2018年1月24日水曜日

大雪と”働き方改革”

きょうの郡山は雪が降ったり,舞ったり,止んだり、時々晴れ間がのぞいたり。
真っ白な田んぼが目に痛い。

日本列島は連日寒波にさらされている。
寒波は大陸からのものだという。
大陸も大雪にさらされているだろう。
しかし、そのニュースは伝えられない。

なにか海外で事故や事件があるとすかさず話題にされるのは「日本人は・・・」。

それにしても、過日の月曜日の大雪は酷かった。
郡山にも大量の積雪。我が家も雪に埋もれた。車も埋もれた。
予定されていた病院も断りを入れた。
担当医は「病院の周りは大変な事になっていますから来ない方がいいですよ」。
優しい先生だ。

テレビや新聞はおおかた東京の大雪被害の話題。連日。
もはや当たり前のようになった大雪による交通網の切断。帰宅難民となった人達。
被害にあったのは会社勤めの人だけではなかろうが大半は「働く人」だ。

雪を覚悟で出社し、閉じ込められた車内で「生き地獄だ」とツイートする。
東京が雪にもろいのは先刻承知の事。
それが判っていても仕事に出掛け帰宅困難者となる。
雪でも働きに出掛けなくてはならないのだ。

交通網がマヒしている中、国会では総理大臣様が「働き方改革」を叫ぶ。
夜は公邸に泊まる。
雪に難儀はしていない。
昨夜は公邸で“宴会”だ。

なんだか嗤える。このばかばかしさは笑う以外に無い。

巨大化した都市東京とはいったい何なんだろう。

一夜明けて雪がおさまった東京。道路には通行不可能やマヒ状態は残ったものの働く人たちは黙々と職場に向かっている。
天候のせいだとはいえ、死ぬような思いまでして行かなければならない会社。

働き方改革ってなんだ。大事な言葉が空疎に感じられる。

ロシアでも先日大寒波があり零下60何度とか。
日本列島をまだ寒波が襲うと気象予報士が言う。

寒波、寒波・・・。地球は温暖化なのか。定説に湧く疑問。
地球はもしかしたら大昔にの様な「氷河期」を迎えているのでは。

幸いなことに、というかなくてよかった大停電。電力需要は95%になっていたとメディアが伝える。

あの大雪が数日続いたら電力はもたない。エネルギーを持たない災害がおこっていたのでは。
交通マヒで物流がストップした。
生活の“非常事態”だ。

草津の白根山が爆発して犠牲者が出た。爆発の予兆がないはずの山だったのに。

明らかに自然の様子がおかしい。不気味だ。小さい地震も多発している。

アラスカでマグニチュード7,8の地震。
フィリピンの火山は大爆発。
あきらかに地球を取り巻く環境はおかしい。

科学技術の留まるところを知らない進歩。それが自然の脅威とどう向き合えるのか。

コンピューターシステムで運行されている電車、地下鉄、バス、タクシー。
システムは自然の前では無力化する。

自然災害はすべて「一過性」にされる。
噴火予知連絡会なる専門家の集まりも、「想定外」という言葉で、無力さを示した。

雪の残る国会では今日から「決して熱くない」論戦なるものが始まる。

質問要旨を渡し、答弁は官僚が書き・・・。

予算委が始まると霞が関は大変だ。
廊下トンビの政府委員なる役人が野党を回って質問要旨を貰いにまわる。
それを受け取った役所では徹夜の構えで大臣答弁を作る。

役所の周りには深夜まで帰宅待ちのタクシーがエンジンをかけたまま待機の長い列。

働き方改革なんでしょ。役人だって対象でしょ。タクシー代は税金ですよ。

なんだか急に安倍はピョンチャン五輪の開会式に行くという。
ほんと、この人目立ちたがり屋なんだね。

意味不明の外遊の多々。かかる膨大な費用。
あなたの“働き方改革”をしたらいかが。
役人が書いた紙しか読めない”無能“な閣僚の方々の働き方改革してみては。

2018年1月17日水曜日

いくつかの大地震のこと

大相撲の初場所が始まっている。
貴の岩への暴行事件をめぐり醜態をさらした相撲協会、しかも立行司の不祥事。なにがあっても連日の大入り満員だ。
何があろうと「声なき声」は国技館に行き土俵に目を凝らし歓声をあげる。

天皇ご夫妻は恒例の観覧を取りやめられた。

相撲中継時にたまたまであろうが地震速報が流される。
きのうも福島県沖、震度1が伝えられた。
このところ地震が多い。数日前は北海道で震度4、宮城沖、福島沖、東京湾、千葉県沖・・・

つい先日は北茨城と富山沖で同時刻に地震。緊急地震速報が携帯電話を鳴らした。

海の向こうでもマグニチュード7以上の地震の情報がしばしば伝えられる。

またこの国のどこかで大地震が発生するのではないか。そんな不安が絶えない。

23年前の今日、あの阪神淡路大震災があった。6434人が犠牲になったあの惨禍。
今も地震があった時刻には遺族を含め、関係者が発生時刻の午前5時46分に合わせて慰霊の灯篭に手を合せる。

郡山でも一時は公園にキャンドルをともして慰霊の気持ちを伝えていた。

25年前には北海道の奥尻島で大地震があった。200人以上が犠牲になった。

2年前には記憶に新しい熊本地震があった。大きな余震が重なった大参事。

そして何よりも間もなく7年を迎える東日本大震災。

神戸ではあの瞬間に誕生した赤ん坊がいた。過酷な環境の中で生を得た子。
「生ましめんかな」の光景ががあの時あった。

東の本大震災時も東北では20人ほどの赤ん坊が誕生している。いわば「奇跡の子」だ。

「災害を語り継ぐには、何があったかを知るだけではなく、被災者がどう感じたか、その“感情の記憶”をつないでいくべきだ」。そう、そこにあった事実だけではなく。

人は感情の記憶を消すことはできない。いや、その記憶を消してはならない。

大災害はその時もその後も「死」をもてくる。
しかもそれらの中にある“孤独死”。

地震はじめ天災の前ではあまりにも人間は無力だ。学者も無力を告白した。
予知は不可能なのだ。

地震がいつ来るのか。誰もわからない。大地震に備えましょう。その呼びかけは「空語」にしか聞こえない。

もし人間に出来ることがあるとすれば、その死を悼むだけではなく、死者をなるべく少なくするような手立てを国を挙げてやるべきだ。
死者を生む兵器の開発、購入に国家予算をつぎ込むのではなく、災後の備えを計ることが政治のはずだ。
食糧や生活必需品の備蓄だけでは無い。
高齢化社会と言う構造の中にあって、医療機関をいかに守るか、患者を守るか、酸素タンクを確保しておくか・・・。
そして子供を・・・。

国民の生命、財産を守る、それは“抑止力の向上”などという戦争ごっこの話しでは無い。

繰り返す。地震はいつ、どこにくるかわからない。防ぎようが無い。戦争は人間の意志で防げる。

きょう17日は親友の祥月命日。はじめての命日。遺影の前でしばし語らってきた。
きゅうの雨は冷たさを伴って降っている。これとても自然の為せる業ではあるが。

2018年1月11日木曜日

変化の年としての平成30年

暦とはある意味非常にうまく作られたものかもしれません。
人の一生についても「干支」をもとにして60歳を還暦としました。
それは時代についてもあてはまりそうです。

今年から60年前は、昭和33年。もろもろ変化を予測させる年でした。
ようやく戦後の空気が変わりはじめていました。

モノクロのテレビが登場したからわずか数年。テレビは各家庭に急速に浸透しはじめていました。
カラー化されるとは誰も予想していませんでした。

フィルムの映像がVTR化されるとも思っていませんでした。
団地族が雨後の竹の子ように生まれていました。

インスタントラーメンが出来ました。今のインスタント時代が幕を開けていたのです。

1万円札も発行されました。岩戸景気の幕開けのような時代でした。

その頃17歳の少年は「警職法反対デモ」に連日のように参加していました。
それは去年の共謀罪法の端緒だったのかもしれません。

テレビが衛星中継機能を持つなんて誰も予想していなかった。
電話もすべての家庭には行き渡らず、電話を引くには多額の債権購入が必要でした。

しかし、誰もが何かの変化を感じ取っていたようです。

そして60年後、テレビは形も機能も変わり、電話は一人一個の携帯電話、スマホになりました。

電話機が世の中を激変させたのです。

「電話が写真の機能を持つようになった。いや、写真機で電話が出来るようになった」。村上春樹の騎士団長殺しという小説の中にある一行です。

スマホという「怪物」が世の中に何をもたらしているのか。
人間性を剥奪する行為に大いに貢献しているような。

SNSという「サイト」は9つもあるそうです。
フェイスブックもインスタも「写真」がなければ意味を持たないような気風。

「個」をさらけだすSNSへの投稿。

プライバシーなるものとSNSは「VS」なのか「WITH」なのか。

アメリカの大統領は常にツイッターなるもので私見を打ち込んでいます。

大方の病院の医師の診察室にはパソコンが常備されています。
レントゲン写真は現像などという手法では無く、撮影すれば瞬時に医師の前のパソコンに画像が届きます。

診療室で医師がパソコンを見る時間と、パソコンと向かい合っている時間と患者の顔を見る時間とどっちが多いか。

スマホの功罪――。
それを持っていれば電話も出来る、メールも出来る、写真も撮れる、さまざまな情報にも接することが出来る。

かたや、ながらスマホは事故を生み、イヤホンを通じて大音量の音楽が頭脳に突き刺さる。スマホ依存症という病名も生まれた。
人間関係がスマホを介在してのみ存在し得る・・・。

そしてスマホは5Gの時代になるそうです。第5世代。スピードが今の何百倍にもなるとか。

そんなにスピードを求めて何が得られるのか。
遺伝子のゲノム編集も進化するそうです。

科学技術の進化は止まるところをしりません。
今年を変化の年とするならば一言。「立ち止まる」ということではないかと。
世の中の流れに無条件で身を置くことでは無いのだと。

「立ち止まる」という詩がある。福島の詩人長田弘が書いたもの。

立ち止まる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。

「木のことば、水のことば、
 雲のことばが聴こえますか?
「石のことば、雨のことば、
 草のことばを話せますか?

立ち止まらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。


 「人がマインドコントロールを受けやすいのは、情報が過剰に与えられている状態か、極度に不足している状態だ」と言った人がいる。

“スマホの正体”を言った言葉のように思えて・・・。

きょうは11日。あの時スマホが果たした「功罪」。いや、スマホだけではない「ネット」。それを考える日。

“「その日」のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う。”

青森県の16歳の女子高生の言葉に頭を垂れるのです。
この高校生の60年後はどうなっているのだろうとも。

2018年1月5日金曜日

「CMは文化だ」と言ってはきたが・・・

またテレビについて書きます。
年末・年始の大型特番もそろそろ終わり。レギュラー編成となり落ちつきを取り戻したようです。面白いか、つまらないか、くだらないかは別にして。

テレビ業界に「引っ張る」という言葉があります。
たとえばスポーツ中継、中継録画。競技は1時間半でも番組は3時間です。
VTRを多用し、それも何回も繰り返し番組に仕立てていく。

そこのCM枠が上手く織り込まれる。CMの間にチャンネルを、チャンネルという言葉もある意味“死語”です、もうチャンネルと言う装置はテレビには付いていないのですから。リモコンボタンだけですから。それはさて置き、チャンネルを切り替えられないように、盛り上がった場面でCM入れて待たす。
ドラマでもこの手法は当たり前です。次の興味ある部分に行く前にCMを入れる。

「う~ん、引っ張るな~」が感想です。

言わずもがな民放テレビはCMという広告収入が「売上」のほとんどを占めています。いわずもがな視聴率の悪い番組にはスポンサーがつきにくい。
CM枠を自社の番組の番宣にあてる。
CMは無いけどNHKの番宣は執拗です。しかも番宣番組と思われるものを恥じらいも無く流し、たとえば大河ドラマや連ドラの出演者を他の自社番組の中にどんどん投入する。

CMは文化であり、世相を的確にとらえた内容がかつては多数みられました。
「オ~モウレツ」から「24時間働けますか」。それが「モーレツからビュティフルへ」となる。

今のCMは総じて五月蠅いです。
車のCMはちょっと前まではスピードをうたっていました。今の車のCMは「止まる車」です。事故防止ということで、運転がやさしいということで。

警察庁の発表では交通事故死は大幅に減少しているということです。
車の“性能”が強化される以前の統計です。

車と言えば「3・11」直後、CMが「再開」されてからしばらく経ってトヨタの「ReBORN 」というCMは秀逸でした。キムタクとビートたけし。

東北道を北上し福島はじめ東北をたどる。信長や秀吉らも登場させ。いろいろなタレントを使い。
強烈なメッセージ性が込められていました。被災地への愛が感じられました。

「3・11」は今やCMの世界からも忘れ去られました。

豊かで子贅沢な世界がCMを占拠しています。化粧品と健康食品、くすり。
メッセージはおおよそ存在していません。
それが今のこの国の「文化」ということなのでしょうか。

テレビは2兆円産業といわれていました。広告費のことです。
いまは1兆8千億くらいにさがっています。
ネットにCMがシフトしているのか。

“茶の間”のテレビはついている。その前で若者はスマホをいじっている。新たな「ながら族」。スマホからも広告は流れています。

分岐点の一つを見る思いです。

2018年1月1日月曜日

年末年始テレビ考

明けましておめでとうございます。と通り一遍の“言葉”にて。

年始のお目汚しとして「テレビ」について書きます。

時代の“還暦”、60年前の1958年、昭和33年。テレビの契約件数が100万件を越え、東京タワーがテレビ塔として完成した年でした。たしかNHK,NTV,TBS、CXは開局しており今のテレビ朝日が開局を目前に控えている時でした。

テレビはかつてラジオが箪笥の上に鎮座していたように、家族が集まる「茶の間」に存在しました。

テレビとお茶の間、いまもこの表現が使われています。密接不可離の関係にあるとして。茶の間の娯楽、それがテレビと言うものの位置づけでした。
外国のテレビ映画が時代を作っていきました。

今、「お茶の間」というものは存在しないと思います。丸い卓袱台を一家全員で囲む。そんな光景は無いにも関わらず、未だにテレビには「お茶の間」という肩書が付けられています。

その表現の不可思議さが、今のテレビそのものの不可思議さでもあるのです。

一億総白痴化。大宅壮一が喝破した見方は今でも通用するようです。

受像機は四角い箱から横長になり、カラー化され、ハイビジョンとなり、今や4Kとか8Kとか登場します。より高精細、高画質のものとなるようです。
音質も優れたものになりました。
アナログ放送がデジタル放送になった。国策で。完全デジタル化された時、ネットが“相乗り”し、放送と通信の融合と言われました。
5,1サラウンドなるスピーカーが開発され、画面が横長になり大きさを増しました。液晶画面が出来、薄型になりました。
5,1サラウンドスピーカーシステムは数年で姿を消しました。

余談のようですが、原発事故の後作られた多くの仮設住宅、その4畳半の部屋には全く不釣り合いな液晶大型テレビが東電によって”配布“されました。
することが無くなったお年寄りは目の前にあるテレビの画面を日がな見入っていました。

受像機が進化するとともに、内容も進化したでしょうか。答えは否です。
娯楽であったテレビは、報道機関としての使命を持つようになった。
マスコミというカテゴリーの中に入った。
情報番組なるものも出来上って行った。

最近の一例。連日無言の沈黙を守る貴乃花に突き出されるマイクを怒声は何を意味しているのか。
公道を占拠しているマスコミに近隣の住民は迷惑を蒙っていることを彼らの思考は及ばない。

震災報道が一段落したあと、テレビは震災前の「かたち」に戻った。
震災を経験して、テレビの在り方を考え直そうという人達が少人数はいたものの・・・。

元テレビ屋が今のテレビを慨嘆する。滑稽なことだが。

テレビは視聴者のことをどれだけ考えているのか。視聴率という数字にだけ関心があるのでしょう。
視聴者、つまり一般市民がもとめているものを伝えているのか、放送しているのか。自分たちがこれがニュースだと思い込んでいる物を押し付けてはいないのか。

政治の有り様と同じじゃないですか。政治家が思い込んでいる政治と国民が求めている政治とには大きなかい離がある。
政治とテレビは同じ立ち位置なのではないでしょうか。

年末・年始、4月と10月の改編期、テレビはやたらと長時間の特別番組を流します。
芸能人というかタレントというか、アナウンサーも交じってただただうるさい。
意味なく笑い転げてる。彼らの笑いは視聴者の元には響かない。

長時間の特別番組の中でニュースは消し去られている。正月だって考えねばならない、知らなければならないニュースはあるはずなのに。
知りたいことにテレビは応えていてくれていない。

バラエティー番組なるものの中では、多分番組収録後は捨てられるであろう豪華なおせち料理がスタジオに並べられている。
おせち料理どころか日々の食い物に事欠いている人も居る。
その人たちは特別の少数だ。
しかし、そんな少数に人たちの年末年始の実相を伝えることにテレビの存在意義があるのだと思うのですが。

科学技術の濃厚な進歩、それに反比例するテレビ人の思考の希薄さ。
そして映像を潰す字幕スーパーの多様。

テレビがつまらない、テレビはおかしい、テレビ死ね!
去年話題になった一市民の“叫び”を真似てみました。

我が家のテレビは消えています。年賀状に見入っていました。旧友、知友と”会話“していました。

つまらぬ年頭の「所感」。
嫌がらずに今年もお付き合いください。

「国民」とは誰そ

日本国憲法には「日本国民は正当に選挙された・・・」で前文が始まるように各所に国民と言う言葉が登場している。 かって、帝国憲法には「国民」という言葉は無く「臣民」だった。 しかし子供たちは「少国民」と呼ばれ、兵士になることを名誉だとする教育が施されていた。 いささか屁理屈...