだろうが、あの毎日新聞の写真記者が足しげく福島に通うことの、東京から来ることの心情とどう見るのか。いささか、この本で“補完”されたような気がして。

言葉が瓦礫になる。どう理解すればいいのか。言葉は無力なのだろうかとも重なって。

「言葉」をめぐって、まだ自分自身の中でも整理されていないことが沢山ある。整理できるのかどうかもわからない。

「日常は哲学に溢れている」とある哲学者が言っていた。言葉と沈黙についてもさまざま哲学的考察もある。それらを自分の中で、どれを取り入れ消化するのか。
「考える」ということを、また新たに始めなくてはならないような・・・。

2014年11月6日木曜日

「院」の内外(うちそと)

国会。あの建物の中は、院内と言われる。あの立法府の場は、国会法、衆議院規則で、言動・行動含め、さまざまな院の規定が定められている。
あげく「先例集」という分厚い書物もある。
それにのっとり国会は運営されているのだが・・・。

議員になった人はまずそれを熟読することが必須であるはずなのだけど・・・。

衆議院規則第六十六条にはこうある。

委員長は、委員会の議事を整理し、秩序を保持し、委員会を代表する。

つまり、委員長にはそれだけの“権限”が付与されているということ。もっとも委員長人事も安倍が決める人事なのだけど。

最近の委員会。もちろん、くだらない野次を飛ばす野党の議員はもっての他だが。

野次が飛び交うと答弁に立った安倍は、それを制する。「野次を止めなさい」と。繰り返し。

野次を止めるのは委員長の仕事のはず。委員会も仕切る、仕切れると思っているのか。

野党席が静まると滔々と持論の展開。
質問が気にくわないと答弁拒否。あげく「退席」の場面も。

とにかく相当イライラが溜っているんだろうなと。朝日新聞攻撃には、滅多に書かないフェイスブックに秘書名で投稿させたり。

どこか“幼児性”を感じるんだな。思い通りに行かないと怒り出すというところなんぞ。

以上、院内のこと。そして院外。

きょうか、きのうか、アキエ夫人がこんなことを投稿していた。

「命は大切なもの。だから自分で責任を持ち、自分で守らねばいけない。助け合うことは必要。でも、最初から人任せにしてはいけない。
非難、責任転嫁、言い訳 そんなことが多すぎる・・・。今朝も防潮堤を考えながら・・・」。

非難、責任転嫁、言い訳。そっくりそのままご主人のことかと。

安倍は下戸だと聞いていた。いつかも夫人の投稿写真にあった。なんかのお祝いだったか。主人はお酒のめないんで、私が飲んで・・・。
写真にはチョコバーもって笑っている晋三ちゃんのお姿。

福島か、東京の物産展か。地酒が披露されていた。小さなプラスティックのグラスに注がれた酒を安倍は飲んだ。一気にのように。そして美味しいと言っていた。
なんだい、飲めるんじゃないか。いや待てよ。あれは酒では無く水だったんではないかという邪推。昼間から酔っては仕事にならないし。

なんだい“捏造”じゃないのかと(笑)。

アメリカの中間選挙。上院、下院とも共和党が勝った。オバマは苦境に立たされる。

イエス ウイ キャンもチェンジも通用しなかった。支持率40%が効いたという。

自民党に愛想をつかした国民は民主党政権を誕生させた。民主党の化けの皮はすぐにはがれた。メッキだったことも露呈した。
また自民復権、安倍政権。

まだ50%近い支持率を保っているが・・・。

アメリカにしても日本にしても、選挙民はいろんな意味で「移り気」なんだよな。

アメリカの選挙結果が日本にどう影響するのか。少なくとも米軍基地の問題は何も変わらないだろう。

どう見ても安倍内閣は政治とカネを巡ってまだ揺れる。安倍に同情したいくらいだ。拉致問題だって、下手すら命とりにもなりかねないし。

政権にどう影響するかはわからないが、株高、円安は進行している。
一枚看板の「アベノミクス」を、追及する野党は、堂々と「アベノミックス」と言っているし。

院の内外・・・。
国会議事堂周辺の銀杏並木。もうすっかり実を落としたのだろうか・・・。

2014年11月5日水曜日

「危険と安全」との歪み

1F4号機にあった使用済み燃料の取り出しが完了したという。
残りは未使用燃料の取り出し。年内には完了の予定だと言う。

廃炉に向けた一つの工程が終わったことには間違いない。

でもまだまだだ。1から3号機。気の遠くなるような時間と費用、そして作業員の確保。

汚染水の問題は最近はほとんど報じられない。棟土壁の“欠陥”はどうなったのか。地下水のくみ上げは・・・。

4号機から取り出された“燃料”1Fの敷地内にある「共用プール」なるところに“保管”されているという。そこには、場を替えたものの「それ」があるということだ。

移送完了で、一つの“安全”が担保されたということか、“危険”はなお存在するということか。誰もわかっていないのではないだろうかとも。

一つの通過点は過ぎたかもしれないが、そこでは、まだ何も終わってはいないのだ。

誰かが大きな声で言った「アンダーコントロール」。それは、どこか汚染水の問題だけに特化されている。

1Fの現場内にある「危険と安全」との捉え方の問題。

政府事故調の畑村委員長が、報告書の中に書いていた文言を思い出す。あの報告書は、役人が書いた無味乾燥な文章だけではなく、多くの示唆に富んだ畑村委員長の“哲学”が込められているように感じたから。

彼は書いていた。
「見たくないものは見えない。見たいものだけが見える」と。政治家の“視察”っていうのは所詮こういうことではないのだろうか。

「有り得ることは起こる、有り得ないことも起こる」。その認識が、電力会社や政府にどれだけあるのだろう。

この畑村所感は、再稼働論議にも全く同じく通用することと思うのだが。
「有り得ないことも起こる」のだ。

“危険”というものに、もっと真正面から、真摯に取り組めということだ。

90%の「安全」、10%の「危険」。その危険はいつくるのかわからない。人は、やはり目先を考える。そして、「安全」の思考に軸足を置く。
そうしないと「やってられない」からだ。

安全か危険かの捉え方、それをめぐる“思考”の歪み。そう、彼は歪みと表現していたと思う。

歪んだ考え方と言うことではないと思う。どちらに軸足を置くかということだ。

我が家の周りでは、どういうわけか今も、今朝だって「除染作業」が行われていた。どうもマンションの側溝を除染している模様だった。

除染によって「安全」が担保されるのか。除染をしてもなお「危険」と見るのか。そこにだって”考え方の“歪み”がある。

この問題。例えば飯舘村ではどう捉えられているのだろう。「仮々置き場」まで要求される地域。

帰還問題だってそうだ。歪みが、住民たちの分断にもつながっている。

「福島」では何も終わっていない。

あの日のままの光景の場所だって、帰還困難区域に行けばいくらでもあるのだ。

政府事故調の報告書は、単に福島の総括だけではない。再稼働論議につながっていくもののはず。

報告書が出されたことで、終わりにしてはいないか。報告書は次へのステップのはず。読み返している「関係者」はいるのだろうか。

川内原発に行って「かわうち」という大臣をもってしても。こっちの川内(かわうち)は、歪の中で試行錯誤の日々だと言うのに。

「4号機移送完了」のニュースに接して思ったこと。

で、歪を無くするのはどうしたらいいのかと言う模索のこと。

2014年11月4日火曜日

「ペレットストーブを買った」の巻

それこそ「清水の舞台」から飛び降りるような“決断”をして、先ごろペレットストーブと買った。
なぜか。なるべく電気に頼らない生活をしたかったから。

冬場、暖房をホットカーペット含め電気を使っていれば約3万円はかかる。家の仕様にもよるのだろうが。そして灯油でも“補完”しなければならない時もある。灯油代も高くなった。

知人のアドバイスもあり、ペレットストーブ購入。工事費込みで30万円強。
それは電気の暖房費の10年分で相殺される。
しばし、食費と酒代を切り詰めればなんとかなりそうだ。

灯油代で大方ペレットはまかなえそうだ。10キロ680円。多分10キロは三日間使える。

設置時に試運転、それからは使っていなかったが、昨日の夕方からは寒くなった。本格使用。
手馴れないため、着火にいささか手間取り、“応援”を依頼したが。

とにかく暖かかった。薪ストーブが欲しかったけど、家の大きさ、薪置き場、手入れ・・・。何よりも、とてもじゃないが物理的に家には向かない。

ペレットストーブ、ファンが付いている。音はややうるさいが、家中が暖まるの感。何よりも体の芯までぬくもるの感。

なるべく部屋の照明も消す。炎が灯りを提供してくれる。気持ちも安らぐし。

電気が無ければ生活は出来ない。もちろんパソコンだって使えない。でも、あの原発事故以来、電気に頼り切る生活から“後退”したかったのだ。必要最小限以外は。

ペレットは基本、間伐材から木屑から作られる。乏しい知識ながら、山林の“管理”は衰退している。間伐しないために山から野生動物も降りてくる。
間伐しないと、逆に樹は育たない。

ペレットとて再生可能エネルギーなのだ。

知人が教えてくれた。ペレットストーブには助成金が出ますよと。
郡山市のホームページを見る。5万円の補助とある。30件限度で。
ところがそれは平成23年度まで。打ち切りになっていたその制度。

郡山市ってどうなっているんだろう、何考えているんだろう。少なくとも原発被災県の中核都市なのに。的外れの指摘かな。

再生可能エネルギー。太陽光発電、風力発電等々。民間は必死になってそれに取り組んでいる。ファンドを作ったりの資金手当てをして。
国を挙げての取り組みだったはず。

それがある日突然、電力会社が揃って買い取り拒否。キツネに化かされたような。電力の供給と需要に関係。多くの再生エネルギーが送り込まれると停電を起こすから、送電線が対応出来ないからだとかなんとか。

政府もそれにはっきりと異を唱えない。

間尺に合わないちゃ~この事だぜ。

太陽光発電に一生懸命だった友人の建築会社の社長も頭を抱えていた。持っている幾つかのビルの屋上に全部パネルを設置したのだから。

原発再稼働に向けての費用で、件の送電線の問題なんて解決できるはずと素人は思う。そんな知識や技術は持っているはずだとも思うから。

なんか「悪だくみ」があるんだなとも思う。
ほとんど黙して語らない、再生可能エネルギー、自然エネルギーを破顔一笑の如くどなっていたもと総理大臣。

どっかでは反原発、脱原発を言いながら、福島知事選には「無関心」だった二人のもと総理大臣。都知事選では立候補までしながら・・・。

なんかどつもこいつも何を考えているのかさっぱりわからん。
さてさて今夜の気温はどうかな。ペレットの前でペットがのうのうと寝ている。
いい光景なんだけどな・・・。

And that’s the way it is ということで。

2014年11月3日月曜日

「ハロウィン」に想ったこと

今日は「文化の日」。それは明治天皇の誕生日だった。文化の日と言う呼称は定着していても、それが明治天皇の誕生日であったということ、かつては天長節と呼ばれていたことをどれだけの人が知っていただろうか。


ハロウィンというお祭り。その「そもそも」を語るつもりは毛頭ないが。その「いわれ」を知っている人はどれだけいたのだろう。
それがケルト人の祭りに由来し、キリスト教的行事でもあるということを。

街は仮装した若者で溢れ、それぞれが、騒ぐぞ、はじけるぞ、楽しむぞ、盛り上がるぞ~~と一夜を過ごしていた。

仮装した若者たちがなぜ街に溢れるのか。仮装の中に自己を封じ込め、“他者”となることによって、何かが発散されるからだろうか。

もっとも、「おばさん達」だって、ハロウインパーティーを催していた。招かれ、致し方なく会場に行ったことがある。誰が誰だかわからない中に。
仮装を促されたが逃げて来たこともあった。
皆、楽しそうだった。

ある種、ハロウインは子供が主役の「お祭り」のはず。そして収穫祭、悪魔払い。子どもにちょっと仮装させ、扮装させ、家族で楽しむのは大歓迎なのだけど。家族でハロウインパーティーを開いて、そこで親が教えればいい。
その行事の由来を。

東京の渋谷に仮装して若者が大集結していた。それが「閉塞感」から逃れるための、ある種の「孤独感」から解放されるための場であったのかどうかはわからない。

とにかく、「祭り」が終わった後はゴミの山だったという。そのゴミを年寄や、その祭りに参加していたかどうかはわからないが、ボランティアの若者が掃除していた。

そこに見えた表面的なことだけ言う。若者の「ゴミ」を年寄が「拾う」ということ。

原子力発電。そこから生み出される光は平和の火と思われてきた。平和のエネルギーと思われてきた。安全なものと思われてきた。

原子炉の中で燃え盛る炎に「悪魔的なもの」が潜んでいるとうことを99%の人は知らなかった。1%の人は知っていたが、それを指摘することはためらわれ、排斥された。

プロメテウスという神の中の悪魔性。その悪魔払いの儀式や祈り、祭りは無かった。

プルサーマルでもMOX燃料でも、核燃料サイクルでもなんでもいい。そこからは誰が何と言おうと「核のゴミ」が出る。ゴミは貯まる一方だ。
誰かが、そのゴミ拾いをしなくてはならない。
シンボルフスカが書いた詩のように。

大人が出した「ゴミ」を拾うのは誰か。若者だ。今も、将来も。

原発とハロウイン。どこかにある「社会構造」としての連関性。そうだ。
この国はまさに“仮装国家”なのだ。
それを見抜いた若者が街に溢れるのかもしれない。
監視カメラの彼らの実像は捉えられないし。

“仮面舞踏会”はもう終わりにしよう。

「トリック・オア・トリート(Trick or treat)。ご馳走をくれないと悪戯するよ」。

悪魔の火は悪戯ではない。こどもの悪ふざけでもない。束の間もらったご馳走。それが破滅と壊滅となって戻ってくる。

やがてまた来る。クリスマスという「国民的行事」が。馬鹿騒ぎの理由づけの時が・・・。

2014年11月2日日曜日

「“萎縮”した朝日新聞」のこと

今朝の天声人語、これには笑ってしまった。書き出し・・・。
「朝日はだいぶ差をつけられてしまったようだ。いえ朝日新聞のことではありません。本紙別刷りのアンケートで“朝日と夕日、心に残るのは?”と訪ねたら、回答者のうち朝日30%に対して夕日は70%と出た」。

なんとも”自嘲的”な筆致。

置き換えてみるのもいい。朝日新聞30%、夕刊紙70%と。「誤報事件」で社長が謝罪し、購読解約など含め、朝日新聞には批判が高まっている。
政権批判。すっかり、影を潜めた。代わりに夕刊紙が連日政権批判を繰り返している。

誤報問題をかばう気はさらさらない。しかし、あの謝罪会見の翌日から、朝日新聞はすっかり萎縮した。政権批判は著しくトーンダウンした。

朝日新聞における「ジャーナリズム」は無くなった。つまらない新聞になった。

なにがきっかけかはわからないが、安倍は朝日を毛嫌いしている。潰したいとも思っているとか。まさしく「敵」ということなのだろう。

国会での質疑でも、全紙が書いているにも関わらず、朝日だけの名前を挙げ、「捏造」と決めつけた。
さすがにこれには耐えかねたのか、翌日の社説で反論した。

しかしだ。明らかに政権攻撃は影をひそめ、時によっては政権の政策にすり寄るような報道ぶりもある。

ジャーナリズムとは批判精神だ。誤報で購読者離れを起こし、これでは経営が立ちいかないということなのか。
ほぞを噛んでいる記者も多かろう。

敢えて言おう。批判精神を無くした、朝日新聞に存在価値は無いと。余計に読者を減らす“負の連鎖”に陥らないとも限らない。

明らかに政治に関する記事は減った。書くべき時に書かない。

数日前、毎日新聞の写真記者と席を同じくした。東京本社の人間だが、3・11以来、福島に時々足を運んでいる男。

「光輝く東京に戻りました。やはりどこかほっとします。それと同時に、“うしろめたさ”を覚えます」。被災地のあちこちを取材して帰京し、書いていた感想。

今回は知事選の取材も兼ねていた。バンザイする内堀事務所。彼が撮ったアングル。一緒にバンザイをする自民党の根本と民主党の玄場が並んで手をあげている光景。
その一枚の写真が、今度の知事選の「茶番」を映し出している。

彼に朝日の“萎縮”を問うた。そうだという。代わりに頑張って気を吐いているのが東京新聞だという。毎日は・・とは敢えて聞かなかったが。

その毎日が、今日の社説で、「捏造」発言を捉えて、明快なジャーナリズム論を展開していた。

古い話だが、かつて毎日新聞は“倒産”の危機に見舞われた時があった。当時幹事長だったか。田中角栄がこう言った。「毎日は潰さない。新聞社が潰れるというのは国がつぶれることにも等しいのだ」と。別に当時の毎日が、自民党寄りであったわけでもない。批判的な論陣も記事も書いていた。

田中角栄という男の「識見」だ。毎日は「再起」した。

朝日の内部のことは、社風のことも、以前書いた。記者の奮起を願う。フランスのリベラシオン紙の例に倣うべきだ。

たぶん、朝日内部でも様々な記者の自己批判と反省と再起が記者の中であるのだと思う。
経営を編集に反映させない体質作りの模索も。

でも、安倍の“攻勢”に尻尾を巻いている負け犬のように思えてならない。冷静さを保ちつつ、反転攻勢に出てはいかがかと。
さまざまなジャーナリズムが存在することに意義があるのだ。

余談だが・・・。その天声人語。なぜ人が夕日の魅かれるかについての結論が、いかにもさびしい。それが書かれていない。西方浄土という思想が日本人にはあるということだ。自明のことなのに・・・。
コラムまでもがつまらなくなっているとの感あり。

日はまた昇ると書いていた。それが「自己弁明」にも読めてしまう。

2014年11月1日土曜日

♪left Alone♪

11月だ。秋が深まって行くの感。紅葉や枯れかけた木々が、雨に濡れている。
時の移ろいも含め、なにか物悲しい秋・・・。

ジャズの名曲♪レフト アローン♪。マルウオドロンが書いた曲。ジャッキーマクリーンのサックスの音を何度聴いたことだろう。
この季節にお似合いの曲だ。

秋が去っていく。一人では無く、人を道連れにして。

たしか、この曲は、映画「マジソン郡の橋」でも、ラストシーンに使われていたような記憶がある。原作にも使われていたような。
本を読んで、自分が勝手にこの曲を重ね合わせていたのかもしれないが。

Left alone。一人で去って行くという意味か。一人ぼっちになるという意味か。

悲しみに心がわしづかみにされるような曲想。

原発事故による、“災害関連死”、年月の経過とともに増えているという。県内では57人というのが、内閣府の統計。
実際はもっと多いのだと見る人もいる。その死が“伏せられている”ことも含めて。

自死、孤独死。

被災者の診療、こころのケアにあたっている精神科の医師は言う。

「絆」「復興」という言葉がかえって彼らを辛くすると。孤独感にさいなまれて精神のバランスが取れなくなるのだという。

復興なるものが、進みつつあると言われる時、自分の周りには復興の気配すら見えないとき、絶望に支配された時。“希望”が見えないとき、彼らは選ぶ。
レフトアローンの道を。

悲しみは人を優しくさせるという。しかし、人はどれくらい「悲しみ」に耐えられるのか。

帰れる家はそこに存在している。しかし、そこには帰れない。帰ることが出来ない。見慣れた景色もそこにはあるのに、そこには立ち入れない。

その「住居」が形として残っていると、余計に、帰れないという現実が絶望感を増すのだとその医師は言っていた。

津波で家を流された人たちがいる。自力で立ち直るしかない。原発避難者には月10万円の賠償金が出る。

たとえばいわき市。避難区域の人たちはかつて馴染んだそこに暮らす人も多い。
しかし、そこには「10万円」を巡っての確執が、内在していたものが表面化してきているという。

先日、大学の同窓会で会ったいわきの経済界の重鎮だった人が、その実情を語ってくれた。

避難区域の人たちは、多くが、いわきに買い物に出かけていた。御客さんだった。それが、今は“怨嗟”の的ともされているとも。

30万人都市の中で味わう孤独ということなのだろうか。

それは一つの現実。家を津波で奪われた。家はあるが戻れない。どちらがどうだと語ることは出来ない。

「常懐悲感 心遂醒悟」という言葉がある。法華経の中にある言葉だ。

常に悲しみを懐に抱いていれば、やがて、心が覚醒するという意味とか。

しかし、なかなかそうは行くまい。悲しみが月日の経過とともに増すことだってあるのだから。

なぜ、またこんなことを書いているのか。秋は悲しみの季節だけではないはずだけど。時の経過が悲しみを連れてくるわけでもないのだけれど。

マクリーンのむせび泣くサックスに身をしばし置いてみるか・・・。