2017年7月27日木曜日

「玄人」と「素人」と

玄人とは「専門家」と置き換えてみる。
素人とは一般大衆、国民と置き換えてみる。

専門家は誰に対して、誰を対象に、誰のために仕事をしているのか。

相手は素人だ。一般大衆だ。

その仕事は、為すべきことは素人にわかりやすいものではなくてはならないはず。

それこそ素朴な“問題提起”。

政治家は政治の玄人のはずだ。それでメシを食っているのだし。
しかし、玄人の故か、彼らの言動・行動は素人にはわかりにくい。

丁寧に説明する。そう言った人の言がすでにして国民には分かりにくい。
理解不能な部分が多い。

彼らに“ノブレスオブリージュ”(高貴なるものの責任)を求めても致し方ない事だが、政治の世界では、玄人のやっていることは裏ワザ、寝業、何かの意図が常に垣間見える。高貴さはどこにもない。

二階と言う自民党の幹事長が暴言を吐く。素人は暴言と受け止めても玄人のなかでは受け取り方が違うようだ。

「自民党はいろいろ言われているが耳を貸す必要は無い。正々堂々と自信を持っていけばいい。」
「だいたい、いい加減な事を書くメディアの人がいる。こっちは料金を払って読んでいるんだから、書く方は責任をもってやってほしい」

これが玄人の味方だ。裏にはなにかの意図がある。
それを読み解くのは“玄人”の政治記者のお仕事なのだが。

素人として、一般人として、多くの義務を課せられている国民として言おう。
「バカ言ってるんじゃない。ジコチュウもいい加減にしろよ。あんたらの給料は我々の払った税金でまかなわれているんだ。まっとうな政治をしろよ」と単純明快に。

玄人の特性として、攻めには強いが守りには弱いという傾向がある。
かつて民社党は自民党を攻めにせめて政権を勝ち取った。

政権に着くと守りの弱さが露呈した。鳩山、菅、野田。次々と党首が変わり、選挙でみじめな敗北をきした。
そういう意味では安倍は守りに強かったといえるかもしれない。皮肉なことに。

民主党の陰の立役者だった小沢一郎も守りには弱かった。それは彼が自民党にいた時を振り返ってみてもだ。

民進党の蓮舫が代表を辞任した。攻めには強い彼女も、党内問題含め、いや、党内からの攻めには、守りには弱かったのだ。

素人の世界では攻めになんとかとか守りになんとかという特性は無い。

守るべきは自分たちの生活なのだから。

メディア、特にテレビは何かがあると必ず「専門家」という玄人を登場させる。
専門家とはそのことについての知見はあろうが世間一般にすいては視野が狭い。

だから時々素人はその狭い視野の見識に戸惑う。

原発事故がその典型かもしれない。例えば1μ㏜を巡って専門家の見解は、安全か安全でないかを巡って二分されていた。
「避難」を左右したのは素人がつぶやいたネットの言辞だった。

原発についてはまったく素人のはずの安倍が「アンダーコントロール」などとほざいた。
本当の素人はデブリを確信していた。

あれから6年以上経って、ロボットの画像を見て、なにやら渋々のようにデブリを認める専門家、玄人。

素人の国民は玄人である官僚をクビには出来ない。
素人の国民は「選挙」という大きな権利を持っている。総理大臣をすらクビに出来る。

政治家が「職業としての政治家」「職業としての専門家、玄人」であるならば、素人をもっと畏怖すべきだ。
それが民主主義というものだとあらためて思うのだけど。

2017年7月26日水曜日

「サイコパス」と「健忘症罹患」の政権

今、我々はこんな情けない首相や閣僚、卑怯な官僚たちによって「支配」されている。
そこにはまともな政治や統治機構は存在していない。

都合の悪いことは忘れる。忘れたと言い張る。情報を隠すことによって政権を守ろうとする官僚や政治家が大事にされる。

民主主義の“根幹”がすべてないがしろにされる。


悲しく、悔しい。

政治を知らない人が、知ったふりをして政治をやっている。
公僕たる者の役目をわきまえず保身のみに官僚は走っている。

国民に嘘を言い募り、たった一人の腹心の友を庇うと言うこと。

平気で嘘をつく。自分が嘘をついているという認識が無い。そんな人を「サイコパス」と呼ぶそうだ。

「これまでの発言を反省し、真摯に答弁し、丁寧に説明する」。そんな殊勝な首相に大変身したのかと思った。間違っていた。丁寧なのは単に我慢を重ねた口調だけであり、話の中身は全く丁寧では無く、空虚な、虚偽に満ちたものだった。

「信無くば立たず」と言った。その言葉を知っているかどうかはともかく、
その言葉を愚弄しているような、その言葉が意味を為していないような“政治家御用達”の座右の銘。
それを実践しているとは誰も信じてはいない。

「李下に冠をたださず」と言った。為政者の“怪しまれるような行為はしてはならない”という教えを自らに垂訓した。

笑った。共謀罪をめぐる議論の中であった光景。花見に酒とゴザをもっているのはよく、地図と望遠鏡を持っているのは怪しいものとして“監視・捜査”の対象になるという話し。

妙に重なっている。

「総理、今、立派なお言葉を伺いました。それの対句はなんというのでしょう」。とでも質問してみればいい。正解がでるかどうか。
「瓜田に履を納れず」です、という答弁は期待し難い。

「いま総理の口から李(すもも)というお言葉が出ましたが、総理が卒業された成蹊大学の名の由来は何と言うところから引用されているのでしょうか」とでも聞いてみればいい。

多分、「学校の授業の様な事を国会で質されるのは心外です。どういうおつもりで聞かれているのかわかりません」
そんな怒声が聞こえてくるような。

「僭越ながら、学校は違いますが、成蹊の意味は、桃李もの言わずしてその下自ずから蹊(こみち)を成す、徳の高い人の下には、その人が黙っていても教えを乞いに人が集まってくる、そう聞いています。
この際、母校の建学の理念に学ばれてはいかがですか」。なんて聞いてみればいい。



「記憶にない」を連発する。それは“健忘症”という神経疾患に罹患しているのだ。記録に無い物は記憶にない。もう聞き飽きた「その場しのぎの言い逃れ言語」。
加計問題を知ったのはいつかと問われ、過去の言辞や記録があるにもかかわらず「今年の1月20日だ」と言い募る。嘘だ。

重ねて言う。
丁寧に説明すると“豪語”した安倍。言葉は丁寧さを装っていたが、答弁の内容は全く丁寧では無い。殊勝なことを言いながら、穏やかな“喋り方”に徹していたようだが、かえってその中身の虚偽と欺瞞が暴露された形だ。

都合の悪いことは忘れる。文書は捨てる。文書を捨てるという事は歴史を消すという事だ。
情報を隠すことで政権を守ろうとする。そんな在り方が「政治を信用できない」という国民の不信を増幅させる。

政府を信じる国民がだんだんいなくなる。そんな「不幸な国」あって「幸福論」を唱えるの愚。

まっとうな政治を求めることは無い物ねだりなのだろうか。

2017年7月21日金曜日

「こんな人たち」がいる光景

「戦後最悪の政権」と言われた安倍政権。多くの日本人は疑念を持つことも無くそれを支持してきた。あの都議選までは。

「大衆は支配されることを願っていた。支配する側は、大衆が見たがるものを提供してきた」。
こんなセオリー、力学が働いているようだった。

都議選最終日。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」。この安倍の一言が、大衆の“支配離れ”につながった。
自分に反対する者を敵視した発言。それは安倍支配から離反する意志を抱かせるには十分だった。大衆は支配者の無様な言動は見たくなかったのだ。

「ひとたち」。個々人を十把一絡げに呼ぶことへの反感。大衆は支配からの脱却に走ったのだ。

世論調査の支持率下落。それは政策の問題ではなくなり、好感度と言う感情の問題へと変化したのだ。
「首相が信頼できない」が不支持の理由の圧倒的多数だったということ。

致しかたあるまい。それが安倍の「本性」だったのだから。

「戦後最悪の政権」と書いた。
続々と問題を起こし、事実の「隠ぺい」を図ることに腐心する閣僚のなんと多い事か。
さらに答弁能力もない閣僚。

日本人は、潔癖を求める特性を持つ日本人は「隠す」「ごまかす」ということに敏感に反応する。

今、数年前にあった出来事を思い出している。
2013年の参院選挙。第一声を福島で発した。

安倍の演説が始まる前、その会場のビルの陰に一人の女性が立っていた。
持っていたのは“総理、質問です。原発廃炉に賛成?反対?”と書かれたプラカード。
その女性は二本松市の寺の副住職の奥さん。子どもを育てている。たしか保育園もやっていたような。

その女性、佐々木るりさんを警備の警察官と自民候補の運動員が取り囲み、プラカードを取り上げ、彼女をその場から遠ざけた。

安倍はそのプラカードを眼にすることも無く、辞めろ、帰れの声を聞くことも無く、「仲間」に囲まれて”気持ちよく“喋っていた。

反対する者が嫌いなのだ。反対するものを攻撃する。性格の為せる所以だ。

もし、彼女がプラカードを掲げてその場にいることが許されていたら、「あんな人に負けるわけにはいかない」と絶叫したかもしれない。

整えられた環境の中で喋ることは得意だ。反対する人、人達と「対話、議論」することは嫌いだ。

宰相としての“資格が無い”ことを一般人は見抜いたのだ。

閣僚たちがさまざま「問題発言」を繰り返している。しかし、何があろうと王様は彼らを庇護しようとする。

それにしても自民党は落ちぶれたものだ。支持率の低下を見た途端に「反安倍」のような言葉を口にし始める。
自分たちに被害をあたえるような力が無くなったと見込んで。

反安倍を言うなら半年前、一年前に言うべきだったのに。なんだか見苦しい。

そして国会の“作法”。相も変わらず「足して二で割る」手法がまかり通っている。
閉会中の予算委の質問時間の配分の“調整”。
慣例は与党2野党8だったのを5対5にしようと言いだし、中を取るような3対7。

「真摯に説明責任を果たす」「反省の上にたって丁寧な答弁を行う」。にわかには信じられない。

“起死回生”を目論んで安倍は人事を行う。夜な夜なの「会食」。
麻生太郎、岸田文雄・・・。下手をすれば離反するかもしれない閣僚とメシを食う。エサで手懐けているような光景。

東に高級料亭で密議をこらす「国民の生命と安全を守るべき政治家」
西には大水害にあい、酷暑の中、食の安全すら懸念される環境の中で、配給される被災者、不明者の捜索を続け、黙々と復旧にあたる自衛隊員がいる。ボランティア作業にあたる「そんなひとたち」がいる。

自衛隊のトップであるべき人が「嘘」の上塗りをしている。

2017年夏の日本の光景。


2017年7月17日月曜日

「ふるさと納税」なるものが理解できない

ふるさと納税制度なるものが導入されたのは第一次安倍内閣の頃だと思う。
それは地方税だ。地方税をどこに納入するかだ。

「ふるさと」と銘打ってある以上、財政が豊かな東京都に居住する人が、地方から都会に出てきている人が、財政事情が赤字化している自分の「ふるさと」に税金を納める仕組みだと単純に理解していた。

法律をよく読んでみると任意の地方自治体とされている。
じゃ「ふるさと納税」じゃないのではないか。好き勝手な地方時自体となるじゃないか。
それって「ふるさと詐欺」ではないかと思った。

3・11以来、「ふるさと」と言う言葉が氾濫した。ふるさととは何か、ふるさととはどこか・・・

親に勘当された夫婦が大阪の外れのほうで男の子を産み、孫が出来たという事で勘当が一部解除となり、兵庫県の姫路で数年間の幼少時代を送った。
姫路大空襲でその家は焼失し、避難先の飾磨の農家の離れで終戦の玉音放送を聴いた。
一家をあげて上京。三河島の“復興長屋”で1年近く暮らし、初台の借地付き一軒家に移り住んだ。
郡山に”転勤“のはめになるまで、そこに住んでいた。

自分にとって「ふるさと」とはどこかと問われた時、答えるすべがない。
でも、やはり東京が故郷だと思っている。

住民税をふるさと納税として東京都に収めるか。とんでもない。
地方交付税不交付団体の東京。財政の豊かな東京・・・。

いつのころからか、このふるさと納税制度が“悪用”されるようになった。

自治体が「納税」してもらったお礼に「返礼品」と称して高価なその土地の名産品を送るようになった。
欲と道連れの納税。
収めた税金の一部が品物となって還付されると言う、悪く言えば税金詐取だ。

返礼品がいい地方を探して、欲と道連れの納税。

どこか竹下内閣時の1億円の地方創生基金に似たものがある。

人口減は拍車をかけている。地方消滅と元総務大臣が書く。

過日、ある大学教授の「超高齢化社会/人口減少社会における人々の生き方の変容」という講演があった。

“合計特殊出生率は東京は1.1です。地方に人を呼び戻さないと”と述べていた。講演を聞いていた人は、その“特殊出生率”なる言葉を理解出来ない。
どっかで解説するのかなと思っていたらレジメ通りに話が進みスルー。

それはあげて「政治の問題だ。政治の怠慢だ」と学究の徒は言えない、言わない。

財政が破綻し、財政再建団体に指定された北海道の夕張市のことを思う。
最小限の市職員。
低福祉、高負担にさらされる夕張市。
都庁の職員をやめて市長をかってでた現市長も、有効な手立てを未だ模索中のようだ。借金の返済期間の猶予をしてもらっただけのような。

人口減は甚だしいはず。“消滅”の危機にさらされている。

夕張市に「ふるさと納税」がされているのか。彼の地の出身者も含めて。

いまだ帰還困難区域を抱え、帰還率は30%にも満たない原発被災地域。
内閣支持率が下がっている。支持が減るのは結構。だけど人口減は阻止せねばならぬ。

東電からは“立地税”は支払われているはず。
でも、双葉郡八町村「ふるさと納税」はされているのだろうか。

30億ものカネをかけて庁舎を新築する町もある。被災地の町政、村政もどこか支離滅裂の傍目から見ての疑問。

いずれにしても国政はどこを向いているのか。地方創生相は何を考えているのか。

真夏の夜の夢はメンデルスゾーンのような優しい響きを伴ってはやってこない。

2017年7月11日火曜日

保存された“記憶”と破棄された“記憶”

加計問題をめぐる国会の閉会中審査。政府の側からは「記憶にありません」が連発された。

ロッキード事件を巡り小佐野賢治が連発した「言葉」。疑念や非難はあってもそれが通用してしまった国会の「負の歴史」。

記憶にありませんが国会の常用語となり、いくら押せども“記憶”という全く個人の属性に当たることが“成り立っている”。それこそ議会制民主主義の破壊行為だ。

国の公文書が1年未満でも破棄されるという方針が明らかになった。
公文書とは、その国の歴史の一部だ。

今の政権が不都合とされる公文書が破棄されるという事は歴史が破棄されることに等しい。

公文書は国立公文書館に保存されるべきものなのだ。たとえそれがメモであっても。

憲法9条を、戦争放棄をうたった部分は日本の幣原喜重郎首相がマッカーサーに申し入れたものだった。
それは国立公文書館に幣原喜重郎日記が保管されており、それが研究者によって明らかにされたからだ。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。ビスマルクの言葉を引用した秋葉原でも石原伸晃演説。安倍自民を賢者と誇りたかったのだろうがキミたちこそ歴史に学んでいない。そして歴史を破棄しようと図る。

閉会中審査、前川喜平の答弁は終始一貫していた。理路整然と事の経緯を語り、事実と違うと菅の詭弁を退けた。彼の記憶に基づいた答弁。彼の中には保存された記憶がきちんと保管されているのだ。

数多くの知識を詰め込んできた東大卒の官僚。数年前のことが「記憶にない」ということは有り得ない。すぐに記憶を無くしてしまうのなら官僚としては失格だ。

安倍は「印象操作」と言う言葉を多用した。
人は印象で物事を判断する。
“知らぬ存ぜぬ”を連発する政府の人間に、メモを5分間もひたすら読み上げる大臣に、好印象を持つ人はまずいまい。

前川の正直さだけが印象に残る。
そう、印象という事は極めて大事なことなのだ。

国会の議事録は政権といえども破棄することは出来ない。時々”改竄“をさせることはあっても。

僕は前川に信を置く。福島市の夜間中学、生徒は高齢者が多い。そこに手弁当で出向いてくる男を評価せずに何を評価すればいいのか。

マスコミの世論調査で安倍内閣の支持率は急速に下がった。読売新聞だったか。安倍自身に好感が持てないという人が急増した。

国民大衆は“皮膚感覚”で、得られた情報を加味しながら政治判断を下す。
良くも悪くも「移り気」なのだ。

来月早々党役員人事と内閣改造を行うと言う。安倍の足を引っ張り、印象を悪くさせた稲田や金田を切ると言う。
小手先細工の「人事」で支持率浮揚が図られると思っているのだろうが。
「そうは問屋が卸さない」。そんな気がする。

きょうから施行された共謀罪、先の集団的自衛権などなど。強権的な安倍政治は飽きられ始めたのかもしれない。

我がままで、独りよがりで、お仲間がいないとダメなさみしがり屋の名ばかり宰相。
黒を白と言いくるめるのに必死な官房長官。

自民党の中にはようやく、安倍に翳が見え始めたという事でなにやら批判めいたことをいう奴らも現れた。時すでに遅しの感ありだ。

こんな政治のありさまを、自民党を長年にわたって見て来た、付き合って来た身にとって、そこに巣食う記憶にないほどの見苦しい人々の群れがいることが悲しい。

2017年7月9日日曜日

官僚たちの“ルサンチマン”

ルサンチマンとは元来はニーチェの言葉であり、弱者が強者に対して抱く憎悪や復讐心を鬱積させていることを指す。
今は、それをもう少し幅広く捉えたいし、例えば数年前に盛り上がった反原発運動も東北の民の行動も“ルサンチマン”と呼びたい。

反権力の象徴的言語としても。そして時にそれは爆発するものだとも。

数日前、懇意にしている元官僚と会った。話をした。
田中内閣当時の秘書官を務めた人物だ。
秘書官をやめてから本省に戻り、大使を務めていた人だ。

「都議選の結果には溜飲を下げた。安倍の暴政には辟易としていたから。
このまま行くと日本はダメになると信じていた。
小池と言う人物のことは知らない。都民ファーストなるグループが大勝したことが良いかどうかは別問題だ。」

その日はちょうど首席秘書官を勤め、ロッキード事件で逮捕された榎本敏夫氏の葬儀の日だった。
榎本氏は政務には全くと言っていいほど関わらなかった。役所からの秘書官にすべてを任せていた。

田中内閣で通産省からの秘書官が誕生した。それまでは外務省・大蔵省・警察庁からの秘書官だったが。
通産大臣当時の秘書官を総理秘書官に登用した。日本列島改造論を仕上げた政策通の官僚を。そして通産官僚が秘書官の決席になった。

話しを戻す。
首相の車には秘書官が交代で「ハコ乗り」する。ある日、前述の外務省から出向した秘書官は車の中で言われたと言う。
“あのな、役所はもっともっと強くなければならぬ。優秀な官僚を育て上げねばだめだ。官邸に反旗を翻すくらいの役所にならないと、官邸の意向をくんでいる役所はだめだ。部下を育てろ”と。

“田中さんから車の中で行政学の講義を受けるとは思ってもみなかった。どこで“行政学”を勉強されたのだろうかと不思議だった。それほど上に立つものとしての政治家の在り方を知悉していた人だった。“

“安倍内閣が内閣人事局を設け、人事で官僚を操縦する。そのやり方に憤懣やるかたない思いがしていた。驕りも甚だしいと。
都議選で、都民は反自民の選択をした。あの結果には溜飲が下がる思いがした“と。

元官僚として、政権の中枢にいた人物としての「ルサンチマン」を彼の話しの一端から感じ取った。

“安倍政治”をよからぬものと感じている官僚は数多くいるとも。

明日、前川喜平の「参考人質疑」が行われる。自民党はすでにして前川を「敵」とみなしている。

前川は何を語るのか。

前川は一時駐仏大使館に勤務していたこともあったそうだ。その当時から正義感の強い男だと見ていたという。元大使はそうも言った。

官僚政治をよかれと思って書いているのではない。ただ、官僚の中には安倍政治を快く思っていない人もいるということの事例としてこれを書いた。

いつのころからか、日本の政治は、官僚の在り方含めて、その道を間違えてしまった。

官僚たちの夏、官僚たちの反乱、そして官僚たちのルサンチマン。

都議選の自民大敗を決定づけたのはあの秋葉原での安倍の言動だ。
「あいつらに負けるわけにはいかない」。あいつら、あの連中と国民を卑下した“演説”。

あの会場の辞めろコールも選挙結果も、民衆の「ルサンチマン」だったと理解する。

2017年7月6日木曜日

水の“恐怖”

いままで経験したことの無い大雨。渦巻く濁流。北九州地方を襲った梅雨前線が刺激されての豪雨被害。

被災者の辛さ、悲しさ、苦しさ。
察するに余りある。

経験したことのない豪雨。経験したことが無い以上、その対処も難しかろう。
いや、例え経験したことがあっても自然災害にはなすすべがないことが多い。

一時は何万人、何十万人に対する「避難指示」。
その緊迫性や必要性はわかっても、どこに、どうして避難すればいいのか。
問題はそこなのだ。焦眉の急としての。

いくら日頃から「避難訓練」が真剣に行われていたとしても、災害が発生した時間や環境によって対処の仕方はさまざまだ。

テレビでその惨状を見ながら心が痛む。

まだ大雨は続くともいう。浸水被害にあった家屋や田畑。泥地と化した街や村・・・。わが身の周りを思う。

経験したことの無い豪雨に襲われる。怒り狂ったような激しい勢いの水は1級河川の阿武隈川を決壊させる。堤防から流れ出る濁流は町をのみ込んでいく。

避難所に指定されている場所も浸水の被害を免れない。堤防がどれほど強靭であっても高さがあっても、それらは概ね、過去の「経験値」に基づいて作られている。

避難指示と避難場所と避難方法と。

「避難指示」と「経験の無い」と言う言葉は否応なく「3.11」を思い起こさせる。
想定はあったが実施されていなかった津波対策。経験したことの無い大津波。

それに起因する、経験の無さが招いた「原発事故」。

今起きている大水害が福岡や長崎、大分で無く、原発がある佐賀県を見舞っていたらどうなっていたか。

福島の時の「避難」は、場所も方法も無い。勝手にどこかに逃げてくれ。というものだった。
もちろん受け皿とてない状態で。
福島の原発事故の経験は教訓はたぶん、どこにも生かされていない。お茶をにごすような真剣さを欠くお座なりの「避難訓練」。

このところ地震も多発している。

とにかく我々は災害列島に住んでいるということ。
自然の脅威の前には対処する術がないという事。

あらたな「経験」をしたという事。

国土強靭化法がどれほどの「国民の生命と財産を守る」という政治の大原則に適っているのか・・・。

被災者への支援はどうなっていくのか。

愚者も賢者も無い。経験も歴史もない。

何時、何が起きてもおかしくない「災害列島」に我々は生きているのだ。

自然には“意志”は無い。
戦争には“意志”がある。

今の政治は、自然災害を一過性のものとみなしている。将来も未来も常に自然の災禍が予見されるとうのに。

自然災害への対処を政治の根幹に据えられないものだろうか。



“選挙は水もの”と言われた。“水商売”と自虐的に自らを言う議員もいた。

都議選の結果に政権は何も学んでいない。何も懲りてもいない。経験したことのない大敗を喫したにも拘わらずだ。
選挙には国民や都民の“意志”があった。

水は怖いのだ。災害の事だけでなくとも。

大雨が過ぎ、晴れ間がのぞいたら、今度は気の遠くなるような復旧作業が待っている。政治の世界での「復旧作業」はあるのか。

「俺を連れて避難してくれよ」。犬の眼が訴えかけてくる。

方丈記を思う。そして政権には平家物語を重ねる。

2017年7月3日月曜日

都議選の“藪の中”

小池百合子率いる「都民ファーストの会」なる会派がいきなり55議席を獲得した。都議選に限っては”友党“とした公明党も23議席とほぼ完勝。
完敗した自民党には悲壮感すら漂い、安倍はお決まりの「深く反省」を言う。

安倍の発言、森友・加計にまつわる疑惑。前川の乱、稲田の失言、豊田の暴言。
それらが自民票を無党派層の票を小池新党に向かわした。と各マスコミは書く。
それは自民敗因に間違いは無いが・・・。

でも、ちょっと待てよ。この結果が国政に、政権にどんな影響、変化を与えるのか。

安倍にとっては選挙結果は「どうでもよかった」のかもしれない。
「都民ファースト」という言葉は、いかにも聞こえがいいが、トランプのアメリカン・ファーストと同じく、“自分たちがよければいい”“それ以外は敵」という言動を想起させる。

ま、ネーミングがどうこうとだけ言うつもりではないが。どうも”身勝手“さが知事選からの”しこり“が、いかにも都議会自民党からいじめられていると映る小池が”平成のジャンヌダルク“に思われたのかもしれない。

機を見るに敏、政界の渡り鳥。そんな彼女へのイメージが抜け切れない。
自民党と彼女の間になにがあったのか。その真相はまさに芥川の小説にあるように“藪の中”だ。

彼女は日本会議に名を連ねていた。「お試し改憲論者」だった。きょう、都民ファーストの会の代表を、「二元代表制」と言われないために辞任し、後任には側近だった 小池の特別秘書でその会の会幹事長である野田数を当たると言う。

野田数はいわば“極右”の人間だ。改憲論者であり、大日本国帝国憲法復活論者だ。

今朝のモーニングショーで玉川徹はいいところを突いていた。

「小池代表は元々自民党。思想的にも安倍自民党に近い。補完勢力になりうる。都民は自民党に対決するとして選んだが、今後の展開で補完勢力になる可能性がある」


壮大な“闇取引”が小池と自民の間にあったのかもしれない。

新しい緑の風が都議会に、都庁に爽やかに吹くと信じるのは早計だ。

国政では自公という政権与党に与し、なにやら安倍の「ポチ」のような公明党。
今度の都議選では自民を敵にまわし、小池と組んだ公明党。
小池と組んだ方が有利だと踏んだのだろう。

都議会はある時期、公明党の“牙城”だったような時がある。公明党が都議会に進出した時、竜 年光という猛者がいた。
公明クラブと名乗り、初めて国政に、参院に進出した創価学会政治団体。
黒柳明など野党としての猛者がいた。

公明党国会議員も都議会の竜 年光にはかなわなかった。学会の地位は竜の方が上だったのかもしれない。
しかし、彼は学会の「教義」の対立で、公明党を追われる。

矢野絢也にしても似たようなケースだ。

鋭い嗅覚をもって権力の側に身を置き続ける公明党。

かつて公明党と創価学会の内部を暴露した本、藤原弘達の「創価学会を斬る」が事実上出版出来なかったという“言論出版妨害事件”のことが想起される。

公明党、創価学会、これしても“藪の中”いや“闇の中”のような存在だ。
公明党が付いている限り安倍君は“安泰”なのかもしれない。

都政と国政はねじれているのか、どこかで一本に縄はつながっているのか。

そう、政治の世界はいつの時代でも“藪の中”なのだ。

2017年7月1日土曜日

7月の鬱陶しい幕開け

梅雨の季節であり、いささかの異常気象でもあり、豪雨が列島を見舞っている。
土砂崩れがいわれ、河川の氾濫もいわれる。

きらめく太陽が降り注ぐ夏。その前に通らなければならない関門か。

”乱高下“する気温、気圧。
年齢を経るごとに、変わる季節は体調の不具合を伴う。
時には頭痛、時にはめまい、そして何よりも気力の低下。

鬱陶しいのはなにも気候だけではない。
「世に倦む日々」と他言を借りる訳ではないが、世の中のさまざまなことが鬱陶しいこと限りないのだ。

特に政治。政治家。

このところの「暴言」「失言」をめぐる話題の数々。わざとやっているとも思えてしまうような、マスコミの“餌食”となるようなことの数々。

それを人は「暴政」とも呼び、「我執」ともいう。連綿として地位にしがみついているのだから。
そして言行不一致の数々。

都議選の合間をぬって安倍はきょう飯舘村を訪れた。介護施設を視察した。
川俣にも行き、商業施設を見た。

「皆様の声を受け止め、さらに復興を進めたい」。

彼が民草の声を受け止めた事例は過去あったのか。


たしかマックスウエーバーだったか。いやジョン・スチュアート・ミルだったか。

「普通、一国の国民は自分たちの器量にあった国会議員しかもてない」という“金言”があった。

いま、その言葉を申し訳ないが訂正させてもらう。
「一国の国民は、自分たちの器量以下の政治家しかもてない」と。少なくとも日本にあっては。

東電の裁判が始まった。3人とも無罪を主張している。
潔さ、という言葉がある。

「責任」を認めたらどうなのか。津波の予想問題だけではない。
今尚苦しんでいる福島県民がいるということ。
子供は「いじめ」の対象にされているということ。


社会的責任を負うべきだと思うけれど。

とにかく、「作業」はもろもろ進行している。しかし、遮水壁、凍土壁の問題では規制委から叱責を受けた。

懲りない面々の東電上層部。

年齢のことをぼやいた。好んで年を取っているわけではないが”高齢“は自然の摂理だ。抗い難い。

高齢者の交通事故が増えていると言う。高齢者には安全機能車限定の免許しか与えない、80歳以上には再試験も導入する。

警察庁はそんな検討に入ると言う。
自分だけのことに限って言えば、「安全機能搭載車」を買う金は無い。
まさか国が「補助」してくれるなんてことは有り得ないし。

交通事故の防止。もちろんそれに異論はない。ぼやきのようだが地方都市ではいかに高齢者といえども車無しでは生活できない。

高齢化社会だ。高齢者の人口分布は増えて当然だ。そして人口減。
数字の比較では高齢者の事故が多発しているとされるが、それは以前と変わりがない数字だ。高齢者が増えれば必然として有り得る数字の問題。

車をめぐる「社会システム」の問題。ありきたりの言い方だけど、多角的な視点で論じ、“受け皿”めぐる検討、議論にまで発展させてもらわないと。

車一つをとってのことでもなんか間尺に合わない憂鬱さを覚えてしまう7月の始まりの日。

この日は数年前、安保法制が閣議決定された日でもある。