2017年9月24日日曜日

“絶望”の国に化している

「この国にはなんでもある。しかし希望だけが無い」。

希望の国のエクソダス、村上龍の作品の中にある”名言“だ。

今、我々は希望の国に住んでいるのか。違う。まさに“脱出”をはかりたいくらいの絶望の国に住んでいる。

北朝鮮の問題をめぐって、この国の政治思考の貧困さが露呈され、首相の発言でこの国は危機にさらされている。
トランプの尻馬に乗って北への制裁圧力のみを言い募る。
北の危機を煽る。

選挙の争点に据えるのか。それはしない。

政治と言うものは他人の言葉の尻馬に乗って力を誇示することでは無い。
攻撃に加担しようとすることではない。

北をおさめ、トランプに忠告し、危機が招来しないように、国民の生命、安全が危うくなることを避けるようにする。危機を無くすように意を注ぐのが政治だ。

「国際間の紛争を武力で解決しようとしない」。それが政治のあるべき姿だ。

暴言居士の麻生が、ナチス礼賛とも思われる言葉を吐き、米朝が戦争に突入すれば、北朝鮮から多くの難民が押し寄せてくれば、警察や自衛隊でそれらの上陸を阻止し、場合によっては射殺するとまで言い放つ。
総理大臣を経験し、安倍の側近の如く振る舞う副総理。

76歳になるまでキミはいったい何を学んできたのか。
ヨーロッパの国、例えばドイツからしてみれば危険な国とさえ受け止められないだろう。
品位も品格も無い国との烙印を押される。

政治とは難民が生まれないように外交を含めて、世界の各国との共存を図るべきものなのだ。

何を言っても彼らには「ごまめの歯ぎしり」にしか映るまい。
そうだ。ごまめの歯ぎしりというブログを綴り、原発反対を言ってきた河野太郎なる三代目も、国連の「核拡散条約」を拒否している。

「希望の党」というのが誕生するとか。

既成政党の“能無し”に飽きた都民が選んだ徒花としての百合。
小池にすがる議員どもの、議員を目指す者たちのなんというあざとさ。

何をもって「希望」と位置付けるのだろうか。

何をもって税金を使っての選挙を行うのか。
選挙を希望していた、洗礼を受けろと請願していた国民はいるのだろうか。

「美しい国」という言葉だけをひっさげて登場した安倍政権。
結果は、なれの果ては「醜い国」だ。

政治をいくら批判してもそれを聞く耳は持ち合わせていない側近の官房長官。

若いころ見てきた政治の姿は無い。政治家の矜持も無い。あるのは“異次元”の政治だけだ。もちろん悪い意味での。

米朝もし戦わば・・・。“戦場としての日本”が出現することになるかもしれない。
日本人が難民になることだってありうる話だ。

積極的平和外交とは何だったのか。その片鱗すら見せてもらったことはない。

憲法を無視し、皇室をさげすむ。

そんな堕落した政治の中で、国民も精神的堕落に陥っている。

丸山真男の書いたものの中に「自己内対話」という論考がある。そんな思索の道を安倍様ご一行は考えてもいまい。

都民ファーストという“ファースト”と言う言葉が嫌いだ。国民ファーストという言葉も嫌いだ。
ファーストという言葉の語感からは一種の「差別」も感じる。
アスリートファーストという言葉も嫌いだ。
アスリートを目指しながらアスリートに成りえなかったスポーツマンだって大勢いるのだから。

「この国には何でもある。しかし、それらは絶望を伴ってやってくる」。

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