2018年6月20日水曜日

この国に生きているという事

日本列島は地震列島である。
地震はいつかかならずやってくる。
寺田寅彦の言葉を借りるまでも無いが「災害は忘れたころにやってくる」

今回の大阪北部を中心にした地震、前日には群馬県の渋川で震度5、その前日には房総半島沖で震度3。
きょうは福島で震度3.
忘れたころにではないのだ。熊本地震からも数年後、東日本大地震からも7年余り。連日の様な地震。

毎日が地震との“遭遇”だ。

南海トラフ地震の可能性。学者の意見は様々だ。極論すれば「わからない」ということ。

メディアは「都市のもろさが露呈された」と大見出しで書く。
「もろさ」は大方の人はわかっている。わかってはいるがそこで日常を送って居る人たちは手の出しようが無い。

慣れるしかないのだ。
慣れるとは事が起きた時いかに冷静に対処するか。
慣れるとは身近で出来る最小限の対処をしておくことだ。

小学校が“違法”なブロック塀を作っていた。それが倒壊し幼児が犠牲になった。
その学校や関係者は昭和になってからの数多くの地震被害から何も学んでいなかったということになる。

地震を学んだ市民は冷静だった。車内で待って線路を黙々と歩いた。
いつくるかわからないタクシーやバスに長蛇の列をなした。きちんと秩序を保って。

きょうも雨の中、難儀をしている被災者は少なくない。
互いに助け合ってその日を過ごす。
屋根の修理には業者がいない。多くの業者は割のいい東京オリンピックに駆り出されている。

あの時間、多くが通勤、通学者だった。なんとかして会社にたどり着こう。日本人の勤勉さだ。

働き方改革と地震被害。意識の中で相反する。

政治は“あの程度の天災”には無関心だ。市民と国政なるもののあいだには壁がある。
国民を守る。それは政治の第一義なのに。
「全力を挙げて」という形容詞だけが飛び交った。
全力を挙げるのは当然なのだ。その言葉が出るという事は意味を持たなくなった言葉での自己防衛。

首相は「云々」を「でんでん」と読み、官房長官は「枚方」を「まいかた」と読んで憚らなかった。
悲し過ぎるぜ。

あの日は決算委員会が予定されていた。野党は中止を求めた。与党は歯牙にもかけなかった。
森友、加計問題での新たな資料を基に野党は追及した。質問通告がないから答えられないと政府は逃げた。

丁寧な説明、答弁。あれはその場しのぎの言葉だった。

きのう突然加計理事長が記者会見もどきをやった。短時間。
「記者会見で説明しただろう」というアリバイ作り。

会見は地元の記者にだけ告知された。地震の影響で東京からは大阪からも記者は行けない。
好機到来だったのだ。「このチャンスしかないぜ、加計くん」。そんな囁きが交わされていたような気がする。

病める体に鞭打ってコーヒー豆を買いにいった。そこの女性店員さんもあの加計理事長の会見をテレビで見て「あれはないでしょ」と怒っていた。

たぶん、東京新聞を除いて各紙の一面トップはサッカーだった。

「地震」を利用し「サッカー」を利用し、政治家による「男たちの悪巧み」は進行している。

地震後に二階は官邸に足を運んで悪だくみ。
夜は安倍が料亭に岸田を招いて総裁選への腹を探りあう。

「まいかた市民」よ怒れ。大阪府民よ怒れ。

我々にとって「終末期」に思える安倍政治は実は「反転攻勢期」なのだろうか。

また熱が出てきている・・・。

2018年6月5日火曜日

「国民」とは誰そ

日本国憲法には「日本国民は正当に選挙された・・・」で前文が始まるように各所に国民と言う言葉が登場している。

かって、帝国憲法には「国民」という言葉は無く「臣民」だった。
しかし子供たちは「少国民」と呼ばれ、兵士になることを名誉だとする教育が施されていた。

いささか屁理屈ぽいかもしれないが、国民とは何なのだろうか。
国民と日本人は違うのか、同じなのか。

1990年代に「国民的美少女コンテスト」というのがあった。芸能プロのオスカープロが始めたものだ。
たしか初代は藤谷美紀という子だった。女優の道に進んだ。このコンテスト出身者は大方女優になっている。たしか米倉涼子もそのはず。

「国民的美少女」、その「的」が当時からひっかかっていた。
的と言う字の意味はなんなのか。
国民的歌手と言うのが排出された。国民的俳優もいた。
国民的スポーツという言葉も存在している。

「的」には「~のような」という意味があると思う。文字の解釈の問題だけれど、あまりにも仰々しい。

なぜこんなことを今更のようにいうかというと「国民栄誉賞」の話につなげたかったからだ。

国民栄誉賞は福田赳夫内閣時に制定された。その前は佐藤内閣時代は内閣総理大臣表彰だった。

内閣総理大臣表彰はわかりやすい。総理が”勝手“に決めて表彰すればいいのだから。
国民栄誉賞となると、その「国民」と言う言葉の主体と客体が曖昧だ。

国民がこぞって表彰すると言うのなら内閣総理大臣が賞状を授与するのはおかしい。
国民の代表は総理大臣では無い。国権の最高機関である国会だ。
国民の代表である議員で構成される「院」が表彰するならわかるけど。


羽生結弦が国民栄誉賞を受賞することが決まった。
羽生は受賞を名誉なこととして受け入れ「この賞が被災地にとって明るい光となることを祈ってます」とコメントした。

「被災地にとって明るい光」か~。素直に喜べる人と、そうでない人もいるはず。
かって国民栄誉賞を辞退したスポーツ選手もいる。イチローがそうだ。
「まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」。固辞の理由だ。
羽生はまだ現役だ。発展途上だ。

羽生は国際的にも著名な選手だ。
羽生の名を借りての自分のための“政治利用”。
ザギトワに贈られた秋田犬の贈呈式には押しかけ参加。抱いて見せるパフォーマンス。

映画監督の是枝裕和がパルムドールを受賞した。快挙だ。
しかし、是枝にはメッセージの一つも送ってない。無視だ。
「万引家族」という映画が、暗に安倍政治を批判しているからと聞く。

なんと度量の狭い男なんだろう。

この国の官庁は国民の為にある。あの公文書改竄の、しかも組織ぐるみのような“犯罪行為”。安倍を守るための組織。あの一連の不祥事には「国民」は不在だ。彼らの目は内向きでしかない。

政治の世界では連日のように「国民」という言葉が発せられている。
安倍の云う国民とはだれか。野党の云う国民とは誰か。
国民は戸惑う。

安倍は「膿を出す」と言った。膿を出す“治療行為”は全くなされていない。
膿は溜る一方だ。外科手術を必要としているのに。
溜る一方の膿はもはや澱となって沈殿している。

意味不明な言語を連発し、不誠実な態度を取り続け、徹底的という言葉だけの形容詞で逃げ切る。
国民の多くはもはや諦めに近い思いでいるのかもしれない。
少なくとも安倍が言う国民には入りたくない。

自分で育てた膿は自分で切除すべきだがそれは仕方さえわからない。
国民は「総外科医」になるべきかとも。

この国に生きているという事

日本列島は地震列島である。 地震はいつかかならずやってくる。 寺田寅彦の言葉を借りるまでも無いが「災害は忘れたころにやってくる」 今回の大阪北部を中心にした地震、前日には群馬県の渋川で震度5、その前日には房総半島沖で震度3。 きょうは福島で震度3. 忘れたころにではな...