2016年7月26日火曜日

時代の正体としての”デカダンス“

昨日、「ポケモン現象」のことについて書いた。反響もいただいた。
今日、定期の病院へ行った。その医師は時流になかなか敏感だ。
病院で交わす話ではないが、ポケモンのことを話し合った。

彼は「お試しダウンロード」をしたという。彼はその病院の理事長だ。理事長室にもポケモンが2匹いたという。あまりのバカらしさに呆れ、もし院内にポケモンがいたらどう対処しようかさんざん考えたという。

「私はあのゲームには絶対反対です。余りにも反知性的です」と言っていた。

それにしても、この国のメディアは何を考えているのか。
ある日までそれを礼賛し、各地で事故が多発すると、まるで踵を返すようにその弊害を言い募る。
「若者が楽しんでいるのを大人がとやかく言うことはない」と言っていたコメンテーターまでがだ。

ある日を境に、それは社会事象となり、いやそれとてもメディアが位置付けたものだが、あっと言う間に伝播していく。
その光景はパソコンンの新しいソフトが出た時に朝から店頭ならび殺到した光景にも似ている。
それの使い方もわからないという人までも。

時流に乗り遅れまい。その根底にあった意識。

ポケモンはたとえば1F構内にも出現しているという。帰還困難区域にも出現しているという。
ポケモン、それは「商業主義」の行き着いた先だ。

伊勢神宮などでの「ユーモア」溢れた拒否看板が礼賛される。
学校の校門にある“校内のポケモンは保護されています。密猟者は停学にします”というタテ看が話題となる。

おおらかな国民性だ。

ポケモンを「文化」と言った人がいた。おもわず浮かんだのが「デカダンス」という言葉だ。比較しては、同位置で論じてはいけないのだろうが。

デカダンスという言葉は、発祥の地であるフランスと日本ではいささか趣を異にしているようだし、その解釈にも、たとえば耽美主義というものが入ると、勢い「文化論」になる。

今度の場合は、単純に「退廃的」と捉えて書いている。珍奇なものを求めて,耽美的・官能的な刺激に浸ろうとするという意味でも。

そして思う。

メディアの余りにも想像力の無さを。
想像と想像力とでは全く違う。

ポケモン探しのスマホの画面はまさに“想像”だけの社会だ。

「想像力」とは、それぞれが考えた上での己の力を養うことだ。社会事象を見る眼の中で一番重要なことだ。
逆説的なメディアリテラシーだ。彼ら自身に突き付けられた。

そして言う。今の日本人は、限りなく「想像力」を養わず、持たなくなっていると。想像力の前にまず「迎合」があるということを。

戦時中、大本営発表を、軍部に迎合して”事実“の如く伝え、ポツダム会議のことも国際情勢に対する想像力を働かせず、宣言、会議それ自体にすら反論していたことを。
それが敗戦を遅らせた大きな原因であったということも。

きょうもまた言う。

「バーチャルの世界に身も心も耽溺させて、その結果が何をもたらすのか」と。
「バーチャルの世界は、おしなべて現実逃避の場」なのだと。

バーチャルの世界に存在しているものって何なのだろう・・・。

このばかばかしい騒ぎについてはもう基本的に触れることをやめる。それに“異論”を唱えることが、その時流を煽ることにもなりかねないから。

少なくとも、文化を含め、「デカダンス」の時代は終わっている・・・。
平成のポケモン・デカダンスも終わりが来るだろう。後には何が残るのか。

芥川流に言おう。「その行方は誰も知らない」と。

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