2018年4月17日火曜日

「不幸な国を生きる者」として

国連の「世界幸福度報告書2018」によれば、日本のそれは54位だという。去年は51位。幸福度なるものが年々下がってきているらしい。
第1位はフィンランドだ。
幸福度とは「一人あたりのGDP・社会支援・健康余命・社会の自由度と寛大さ・汚職の頻度」などについて分析したものだ。
アメリカも14位から18位に順位を下げた。豊かになっているにもかかわらず、幸福度は低下している。
一人あたりの所得は顕著に増加したが、社会支援ネットワークの脆弱化、政府と企業における汚職の増加、公共機関に対する信頼低下が幸福度を押し下げていると言う。

さすが“日米同盟”と。

何が幸せか。人によってその「観」は違う。
「なにげない日常、なにげない当たり前がどんなに幸せかを3・11で教えてもらった」という人は多い。
小さな幸せは意図しない小さなところにあるということか。

“観”と言うことについて、数学者で教育者だった遠山啓と言う人がこう書いている。
「僕の観というのは一人一人が自分で苦労して築きあげていくものなのだ。
一人一人がそれまでに自分の体験したこと、身に付けた技術、学んだ知識を総動員して、人間とは、世界とは、生命とはなにか、あるいは、人間は特にこの自分はどうやっていきていったらいいか考える。そうして得られた人生観・世界観・社会観などをボクは観と言っている。
これまで、観を持つ人間は政治家や学者などごく少数のエリートと呼ばれる種類の人たちだけでいいと言う人もいた。
それは間違いだと思う。
日本人すべてが、皆、自分自身で創り出した人生観・世界観・社会観・政治観、などの観を持つようになってほしいのだ」。

つまり、遠山啓のいっていることは、世の中の“常識”や“風潮”に流されるのではなく自分自身の“観”に基づいて自分自身を生きるということなのだと思う。

この国はいま、不幸な国だと思う。
自分の“観”を持っている人は少ない。持つことを否定されてもいるようだ。

政治家や官僚。その多くが“観”を持っていない。上に上げた観以外に彼らには“倫理観”が求められる。
それらは、忖度・隠ぺい・偽装・保身という全くの非倫理性に支配される人たちになってしまった。
政治は劣化の一途をたどる。官僚は使命感すら持ち得ない。官僚機構は崩壊している。
そんな支配階級にこの国は弄ばれてもいるようだ。

幸福度が上昇するわけがない。

民の声に彼らは耳を貸さない。支配と言う愉悦を楽しんでもいるようだ。
民主主義と言う言葉は名ばかりにされてる。

さまざまな国民にとって不幸な出来事も、それをどこかに迂回させて何かが企まれているようなきがしてならない。

たとえば熊本地震の被災者。未だに仮設に暮らす人が1万6千人もいるという。
自宅を建てるにも業者がいないからだという。
業者はどこに行ったか。東京オリンピックのために高賃金で働いている。

「いかに生き、いかに学ぶか」。遠山啓の本のタイトルだ。

だから考える。
駄目な政治、おかしな行政。それらがまかり通っているということは、それだけ我々に学ぶ材料を提供してくれているのだ。と。

2018年4月12日木曜日

おかしゃん、花ば・・・

桜の季節である。
川の土手も公園の樹々も、あるいは地蔵堂の一本の樹も、桜いろに染まっている。
あちこちで桜の話しに花が咲く。宴が話題になる。
テレビもあちこちの桜の光景を伝えてくれる。

「3・11」以来、桜と言う毎年季節を彩り、人々の目を楽しませ、こころを躍らせる美しい花に対して、“複雑”な思いを抱いてしまうようになった。
全町避難を強いられた富岡。
何回か訪れたあの見事な夜の森の桜並木。
今年は帰還が許可された地域で、戻った人を含め、観光客の目を楽しませてくれている。

夜の森公園の桜並木は、南相馬小高区出身の実業家であり、教育者であり、衆議院議員も務めた半谷清寿と言う人が、あの地域の入植・開墾に当たり、明治34(1901)年に、理想の村づくりを求めて、不毛の原野に300本苗木を植樹したものだ。
半谷の著作「将来之東北」を実践するかのように。

原発事故後の今頃、桜の季節が訪れようとしていた時期。避難所のビッグパレットのダンボールで囲われた居所の中に、その夜の森公園の桜を写した写真を持参してきた人がいた。
頭を下げに来た東電の社長に「この桜を観てください」と静かに言い、「桜がどうなってしまうかそれだけが気掛かりです」と語りかけていた。

その光景が未だに脳裏を離れない。
2011年の春、桜を観ることに苦悩した。

今日の新聞にある人の死亡記事があった。
水俣病資料館の語り部、前田恵美子さんの訃報。彼女も3歳の時に水俣病を発症している。2013年、天皇・皇后両陛下が水俣を訪問された際、自作の「ピンクの花が好き」という歌を披露したという。

水俣病を書き続けてきた石牟礼道子の作品の中にこんな話が記されている。
きよ子という胎児性水俣病患者の母親が語った話だ。
「死ぬ前の頃でしょうか、桜の散る頃、ある日、眼を離した隙にきよ子は括りつけられていた紐をほどいて廊下に行き、縁側から庭に転げ落ちていました。
“おかしゃん、おかしゃん”という声を聞いて駆け寄ってみると、曲がらぬ手のひらに桜の花びらを握りしめていました。“おかしゃん、はなば”と喋れない口から絞り出すように声を出して。
きよ子は命をかける思いで桜の花びらを手にしたかったのでしょう」と。
そして母親はこう訴える。
「桜の時期に、花びらば一枚、きよ子の代わりに、拾うてやってはくださいませんでしょうか。花の供養に」

悲しく、惨く、そして美しい話だ。

明日は病院に行く日。途中の笹原川の桜は見事に咲き誇っている。
今日の風で花びらが散っていたら、その花びらを数葉拾うつもりだ。
そしてそれを小さなガラスの器に水をはってうかべてみる。
そしてーー。
「桜よ、あなたはいったい何者なのだ」と問いかけてみる。
この7年間がそうであったように。

2018年4月7日土曜日

“神聖喜劇”

大相撲の地方巡業、舞鶴場所。挨拶に立った市長が突然発作を起こして土俵上に倒れた。後頭部も強打したようで痙攣をおこしている。
傍にいた若い呼び出しの様な行司はただうろたえている。関係者らしい背広姿の男性数人が倒れている市長の周りを囲んでいるがなにも手をくだせない。
うろうろして呆然としている。

観客席から女性が数人男性をかき分け市長の傍に行き、心臓マッサージをほどこす。渾身の力をこめての救命措置。

「私は看護師です」と名乗り処置を続ける。
観客の一人が女性が神聖な、女人禁制の土俵にあがっていると声を上げる。
呼び出し行司が「女の人は土俵から下りて下さい」と数回アナウンスする。
降りようとする女性看護師もいたが同僚はそれを止める。

私人として相撲観戦に来ていた女性が目の前で起きた「事故」をみて咄嗟に公人としての看護師になった瞬間だ。

「命を救う」という倫理観に基づいた行動。咄嗟の判断、行動。
彼女らの行動には一点の非もない。
その彼女たちに「土俵から下りろ」と呼びかけた相撲協会関係者。
呼びかけた行司だとされている人物は「土俵は神聖、女人禁制」をいう“伝統”が吹きこまれ、染みついていたのだろう。

テレビ報道でその様子を見ていてなぜか「神聖喜劇」という大西巨人が書いた大作の題名が浮かんだ。

人一人の命を救うために禁を冒してでも救命行為という神聖な行為を選択した看護師。
神聖な土俵には女性を上げてはならないと言うなんら根拠の無い権威づけの“伝統”なるものを口にした行司とされる人のアナウンス。

「仮定の質問には答えられない」とするのが今の政界での常識のようだが、あえて「仮定」を言う。
もし、彼女たちの救命行為が無く、市長が死んでいたらどうするのか。
救急車を呼んだというが、救急車が到着するまでには早くても数分はかかろう。

たとえば脳梗塞、たとえば心筋梗塞、たとえば脳卒中、たとえば大動脈瘤破裂。
市長はくも膜下出血だった。
適格な措置により一命をとりとめた。後遺症も軽くてすむかもしれない。

市長が担架で搬送され女性たちが土俵を下りたあと。その土俵には大量の塩が撒かれたという。
女性があがった土俵は“穢れ”だというのだろうか。

昨日主治医とこの話をした。医師は言う。
看護師たちはかなり訓練された練達の看護師だ。
相撲協会のアナウンスを聞いた時怒りで涙があふれた。医師として使ってはいけない言葉だろうが「ぶん殴ってやりたい」と思ったとも。

「神聖喜劇」、それは旧軍隊に中にはびこる伝統とか慣習とか、それを下にした不条理に主人公が驚異的知識と頭脳で論破していく物語だ。

相撲界にはあまりにも不条理な思考やしきたりがある。その不条理を看護師である女性がからだを張って打ち破ったのだ。

昔から「女性相撲」というのがある。力士としてならば土俵に上がれる。

相撲協会の中にはさまざま「不条理」が存在している。ジャーナリズムは今回のことをもっともっと追求するべきだ。
協会の評議委員長である池坊保子に記者会見を申し入れ、事の顛末と女性としてどう思うかをしかと質してみるべきだ。

看護師を称賛する声は多い。表彰も言われたが彼女たちは断ったそうだ。
「当たり前のことをしただけですから」。

今の不条理に覆われた世の中、人が人としての人命救助という当然の行為。
それは何にも増して崇高な行為だ。
当たり前のことが当たり前とされない、出来ない。そんな根拠の無いしきたりとか伝統とやらはくそくらえだ。

長く風習として有った「葬儀でのお清めの塩」。もう会葬御礼の封筒に入れて渡すところはほとんどなくなったはずだ。
死者は清めの対象になる”穢れ“ではないことにやっと気づいたからだろう。

2018年3月30日金曜日

「無責任の体系」ということ。

政治学者丸山真男の著作の中に「無責任の体系」という言葉がある。
かつての軍国主義時代のこの国の統治システムを言い表したものだ。

極東軍事裁判で「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、かって朝鮮総督であった官僚は「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」と答えた。

丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的に大きな力にひきまわされる精神」と分析した。そしてそれを「無責任の体系」と位置付けた。

 この「無責任の体系」という言葉は、大きな事件を起こした組織が幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われた。

 丸山真男は「無責任の体系」の構造として、上位から「神輿」、「役人」、「無法者」の三つの類型を置き、軍幹部や佐官、民間右翼らはそのどれかに当てはまると書いている。

さしずめ、今の統治機構に当てはめるなら、神輿は首相であり、無法者は安倍信者たちかもしれない。

今、二行か三行に行間を空けて書いている。それは典型的な「官僚文書」の書き方だからだ。
行間は上司や決裁者の手直しが入れやすいように考え出された書式を真似てみた。

森友問題、佐川の証人喚問、予想通りの結果だった。“刑事訴追の恐れ”という逃げ口上の連発。
かつての“記憶にありません、ございません”の連発が思い起こされる。
証人喚問と言う立法府の持つ国政調査権行使も“抹殺”されたに等しい。

証人喚問の宣誓文と補佐人と言う名の弁護士の入れ知恵で連発される答弁にはあまりにも乖離がありすぎる。

真実は語られていないという事。

専門家と称する人達がメディアで「解説」らしきことを言う。
国民感情とは、それは、かけ離れている。

国は「専門家」によってなりたっているのではない。あくまでも国民大衆によってなりたっているはずだ。

政治家は政治の「専門家」だろうか。違う。
マックス・ウエーバーの言葉を借りれば「職業としての政治家」だ。

国民は選挙と言う民主主義の原則で、政治家の首を切ることは出来る。だから常に己の保身を図り、その「職業」が無くならないように意を用いる。

官僚の首を切ることを国民は出来ない。首を切れるのは政治家だけだ。だから官僚は国民の意向をさほど気にしない。身の保全は左右されないからだ。
生殺与奪の権を握る政治家にだけ、政権にだけ尻尾を振る。

無責任の体系の無責任たる所以だ。
「公文書の棄損、改竄は日本の政治史に残る悪行だ」。小泉進次郎をして言わしめた歴史の改ざん。それが、歴史の隠ぺい、改竄が日本の歴史を正史としなくなっている。

日本語を読めない、使えない政治家が教育を語る。笑い話にもならない。
麻生太郎という男はどこまで「バカ」なのだろう。
「T PP」のことを森友ばかり書いて日本の新聞は書かないと言い切る。そんな新聞に存在価値は無いというようなことを断言する。

無知も甚だしい。ちゃんと大きく書いているではないか。
大臣の机の上には毎日大量の新聞の束が置かれている。重要な、その省庁に関係する記事は秘書官が、事務官が付箋をつけている。

麻生が辞めるとか辞めないとか、無意味な政局記事に労力を費やすより、彼の発言がいかに無知であり嘘であるかをもっと書くべきだ。
マスメディアまでが無責任の体系の中に組み込まれているこの国。

ほんと、国民が覚醒する以外にこの国は取り戻せないのではないか。

怒りに狂いながらの日々。脳梗塞の後遺症でリハビリに通っているが、最近腹が異常に膨らんできた。運動しないからだ。自己責任だ。他人任せのリハビリではダメなのだ。自らが努力しないと。
僕は「無責任の体型」の中にある。そう自覚することしきり・・・。

2018年3月25日日曜日

「日本の統治機構は崩壊した」

今、日本の政治は末期的状態にあるとあらためて思った。
官僚組織も機能不全のような状況だ。

旧友の郡山出身のかっての高級官僚、福島県が輩出した“偉人”朝河貫一の顕彰会の会長とまた会った。
東京で暮らしている彼は今の政界、官界の堕落、腐敗ぶりに忸怩とした思いにかられている。その想いを語りたかったのだろう。
数時間語り合った。


内閣人事局は廃止すべきだ。政治家の顔色を窺うようになった官僚はこの国を間違った方向に導く。
彼の現役時代は有り得なかった事態になっている。
政治家がお粗末すぎる。その根源は小選挙区制度にある。
小選挙区制も廃止すべきだ。

お互いに思うことは一緒だった。多少の異論はお互いにあったものの。
官僚OBは、官僚同士のつながりがある。各種の会合もある。
“情報”を抱えている。
そして矜持を持っている。

その余韻で書く。
「森友学園問題」、国有地の不当払い下げ問題を巡る官僚の公文書改竄、隠ぺい問題、さらには「嘘」の答弁を繰り返してきた佐川宣寿前国税庁長官への証人喚問が明後日行われる。

たぶん「記憶にありません」、「刑事訴追の恐れがあるので、答弁は差し控えます」。そんなやりとりで終わるのではないかと想像する。
そんな想像の中で野党がどれくらい“真相”を引き出すことが出来るのか。

官邸と佐川の間で綿密な打ち合わせがされていることだろう。
大方の国民が関心を持つこの証人喚問。NHKは高校野球を理由に中継しないと言う。高校野球はEテレで中継できるではないか。

安倍夫人や御付の秘書だった女性官僚、迫田理財局長の証人喚問。
それを要求する野党に理があると思う。
異例の長期拘留中の籠池に野党の議員が面会した。

改竄前の公文書にある彼の発言は「その通りだ」と拘置所の寒さで罹ったあかぎれ、ひび割れの手で語ったと言う。
何があっても籠池は囚われの身から解放されないのだろう。
“保釈”にでもすれば何を語り出すかわからない。それを官邸や一部の自民党議員は危惧しているからだ。

安倍官邸の「闇」。

国会の委員会で常に目を閉じている関係者の一人の麻生太郎。
「悪い奴ほどよく眠る」。そんな言葉を想起させる。

働き方改革は嘘のデータでその政策の根底が歪んだ。
前川喜平の“授業”には自民党文教族が圧力をかける。

泥縄であろうと何であろうと改憲に向けての足掛かりをつけようとはかる。

独裁政権が忌み嫌うのは民主主義と言う言葉のようだ。
この国の民主主義は危機に瀕している。

まがりなりにも我々は民主主義国家に生きている。
独裁国家のロシアや中国、北朝鮮とは違うはずだ。
しかし、今この国の実相はそれらの国に近い。

100%信頼するアメリカには鉄鋼製品の関税をかけられた。
「トランプファースト」。米も独裁国家に近づいている。
東アジアの問題に関しては日本は蚊帳の外に置かれた有様。

朝河貫一存すればいかなる言論を述べただろう。
今の時代にコペル君と叔父さんがいればどういう会話がされるのだろうか。

少なくとも「卑怯な振る舞いはしてはいけない」と叔父さんは諭すだろう。

安倍別働隊の小池百合子は都の迷惑防止条例の改正を目論む。
この中では「粗野な言動」があげられている。つまり官邸や国会前でのデモのシュプレヒコールも規制の対象になる。
言論弾圧に等しい。
「みだりにうろつくこと」も対象だ。高齢者の病気の一つである「徘徊」もみだりにうろついている行為だ。

放送法第4条を撤廃すると言う。公正な報道をうたってきたこの条文。それを盾にテレビは委縮させられてきた。
自分たちに都合のいいテレビ放送をさせるという事なのだろう。そういう局を支援するという事なのだろう。

書いているだけでも息が詰まってくる。ケツの毛を抜かれた官僚。無知蒙昧な政治家。
森友疑惑は改竄文書は朝日新聞のスクープだ。毎日が後をフォローした。
今や権力の監視や欺瞞行為を摘発できるのはジャーナリズムの一部だけになった。ジャーナリズムがどれだけ覚醒し、権力と対峙していけるのか。

しばらくはその動向に身を委ねてみようかと。

2018年3月18日日曜日

「国民のカルテ」としての公文書


いわゆる森友問題でこの国は揺れている。
森友問題と言う表現は事を矮小化させる。
国有地の不当払下げ問題と呼ぶべきだ。

公文書管理法は、公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけている。
その公文書が改竄、隠ぺいされることは何を意味するか。
民主主義の根幹が失われるという事だ。

公文書とは国家による国民のカルテだ。
公文書とは歴史の記述だ。

そのカルテが改竄、偽装されていたらどうなるか。

もし、病院のカルテにそういうことがあれば、患者は間違った治療や投薬を受けることになる。医療の間違いは患者の生命にも関わる。

公文書の改竄は国家を死に至らしめるということだ。

国の歴史が隠ぺいされ、あったことがなかったことにされるという事だ。

城山三郎の著名な作品に「官僚たちの夏」というのがある。
通産官僚の姿を書いたフィクションだ。いや、ノンフィクションだ。
文学として書かれたジャーナリズムだ。

登場する人物は実在した官僚や政治家がモデルとなっている。
主人公はあのミスター通産省といわれた佐橋滋。日米貿易摩擦が国家的問題となっている時の官僚たちの姿を書いている。
省内の派閥争いやノンキャリ官僚の実直な働き方。
官僚としての国家観。

自分たちの政策を実現させるべくいかにして時の政権と関わっていくか。
政治家を説き伏せるか。池田勇人派、佐藤栄作派、その他の自民党の実力者。

政治家の思惑を巧みに利用しながら国家の為という信念で動いた官僚たちの姿。

今の官僚たちと比べれば今昔の感しきりだ。

貿易摩擦でやり玉にあがった自動車産業をいかにするか。
ノンキャリの官僚は自動車メーカーの下請け工場にまで出向く。
現場主義の官僚たち。

この小説は「官僚のカルテ」だ。

森友問題を見ているとこの小説が浮かぶ。

そして考える。森友問題とは何かということ。なぜ森友問題が起きたかということ。
それは「○(まる)政」問題であり、保身を願う役人にとっては至上命題だったということ。○政とは政治家が絡んだ、政治から要請があった課題だという事。

しかし、なぜ政治家があるいは政治家の妻がそれに関与することになったのか。
そこに、この問題の“暗部”を看るのだ。

いま官邸は通産官僚で占められている。1級官庁の財務省は官邸の中で目立たぬ存在になっている。

何故籠池が政治家とつながりを持てたのか。安倍昭恵と関わりを持つようになったのか。
それらの接点の根源がわからない。

「もし、わたしやわたしの妻が関係したのであれば総理大臣どころか議員もやめます」と言わしめたのは籠池側が”悪だ“という認識があったからだろう。

政治家の質や力量は一時と比すまでも無く低下、劣化している。
官僚の書いた紙を読まなければ演説も答弁も出来ない。

政治主導なる“妄言”に国民は欺かれている。
内閣人事局なる“官邸主導”の欺瞞を見抜いている。

だってそうでしょ。
昨日までは「適材適所」と言っていた人物が、公文書改竄の元凶にされる。

安倍夫人の名前が黄門さまの印籠の如くに書かれている。発言内容も書かれている。
「妻に確かめたところ。そんな発言はしていないということだった」と安倍は言う。
ならばあの改竄前の公文書は虚偽の事実を書いていたということになる。
ならば「適材適所」とされた人物やその部下だった官僚が「嘘」を記したということになる。
ならば告訴するべきだ。国政を混乱させ、名誉を毀損させられたという“罪状”で。

明日の参院予算委でどんな論議が交わされるのか。
週末の世論調査がどんな数字となって出るのか。

週末も安倍は、麻生は、側近を集めて逃げ切り策を、想定問答を話し合っていることだろう。

昨夜、友人たちとの集まりがあった。この問題に一人が話を向けると堰を切ったようにめいめいが口を開き、意見を語っていた。
大方が疑問を呈し、疑念を語り、あげくこの国の行く末にまで論議が及んでいた。
市井の民の雑談と言ってしまえばそれまでだが、国民の大多数が関心を持っていることだけは間違いない。

週末に選挙区に帰った議員たちはどんな選挙民の声を聞いてくるのだろうか。

2018年3月11日日曜日

「3・11」前後譚

7年――。何が変わり、何が変わっていないのか。
さっぱりわからない。
形状や景観ではなく、根底はなにも変わっていないのではないかと思う。

「原子力災害」は継続中だ。
災後、除染という作業があった。
庭の“汚染土”や“草”は剥ぎ取られ庭の一角に埋められたままだ。
何回か春が来て、夏がきて、冬が来た。冬には庭は雪に覆われた。
地中のフレコンバックはすでに破れているだろう。

「3年間の保管です」と市の担当者はいった。その頃、運び込まれるはずの中間貯蔵施設は建設の緒にもついていなかった。

いずれまた掘り返されるのだろう。そんな“確信”のもと庭の手入れはまったく放棄している。

県内各所には仮置き場というのが設けられた。中間貯蔵施設は未完のままだ。
仮置き場からフレコンバックがダンプカーに積まれて運び込まれている。
10トントラックが列をなして、貯蔵施設に向かう。
道路は損壊、陥没の危機にある。

30年後中間貯蔵施設から廃棄物は県外に移送すると国は法律で定めた。
「引き受ける」ところはあるのか。有り得ない。
最終処分場になることは明らかなのに、福島県民を国は騙し続ける。

メルトダウンし、溶け落ちた核燃料。あの1Fは未だに防護服を必要とし、短時間しか滞在できない高線量地帯だ。
作業員の被ばく量は低くは無いはず。
しかし、その実態は把握もされないし、隠されたままだ。

高濃度の廃棄物、取り出したあとのデブリや再処理工場に運び込まれている核のゴミ。
海中深くに埋め、10万年保管すると言う。

先日、県北の河川で「セシウムボール」と呼ばれる放射線が付着した微粒子が発見されたという。
川にあるものは海に流れ出る。

7年―。何も終わっていないのだ。

災後、福島の子どもたちは「ガラスバッジ」と呼ばれる積算線量計を首から下げさせられていた。その光景はいつの間にか消えた。

7年前の3月、爆発以降、不要不急の外出は避けろと言われ、外出時には帽子、マスクを着用するように言われた。家に入るときは付着物を払い、手洗い、うがい、洗顔を必須とされた。
同じ光景や対応が今でも求められている。その対象はインフルエンザと花粉。

なぜか笑える。

3・11にあわせてメディアはさまざま特集を組む。
それらを無意味だという気はさらさらない。しかしだ、その大量の「情報」を消化し読み取る能力は持ち合わせない。
発信する側はそれを為したことで“満足”する。受け手の側は許容範囲を超える。

「3・11」を挟んで国会は混乱し揺れる。森友問題(この呼称は矮小化する感ありだ。公文書偽造、国有地不当払下げ問題とすべきだ)を巡ってこの国の形が壊れるような事態にある。
佐川が辞任した。そんなことはどうでもいい。事件に関与していた一人の官僚が自殺した。組織の悪弊、矛盾に耐えきれなかったからではないか。

総理大臣の名が取沙汰された“犯罪”は死者を伴う。田中角栄の秘書田中利夫さん、運転手の笠原さん。
竹下登の秘書青木伊平さん。
皆、仲のいい知り合いだった・・・。

佐川や麻生が辞任を巡って記者会見している頃、同時刻。安倍は日本テレビの社長や解説委員長と会食していた。近畿財務局の官僚の自殺ももちろん知っていたはず。

「許されざる者」。

その非情さはどこからくるのだろうか。

そして「3・11」から8年目。パラリンピックはともかく、この国は安倍肝いりの東京オリンピックに向けて邁進していくのだろう。その“負”の部分には目もくれないまま・・・。

避難生活を送る人がいる限り、立入り禁止区域や強制避難区域がある限り、福島にとっての「3・11」は全く終わりをみせない。

損害賠償は今月で打ち切られる。
「カネ」をめぐる人間模様が露呈されている。それは大方「えげつない」感情だ。

7年はなんら「区切り」とはならない。安倍はまた言い訳のように福島に昨日来た。彼が“視察”したものは「いいこと」だけだ。
「負」の部分に彼らの目は向かない。いや見ようとも感じようともしない。

「原発事故」に多額の国費が投入された。
再稼働を「コスト」で論じる奴がいる。事故があれば大量の“コスト”が失われる。

フクシマは実験場であり、学びの場なのだ。
書きながら怒りが満ち溢れてくる。この国はどこに行くのだろうと思いながら。

「不幸な国を生きる者」として

国連の「世界幸福度報告書2018」によれば、日本のそれは54位だという。去年は51位。幸福度なるものが年々下がってきているらしい。 第1位はフィンランドだ。 幸福度とは「一人あたりのGDP・社会支援・健康余命・社会の自由度と寛大さ・汚職の頻度」などについて分析したものだ。 ...