2016年10月16日日曜日

「ディラン」と「春樹」と「風」

ノーベル文学賞を歌手のシンガーソングライターのボブ・ディランが受賞した。
「偉大なアメリカの歌の伝統に、新たな詩的表現をつくりだしたこと」が受賞理由だと選考委員会は述べた。

詩と文学と。

文学賞に詩が該当するのかどうか、議論は別れているようだ。
でも、詩は文学であっても構わないのではないか。
ホメロスの大叙事詩は文学そのものではなかったのか。

文学というといささか難解なものを珍重する傾向があるようだが、詩だって”難解“なものはある。

それにしてもボブ・ディラン。懐かしい名前だ。
彼の代表作「風に吹かれて」。

これまで何回聴いただろう。聴かされただろう。
歌詞の和訳の一つ。
「どれだけ道を歩けばいいのか。一人前の男と呼ばれるまでに。
幾つの海を白い鳩は渡らなければならないのか。砂浜で安らぐまでに。
何回砲弾が飛ばなければならないのか。武器が永久に禁じられるまでに。
その答えは友よ、風に舞っている。答えは風に舞っている」。

風とは何か。

風に舞っている答えを見つけるのは歌を受け止めた人のそれぞれの思考に委ねられている。と思う。

風とは「空気」だ。

ノーベル文学賞候補に今年も村上春樹が挙げられていた。いや、正確にいうなら、そう我々は期待していた。

村上文学のフアンである。あの春樹ワールドにずっと惹かれて来た。
村上春樹の小説家としての第一作は「風の歌を聴け」だった。
トルーマン・カポーティーの「shut a final door」の最後の一行。
「think of nothings think of wind」という言葉から引用された小説の題名。

村上文学にも最初から「風」が登場している。考える材料の一つとしての「風」。

そして、村上春樹も多分ボブ・ディランのフアンだったのではないか。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の中にもボブ・ディランの名前が登場している。

村上文学の特徴は、常に「音楽」を伴っていること。それが魅力の一つだと思っているのだが。

4巻にわたる「1Q84」が出された少しあと、4巻目の終わりが何やら続きを思わせるようだったので5巻目を期待していた。

その頃だ。ちょうど「3・11」が起きたのは。

春樹が「3・11」をどう捉え、どう書くか。期待した。結果、書いてはいなかったような気がする。ちょこっと触れられた著作もあったようだが。

「多崎つくる」にはそれが巡礼の旅とされていることから多少の“予感”は持ったが、期待には応えてくれていなかった。
「女のいない男たち」も、「職業としての小説家」にしても、いささか食い足りないものが去来した。

それはそれとして、ボブ・ディランにしても村上春樹にしても「風」という言葉で繋がっている。

ガロの♪学生街の喫茶店♪という歌が流行った時代がある。喫茶店で黙って聴いていたボブ・ディラン。

この頃のいわゆるフォークソングに敢えて名前だけを書いたということ。
ボブ・ディランという名前を書くことによってあの頃の、1960年代後半から70年代にかけての“沈黙し始めた”若者にメッセージを与えたと言うこと。

風とは空気だと書いた。

今、我々の周りに吹いている風は・・・。
我々を取り巻いている空気は・・・。
そして世界を覆っている状況と空気は・・・。

砲弾は飛び交っている。白い鳩の象徴である平和は極論すれば言葉遊びのように使われている。

ノーベル賞選考委員会が「風に吹かれて」という曲だけを対象にして選んだのではないことは勿論だが、“不易流行”という言葉がある如く、あの歌が今歌われていても何の違和感もないということ。
いや、あのベトナム戦争の頃よりも、現在に通じる曲であり、詩であるということ。

古色蒼然としたようなノーベル賞選考委員会もなかなか「粋な計らい」をしたもんだと。

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