2017年6月26日月曜日

「保身」のために何でもするの図

安倍と加計学園の話しだ。
加計学園に獣医学部を新設できるようにするため、安倍とその側近は“公文書”を改竄させた。他の大学からの申請を出来ないようにした。

そのことが指弾されるととんでもないことを言いだした。
「獣医学部の新設を全国展開させる」と。

そして昨日になって「あれはカットなっていったものだ」とテレビ番組で“釈明した”という。

カットなって政治についての発言をする。錯乱状態というしかない。
国民はたまったもんじゃない。
首相の発言は国民の日常に影響する。
自分の感情を発露させる政治。それを政治とは言わない。

彼の頭の構造では、獣医師の充足度などは眼中に無いのだろう。
加計だけを特別扱いしていないと「印象操作」をするためだのだろう。

我が家は犬を飼っている。時折動物病院の世話になる。郡山では過当競争だと言う。トリミングなども併設し、経営の安定を図っているようだ。

獣医師が足りないとすれば、それは家庭で飼っている犬、猫の医師でなく牛や馬のような動物を診療する医師だ。

原発事故後、「被ばく牛」は診療、治療の対象から外された。殺処分を命じられていた。
放射能汚染された牧草を食べながら、命を長らえている牛を飼育している人が福島県にはいる。

獣医学部新設の全国展開。教員は足りない。施設を作るのに多額の税金が投入されることになる。

獣医師界はもっと声を上げなければ。粗製乱造の獣医師。足りていると言うのに。

今、人員が不足しているのは介護士だ。満足な介護を受けられる人は少ない。
高齢の介護士は多くが腰痛に苦しみ、その職を去っていく人も多いと聞く。
安倍の保身のために国策が歪められ、国の支援が必要なところにはカネが回されない。

政(まつりごと)の基本がないがしろにされている。子どもの貧困対策もそうだ。
政治を私ししている安倍の権力乱用。錯乱した政治。


錯乱は私物化につながっている。

その中身は別にして、自民党の改憲草案を無視して、公明党に配慮して「加憲」を言う。
9条はそのままにして、自衛隊を明記した3項を作るとか。

改憲論議を錯乱させている。「否認」されてもさほどの異論を唱えない腰抜け自民党。
政党政治の否定にもつながっているというのに。

ばかばかしい“錯乱”をもう一つ。

北朝鮮がミサイルを発射したらJアラートで全国の自治体へ。自治体は防災無線で「避難勧告」。

頑強な建物や地下に避難しろ。無い場合は頭を隠して地面に伏せろ。家の中にいる時は窓の傍から離れろ。

そんな「政府広報」がテレビや新聞で流されていると言う。大手の広告代理店が扱っているのだろう。費用は4億円。

大手代理店の“要請”を拒否できない。そんなばかばかしい“CM”を流すことがメディアの自殺行為だとわかっていても。

これが「国民保護」とうことかい。
他の狙い、目論見があるに決まっている。

ミサイルの脅威は、その破壊力は、テレビで他国の悲劇が伝えられる中で多くの国民は知っているはず。子どもだって知っている。
なんらの「自衛手段」にもなり得ない。

我が家は窓を閉め切っていると防災無線は聞こえないんですけど。

「北の脅威」を喧伝する錯乱行為に巻き込むのか。

B29が落とす爆弾の中を防空頭巾被って逃げまどっていたあの空襲時を思い出す。

安倍の「錯乱」を書いていたら、こっちの頭が「錯乱」してきた。

2017年6月24日土曜日

「忠恕」という言葉

天皇陛下の座右の銘は「忠恕」という論語の中にある言葉だそうだ。
忠恕とは「自分の良心に忠実であり、他人に対して思いやりが深い」ことを指す。「仁」という言葉のもとでもある。

3・11後両陛下が被災地を再三訪れ、励ましの言葉をかけたのも、忠恕の精神を実践されたということではないか。熊本を訪れたこともそうだ。

そして何よりも数度にわたり沖縄を訪問され、戦没者の霊に頭を垂れられたのもその言葉によるものでは無いかと思っている。

皇太子時代も摩文仁の丘を訪問されている。
その時のことを詠ったのがこんな句であるという。

摩文仁 昭和五十年
ふさかいゆる木草めぐる戦跡くり返し返し思ひかけて

 生い茂る木や草の間の戦跡をめぐり、戦争のことを繰り返し繰り返し思った。おういう意味なのだろう。

昨日は沖縄慰霊の日だった。その前夜には琉球のしきたりにならって“前夜祭”がある。島民は唄い、踊る。
そこで唄われるのがこの陛下の皇太子時代に詠んだ句、それを島民は、天皇陛下の「琉歌」と呼ぶ。

今でも昔作られた「ざわわざわわ」ではじまる「さとうきび畑」という歌が多くの歌手によって歌い継がれている。
作者の寺島尚彦さんが50年前に作った曲。

摩文仁の丘に続くサトウキビ畑を案内された時、地元の人の言葉に衝撃を受けたという。
「この土の中には戦没者の遺骨が埋もれたままなんです」。

畑を吹き抜ける風の音に戦没者たちの嗚咽(おえつ)と怒号が聞こえたという。

音楽家としてそれを書かねばならないと決意したという。

反戦歌ではない、鎮魂歌として。

「サトウキビ畑を逃げ惑い、茎をかじって生き延びた一人一人の魂の記憶に訴えかける。歌い続けることが不戦の誓いになる」。島民の人はそう言っているという。

天皇陛下の中には「言葉が生きている」。

昨日の式典には安倍首相も参列した。翁長知事との間には、知り得る限り同胞と言う雰囲気は全く感じ取れなかった。

空港での見送り含め、二人は果たして言葉を交わしたのだろうか。官房長官は相変わらず”敵意“をむき出しだ。対立を煽っている。あたかもそれが敵国であるかの如く。

数日前の記者会見で、安倍は「信なくば立たず」という言葉を使った。
論語にある言葉である。

政治は国民大衆の信頼なくして成り立つものではないと言う意味だ。
「民無信不立」。 安倍がそれを座右の銘としているとは思えない。

格好つけの言葉に聞こえた。付け焼刃の。

口さがない友人が言った。
「晋なくば立たず」だよ、と。「俺がいないとこの国は成り立たないと言っているんじゃないか」と。

今の自民党の政治家のなかの、あまりにも酷い暴言、失言、全くの無知性。

政治は言葉から乱れ、腐敗していく。

ふと思う。政治家への登竜門とも言われた「松下政経塾」は、今、どうなっているのだろうと。
そこから輩出されたまともな政治家がいるのかどうか、不明にして未だ知らない。

2017年6月20日火曜日

「首相記者会見」という“詐術”

国会終了ということで首相の「記者会見」があった。記者会見と銘打たれているものの、あれは、いや、いつもだが、記者会見で無く単なる「演説会」だ。
首相と記者とのやりとりがあまりにも少ない。

僕がああいう場にいた頃、会見は「内閣記者会」が仕切っていた。幹事社が会見前に各社のキャップと質問項目を打ち合わせ、それを官邸報道室を通じて首相秘書官のもとに上げていた。

幹事社の代表質問、予定された質問ではあるがその答えがこっちにとって“不本意”なもの、つまり質問に答えていない、答えが“甘い”、答えに“不足”があれば何度でも質問”出来た“。
つまり、二の矢、三の矢も放てた。

代表質問が終わると各社の質問。それは幹事社が振る。あちこちから声が上がり、他社であっても“援護射撃”するような質問が相次いでいた。

会見場はどこか「真剣勝負」の様相もあり、質問する人、ただやりとりを書く「トリテキ」なる役割に別れていた。トリテキは若い人、質問はキャップか次席。

官邸が新しくなってから、記者クラブや会見場の模様は知らない。

プロンプターなんてツールは無かった。答弁はメモをもとになされていた。
首相の“冒頭発言”なんてうものもほとんどなかった。

細川政権から記者会見の様子はすっかり変わった。プロンプターがあり、質問者は首相がペンで指した。

そして首相記者会見は、官邸仕切りの「官制会見」になり、まさに「岩盤規制」のように“規則”が定められた。

いつも笑ってしまう。
官邸の広報官らしき人物が言う。
「ご質問のある方は挙手をして、発言の際には社名、お名前を言ってからご発言を」とくる。
手があがる。司会者は「何々さん」と指名する。
名乗るまでも無く、そっちで知っているじゃないか。

「質問は一人一問でお願いします」とくる。あやふやな、はぐらかしの答えであっても二の矢は放てないのだ。
しかも時間制限あり。NHKの枠に合わせて。
2~3人でそろそろお時間となる。

冒頭発言が長すぎるからだ。それは記者会見の発言というより、演説会のようなものだ。

安倍は時間制限と質問制限、その「会見規制」に救われている。会見が「形骸化」しているのだ。その「岩盤規制」を記者の側はドリルをもって打破しようとはしない。

記者会見の前に、おおよそのマスコミの世論調査の結果が伝えられていた。
小心者の安倍は実は世論なるものを気にしている。だから冒頭発言は妙に殊勝であり、やたらと「反省」を口にした。

反省するには遅すぎる。
反省は何の意味も持たない。
既成事実は出来上がってしまっているのだから。

「加計」のカの字も口にしなかった。会見の途中には「森友強制捜査」の速報字幕。

安倍の「反省」は体裁を繕うだけの、その場しのぎの逃げ口上だ。
「丁寧な説明」だって何度も口にされながら、実行されたことは無いのだから。

加計問題をめぐり、菅官房長官は「怪文書」と前川の告発を無視した。
怪文書という言葉が独り歩きしているとも言い放った。
逆を言おう。
安倍の「反省」と言う言葉だけが独り歩きしていく。実践を伴わない言葉が。

安倍が反省すべきは、国会運営の可否だけではない。
自らの政治姿勢、国家観であるべきだ。

殊勝なふりだけの「反省」、しかしそれには具体性が皆無だ。
反省して何かを改めるということか。

地元紙福島民報の世論調査、県民の意識調査。
安倍内閣支持は30,6%、不支持は51,7%。

福島県はかつて保守王国と言われた。安倍を「保守」と思っていない人が多くなったということか。

「昨の非を悔ゆる者は之れ有り。今の過ちをあらたむるものは鮮(すくな)し」。
言志四録にある言葉だ。


2017年6月18日日曜日

「一般人」という”差別“、

国会は幕を下ろした。「形骸化した国会」というまやかしの舞台は。
悪魔が撒いたようなどす黒い霧の数々は何ら晴らされぬままに。

1961年に丸山真男は「現代における人間と政治」という論文を書いた。
その中でにドイツ系アメリカ人のジャーナリスト、ミルトン・マイヤーの著書
「彼らは自由だと思っていた」の一節を引用し、こう書いている。

“ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた”。

マイヤーの著作の「下地」は、マルティン・ニーメラーの詩にある。

「特定秘密保護法」時にニーメラーの詩を引用したが、「共謀法」が強行成立した今、あらためてこれらの文を噛みしめている。

「自由」が霧の中に奪い取られていっているような思いがある。

テロ対策を隠れ蓑のようにした共謀罪。もしかしたら安倍自身もこの法律の持つ恐ろしさをわかっていないのかもしれない。
安倍の中の判断基準は、オリンピックを安全に成功裏に終わらせるために必要な法律だと言うことだけなのかもしれない。

たかだか2週間のオリンピックのために将来の日本の社会が、ニーメラーやマイヤーの恐れた社会になって行くかもしれないのだ。

「一般人には適用されない」と答弁したかと思うと、そうでもないようなことも言う。
与党の政治家自身もよくわかっていないのだ。

「一般人とは」。そんな議論が真剣に交わされた様子はない。

国会議員、官僚、警察官。それ以外は一般人ということか。一般人と言う言葉自体、どこか国民を”身分差別“し、見くびっているような。

一般的に言えばー。枕詞のように言われるがあまりにも曖昧模糊とした表現。
芸能界―。お相手は一般人。だから明らかにしない。

安倍政権を支持する弁護士に聞いた。あなたは一般人かと。一般人ですと明言した。

医者は一般人なのかそうではないのか。教職員はどうなのか。マスコミ人は・・・。

そんな全く素朴な疑問さえ明らかでは無い。前議員は、退職公務員は・・・。

杞憂であって欲しい“極論”を言う。

日本では犯罪が増えるだろう。警察官の防犯関係の警察官まで「公安」を担当させられるのだから。

警察がこの法律をどう思っているのか知りたい。
スポーツジャーナリストはいう。「オリンピックをダシにされているようで選手たちが気の毒だ」と。

冒頭に書いたことに戻れば、「他人事と思っていたが、組織的犯罪集団のことだと思っていたが、気が付いたら一般人の自分にもそれが及んでいた」。そんなことにもなりかねない。

それにしてもこの共謀罪のことを知らない人が多すぎる。
平均的国民レベルとはいわないが。

御油断召されるなよ、一般人。

2017年6月15日木曜日

「11人の怒れる男」に模して

とにかく我々に「共謀罪」という法律が適用されることになった。
それがどんな形で、どんな場合に適用されるのか。

全く五里霧中だし、その法律を知っている、理解している「一般人」はどれくらいいるのだろうか。

安倍政権は野党を舐めきっているし、国民をも舐めきっている。

「なめたらあかんぞよ」と任侠映画のセリフを吐いてみる。
単なる腹いせに過ぎないが。

「中間報告」という手法。それは違法ではない。国会法にもある。
“国会対策”というあの独特の世界ではあの手この手の手法が考え出される。

参議院手帳には憲法も国会法も、衆議院規則も参議院も記載されている。
さらには「先例集」という”虎の巻“みたいなものもある。

それらに熟知していれば安倍自民が、国会運営のいわば“奇策”に出ることも野党にとって想像の範囲であるべきだった。
手練手管を要する国会対策においては「有り得る」ことだったのだ。

それを自民から通告されて慌てた野党には国会対策のプロがいない。
あの奇策を思いついたのは、想像するに自民の国対の職員のはずだ。
“知恵”を出したのだ。

しかしそれは例えば野党が「寝て」しまいにっちもさっちもいかなくなった時に使われる奇策なのだ。

「国会は男を女に変える以外は何でもできる」。

「数の力、数の力」と言う。絶対多数を自公が持っているからだという。

ならば野党だって少数は少数なりの“知恵”の出し方だってあったのではないか。

国会は議論の場であるべきは当然だが、そこに議論を存在させない安倍政権。

数の力で押し切ると言うのはまさに「暴力」以外の何ものでもないが。

昔あった映画を思い出していた。
「11人の怒れる男」という映画。

殺人罪で有罪がほぼ確定していた17歳の少年。その裁判での陪審員の議論の物語。

12人の陪審員のうち11人は有罪派だった。11対1だった。
一人ヘンリーフォンダが演じる陪審員が、有罪に疑念を持ち、それこそ徹夜の会議を続けて、一人一人を議論と説得で考えを変えさせ、なんと気が付いたら1対11にし、最後は全員が無罪の意見に集約された。そんな映画。

この映画を模したような「国権の最高機関」のなかでの議論は出来ないのだろうか。
もちろん答えは「ノー」だ。

日本には制度としての見せかけの「民主主義」はあっても真の、真理としての民主主義は存在しないのだ。
今にはじまったことではないが。

世論調査を見ると「なんとなく安倍」「他に適任者がいないから安倍」という層が多い。

安倍に代わり得るような人がいればその層はひっくりかえるかもしれない。
人材の輩出、安倍に代わり得る人物。

いない。とうことは承知の上だが。

安倍が乱暴なことをするなら野党も乱暴をすればいい。
まだ会期はある。
野党全員が「議員辞職」をするということだ。

それは「国民の負託」に背くという議論も出てこよう。
でも「暴」をもって「暴」に対処するってこともありなんじゃないか。

「こんな国会やってられないよ」

既成政党は飽きられている。新たな政権の受け皿つくりに、そんな奇策だってありなんじゃないのか。という「一般人」の“暴論”だ。

メディアはこぞって意味をなさない表現をする。
「攻防」という常套語。
どっちが攻で、どっちが防なのだ。

メディアは単なる傍観者でいいのか。

「安倍1強」をもたらしたのは選挙民、国民だと決まり文句のようにメディアは言う。
今の選挙制度のもとで国民にどれだけの選択肢があるのか。

メディアは”忘れる“ことを忘れて、継続してこの政治の有り様を伝え、報じ、論ずるべきだ。

一連の流れと言ってもいいが、「加計問題」での“再調査”結果。文科大臣も官房長官も“偽証罪”にしてもいいのじゃないかな。
さんざんしらを切っていて。

これもどこか共謀罪の先行きを暗示しているようにみえるのだが。

2017年6月12日月曜日

「1984年」と「2017年」

ジョージ・オウエルという作家が書いた本に「1984年」というのがある。

その新訳版が今隠れたブームだと聞く。

1984年と2017年は、あまりにも酷似している。

小説「1984年」の要旨はこうだ。

“ビッグブラザー”という絶対権力者がいる。その権力者の意向に反する思考は許されない。ビッグブラザーがその国を管理、支配している。
彼に反発する“思考”はもとより、自由な恋愛も、個人のメモ・日記すらも残しておくことは犯罪である。彼の支配に不都合な存在や事実は、あらゆる記録から抹消され、書き換えられる。

「なかったこと」にされる。

その社会に生きている人は“二重思考”を要求される。自らが、だ。

反抗・抵抗する者には過酷な運命が待っている・・・


この“主人公”、ビッグブラザーは、スターリンやトロツキーを模したものだ。
最初は反共小説とされていた。
トランプ政権が誕生してから、この本は、いわば反トランプ本として読まれているようだ。

トランプと安倍晋三は、もしかしたら前世は“兄弟”か“双子”だったのかもしえない。
思考回路、言動、やり方。多くの部分で酷似している。強圧的であり、虚偽に類する言動が多い。

FBI長官の解任劇でそれは如実に示されている。

この本は、今の、2017年の日本にも当てはまりそうだ。

あったものをなかったものにする。あったことをなかったことにする。

「蕎麦屋の問題」、モリ(森友)、カケ(加計)に見るが如くだ。
“最高権力”と前文科省次官との問題。

官僚の”正義感“。

どうも日本は「1984年」に迷い込んでしまったようだ。1Q84かな。
月は二つあると言われれば一つしかないものを二つとしなくてはならない。

大統領就任前のトランプのもとになぜいち早く安倍は参上したのか。それが可能だったのか。
安保や防衛問題が喫緊の課題としてあったからかもしれない。
経済問題もあったのかもしれない。

政治手法について考え方が一致し、お互いの親密な関係を「誇示」した。
そりゃそうだ。“前世”をたどりあったのだろうから(笑)。

また明日にでも北朝鮮はミサイルを発射するかもしれない。
北朝鮮はアメリカが目標だというが、否応なく日本も巻き込まれる。
北朝鮮と日本は、アメリカがそこに“介在”している限り、好転する気配は皆無だ。

拉致被害者は帰ってこない。

それを判りきった上で、安倍は襟にブルーリボンを付けている。

何もしていない、しようとしないのにそのリボンを、バッジを付けていること。
それこそ「印象操作」ではありませんか。

大統領がどうであろうとアメリカ国民の間には、民主主義が根付いていることを過日のテレビ、サンデル教授の白熱教室を見ていて知った。

トランプ派、反トランプ派に別れての討論。
それぞれが自分の考えをきちんと持っており、反対派の主張にも冷静に耳を傾け、“自己撞着”に陥ることなく、お互いを「個人」として尊重し合っていた。

そこにはむやみに罵り合うと言う光景はなかった。

「民主主義」の姿があった。それは今の日本では見られない光景だった。

日本の民主主義とは何か。あるのか、ないのか。

それにしてもメニューに「モリ」と「カケ」しかない安倍蕎麦店。
やがて客足は遠のくのかも。

おソバ(傍)用人がパラパラと海苔をふりかける努力をしても。

2017年6月8日木曜日

「美しい国」という“欺瞞”

安倍晋三が第一次安倍内閣を作った時、たしか「美しい国、日本を目指す」というようなことを言った。その言に「感動し賛意を送った」人も多々いる。

「美しい国」とはなにか。その“正体”はついにわからずじまいであり、その「安倍語」も雲散霧消した。

美しい国の概念の中には「美しい日本語」も入っているはずだ。

にもかかわらず安倍が発する言葉は余りにも醜く、欺瞞に満ちている。

第一次内閣を突然放り出し、辞職したのは病気が理由だった。「なんとか大腸炎」という病気。その割には顔から受ける“印象”は健康そのもののようだったが。

「アサコール」という薬で体調が回復し、復権した。
そんなに効く薬なのだろうか。彼の日程を見ると、外遊を含めてかなりの激務である。「アサコール」を常用しているのだろうか。

クスリには「抗体反応」というのがある。服用し続けていると効き目が薄れ、さらなる“劇薬”を使用しなければならないはずだ。

たまの人間ドッグ以外に彼が医者で健診を受けたと言う日程はない。薬はどこから処方されているのだろう。医師は無制限に薬を処方するはずがない。

摩訶不思議な“印象”を受ける。

「国会とかけて何と解く。蕎麦屋と解く。その心は」。「モリとカケが飛び交っている」。

さっき浮かんだ駄句。森友・加計。

文部科学省の前次官、前川喜平が加計をめぐる官邸からの圧力を資料文書をもとに白日のもとに晒した。
官邸は「怪文書」と位置付け、確認を拒んだ。

確認できないと言うのは「無い」ということではない。無いと言えば嘘だ。
だから「確認」ということばで逃げをはかり続けている。

あげく、”下ネタ“もどきのスキャンダルを捏造する。大手新聞社とつるんで。

官僚たちの反乱。そんなことを先頃書いた。“たち”も的中した。前川に続く官僚が登場する気配もある。
先の退陣劇の理由は体調では無く、大きな力が働いていたという見立てがある。
その力の一つに”財務省“の官僚の”反乱“があると指摘する向きもあった。

大蔵省・外務省・内務省、その三つの役所さえあれば十分だ。一時、永田町や霞が関で言われていた「行政機構」の”定説。
三流官庁の文科省の役人の”反乱“は鎮圧出来るとでも思っているのか。

“「国民を無視し、一切聞く耳を持たず、情報を隠蔽し、嘘を重ね、友を優遇し、敵と見れば権力を使って追い落とす」。それが安倍政権の姿だが、このまま走りきれると思っているのだろうか。こんな悪政はかつて無かった。誰か暴走を諌める人はいないのか。民主国家と暗黒独裁国家の分岐点、正念場だ。”

著名な落語家がネットに書いたもの。正鵠を得ている。

サイコパス安倍はその本領をいかんなく発揮中だ。

「印象操作、印象操作」と連呼する。ちょっと前は「レッテル貼り」だった。

印象操作とは自分が人からよく見られようとする行為だ。印象を良くしようと意を注ぐ行為だ。
あきらかに日本語の「誤用」だ。
美しい日本語とは正しく日本語を使うことだ。

「でんでん」「ばくしん」。最高権力者が使う間違いだらけの日本語。造語。

若者が判読不能の「若者言葉」を発するのも、上から下までの“言葉への蔑視”のあらわれだ。

前川喜平に”責任“があるとすれば、この国の教育行政を司る役所として、どこかで「日本語教育」に手を抜いていたことなのかもしれない。