2019年8月23日金曜日

第3次交通戦争の時代

戦後しばらくして、日本が高度経済成長期を謳歌していた頃、第一次「交通戦争」という言葉が飛び交った。
日本は車社会と化し、交通事故が激増した。その犠牲者が日清戦争時の日本側の死者の数を超えたことから「交通戦争」と世相が名付けられた。
おそらくマスコミの作語だったような気もする。

交通遺児のための「あしなが育英会」が作られ、街頭募金も行われていた。

1980年代、交通事故の死者数が年間に1万人を超えた。事故は多発し、第二次交通戦争といわれた。

車のメーカーはこぞって新しい車を開発し、これでもかこれでもかと車を売りつけ、車の数は増え、それに比例する様に事故も増えて行った。車の増加に道路整備が追いつかない。
通学路のような狭い道を抜け道として利用する人が多発。車両進入禁止や通学路に侵入する車にテレビカメラが取材を試み、「あなたは違反してます」などと言おうものなら運転手から殴られるようなケースさえあった。

速さが求められていた時代背景をそこに感じた。


数年前の免許証更新時、教習所で耳を疑うような“講義”を聞かされた。
「ライトは常にハイビーム」で走れという道交法の改正があったとか。
愕然とした。

昔の交通マナーは「他人に迷惑をかけない」という趣旨があった。
信号で停車した時にはライトはいわゆるスモールにし、前の車が眩しくないように、対向車が眩しくないようにしてきた。身に沁み込んだマナーだ。
スモールとは車幅燈だ。

それが「違う」という。上向きにしていれば防げた交通事故が多いからだと「お上」は言う。果たしてそうだろうか。

車は飛躍的に進化し、ライトはLED使用。対向車のライトが眩しく、「目くらまし」状態になることもしばしば。停車中も後ろの車のライトが眩しい。
眩しく事故を起こしたという話も聞く。

眩しければ目をつむる。人間の当然の「生体反応」だ。
車をより「狂暴化」させている。ライトの仕様も暴力的、威圧的だ。
識者は言う。「眩しい時は左側に目をやりなさい」。愚答だ。左に注意を向けると右を見ることがおろそかになり危険でもある。


今は、もしかしたら「第三次交通戦争の時代」かもしれない。
いわゆる「あおり運転」、「威嚇運転」が日常茶飯事の如く為されている。

蔓延する「暴力的運転」。威圧し他者の恐怖心を呼び起こす運転。
「ハンドルを握れば人が変わる」と言われている。
高級外車に乗ると優越感に浸る。そこのけそこのけ俺様が通る。

一時の流行病で終わることを祈る。

いま、この国は「暴力的空気」に支配されている。
政治の「暴力」とあおり運転は関係ない。しかし空気は伝播する。
京アニ事件もそうだ。ガソリン携行缶と言う言葉は愛知トリエンナーレ事件にも使われた。
京アニ事件の被害者や家族の心情を考えることもなく、それを「表現の自由」を非難し攻撃することに使う。

きのう煽られた。通学路で軽自動車に。駅前では公共交通機関のバスさえもあおりをやっている。

「あおりに気を付けてね」が日常生活で使われる悲しい現実。
どこか、いま問題の日韓関係にも似ているような・・・。

2019年8月15日木曜日

あの日も今年も暑い日だった

終戦の玉音放送を聴いたのは4歳。
姫路大空襲で家を焼かれ、玉蜀黍畑で一夜を過ごし、伝手をたどっての明石か飾磨の農家の離れに暮らしていた頃だった。

ラジオから流れてくる声は聞き取りにくく、何を言っているのかよくわからない。父親が教えてくれた。
「戦争が終わったよ」と。

子ども心に感じた「解放感」。その離れから見える海はこれ以上なく青く、その手前にはヒマワリが無数に咲いていた。そして暑かった。

近親者を戦争で亡くすことも無く、過ごしていた4歳児。
いつも覚えていたのは「飢え」。もしかしたら戦争の記憶は「飢え」と共にあったような。

翌年は東京にいた。バラックの“復興住宅”。そこではなぜか秋刀魚を焼く匂いがあった。しばらくして初台に住んだ。
家はあるけれど食糧が無い。
来る日も来る日も「すいとん」。お湯に醤油をいれ、その中にメリケン粉をこねたものをちぎっていれるだけ。
姫路の知り合いから素麺が木箱で大量に送られて来た。
来る日も来る日も素麺。三食とも。
以来素麺が喉を通らなくなった。食えなくなった。

あばら骨が出ているパンツ一枚の写真が残っている。

食糧の買い出しに行く母親に付いて行った。
上野の地下道にはいわゆる戦災孤児が溢れていた。
彼らの餓えた目つきが忘れられない。

戦災孤児は東京大空襲で親を亡くした子供だけでは無い。
学童疎開に出され、終戦後東京に戻ってきた子供もいた。帰ってきたら家も無く親もいなかった子ら。

戦死の原因の半分は餓死だとも聞く。


小学校の給食。コッペパンと脱脂粉乳。同じクラスに裕福な家の子がいた。女の子。ジャムを持って来ていた。これ食べないと言われたがなぜか頑なに拒んだ。

「お米の通帳」、米穀通帳が配布された。質草になるほど貴重な物。いわば住民票かわり。

中学の時は「ネコ飯」が弁当だった。カツオ節をご飯の上に載せたもの、時折海苔の佃煮が乗せてある。

大袈裟な言い方だけど「飢え」との戦争だった。遠足の弁当はおにぎり二つ。

小学校5年の時、習字の宿題があった。「平和日本」と書いた。
担任の梅田育子先生が、その字の前で話をした。

「まだこの国は平和じゃないのよ。だからそうあってほしいと平和という言葉が使われる。本当の平和な国になったら平和と言う言葉も無くなる。そういう国にしようよね」。この話だけは今も覚えている。

高校は上板橋だった。毎朝山の手線で高田馬場を通るとき、ドアに顔を付けるようにしてその光景を見ていた。
戸山の公共職業安定所。その日の職にありつけるかどうかの長い列。
貧困・非正規雇用があった戦後・・・。

きょうの戦没者追悼式。天皇は深い反省という言葉を発した。父親のならって。
安倍はそれを言わなかった。

戦没者の遺族はだんだん減っていく。今年の最高齢は97歳。

戦争を語り継ぐ。数年後には語る人はいなくなる。
当時者の時代はなくなる。
あった事実は書物でも学べるが生の声では聴けなくなる。

「平和」と名付けられた憲法は戦争を知らない政治家によって書き換えを画策されている。
選挙の争点に憲法を。そんな世論は少ない。しかし為政者は限りなくそのことに固執する。

大学入試の勉強の為新宿図書館に毎日通っていた。毎日、憲法を読んでいた。前文を読むだけで感激があった。

その時だけは僕の心は「平和」だった。毎日のように食べていた図書館前のラーメン屋。一杯35円。満足だった。「平和の記憶」かもしれない。

2019年8月11日日曜日

広島・長崎、そして福島

唯一の被爆国である我が国。
八月六日のヒロシマ。今年はいつもの年よりも酷暑だったろう。
広島市長は核禁条約への署名を求める。国を代表した安倍は真正面から答えない。
相変わらずの光景。

広島の原爆資料館が改装されたという。
展示物を大幅に変えた。
被爆地周辺から掘り起こされた被曝死した人たちの遺品が展示されている。
ボロボロになった瞬間に来ていた服の切れ端。唯一残った子供のつけていたズボンのベルト。ひねまがったバックル。

今年11月にはローマ法王が来日する。
「焼き場に立つ少年」という写真がある。死んだ妹か弟の亡骸をおんぶ紐で背負い、唇をかみしめながら、焼き場が空く順番を待っている少年。
その写真をローマ法王はSNS配信し、信者に拡散を呼びかけた。

長崎―。爆心地の大浦天主堂にあった十字架がアメリカから返還された。
長崎の悲劇のシンボルとして。
長崎市長も核禁条約への批准書署名を訴えた。
安倍はここでも言及を避けた。

発効50年を迎える核不拡散条約(NPT)に触れ、「核兵器をなくすことを約束し、その義務を負ったこの条約の意味を、すべての核保有国はもう一度思い出すべき。それは「唯一の戦争被爆国の責任」と訴えた。

この日南米のボリビアが批准書に署名した。「ヒロシマ」に合わせて。
批准書採択にはまだ20か国以上の批准が足りない。

アメリカはもちろんNPTに参加しようとしない。
日本はアメリカの核の傘の下にある。アメリカの意向に従うしかないというのが本音。
被爆者たちの声よりもアメリカの意向に追随する政治。

被爆経験者はどんどん老いて行く。
直に体験を語る人がいなくなっても、若い人たちの間にはそれを「語り継ごう」とする気運が芽生えている。

「放射能が移る」というという“デマ”で彼らは忌避され阻害され排除されて来た。

長崎市長は言っったー。
 原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。と。
そして
 「長崎は、核の被害を体験したまちとして、原発事故から8年が経過した今も放射能汚染の影響で苦しんでいる福島の皆さんを変わらず応援していきます
。」と。

僕の周りでも原発事故後、放射能が移るという“デマ”に洗脳され、いわれなき差別を体験した人が数多くいた。
僕自身も言われた。
「あんた放射能が恐くて東京に逃げていたんだって」と。誰が言っているのかと誰何すると、「皆言っている」と。
その人達との接触を絶った。あのころ毎日避難所に通っていたとは言わなかった。無意味だから。

いわれなきデマに悩まされたという一点では広島・長崎・福島は通底する。しかし、福島県人は原爆の被災地のような阿修羅の状態にはいなかった。

ここ数日、元ちとせが歌う「死んだ女の子」という曲を繰り返し聴いている。
彼女が最初にその歌をプロデューサーから渡された時、歌詞を自分の物と出来ず、歌は封印されていた。
彼女が原爆資料館に立ち寄った時、そこをみて考えた時、咄嗟に言ったという。
「あの曲歌います」と。

♪あの時も七つ、今でも七つ。
死んだ子は決して大きくはならないの
平和な世界にどうかしてちょうだい。
炎が子どもを焼かないように♪

・・・

そして間もなく15日。日本の一番暑くて長い日。

2019年8月3日土曜日

真夏の夜の夢

この数週間、ほとんど“夢の中”にいた。
原因不明の頭痛、それもかなり激しい片頭痛。痛み止めを飲んでは結果寝てばかり。
MRIなど医学的検査ではどこにも異常なし。気象病と診断されたわけでも無く。そして、白内障がいささか進行の気配。ま、年を取るというのはこういうことかと観念。
検査で見つかったのは「無呼吸症候群」。結果、象さんスタイルで寝てばかり。
何か夢は見ているようだが、それが何だったのか思い出せない。
やっと、いささか頭痛がおさまってきているようで。
「放置」してきたからから亭を久々に開けてみる。

参院選があった。
何処が勝って何処が負けたのか。投票率48,8%と言う数字。
政治は有権者に負けた。
何故負けたのか。政治が身近なものにならなかったこと。
「無党派層は寝ていてくれればいい」と豪語した元総理を想起する。
今の政権もそう思っていたのかもしれない。

世論調査で関心があると答えた人が8%とか3%の憲法問題や原発問題。

人生100年、年金足りない。2千万の貯蓄を。
そんな金融庁の報告書も“受け取り拒否”する政治。

今度の選挙の意義がわからない。

「あなたが政治を見放しても政治はあなた方を縛り続ける」。そんな“持論”も意味を為さなかったようだ。

今度の選挙で国の形を変えたのは「れいわ新撰組」という政党の出現。
2人の当選者が車椅子で議席を獲得し、議場の「形」を変えたこと。
これだけは特筆すべきことだったのでは。

政治を上から見る既存の政治、下から見ようという山本太郎の思考。
こいつは化けるかもしれねえぜ。
「生産性」という言葉への抗議。生きている人にはみな意味があるという思想。
この「れいわ現象」がこの無意味な参院選の唯一の「収穫」だったのかもしれない。
多分、指呼の間にある衆院選の“焦点”になるかも。
既存政党は敢えて語らないが、この現象を恐れているはず。

選挙が終わった途端、マスコミが伝えるのはこぞってのオリンピック、オリンピック。
連日の猛暑報道。こんな気候の中でオリンピック・パラリンピック。
狂気の沙汰じゃないの。
特別な環境が整備されていても猛暑は猛暑だ。

「温暖な気候です」と“気象予報士”の安倍くんは嘘を言い、挙句原発はアンダーコントロールと来たもんだ。
この時期のオリンピック開催となったのは巨大なスポンサーであるアメリカの三大ネットワークに強要されたから。放映時間と視聴率。

すべては「オリンピック・パラリンピック」に向けて進んでいく。
原発を巡っては排気塔の取り壊した2Fの廃炉。
アンダーコントロールのためのお膳立て。
東電は政権のいう事なら何でもやる。
県民の要望は、裁判所を巻き込んで、大方無視。

もし、オリ・パラで熱中症患者が出たら、誰が責任を負うの。
「自己責任」だと片付けられるのがオチだ。

福島も猛暑だ。野球とソフトボール開催県にされて舞いあがってる場合じゃない。
「お・も・て・な・し」という奇妙な日本語が“大流行”。
オリンピック期間中の一炊の夢にうつつを抜かしている。

橋本治ではないが「バカになったか日本人」だ。

北朝鮮がいくらミサイルを撃っても「Jアラート」は鳴らない。
韓国との関係は“不穏”だ。アメリカは手助けをしてくれない。

「経済の安倍」とアベノミクスが“誕生”した時、マスコミは誉めそやした。
いつの間にか「外交の安倍」と「タグ」を付け替えた。
成果だと自賛した北方4島。ロシアの首相が実効支配を誇示する。
中国もロシアも“無視”“無視”無視“。

マスコミは沖縄を伝えなくなった。米軍基地の為に5倍の経費負担を要求するトランプ。黙して語らぬ安倍。
♪馬鹿と阿呆の絡み合い♪ってとこか。

やがて来る「日本の一番暑い夏」に向けて、誰が、何処で、何を語るのか。

「京アニ」の放火殺人事件。アニメ好きの麻生も何も語らない。
暴力的政治、暴力的社会の空気が具現化された一つの現実なのに。

頭痛人の戯言でした。

第3次交通戦争の時代

戦後しばらくして、日本が高度経済成長期を謳歌していた頃、第一次「交通戦争」という言葉が飛び交った。 日本は車社会と化し、交通事故が激増した。その犠牲者が日清戦争時の日本側の死者の数を超えたことから「交通戦争」と世相が名付けられた。 おそらくマスコミの作語だったような気もする。...