2017年3月28日火曜日

訃報ありて後・・・

先々週、学生時代の友人の訃報が届いた。あまりにも愕然として気力すら失せ、彼の事を思い、学生時代のことを思い、何もする気が起きなかった。

彼の名は小澤という。大学の新聞学会にいた。
中学・高校と新聞部にいた身としては、大学でも新聞部のようなところに入ろうとなんとなく思っていたのだが、何をどう間違えたのか音楽研究会なるところに飛び込んでしまった。
主因はその音楽研究会吹奏楽部の部長を中学の先輩がやっていて、「来い」と誘われたことによるのかもしれない。

彼と知り合ったきっかけは定かでは無い。新聞学会の部室に年中出入りし、近所の食堂や喫茶店によく一緒に出掛けた。

彼は足が不自由だった。すごく不自由だった。いつも転びそうな歩き方をしている。
並んで歩くと自然に彼の手が伸びて来て肩を貸すような具合になる。
それが二人、いや新聞学会の仲間達にとっては全くの普通の関係、姿だったのだ。全く苦にならないような関係だった。

彼は大学卒業後、科学技術情報センターに就職した。総理官邸から溜池のほうに坂をくだったところにそのビルがあった。
官邸界隈をうろちょろしていた僕は、時々彼の職場に顔を出した。
「ここは上は皆役立たずの科技庁からの天下りだ」と臆面もなく言ってのけていた。

福島に来てから彼ともだんだん疎遠になった。お互いそれを望んでいたわけではないが時の流れだ。どうしているだろうか。時々気にはしていたが。

一昨年脳梗塞を患い、歩行が困難になった時、彼のことを思い出していた。
御茶ノ水駅から大学までの坂を一生懸命下りてくる姿。
大学界隈をうろついた彼の姿。

彼の訃報を知ったのは弟さんからの手紙だった。肺炎だったという。発症したのが1月20日。悪化して行って亡くなったのは1月31日だったと言う。
1月20日、まさに肺癌の手術をして入院中だったのだ。亡くなった31日、翌日は僕の誕生日だった。再入院した時の病室がホスピス病棟。
そこでもなぜか彼の事を思っていた・・・。

彼の足が不自由になったのは高校くらいからだと書かれていた。原因も治療法もわからない疾患だったという。

彼の訃報はいままで人の死をさまざま見知って来た身でもあまりにも衝撃的だった。絶句だった。

このからから亭、ようやく再開にこぎつけたのに、2週間近く間を空けてしまったのはその衝撃の余波だった。

新聞学会の同級生だった奴をようやく探しだし連絡がつき、あらためて彼の晩年の様子を聞くことが出来た。
70歳まで杖を突きながらも勤務していたという。その後しばらくして体調がすぐれなくなり、療養施設で1年間手厚い看護を受けながらの最後だったと聞いた。

様子を聞いて気持ちの整理がついた。で、ブログ再開にこぎつけた。

彼の墓参はまだ叶わない。花を手向けてねんごろにと思えど果たせない。ただ頭をたれるのみだ。

もろもろ「死を想う」。特に桜花の季節を迎えるとなると・・・。

2017年3月27日月曜日

「よろしく」から「忖度」へ

日本語にはどう解釈したら、どう捉えたらいいのかわからない、がしかし“便利”この上ない言葉がある。

「よろしく」という4文字だ。なにをよろしくという目的語もつかない用語。

政治家からよろしくと言われれば、その意味を忖度してなんらかの措置を手当をするのが官僚だ。

他人の心中をおしはかり、推察することを忖度すると言う。

今、官僚は官邸の意向を忖度することに必死だ。官邸の意向に沿うのなら黒を白とも言いかねない。

忖度に良いも悪いもない。忖度は忖度だ。女房だって夫の意向を忖度するってことは十分ありがちだ。

「一般人」の世界にだって。

安倍政権の“ずるい”ところは、官僚の人事権を官邸に”一極集中“させたことだ。内閣府の中にか、人事局というのを設置し、官僚を「管理」しているのだ。

国会議員の仕事でかなりの時間と働きを要求されることに「陳情」がある。
地元選挙区からの「陳情」に応対し、それに応えること。特に自民党にあっては長年の慣行であり、それをうまくさばけるかどうかが、その人への評価となる。選挙へ影響する。
しかし、陳情できるのはすべての人では無い。各種団体や地元の首長など限られた範囲の人たちだ。

陳情を裁くのは概ね第一秘書だ。役所に同道するのも常だ。
橋をかけろ、道路を作れ、道路の格をあげろ、国有地や国有林の扱いをどうにかしろ。などなど陳情の内容は多岐にわたる。

族議員が生まれる温床もここにある。

役所に行って「よろしく」とさえ言っておけば、役所はその意向を忖度して動く。一言、電話かけるだけでもいい。

これが政治の、国政の中に有る一つの実相だ。選挙区制度のなせる業だ。

国政全般について勉強し、論議をする傍ら、優先されるのは「地元対策」なのだ。

国会議員の多くは、この「よろしく」と「忖度」と「地元の意向」との中で蠢いている特権階級なのだ。特権階級に押し上げたのは国民なのだ。

官僚はおろか自民党の国会議員だって、大方は安倍の、安倍官邸の意向を忖度している。
忖度政治は何も今にはじまったことじゃないのだ。

そうした日々の中でこの国の政治は劣化の一途をたどっている。

そして官僚は勝手に公文書とも言われるものを破棄したりのしたい放題だ。
破棄したと言われるものが残っていた例もあるが。

公文書、公文書に等しいもの、それを残してあるかどうか。保管されているかどうかは、国の歴史にもかかわるものだってあるのだ。

福島にある「忖度」を考える。
東電は国の意向を忖度しているだろう。原子力規制委の意向も忖度しているだろう。
帰還をめぐり住民の意向も、当該町村の意向も忖度の範疇に入るのかもしれない。

忖度政治はなにもいまさら始まったわけではない。
敗戦直後から進駐軍の意向を忖度して行われたことも数々あった。

今でいう「忖度」の範囲から外されているのは沖縄だけかもしれない。

今夜で国会は一区切りつきそうだ。予算が成立するから。

なぜ野党はおめおめと今日の採決に応じたのだろうか。
野党は安倍の何を、自民・公明の何かを忖度したのだろうか。

何も解明されないままの“いきなり選挙”ということかな。

2017年3月26日日曜日

劣化の中の腐敗

病院通いに明け暮れている。かなり回復してはいるものも”劣化“は進んでいる。身体も頭脳もだ。医者との間の会話には「加齢」という言葉がしばしば登場する。自分が劣化していく中で、この国の劣化を連日見聞きしていることにたまらない焦燥感を覚える。

誰かが嘘をついている。

その嘘を誰が暴けるのか。アガサクリスティーか、刑事コロンボか。


「嘘」や「虚偽」が国権の最高機関であるべき国会の中で、また、我々の生殺与奪の権をもっている官僚の間で、臆面もなく平然と横行していることに言葉は悪いが、思わず嗤ってしまう。

諦めの感情に支配されてくる。


政府は答弁書という公文書の中で総理夫人を「私人」だと位置付けた。
ならば、それでもよかろう。しかし、ならば、その「私人」に国家公務員を「総理夫人付」という”肩書“を付与し、夫人をして”わたしの秘書“と呼ばせるのか。

公人か私人か。靖国参拝時に閣僚にそれを聞きただすことを取材の一つだと思っているマスコミもおかしい。
国から報酬を受け取っている以上、私人は有り得ないのだ。使い分けは許されないのだ。

道徳教育を言うなら、論語に尋ねるまでもなく、こんなことは基本中の基本だ。

自らが置かれた立場や身分に“勘違い”をしているのだ。私人付きの女性官僚が国政に関与する行為をやっている。

矩を超えているのだ。

心の欲する所に従えども矩を踰えず 。すでに70を大幅に超えている者が思い浮かべる言葉だ。


歪んだ国家がさらに劣化している。歪みは腐敗を伴う。

「森友学園問題」。すべからく、あまりにも悲しい喜劇だ。籠池は事実は小説より奇なりと言ったがこんな見苦しい、愚かな喜劇を、小説を書ける人はいないだろう。

道徳を説く学校経営者が、およそ我々が思う道徳の範疇から逸脱し、政治家や官僚を使って己が「我欲」を達成しようと図る。

多くが「知らぬ存ぜぬ」と保身を図る。

政治の劣化だけではない。この国の、我々が戦後手中にした民主主義という理念の根幹が、政治を舞台にして揺るがせにされているのだ。

権力者は往々にして卑怯な振る舞いや言動をする。
それを「政治」ということの理念や哲学を全くわきまえない政治家たちが擁護して回る。

かって堺屋太一という元官僚の作家が、講演でよく語っていた戦後の三大神話。
その一つを書く。

「政治家がいかに無能であっても官僚は優秀だから、何事も官僚に任せておけばいい」。

官僚天国なのだ。公然と行われる「天下り」も含めて。

官僚が総理大臣含め、政治家をうまく操っている。

世論に押されて官僚機構にメスをいれてはみても、その先の、為すべき施術を政治家はわからない。そこに優秀な外科医はいない。

サイコパスが大手を振っている。
平気で嘘をつく。それが悪いことだとは思わない。そんな性格破綻者。

政治を読み解くには心理学者や精神科医の見立てが必要なのかも。

右翼かぶれの大阪のおもろいおっちゃんに、ずる賢いおっちゃんに政治家が振り回されているの”喜劇“。その劇の脇役には、あらゆる”劇“がそうであるように、必ず女性がいる。総理夫人、籠池夫人、顧問弁護士だったひと・・・。

こんなことで政治の中枢がてんやわんやの時、福島では何が起きているか。
帰還問題含めて。福島の課題は枚挙に暇がないはずだが。

2017年3月12日日曜日

そして7年目に・・・

早朝の地震は嫌な感覚でした。さっきもありました。
6年前の3月11日、地震と共にいきなり空が雲に覆われ、雪が舞い、3月とは思えない寒さでした。
そして夜中、どうにか片づけた部屋で、度々の余震に飛び起きながらの仮眠でした。
翌12日の天気は良く覚えていません。何をしたかも記憶に無いのです。
今日のような春を思わせる陽気だったのか。

ようやく入手した小さなテレビで、三陸の大津波の惨状にただただ呆然と見入っていたような気がします。

「3・11」に節目なんてありません。単に月日の経過が6年から7年になっただけです。

「時代を追うこと、それは人間を追うことです」。

ウクライナのノーベル賞作家、スベトラーナ・アレクシェービッチが自作「チェルノブイリの祈り」に書いている言葉です。その通りかもしれません。
被災者の声をひたすら聞き、それに注釈を加えることなく書き続けると言う彼女の文学手法。

被災地の被災した人たちにとって大方は節目の無い時代の流れなのかもしれません。そこで日々さまざまな出来事があったとしても。
時代を追うために人間を追うのか。人間を追うために時代を追うのか。
被災地の、被災した人の姿を追うことが事実としてこの時代を語るということになるのでしょう。

仮設問題はいまだ解決していません。3万人以上もの人が仮設に暮らしています。そこが人間同士が身を寄せ合い、語り合えるコミュニティーとなった仮設もあります。

何回も訪問しましたが、4畳半二間に家族が住む。衣料品だって最小限しか買えない。置くところがないのだから。
天気のいい日は表で勉強している子供もいる・・・。
敗戦後、しばらく復興住宅なるところの一間で暮らしていたものにとっては、それがどんな環境なのか実感としてわかるのです。

仮設で亡くなった人は1,700にものぼるということです。その死をどんな状況で迎えたのか。

入院していた最後の病室はホスピス病棟でした。病室の空きの関係もあったのでしょう。また、そこには神経科の医師もいます。疼痛緩和にはその病棟がよかったのかもしれません。

ホスピス病棟は病院の中でも別次元のような空気がんがれています。
静かで穏やかな空気。
看護師さん達も皆穏やかで丁寧なのです。

乱暴で粗野な言い方ですが、そこは病院の中にあって、病気を治すための病院にあって、“死”に一番近い場所です。多くの方がそこで終焉の時を迎えるのでしょう。
大きな病院で、痛みを緩和するための措置としてモルヒネを投与されながら意識が混濁したまま癌で亡くなっていった友人の姿を思い浮かべます。

痛みが緩和すれば退院できる患者としての自分は、その病棟にあってはまさに「異質の存在」であったと思います。
その病室の中で、薬のせいがあるのかもしれませんが、うとうととしながらどうしても、それは痛みと言う苦痛のせいかもしれませんが、それと闘う気力よりも自分の死と言うことを毎晩のように考えていました。

といってもそれはどんな死に方をするかと言うよりも、葬儀の段取りとかその運営とかきわめて事務的なことであり、しかし、それらで家内に未経験の負担を与えるよりは自分で取り仕切っておこうというおかしな話なのです。

仮設で死ぬと言うこと。そこは病院では無く、「今」の家なのですが、不慮の事故は別にして、孤独死は勿論のこと、「終焉」をどうするか、ある意味身勝手な想像なのです。

子供の頃からも人は死について考えます。大人になって他者の死にかかわると、また、その時の自分の年齢にみあったような考え方をします。
高齢になって入院すれば、それはそれで、また違った考え方をするものです。

それは身内を亡くした被災者の方にとってもそれぞれの捉え方、考え方があうでしょう。

病院の中で考える死。死を考えたということ。それも一つの勉強でした。

2017年3月11日土曜日

“帰還”するといえども

入退院を繰り返して、過日、ようやく帰宅となりました。
帰宅後もほとんどが寝た状態でした。

肺癌そのものはどうやら摘出成功のようで、傷もだいぶ癒えてきました。

問題は「痛み」だったのです。手術に伴う神経の損傷、あるいは過敏。
どうももともとこの種の痛みには敏感だったようで。

疼痛緩和のための入院が長く・・・。
とりあえずは“帰還”しました。
退院後も副作用を伴った痛み止めを服用中です。
薬には相性があるようで、そのクスリにたどりつくのに時間がかかり、痛みは緩和されつつあるも副作用の症状もろもろ。

最たるものが眠気とだるさ。よってほとんど寝ているといったような状態で。

パソコンに向かう気力とてなく、無気力、怠惰のみの後期高齢者だったのです。

きょうばかりは「からから亭日常」を復元させねばなりません。
「3・11」後、「仮設が無くなるまで毎日書き続ける」と豪語しました。

一昨年の脳梗塞でそれが途絶えました。その後はご承知の通り。数日おきであたり週刊のようであったり。そして今回の途絶状態に至り・・・。

慙愧に耐えないのです。

きょうでまる6年です。きょうだけは書かないといけないとおもい慣れない手付きになりながらキーを打っています。
思考能力も大幅低下のようですが。

6年を一括りで語れる言葉なんて持ち合わせていません。
それぞれの6年があったのですから。

それぞれの人がそれぞれの思いで、置かれた場所であの日に思いを馳せると言うことでしょうか。

どんなに言葉を並べてみても、6年前のこと、その後の6年間のこと。語れるものではありません。被災した当事者ではありません。
しかし、一人の人間として、福島県に居住するものとして、考えることは山ほどあるのです。

一生、考えて行かなければならないことばかりです。

原発事故を含め、3・11は人のこころを大きく変えました。良いとか悪いとかではなく。

3・11は「分断」と言う言葉を如実に示してくれました。特に、放射能にまつわることどもは県外・県内の分断。県内どうしの分断、被災者、避難者同士の分断を招きました。

「人間が分断される」。

光景が変わったところもあれば変わらないところもある。
しかし「フクシマ」にあっては多くの事が変わった、変えられてしまった。ということになるのです。

単に6年と言う時日が経過したに過ぎないかもしれません。しかし、6年を契機にいろいろなことが変わろうとしているのです。
変わらざるを得ない状況が作り出されているのです。

最たるものが「帰還問題」です。今月中に一部の帰還困難区域を除いて、その動きが加速されます。
大きな選択を住民は迫られます。

病気を経験した者から言えば、医療機関が全く整備されていないところへの帰還は大問題なのです。
帰還者の多くが高齢者であると言われることからしても尚更のことなのです。

除染やインフラ整備。或る程度改善されたといわれます。
医療機関への言及はあまりありません。
住民へのアンケートによればそれが一番の関心事・問題事なのですが。

極端に言えば、病院が無いということは生きる権利の剥奪でもあるのです。

6年・・・。新たな軋轢が始まる時とでも言えましょうか。
県外避難者への支援打ち切りに始まって・・・。

6年と言うのは歴史の通過点です。

悲劇を悲劇として捉える。そんな「素直な感性」がより求められてくるのです。

東芝の例をもってしても原発事業は儲からない。あの大企業の存立すらあやうくしている。アレバ社だってそうだった。

原発は経済成長や”豊かな暮らし“に逆行している。素直な感性の中で、そのことを考え直すための6年と思ってもらってもいい。

もろもろ、6年以降は、新たな困難の始まりだ。
そんな気がしてもならないのです。

とりあえず力尽きました。きょうはこの辺で・・・。
「復活」する考えですので。