2018年1月17日水曜日

いくつかの大地震のこと

大相撲の初場所が始まっている。
貴の岩への暴行事件をめぐり醜態をさらした相撲協会、しかも立行司の不祥事。なにがあっても連日の大入り満員だ。
何があろうと「声なき声」は国技館に行き土俵に目を凝らし歓声をあげる。

天皇ご夫妻は恒例の観覧を取りやめられた。

相撲中継時にたまたまであろうが地震速報が流される。
きのうも福島県沖、震度1が伝えられた。
このところ地震が多い。数日前は北海道で震度4、宮城沖、福島沖、東京湾、千葉県沖・・・

つい先日は北茨城と富山沖で同時刻に地震。緊急地震速報が携帯電話を鳴らした。

海の向こうでもマグニチュード7以上の地震の情報がしばしば伝えられる。

またこの国のどこかで大地震が発生するのではないか。そんな不安が絶えない。

23年前の今日、あの阪神淡路大震災があった。6434人が犠牲になったあの惨禍。
今も地震があった時刻には遺族を含め、関係者が発生時刻の午前5時46分に合わせて慰霊の灯篭に手を合せる。

郡山でも一時は公園にキャンドルをともして慰霊の気持ちを伝えていた。

25年前には北海道の奥尻島で大地震があった。200人以上が犠牲になった。

2年前には記憶に新しい熊本地震があった。大きな余震が重なった大参事。

そして何よりも間もなく7年を迎える東日本大震災。

神戸ではあの瞬間に誕生した赤ん坊がいた。過酷な環境の中で生を得た子。
「生ましめんかな」の光景ががあの時あった。

東の本大震災時も東北では20人ほどの赤ん坊が誕生している。いわば「奇跡の子」だ。

「災害を語り継ぐには、何があったかを知るだけではなく、被災者がどう感じたか、その“感情の記憶”をつないでいくべきだ」。そう、そこにあった事実だけではなく。

人は感情の記憶を消すことはできない。いや、その記憶を消してはならない。

大災害はその時もその後も「死」をもてくる。
しかもそれらの中にある“孤独死”。

地震はじめ天災の前ではあまりにも人間は無力だ。学者も無力を告白した。
予知は不可能なのだ。

地震がいつ来るのか。誰もわからない。大地震に備えましょう。その呼びかけは「空語」にしか聞こえない。

もし人間に出来ることがあるとすれば、その死を悼むだけではなく、死者をなるべく少なくするような手立てを国を挙げてやるべきだ。
死者を生む兵器の開発、購入に国家予算をつぎ込むのではなく、災後の備えを計ることが政治のはずだ。
食糧や生活必需品の備蓄だけでは無い。
高齢化社会と言う構造の中にあって、医療機関をいかに守るか、患者を守るか、酸素タンクを確保しておくか・・・。
そして子供を・・・。

国民の生命、財産を守る、それは“抑止力の向上”などという戦争ごっこの話しでは無い。

繰り返す。地震はいつ、どこにくるかわからない。防ぎようが無い。戦争は人間の意志で防げる。

きょう17日は親友の祥月命日。はじめての命日。遺影の前でしばし語らってきた。
きゅうの雨は冷たさを伴って降っている。これとても自然の為せる業ではあるが。

2018年1月11日木曜日

変化の年としての平成30年

暦とはある意味非常にうまく作られたものかもしれません。
人の一生についても「干支」をもとにして60歳を還暦としました。
それは時代についてもあてはまりそうです。

今年から60年前は、昭和33年。もろもろ変化を予測させる年でした。
ようやく戦後の空気が変わりはじめていました。

モノクロのテレビが登場したからわずか数年。テレビは各家庭に急速に浸透しはじめていました。
カラー化されるとは誰も予想していませんでした。

フィルムの映像がVTR化されるとも思っていませんでした。
団地族が雨後の竹の子ように生まれていました。

インスタントラーメンが出来ました。今のインスタント時代が幕を開けていたのです。

1万円札も発行されました。岩戸景気の幕開けのような時代でした。

その頃17歳の少年は「警職法反対デモ」に連日のように参加していました。
それは去年の共謀罪法の端緒だったのかもしれません。

テレビが衛星中継機能を持つなんて誰も予想していなかった。
電話もすべての家庭には行き渡らず、電話を引くには多額の債権購入が必要でした。

しかし、誰もが何かの変化を感じ取っていたようです。

そして60年後、テレビは形も機能も変わり、電話は一人一個の携帯電話、スマホになりました。

電話機が世の中を激変させたのです。

「電話が写真の機能を持つようになった。いや、写真機で電話が出来るようになった」。村上春樹の騎士団長殺しという小説の中にある一行です。

スマホという「怪物」が世の中に何をもたらしているのか。
人間性を剥奪する行為に大いに貢献しているような。

SNSという「サイト」は9つもあるそうです。
フェイスブックもインスタも「写真」がなければ意味を持たないような気風。

「個」をさらけだすSNSへの投稿。

プライバシーなるものとSNSは「VS」なのか「WITH」なのか。

アメリカの大統領は常にツイッターなるもので私見を打ち込んでいます。

大方の病院の医師の診察室にはパソコンが常備されています。
レントゲン写真は現像などという手法では無く、撮影すれば瞬時に医師の前のパソコンに画像が届きます。

診療室で医師がパソコンを見る時間と、パソコンと向かい合っている時間と患者の顔を見る時間とどっちが多いか。

スマホの功罪――。
それを持っていれば電話も出来る、メールも出来る、写真も撮れる、さまざまな情報にも接することが出来る。

かたや、ながらスマホは事故を生み、イヤホンを通じて大音量の音楽が頭脳に突き刺さる。スマホ依存症という病名も生まれた。
人間関係がスマホを介在してのみ存在し得る・・・。

そしてスマホは5Gの時代になるそうです。第5世代。スピードが今の何百倍にもなるとか。

そんなにスピードを求めて何が得られるのか。
遺伝子のゲノム編集も進化するそうです。

科学技術の進化は止まるところをしりません。
今年を変化の年とするならば一言。「立ち止まる」ということではないかと。
世の中の流れに無条件で身を置くことでは無いのだと。

「立ち止まる」という詩がある。福島の詩人長田弘が書いたもの。

立ち止まる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。

「木のことば、水のことば、
 雲のことばが聴こえますか?
「石のことば、雨のことば、
 草のことばを話せますか?

立ち止まらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。


 「人がマインドコントロールを受けやすいのは、情報が過剰に与えられている状態か、極度に不足している状態だ」と言った人がいる。

“スマホの正体”を言った言葉のように思えて・・・。

きょうは11日。あの時スマホが果たした「功罪」。いや、スマホだけではない「ネット」。それを考える日。

“「その日」のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う。”

青森県の16歳の女子高生の言葉に頭を垂れるのです。
この高校生の60年後はどうなっているのだろうとも。

2018年1月5日金曜日

「CMは文化だ」と言ってはきたが・・・

またテレビについて書きます。
年末・年始の大型特番もそろそろ終わり。レギュラー編成となり落ちつきを取り戻したようです。面白いか、つまらないか、くだらないかは別にして。

テレビ業界に「引っ張る」という言葉があります。
たとえばスポーツ中継、中継録画。競技は1時間半でも番組は3時間です。
VTRを多用し、それも何回も繰り返し番組に仕立てていく。

そこのCM枠が上手く織り込まれる。CMの間にチャンネルを、チャンネルという言葉もある意味“死語”です、もうチャンネルと言う装置はテレビには付いていないのですから。リモコンボタンだけですから。それはさて置き、チャンネルを切り替えられないように、盛り上がった場面でCM入れて待たす。
ドラマでもこの手法は当たり前です。次の興味ある部分に行く前にCMを入れる。

「う~ん、引っ張るな~」が感想です。

言わずもがな民放テレビはCMという広告収入が「売上」のほとんどを占めています。いわずもがな視聴率の悪い番組にはスポンサーがつきにくい。
CM枠を自社の番組の番宣にあてる。
CMは無いけどNHKの番宣は執拗です。しかも番宣番組と思われるものを恥じらいも無く流し、たとえば大河ドラマや連ドラの出演者を他の自社番組の中にどんどん投入する。

CMは文化であり、世相を的確にとらえた内容がかつては多数みられました。
「オ~モウレツ」から「24時間働けますか」。それが「モーレツからビュティフルへ」となる。

今のCMは総じて五月蠅いです。
車のCMはちょっと前まではスピードをうたっていました。今の車のCMは「止まる車」です。事故防止ということで、運転がやさしいということで。

警察庁の発表では交通事故死は大幅に減少しているということです。
車の“性能”が強化される以前の統計です。

車と言えば「3・11」直後、CMが「再開」されてからしばらく経ってトヨタの「ReBORN 」というCMは秀逸でした。キムタクとビートたけし。

東北道を北上し福島はじめ東北をたどる。信長や秀吉らも登場させ。いろいろなタレントを使い。
強烈なメッセージ性が込められていました。被災地への愛が感じられました。

「3・11」は今やCMの世界からも忘れ去られました。

豊かで子贅沢な世界がCMを占拠しています。化粧品と健康食品、くすり。
メッセージはおおよそ存在していません。
それが今のこの国の「文化」ということなのでしょうか。

テレビは2兆円産業といわれていました。広告費のことです。
いまは1兆8千億くらいにさがっています。
ネットにCMがシフトしているのか。

“茶の間”のテレビはついている。その前で若者はスマホをいじっている。新たな「ながら族」。スマホからも広告は流れています。

分岐点の一つを見る思いです。

2018年1月1日月曜日

年末年始テレビ考

明けましておめでとうございます。と通り一遍の“言葉”にて。

年始のお目汚しとして「テレビ」について書きます。

時代の“還暦”、60年前の1958年、昭和33年。テレビの契約件数が100万件を越え、東京タワーがテレビ塔として完成した年でした。たしかNHK,NTV,TBS、CXは開局しており今のテレビ朝日が開局を目前に控えている時でした。

テレビはかつてラジオが箪笥の上に鎮座していたように、家族が集まる「茶の間」に存在しました。

テレビとお茶の間、いまもこの表現が使われています。密接不可離の関係にあるとして。茶の間の娯楽、それがテレビと言うものの位置づけでした。
外国のテレビ映画が時代を作っていきました。

今、「お茶の間」というものは存在しないと思います。丸い卓袱台を一家全員で囲む。そんな光景は無いにも関わらず、未だにテレビには「お茶の間」という肩書が付けられています。

その表現の不可思議さが、今のテレビそのものの不可思議さでもあるのです。

一億総白痴化。大宅壮一が喝破した見方は今でも通用するようです。

受像機は四角い箱から横長になり、カラー化され、ハイビジョンとなり、今や4Kとか8Kとか登場します。より高精細、高画質のものとなるようです。
音質も優れたものになりました。
アナログ放送がデジタル放送になった。国策で。完全デジタル化された時、ネットが“相乗り”し、放送と通信の融合と言われました。
5,1サラウンドなるスピーカーが開発され、画面が横長になり大きさを増しました。液晶画面が出来、薄型になりました。
5,1サラウンドスピーカーシステムは数年で姿を消しました。

余談のようですが、原発事故の後作られた多くの仮設住宅、その4畳半の部屋には全く不釣り合いな液晶大型テレビが東電によって”配布“されました。
することが無くなったお年寄りは目の前にあるテレビの画面を日がな見入っていました。

受像機が進化するとともに、内容も進化したでしょうか。答えは否です。
娯楽であったテレビは、報道機関としての使命を持つようになった。
マスコミというカテゴリーの中に入った。
情報番組なるものも出来上って行った。

最近の一例。連日無言の沈黙を守る貴乃花に突き出されるマイクを怒声は何を意味しているのか。
公道を占拠しているマスコミに近隣の住民は迷惑を蒙っていることを彼らの思考は及ばない。

震災報道が一段落したあと、テレビは震災前の「かたち」に戻った。
震災を経験して、テレビの在り方を考え直そうという人達が少人数はいたものの・・・。

元テレビ屋が今のテレビを慨嘆する。滑稽なことだが。

テレビは視聴者のことをどれだけ考えているのか。視聴率という数字にだけ関心があるのでしょう。
視聴者、つまり一般市民がもとめているものを伝えているのか、放送しているのか。自分たちがこれがニュースだと思い込んでいる物を押し付けてはいないのか。

政治の有り様と同じじゃないですか。政治家が思い込んでいる政治と国民が求めている政治とには大きなかい離がある。
政治とテレビは同じ立ち位置なのではないでしょうか。

年末・年始、4月と10月の改編期、テレビはやたらと長時間の特別番組を流します。
芸能人というかタレントというか、アナウンサーも交じってただただうるさい。
意味なく笑い転げてる。彼らの笑いは視聴者の元には響かない。

長時間の特別番組の中でニュースは消し去られている。正月だって考えねばならない、知らなければならないニュースはあるはずなのに。
知りたいことにテレビは応えていてくれていない。

バラエティー番組なるものの中では、多分番組収録後は捨てられるであろう豪華なおせち料理がスタジオに並べられている。
おせち料理どころか日々の食い物に事欠いている人も居る。
その人たちは特別の少数だ。
しかし、そんな少数に人たちの年末年始の実相を伝えることにテレビの存在意義があるのだと思うのですが。

科学技術の濃厚な進歩、それに反比例するテレビ人の思考の希薄さ。
そして映像を潰す字幕スーパーの多様。

テレビがつまらない、テレビはおかしい、テレビ死ね!
去年話題になった一市民の“叫び”を真似てみました。

我が家のテレビは消えています。年賀状に見入っていました。旧友、知友と”会話“していました。

つまらぬ年頭の「所感」。
嫌がらずに今年もお付き合いください。

2017年12月28日木曜日

冬の日

今年の冬は「死」を伴ってやって来た。
郡山の親友が亡くなった。74歳。
彼の闘病、そして死。
あまりにも想うことが多く、ブログに手を出せなかった。

毎日のように、彼のことを考えている。

人は二度死ぬと言う。一度目は命の火が消えた時、二度目はその死者の事が人の記憶から消え去った時。

乞われて彼の追悼文を書いた。多くの時間を必要とした。
その文章の中に、決して君を忘れないと書いた・・・。

僕が大好きな詩を彼に送る。彼はこのブログの読者でもあったから。


ああ智慧(ちゑ)は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」

三好達治の冬の日と題した詩の一節だ。

きょうの郡山は風が強い。風に悩まされながら、彼には「風と共に去りぬ」という映画の題名が似合いそうだ。

一人の男が死んだ。世の中の動きは全く変わらない。
歳末という事で気ぜわしく、慌ただしい光景。
この季節が嫌いだ。厭だ。

劣化した政治は劣化したまま年を越す。
政治が何をもたらしたのか。

少なくとも生活保護者にとっては「暖かい冬」は望めそうもない。

なにやら、この国は「富者」のためだけに存在しているようだ。
愚かな為政者は周りを一層「お茶坊主」で固めている。
自ら“裸の王様”への道をひた走っているような。

戦争の足音が近づいているような思いがある。巨額の財政赤字を抱えた国が、企業ならとっくに“破産”しているかもしれない国がトランプに脅されて、巨費を投じて兵器を買う。
昔からそうであったように、日本はアメリカの兵器産業を儲けさせている。

核の抑止力という神話はもう崩れている。通用しない安全保障の根幹となる理念にいまだにしがみついている。

国の予算は再来年には100兆円を超えるかもしれない。
悪知恵の働く奴らが国民の税金をむさぼろうとむらがる。

沖縄の基地問題は、原発が抱える諸問題は、高騰する野菜や魚の価格は・・・。

群雄割拠の戦国時代では無い。首相一強の時代。乱世なのだ。

正月飾りに南天を買った。270円。

「一度だけ本当の恋がありまして南天だけが知っております」。

山崎方代の句だ。

三好達治の詩に救いを求め、方代の句にやすらぎを求める。

友の死が連れてきた錯綜する感情のもろもろ。

どこかで切り替えてしかと書き続けねばと。

2017年12月5日火曜日

虚しさ一路の旅なれど

ある日からなぜか突然、書くことが、思っていることを字で表すことが出来なくなった。
世の中の毎日のいろいろなことに考えは及ぶのだが、その考えるという作業が嫌になっていた。
体力よりも気力の問題だと思う。体力の減退が気力の減退を招く。
エネルギーがないのだ。

おおよその事がバカバカしくなってきたからかもしれない。

北朝鮮からのミサイルが世上を騒がす。かたや漁船が日本海で遭難や徘徊を続けている。
北朝鮮とトランプは悪口雑言の応酬にあけくれている。

トランプに“同化”している安倍。
トランプの「ロシアゲート問題」、安倍の「森友・加計問題」。
疑惑を抱えていると言う点でも彼らは似通っているようだ。
それらを闇というなら、闇が生まれるべき「闇」が底辺にあるはずだ。
それが問題の不可解さに通じている。

拉致問題は“具”にされている。横田早紀江さんが安倍に宛てて手紙を書いた。
安倍は返事も出さない。

政治と言う権力が“不祥事”をもみ消している。

テレビはワイドショーを筆頭に大相撲の不祥事で連日大騒ぎだ。くだらない。
ワイドショーのレポーターなる奴らが車に向かって大声でなにやらわめいているのを見ると吐き気がする。
なぜあんな追っかけごっこみたいな。
アナウンサーやレポーターなるものの絶叫に近い声に辟易する。

あらためてテレビは“劣化”していると感じる。
CMに思う。なぜあんなに”新商品“を買え買えと迫るのか。

企業の不祥事が多発している。連日、頭を下げる企業のトップ。悲しい。
その企業に就職しようと努力してきた若者がいたというのに。

国は「原発再稼働」に向けてあの手この手の方策を繰り出す。
核のゴミは溜り続ける。
1Fの収束作業には終わりが見えない。

原子力政策が抱えていた矛盾があらたな矛盾を生んでいる。

流行語大賞なるものにあいかわらず「みじめな言葉」が選ばれる。
この国の流行とはあんな程度の無意味なものだったのか。
忖度の本来の意味を取り違えている。
インスタ映えなる言葉は多くの人が知らないと言っている。

電話機能のついたカメラが大手をふってまかり通っている。
そんなに日本人は写真好きだったのだろうか。
解せない光景だ。

地震が多発している。海水温の上昇で魚の生態系がかわっている。
火山の爆発も頻繁だ。
自然災害への関心はどうやら薄い人達。

「文明の利器」なるものから離れて本に逃避したい。
しかし、もう眼がかなりしんどくなってきた。

本と言えば、なぜか子供の頃に読んだ本が思い出されてくる。。
中学生の時貸本屋から借りて読んだ山本有三の「路傍の石」や「真実一路」。

「真実一路の旅なれど真実鈴振り思い出す」。白秋だったか・・・。

武者小路実篤の「新しき村」。“師”を求めたいと思ったころ。

“原点”に立ち返るためにも、あの頃の”映像“を”時代“を振り返るためにももう一度読み返してみたい本。

多分、それらは今の時代を読み解くための参考書となるのかもしれないと。
しかし、それがうまく探せない。

来年は明治維新から150年。再来年には改元。
時代と言うものを考える。

真実とは何だろうか。永遠の課題のようだ。
「真実諦めただ一人、真実一路の旅を行く。真実一路の旅なれど真実鈴振り思い出す」。

鈴を振ったら騎士団長が出てくるのだろう。“真実なんてありない”と言われるのかも。

しばらく休んでいたので「存在証明」として。

2017年11月14日火曜日

権力としての“非正規雇用者”

猿は木から落ちても猿だが、議員は落ちればただの人。
そんな戯れ句がある。

衆院選挙があった。どれくらいの「割合」で新旧の入れ替わりがあったか勘定したことは無いが、“新陳代謝”があったことは間違いない。

国会議員、衆院議員についていえば4年間の“非正規雇用”だ。補償されているのは解散が無い限りの4年間だ。

その“非正規雇用”を決めるのは我々国民だ。だから議員は国民の雇用者なのだ。だから国民は“雇用主”として、「時間外労働」も含め、幾多の仕事を命ずることが出来るはずだ。
「雇用」も「解雇」も国民に委ねられているはずなのだが。

しかも厄介なことに、この“非正規雇用者”には権力が付与されている。
官僚は“正規雇用者”だ。
しかし、正規雇用者は非正規雇用者に付与されている権力の前に隷従している。

マックス・ウエーバーは「職業としての政治」という著作の中で述べている。
「あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理では無い。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して、特別な倫理的要求をつきつけずにはいない」と。

職業としての政治家。
職業に「倫理観」が要求されるのであれば、いや、要求されるべきものだと思うけれど、被統治者に対して服従だけを求める今の政治の在り方は正当なのかどうかということだ。

非正規雇用の政治家が雇用主を思うがままに扱おうとしているということ。
それを是とする風潮が蔓延しているということ。

政治は限りなく「私物化」されている。自己の“利益”のための道具とされている。
国会の質問時間を五分五分にしようと与党はいう。与党による質疑からは、何も生まれてこない。与党の質問は後援会報に載るだけだ。ニュースには成りえない。
質問と言う名の政治の自己目的化。

“希望”もついえた。

非正規雇用者が雇用主に政治と言う名の“暴力”、例えば税金、例えば社会福祉。
もろもろの要求を強いる。

社会システムの中から仮に「非正規雇用者」なる労働者が無くなろうとも、政治家はシステム上では非正規と言う身分には変わらない。
しかし、数多くの特権が行使され、富の構築は進む。
公費を違法に使う。課税逃れに腐心する。

政治のもろもろにふと感じたこと。

いくつかの大地震のこと

大相撲の初場所が始まっている。 貴の岩への暴行事件をめぐり醜態をさらした相撲協会、しかも立行司の不祥事。なにがあっても連日の大入り満員だ。 何があろうと「声なき声」は国技館に行き土俵に目を凝らし歓声をあげる。 天皇ご夫妻は恒例の観覧を取りやめられた。 相撲中継時にたま...