2015年2月9日月曜日

「自己陶酔」あるいは「自己愛」

全くの個人的な感想です・・・と一応前ふりをして。

安倍晋三と言う人は、きわめて自己愛、自己陶酔に陥っている人だと思う。

自己陶酔型の人は、まず自分のことを常に「正しい」と思っている。辞書にはこうある。「自分で自分自身の素晴らしさに、うっとりとすること」と。

だから自分が発した言葉、行動、それらはすべて正しいと確信している。反論したり、抵抗したりすると攻撃的になる。

一旦発した言葉は、何があっても撤回しないし、批判にさらされると、さらなる言葉でそれを糊塗しようとする。

自己陶酔型の人は、多くの人が自分を支持してくれていると思っている。
支持してくれているような人は「仲間」だと思う。

だからよく使う。「我々は」という言葉を。そして、徹底的に持論、自論の拘泥する。何があってもそこから抜け出そうとは思わない。

そしてあり人達は、それをして「論を曲げない立派な指導者」だと見る。

国会で野党が質問すると、あらかじめ、なんでも自分を攻撃してくるのだと確信しているから、滔々と持論をまくし立て、いわゆる「かみ合わない議論」を招く。

政治家にはえてして「自己陶酔型」が多い。いや、そうでなくてはなれないのが政治家かも。

田中角栄だってある意味「自己陶酔型」だった。自らの演説に酔っていた。
日本列島改造論は多くの支持をもって迎えられた。その渦中にいる時は、それが、やがて何をもたらすかを想像もしていなかったと思う。

かつて保守の政治家は、政界とは直接関係ない、政治家で無いブレーンを持った。その人たちに「指南」を仰いだ。

それは安岡正篤であり、四元義隆であったり。少なくとも安岡は頑迷固陋な「右翼」でも無いと思っている。東洋思想家だとも。そして人の思考に範囲は余りにも広かった。

みるところ安倍にはそういう「師」はいない。いや、求めないのだろう。自己愛で生きているのだから。

人間だれしも自己陶酔という心根を持っている。

例えば三島由紀夫。盾の会を作り、自衛隊員を前に檄文を読み、割腹。まさに「自己陶酔の世界」にいた。ある人はそれを“狂気”だと位置付けた。そうは思わなかった。彼の耽美観。美の追求の結末だったとも思う。

例えば反原発集会に参加している人達。その運動、行動に参加した、そこに居たということでの「陶酔」。

安倍とは対極のものだが。

で、安倍の自己陶酔。こよなく危険だと思う。

ギュスタフ・ル・ボンの論考を借りるまでも無く、どこか、国民大衆を扇動し、全体主義的国家を目指すあのヒットラーに似通う精神性を感じるから。

「もう一人の自分」という言葉がある。それはえてして物を考える時に言われる言葉だ。もう一人の自分。それはもう一人を諌める自分だ。

自己陶酔型の人には、おおかた「もう一人の自分」というものが存在していないのだろう。

安倍晋三という人の“精神分析”をしても始まらないが、時々彼の眼に宿る“狂気”の眼差しから逃れたいと思う。

彼の「陶酔」が、どこかでは生殺与奪の権を握ってもいるのだから。

余談にようだが、村上春樹がアベノミクスを皮肉ってか、猫と借りて、そう彼は猫好きらしいのだが、ムラカミクスというのを書いているとか。
「一の矢、知らん振り。二の矢、照れ隠し。三の矢、開き直り」だそうだ。

猫は自己愛が強いのか。陶酔型なのか。猫にあったら聞いてみよう。

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