2017年8月29日火曜日

「太平の眠りを覚ます・・」


朝、まだ熟睡中、夢の中にいる時、傍の携帯電話機がいままで聞いたことの無い“警報音”を鳴らし、Jアラートで北朝鮮のミサイル発射を伝えた。
「緊急避難」を呼びかけていた。

ようやく起き出し階下にあるテレビをつけた。
NHKの速報番組。

いやいや煽っているな。の冷めた感情。

なんとなく浮かんだのが「太平の眠りを覚ます蒸気船」の句。
眠りを覚まされたのですから。

北朝鮮が日本に向けてミサイル発射と言う「国家の存亡にかかわる事態」なのに、私事で恐縮。

数分待ったがミサイル被害なし。北海道沖に着弾とのこと。

ミサイルは発射されてから数分、長くても10分後には着弾する。
Jアラートが鳴った時にはすでに事は終わっているはず。

テレビに言われて即座に避難した人もいるようだ。どこに逃げていいのかわからずに。

ミサイルは強固な建物も破壊する。その威力はイラクやシリアの映像で周知のはず。
安全な逃げ場なんてないんだ。

蒸気船ならぬミサイルの襲来に上も下も冷静さを失ってしまう。
社会生活に影響を与え、株価や円など経済活動に影響を与え、右往左往させる。
北の脅威を味あわさせる。北の狙いはそこなんだろうとも。

「空襲警報発令、空襲警報発令」。あのころ民草はこぞって近くの防空壕に殺到した。70年後の太平の時代には防空壕なんてない。

もしも、それら避難する場所があったとして、そこに人々が殺到すればどうなるのか。
パニック騒ぎになる。避難者同士の争いも引き起こしかねない。

いったいぜんたいこのJアラートなる警報システム、国は何を狙っているのだろう。

やがて官邸での記者会見。総理、外相、防衛省、官房長官。
曰く「ミサイルの動きは発射前から完全に把握していた」。

ならば「恐怖のアラート、混乱のアラート」なんてならさなくてもいいではないか。
そのことは知らせるべきだが、いち早く収束させる「広報」をするのも政府の役目。

米朝対立と言う構図の中に畢竟日本はまき込まれていく。

北の暴走を止める手だては持たない。

またJアラートの鳴る朝を迎えることだろう。


ミサイル騒動がなければ、きょうは亡くなった羽田孜の事を書きたかった。
「瀬川ちゃん」「孜ちゃん」と呼び合う仲だった。
九段の議員宿舎に一家で住んでいた。
ある日、カバンを斜め掛けにした男の子二人が学校から帰ってきた。あの狭い議員宿舎の部屋の中に卓球台が置いてあり、兄弟はすぐに卓球遊びに夢中になっていた。
「おい、卓球小僧」と呼んでいた長男はすでにして議員となり、参院の要職をこなしている。

彼の秘書と連絡を取り合った。あの省エネルックをめぐり、みっともないから止めろと言い、これが大事なことあのだと言う彼と時々やりあった。

省エネの服は地元のシルクを使っていた。有楽町の蚕糸会館の中に、今でいう長野のアンテナショップみたいなところがあり、そこでシルクのシャツやパンツ、挙句はふんどしまで買わされた。たしかに肌触りは絶妙だった。

メシを食いに行こうと言うことになる。メシを食い、帰ろうとなると彼は財布の中にカネが無いという。払うよとこっちが言う。
居酒屋の様な所の勘定を何回持ったことか。

カネには無縁の男だった。

友人の秘書の願いは孜ちゃんを総理にすることだった。
わずか64日で退陣したが、その秘書は言ってきた。
「とにかく総理にしたんだからな」と。

有為転変。そんな言葉が当てはまる政治家人生。
そういえば総理になった時、郡山に来た。蕎麦好きの彼を郡山の素人そば打ちの家に案内して一献傾けた。その家には彼の色紙があるはずだ。
どこにでも気軽にいく。何処に行っても気取らない。

稀有な政治家だったことだけは確かだ。

リハビリの有った日の体はだるい。

2017年8月27日日曜日

「防空頭巾」と「防空壕」

北朝鮮のミサイル騒動が続いている。
ミサイルによる挑戦以外にこの国が国際社会にその存在を誇示できる方法がないからだろう。

誰からも相手にされず、仲間にも入れてもらえず、入らず。その孤立感から抜け出すために“暴力”をもって自らの存在を誇示しようとする、アイデンティティーを見つけようとする。そんな犯罪者の心理にも通じるようなものを感じてみる。

かつては「拉致」という非人道的なことで国際社会を震撼させた。
日本の拉致被害者のことは“話題”にものぼらなくなった。

北朝鮮と言う国が何故、どうして出来たかという“歴史”はともかく、この「狂国」の扱いに国際社会は有効な手立てを持たない。

“三代目”はとかく狂暴になるということか。

72年前の8月、戦争が終わった。なによりも4歳の少年が嬉しかったのは、毎晩枕元に防空頭巾をキチンとたたんで寝ると言う作業をしなくてもよくなったということだ。

空襲警報が鳴るたびに、叫ばれるたびに防空頭巾を纏い、避難を繰り返していた。
姫路が大空襲に襲われ焼夷弾が嵐のように落ちてくる中、一家は防空頭巾をかぶって逃げまどった。

たぶん、あれは山陽本線の踏切だったのだろう。軍用列車の長い列が、とてつもなく長く連結された貨物列車が走っており、その踏切を渡らねばならなかった。

街は燃え盛っており、後ろから火の手が迫っている。線路を渡るのを断念し、脇道を選択した人たちは焼死したと後から聞いた。

線路をようやくわたり、とうもろおし畑に身を伏せて一夜を明かした。
途中で祖母がはぐれた。

夜明けとともに母親が祖母を探しに行った。祖母は防空頭巾に火がつき、燃えるがままの頭巾をかぶったまま走っていたという。
消防団の人が、傍の小さな川に突き落としてくれたという。

命は助かったが、生涯顔や体の一部に“ケロイド”を持ったままだった。

最近、各所でミサイル避難訓練がある。頭を伏せ、両手でかばうと言う姿勢。
強固な建物に逃げ込むと言う訓練。

落下物がミサイル本体であればなおさらのこと、ミサイルから切り離されたロケットであっても、それがパック3で撃ち落とされたものであっても、クソの役にも立ちそうもない避難訓練。
国からの指示なのか。その”訓練“を励行する自治体。笑える。

その「行事」を淡々と書いているマスコミにもあきれる。

防空壕にも何回か入った。人いきれが充満し、湿った狭い空間。閉所恐怖症を引き起こしかねない空間。

アメリカのメーカーに核シェルターの発注が日本から急増していると言う。
300万から1千万円。富裕層に人気なのだとか。

ミサイル攻撃は終わった。シェルターから出てみると辺りは焦土だった。
コンビニもスーパーも無い。
食い物が無いと言う状況。これとても笑える。

ミサイルは人が開発し、人が発射を指示する。

原発立地地域でも避難訓練が時々行われている。

徒歩で何キロ逃げられるのか。バスは来るわけが無い。爆発した原発の近くに。
陸路が使えなくて海路からの避難。船が来るわけが無い。

6年前を思い出す。
郡山市の対策本部には完全装備の格好をした自衛隊員が参加していた。
市が市民に通達したのは、テレビがしきりに呼びかけていたのは、マスクをしろ。窓に目張りをしろ。帽子を被れ。家に入るときには洋服をはたけ、着替えろ。手を洗え、顔を洗え、ウガイしろ。あれは何だったのか。
なんの意味も持たなかったのではないか。

原発も人が開発したものだが、人の意志と人の手で廃止にすることが出来る・・・。

その国のトップの問題なのだ。

2017年8月22日火曜日

サムサノナツハオロオロアルキ

ご存知、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節。
賢治がいた時代にも冷夏があったのだろう。冷害があり、飢饉に苦しめられたこともあったと聞く。

飢饉、東北の歴史にはついてまわっていた悲劇だ。

オホーツク海高気圧がもたらす湿った冷たい風を「やませ」という。

“やませ吹く谷に一揆の墓ならぶ”  大西八洲雄

「やませ」の影響なのだろう。今年の八月は異常だ。
列島はゲリラ豪雨に見舞われ、天災に見舞われている。

寒暖の差が激しい。日照時間が極端に少ない。
農作物への影響は大きい。

野菜の価格が高騰している。値段だけでは無い。味覚にも影響している。
今年収穫されるコメはどうなのだろう。今から気がかりだ。

病を得た身にはこの気象が堪える。体調は不全だ。

現代の異常気象の原因は温暖化にあるとされる。地球温暖化を招いたのは人間の所為だ。

海産物、魚の漁獲量も今年の変動は激しい。
不漁のものが続出している。たとえばイカ、たとえばサンマ。

海の生態系が変わってしまったのも人間の所為だ。
乱獲もある。海中へのゴミの不法投棄による汚染・・・。

八月の飢饉。それは72年前の“飢餓”を想起させる。
家を焼夷弾で焼かれ、疎開した農家の離れ。
日々、餓えていた。

東京大空襲、終戦。

焼け野原の中を人々は食べ物を求めてさ迷い歩いていた。
一家をあげて上京した少年は、着物を米に替えるべく東北本線で地方にむかう母親につれられて上野駅の構内を歩いていた。

上野駅の地下道。そこには浮浪児が、孤児が溢れていた。その子たちの眼差しからは“怖さ”が伝わって来た。

着物が”化けた“コメは臨検で没収された。
浮浪児狩りが行われ、あの子供たちはトラックに放り込まれ、どこかに運ばれて行った。

あの子たちは72年後の今、どうしているのだろう。

東北の飢饉は娘の「身売り」という現象を生んだ。食い物のために娘を手放す親の心中・・・。

戦後、東京の街には進駐軍があふれていた。いつの間にか子供たちは進駐軍から食い物を貰うようになっていた。

「ギブミーチョコレート」の世界。

進駐軍の「お相手」をする若い女性が生まれて行った。数寄屋橋にはその溜り場が出来ていた。
そこには戦争未亡人もいた。こどもに食わせるために致し方なくの選択。

72年後、捨てられる食品は一日60万トンともいわれる。
物の豊かさと心の貧しさが同居している戦後72年。

不順な天候の中、束の間の晴れ間をぬってリハビリのために歩いている。
その様は賢治の詠った「オロオロアルキ」のようにも思えてきて。

2017年8月15日火曜日

八月の「もやもや感」

きょうは72年前、天皇の終戦の詔書が読み上げられ、戦争が終わった日とされている。

敗戦を認めた日とも言える。

詔書が出されたにも関わらず、例えば樺太ではその詔書が伝達されず、軍からは「樺太死守せよ」という命令が出されていた。

進攻してきた“ロシア”軍に、南樺太にいた日本人は、殺された人も、自決した人も何万人といる。

浅田次郎のノンフィクション的小説「終わらざる夏」にそのことは詳しい。

不可侵条約を一方的に破棄した“ロシア”は、樺太はじめ北方領土、北海道の一部を占領することを目論み「終戦」を無視して攻め込んできたのだ。

沖縄と同じだ。

本土防衛の「捨石」だったのだ。

今年も戦没者追悼式典があった。55回目の。参列者は遺族中心に6千人余り。
参列者は年々高齢化している。
戦没者の孫の時代にあたる戦後生まれの参列者が4分の一を占めるようになったと言う。
戦争の記憶を次の世代へ継承するため、2年前から18歳未満の青少年遺族が献花に参加している。

72年と言う歳月のこと。

天皇陛下はお言葉の中で「反省」という言葉を使われた。
天皇自身の、昭和天皇の名の下に行われた戦争。
それを「反省」とう言葉で総括されている。

安倍首相は反省という言葉は使わなかった。アジア諸国についても言及しなかった。今年も・・・。

いつも思っていることがある。

沖縄では「屈辱の日」に県民大集会がある。

本土で、戦没者を追悼する国民誰しもが参加できる「追悼の集まりの場」はないのか。ということ。
もちろん「現実的」な問題提起ではないとわかってはいても、千鳥が淵や靖国だけが個々に参列する追悼の場というのは追悼の国民的意味から言ってなにやら「物足りなさ」を覚えて来た。

かつて佐藤栄作は「沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらない」と言った。
返還はされたが、そこは未だ返還前と同じ状態だ。

戦後は終わっていない。この国にとって「戦後の終わり」といえる状況は無いのかもしれない。

福島の復興なくして日本の再生無し。安倍は何回もそれを口にした。
福島は復興されたのか。日本は再生されたのか。

まやかしだった。

安倍は平和と言う言葉を数回つかっていた。

日本はその憲法に於いて「恒久平和」を誓っているはずだ。
恒久平和を目指すには今の日本の外交・防衛政策はあまりにも“乖離”している。

それよりもなによりも国として戦争の総括がされていない。自国民が多数死んだ、殺されたということへの「責任」は明確にされていない。

原発事故とて然りだ。

詩人で歌手である沢知恵さんという人がいる。
3・11後、東北を慰問し、福島をも訪れている人だ。

彼女はきょう、あらためて自作の歌を上げている。
「われ問う」という歌だ。この日へのメッセージとしてだろう。

“8月15日に、われ問う”。

大好きなおじいちゃん どうしてこの国は戦争したの?
おじいちゃんほどの人が どうして戦争を止められなかったの?
大好きなおじいちゃん ほんとうのこと教えてよ
どうすれば同じあやまちを くりかえさなくて済むの
ここまでなら大丈夫と だまって見ているうちに
気づいたら 何ひとつ自由にものを言えなくなっていた・・・

沖縄の風化。原爆の風化。そして戦争そのものの風化。
日本人の14%が8月15日を知らないと調査に答えていると言う。

何故か。

教育の場で戦争を伝え難くなった。伝えなくなった。
家族の形態が変わった。
3世代同居という家族の形は無くなった。
単体の家族が東京に集中している。
親から子へ、子から孫へ「教える」「伝える」環境では無くなった。

戦争体験の無い世代は、自分たちで学んで行かねばならないのだ。
教ええくれるのを待っているだけではいけない。
自分の意志で、それを「取りに行かねば」ならないのだ。

戦争を伝えるという事の方法は時代と共に変化してくる。
経験者は減少の一途たどる。

しかし、戦争を伝える記録は残されている。いや、まだ見つかるかもしれない。
書かれたものも多くある。

原爆を敗戦を、その事実を、その実相を、自分たちの物として学び、受け入れ、考える。
そのことに対して多くの人たちがある意味“無関心”であり、過去のことと思ってしまっている。

それが八月におぼえる「もやもや感」なのだ。
4歳の少年の記憶が断片的であることへの「もやもや感」でもあるのだ。

2017年8月10日木曜日

封印した“記憶”を解く決意

長崎の原爆忌の平和宣言で田上市長はこんなことを語ってくれた。

「人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。

 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験した街として、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

人間が人間に対して人間の言葉で、自分の言葉で語る。

広島の市長も自分の言葉で語っていた。自分は体験していないものの、学んだ結果として。

「このような地獄は決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨たらしいめに会うのはあなたかもしれません。
それゆえ、皆さんにはぜひとも被爆者の声を聞いてもらいたいと思います」と。
「被爆者の体験に根差した良心への問いかけと為政者に対する誠実な対応への要請をわれわれのものとし、世界の人々に広げ、次の世代に受け渡していこうではありませんか」。

長崎市長は「福島」にも言及した。寄り添うと述べた。
被爆者代表としてあいさつした深堀好敏は88歳。

「私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います」と力強く語った。
彼は表舞台では発言しないタイプの人だったが、今年は自ら公募に応じて語った。

広島でもそうだ。今まで被爆者であることを隠し、凄惨な記憶を、思い出したくない光景として“封印”してきた高齢の体験者が語り始めた。

勝手に想像させてもらう。
自分たちが封印を解き、語ることが、亡き家族や友人への「手向け」になると思い至るようになったからではないか。
人間はいつしか命果てる時が来る。72年前に果てた人、生き延びてやがて果てるかもしれない人。

後代にその「事実」があったことを伝え、託しておかねば、「生命を全うした」と自分に納得できないからではないかと。

72年前の記憶。それはその場で体験したものだ。記憶を無くしてはいない。

72年後の日本。倉本聡の「「歸國」というドラマではないが、政治家や高級官僚はつい数年前に体験したことの記憶をなくしていると強弁する。快適な環境の中で見聞きしたことを。

「記憶にありません」「記憶がございません」。

歴史を抹殺しにかかっている。

それは「絶対悪」の平成版なのかもしれない。


2017年8月6日日曜日

「我が家の犬はゲンキと云う名だった」。8月6日に思う事。

きょう、8月6日を前に、昨夜は中沢啓二の遺書をめくっていた。
「はだしのゲン わたしの遺書」と言う本。

著者の母親は広島で被爆後、しばらくして亡くなった。

“荼毘に付された骨はあまりにも軽く、喉仏がどれなのかわからなかった。
「放射能は骨をくいつくし、スカスカのもろいものにする。
原爆と言う奴はおふくろの、大事な大事なおふくろの骨の髄まで奪っていった“

“福島の原発事故は「やっぱり来たか」という感じで受け止めた。原発と原爆は違うと言ってこの地震の多い国で原発を増設してきた政府、それを黙って受け入れて来た日本人に憤りを感じて来た。

みんな「カネ」なのだ。

放射能の恐ろしさを知った広島・長崎の教訓が今回やっと認識されてきたのではないでしょうか“

中沢さん、違うよ。認識なんかされてないよ。そう本の中の活字に向かってそう言ってみた。

“福島の風評被害のニュースを聞いて、ぼくは広島・長崎の被爆者差別を思い出した。被爆者は避けられたのです。
唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていない。
なんと情けない事か“。

“ぼくは男の子の孫に「元」という名前をつけました。ハダシノゲンで書いた僕のメッセージが、これからも伝わって欲しいとねがっているからです。

「元」は「元気」の元、「元素の元」です。

「はだしのゲン」は「麦」が大きなテーマのひとつなんです。
ゲンの父親が語る「ふまれても ふまれても 逞しい芽を出すような麦になれ。

ゲンは麦に象徴されるように、踏まれて、寒い風雪に耐え、たくましく、まっすぐに伸びて豊かな穂を実らせます。

僕たちには、きっと負けない「麦の精神」があるのです。

「はだしのゲン」はわたしの遺書です。


昨夜、歌番組から氷川きよしの歌う「一本の鉛筆」が流れていた。歌手は涙ぐみながら、唇をかみしめながら歌っていた。

今朝、8時15分。毎年の如く黙祷を捧げた。

毎年めぐってくる8月6日、9日の事

70%の国民が8月6日は何の日だと問われてもわからないという時代になった。そんな報道があった。

72年・・・「知っている人」と「知らない人」が区分けされて語られる。

「知らない」のではない。「知ろうとしない」ということだ。
原爆も戦争も、体験していなくても学ぶことはいくらでも出来る。

広島の小中学校がこれまでは「登校日」だった今日を登校日とすることをやめたという。

学ぶ機会を「お上」が奪っているように感じる。制度上の問題点を都合よく当てはめて。

この国はどこか間違っているのだ。

平和祈念式典で平和宣言を読み上げた松井一実市長は7月に国連で採択された核兵器禁止条約に言及し、「各国政府は『核兵器のない世界』に向けた取り組みをさらに前進させなければならない」と訴え、その橋渡し役となるよう政府に求めた。
続いてあいさつに立った安倍首相は核兵器禁止条約について一言も触れなかった。

先頃の国連でも日本は核保有国と歩調を合わせるように、総会を欠席した。

唯一の被爆国であるからには、核兵器禁止条約に率先して賛同すべきなのに、欠席戦術、不参加を決め込む。

北朝鮮がどうたらとかを理由に挙げていたが結びつけるには難がある。

明らかにアメリカの顔色を窺っているとした思えない行動。
世界の「笑い者」にされているのをどう考えるのか。

近代史の中での日本の“汚点”だ。

相変わらず「核の傘論」に執着している。もはやそれは「破れ傘」のような拠り所なのに。

「日本が核武装することは憲法に抵触しない」。そんな解釈改憲が今の政権下ではまかり通っている。
核武装を真面目に主張する政治家や論壇がある。

核兵器禁止条約にむけて、その先鞭の道をとることが積極的平和外交と言えるのだと思うが。

核兵器は、核戦争は何ももたらさない。廃墟を生むだけだ。
核兵器を持つことは一部の軍需産業に膨大な富を与えること以外の何ものでもない。

中沢啓二さんは2012年に亡くなった。
我が家の「ゲン」もそれから間もなく旅立った・・・。

2017年8月5日土曜日

やはり「永田町」は藪の中

安倍は新しい内閣の看板政策として「人づくり内閣」という言葉を繰り出した。
ひねり出してきた。
そして、この内閣を「仕事人内閣」とも称した。

「人づくり」ということの意味が、内容がさっぱりわからない。「人づくり」ということが、素養を高める、優秀な人材を作るということであるならば、それはまず政治家や一部の“悪質官僚”に対して言えることではないか。

内閣をあげてお粗末な政治家の再教育を行う。「人づくり内閣」とはそういう意味だと、“好意的”に理解する。

「仕事人内閣」だという。仕事をして結果を出す内閣だと言う。
当たり前でしょ。仕事をするのは。

じゃ、前内閣の閣僚だった人は「仕事の出来ない人」だったということになる。
たしかにろくに仕事も出来ない無能な人が多々いたのは事実だが、それらを任命したのは安倍さん、あなたでしょ。

河野太郎や野田聖子という安倍政治に異論を唱えてきた人を登用した。
「俺は懐が深いんだ」というところを見せたかったのかどうか。
閣内に取り込む。一つの人事の手段だ。
かつて、総裁選を争った佐藤栄作が河野一郎を取り込んだように。

河野一郎の孫の河野太郎を外務大臣に起用した。彼は自民党内にあって「ごまめの歯ぎしり」と称して、反原発、原発政策にかなり専門的知識をもって疑義を呈してきた人物だ。

組閣後の記者会見で、核燃料サイクルのことを問われた。
「所掌外のことについては発言を差し控えます」ときたもんだ。

持論を封印したようだ。

「大臣」とは「国務大臣」というのが最初の肩書だ。国務大臣として担当が決められる。彼の場合、いわば「外務省担当」といことだ。
国務大臣である以上、国政のすべてのことについて、例えば閣議の席でも意見を述べる権能を所持している。いや、そうするべきだ。

所掌外と言って逃げたところに彼の、彼自身の「人づくり」の限界を見た。

「コメントを差し控えます」「答弁を差し控えます」。
今や政界、官界の常用語だ。それで大方がまかり通ってしまう。

おかしい、けしからん。無責任きわまりない“言葉”だ。

それが許されているという“藪”。

そんな答えが返って来たとき、質問した記者はなぜ二の矢を放たないのか。
「何でコメントできないのか、コメントしないという事の意味は何か」と。

コメントを控えると言う言葉。控えると言う曖昧語。
総理大臣様が“改心”して申し述べた「丁寧な説明」の真逆の“言”だと思うのだが。

改造に合わせたように民進党の細野豪志が離党した。離党者続出の民進党。
結局「烏合の衆」で出来上がっていた集団ということか。
いくら声を張り上げても政権の受け皿にはさらさらなり得ない。

安倍政権は“安泰”なのだ。

野田聖子は「言いたいことは言う、総裁選挙には出る」といった。有言実行を待つとするか。

しかし、民進党よどこへ行く。昔、面倒を見た吉良の仁吉は居ないぜ。

で、取りあえずなんだかんだと。藪の中は怖くて覗けないので。

2017年8月2日水曜日

「「出来ない理由」と「出来る理由」。

3・11で経験した、あらためて思い知った官僚の体質。それは中央官庁にとどまらず、地方自治体もだ。

被災者の明日の生活が懸かっているもろもろの問題。補償、住居、生業・・・。
大津波で瞬時に家や家財、田畑、漁場を失った人達。

彼らに対応する行政はいやゆる「お役所」そのものだった。
既存の法律を盾に、多くの要望は退けられていた。

仮説住宅にしてもそうだった。国の方針はプレハブだった。規格も含めて法律通りの対応だった。
木造の一戸建て仮設は認められなかった。

「法律ではこうなっているから。」法の壁は巨大だった。

他の法律を精査すると“可能なこと”も多々あった。

どの法律を適用するか、法律をどう解釈するかによって対応は全く違っていた。
多くが「出来ない理由」を書いた法律をとった。
「出来る法律」を探す努力をしなかった。

土地の問題、高台移転。

「超法規的措置」という言葉が頭の中を渦巻いていた。福田赳夫が用いた言葉だ。

原発事故の対応でも、東電への対応でもそうだった。未経験の災害や人災に対しての行政の対応は「出来ない法律」を理由にすることだった。
それらの法律は明治の時代に作られたような古色蒼然としたものもある。
法律の中に整合性が取られていないものもある。

かつて田中角栄がこんなことを言った記憶がある。「なるほど」と受け止めた記憶は消えない。

「君たちももっと法律を勉強しろよ。法律には“裏”があるし、抜け落ちている部分も多々ある。それを埋めるのが政治家の仕事なんだ」。要旨そんな話。
だからか、彼は数々の議員立法を提出し、成立させてきた。

本四架橋の問題が大きな政治課題だったころ、メディアもあげて、どのルートが、三つのどれが採用されるのかに関心を持っていた。
まるで人事のごとく連日報道されていた。

ある朝、角栄は突然に言った。三つのルートとも同時着工だ。出来るのだ。
一緒にやればどこにも「恨み」は残らないと。彼は「出来る理由を出来る法解釈を、出来る政治的決断」をしたのだ。

明日、内閣改造人事があるという。すでにその人事は表に出ており既成事実化している。
各紙同じ記事。各社が集まる懇談の場で側近が喋っているのだろう。

安倍人事はこれまでもそうだった。なぜに事前に垂れ流すのか。その真意や目論見、意図が不明だ。

安倍の叔父の佐藤栄作は「人事の佐藤」と言われた。巧みな人事を行った。
彼の人事に対する方針はただ一つ。
「漏れたら変える」。

自分の後継問題が言われている頃、その後継と目される福田赳夫と田中角栄を双方閣内に取り込んだ。いってみれば競わせた。これとても人事の妙だ。

安倍の人事には全くと言っていいほど興味が無い。
骨格を変えないと言うのだから。

改造で支持率を上げるのが狙いだとすれば、それは無理だろう。
覆水盆に返らずだ。

森友から加計。政界はその話題に集中していた。伝える側もそれに腐心している。
介在した官僚たちは「出来る理由」と「出来ない理由のどちら側に立っていたのか。法の抜け道を伝授していたという事ではないのか。
安倍が撒いた種でどれだけ国政が遅滞したか。

気がつけば、後期高齢者の医療費は値上がりになっていた・・・。