きょうはキミの71歳の誕生日だ。昭和22年、1947年にキミは正式に生まれた。
71年間、ボクはキミと付き合ってきた。
高校3年時、大学受験勉強の合間に、毎日キミを読んでいた。キミが語りかけてくる言葉を一語一語噛みしめるように。
キミの前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」。この部分をある種の感動を以って接していた。
テレビの社会に入り、政治担当になると渡される議員手帳。そこには憲法が記載されている。
折に触れて読みふけっていた。
71歳になって、またぞろ「改憲論議」にキミはさらされている。
しかし、その論議は戦争放棄をうたった9条の扱いに収斂された感があり、どこか本質論とずれている。
キミが公布された昭和21年11月3日。総理大臣は吉田茂、国務大臣に幣原喜重郎の名がある。吉田茂の前任者。
キミを誕生させたのは事実上は幣原喜重郎という人だ。
幣原喜重郎「外交50年史」という“公文書”が、国立公文書館に保管されているはずだ。
彼の日記がそこに残されているはずだ。
「私は図らずも内閣を組織することを命ぜられ、総理の職に就いた時、すぐ余の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これはなんとかして、あの野に叫ぶ国民の意志を実現すべく努めないといかんと堅く決心したのであった。
それで、憲法の中に未来永劫、あのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり、戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹するようにしなければならんということだ。
少しばかりの軍隊を持つことはほとんど意味がないのである。外国と戦争をすれば必ず負けるに決まっている。
中途半端な軍備をもつよりもむしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが一番確実な方法だと思ったのである。」
抜粋すればこんな文章だ。幣原はキミの誕生のタネを植えたのだ。
キミが生まれて50年後くらいの人たちは、憲法論議をあえて避けている。
仲間の中でそれを言い出せばその場がしらけてしまうからだという。
新聞の世論調査は「安倍政権下での改憲について」と聞く。
どの、だれの政権下にあってもキミはキミなのだ。
今日の新聞は一日では読み切れないくらいの量でキミのことを書いている。
でも、一挙にこの日に合わせて書いても理解は深まらない。
常時、この憲法と言う民主主義の「基本法」について誰もが議論しやすいような記事を書き続けなければいけないのだ。
若者が日常の話題に供せるような書き方で。それが、マスコミと言うものがキミの誕生日に心することではないのだろうか。
AKB48の内山奈月と言う子はどうしているのだろう。今も活動しているのだろうか。
彼女が憲法学者の南野森教授と書いた「憲法主義」と言う本は若者への啓蒙に足る本だと思うけれど。
ボクは終生キミに付き合うつもりだ。
お祝いにもならない誕生日のメッセージ。
2018年5月3日木曜日
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