2018年6月30日土曜日

「西野サッカー」に思ったこと。

サッカーに関しては全くのど素人である。
しかしサッカーのフアンでもある。大好きでもある。

素人が安易に容喙すべきではないと思うが、ポーランド戦から2日が経っているにも関わらずテレビのワイドショーはサッカーの話題で沸いている。
新聞とても余韻を書いている。

「本戦」に行けるかどうかがかかっていた過日のポーランド戦。
後半のコロンビアとセネガル戦の途中経過が伝わると、本戦出場の一縷の望みをかけて日本は“戦う”ことをやめた。
試合終了までの時間を“球まわし”に費やしていた。時間切れを狙っていた。

試合には負けたが本戦へ進む権利は獲得した。

球回しの間中スタジアムにはブーイングが巻き起こっていた。

球回しが行われている時、脳裏に国会の姿がかすめた。
野党の持ち時間を計算し、野党から追及されることを嫌う安倍。
持ち時間いっぱい、的外れな口説を弄していた安倍。
そんな姿が浮かんだのだ。

サポーターあっての日本代表だとかねがね監督含め選手は言う。
あの時、サポーターの存在が彼らの頭の中にあったのだろうか。
サポーターの中には”劇的逆転“を願っていた人もいた。
試合が終わってのサポーターの反応には“歓喜”は少なかった。

サッカー選手は子供たちの憧れの的だ。
子供たちには彼らは言う。
「練習を重ね、常に諦めることなく前をむいて全力を尽くせ」と。
子供たちがどう思うかという発想はあの時は無かったのだろう。

とにかく勝ちあがって本戦に出る。

その「至上命題」を果たすことに関係者は腐心していたのだろう。

終わりよければ全てよし。

素人の僕には、最後の最後まで死にもの狂いで相手ゴールに迫る選手の姿が見たかった。
結果、それが敗退につながったとしてもだ。
その敗者を誰も責めないだろう。

グッドルーザーたれと思うのでは。悔しいけれども。

学校ではVTRに編集して”球回し“の場面は子供たちに見せなかったという。
それでも本戦に進めたことに子どもたちは無言だったと新聞に小さくあった。

目先の勝負に拘るのか。将来のサッカー選手になるであろう子どもたちに大人の背中を見せるのか。
多くのサッカーフアンにとって僕は「異論」を述べている輩に過ぎないかもしれない。
素人が何をほざくかと非難されるかもしれない。

「勝つ」ということは何なのだろう。そんな思索の材料を提供してもらったような気がして。

2018年6月23日土曜日

SNS,その功と罪

大阪地震。スマホが活躍した。安否確認からはじまって各種の情報取集。
車内に閉じ込められた人にとっては有り難いツールだった。

被害の様子も最初に流された映像は市民がスマホで撮った映像だった。
今回に限らず、スマホの普及は「一億総ジャーナリスト」化の象徴にも見える。

そして、デマも多数発信されていた。
今ほどSNSが普及していなかった「3・11」の時でさえ、デマが発信され、デマを信じた人はうろたえ、拡散されたデマは社会的混乱を招いた。
「フクシマ」は格好の標的とされていた。

機会があるごとに「スマホ、SNSの功罪」について思うところを話してきた。
スマホはその機能を急速に進化させてきている。
もはやあれは電話機ではなく写真機だ。
生活に必要なあらゆる機能が搭載されている。
買い物もナビも音楽視聴も。

スマホ一台あれば生活には事欠かないのだ。

誰が開発したかは知らないが人間はスマホと言う“文明の利器”にすっかり取り込まれた。
まるで天使からの贈り物のように。

数か月前だったか。新聞の投書欄に埼玉県の16歳の女子高生の投稿を眼にした。

“あと少し早く生まれて来たかった。私が強くそう感じたのは正月にいtった海外旅行がきっかけだった。
小学5年生の時、家族とオーストラリアに行った。当時は今ほどスマートフォンで何でも調べることは出来なかった。
そのため、ホテルの従業員にお勧めのレストランを聞いたり、店までの道を街でいろんな人に尋ねたりと、たくさんのコミュニケーションをとったことを鮮明に覚えている。
今年、再び家族でオーストラリアに向かった。今度はレストランもその場所もすべてスマートフォンで調べることが出来た。
しかし私は何か物足りなさを感じていた。それは便利さの陰で失われてしまった人と人とのつながりだった。そして小学5年生の時は何気なく交わしていた現地の人たちとの会話がものすごく恋しくなった。
私たちの生活は豊かになったのか。たしかに便利にはなった。でもそれはかえって私たちから大切なことを奪っているのではないか。
あと少し、スマートフォンが普及する前に、生まれてきたかった。“

彼女の意見に賛成する。

ツイッター・フェイスブック・ライン・インスタグラム・・・。

写真を撮って公開する。自撮りと云う機能で顔を映す。
有名人や友達も交ざって。

スマホの便利この上ない昨日は多くの人を満足させている。
既存メディアのテレビは「スマホ講座」番組をつくりその普及促進に手を貸している。

スマホによってこの国は動いているようだ。そんな中、前記の少女の投書はまさに一服の清涼剤のようだった。

妖怪ウオッチというアニメがある。
その中に「コマさん」と「コマ次郎」という兄弟が登場する。

兄のコマさんはアナログ人間。弟はスマホを使いこなすデジタル人間。
三差路でどっちの方向に行くか兄は真ん中で棒を立てその棒が倒れた方に行こうとする。
弟はスマホのナビですべてを知っている。
兄の気を逸らせておいて弟は棒の向きを修正しておく。

スマホ世界の「寓話」が出来上がっている。

今日は沖縄慰霊の日だ。沖縄でもネットを駆使した「デマ」や「誹謗中傷」が渦巻いているとか。
米軍基地反対派に対してのものだ。

スマホの功罪。人を傷つけ、社会を混乱させる罪の方が大きい。
スマホで「つながる」という。ネット上にしか「友達」なるものは居ないという。

ハイデガーやサルトルの言をもってスマホ社会を語るものでは無いが、「人間の存在」「人間の存在意義」がスマホ社会では排斥されているようだ。

人と人とのつながりは顔を見て語り合うことでしか生まれない。

医療現場でもスマホによる遠隔診療が行われるようにもなった。
「手当」という言葉がある。
人間が人間の手で人間に触れることに治療の意義がある。

ネットで本は買わない。本屋で向き合ってつながりを感じた本を買う。
スマホで簡単に「押した」だけで本は届く。だけど宅配業者の勤務はかさんでいる

真の便利さとは何か。真の豊かさとは何か。
立ち止まって考える時代なのだと思うけど。

2018年6月20日水曜日

この国に生きているという事

日本列島は地震列島である。
地震はいつかかならずやってくる。
寺田寅彦の言葉を借りるまでも無いが「災害は忘れたころにやってくる」

今回の大阪北部を中心にした地震、前日には群馬県の渋川で震度5、その前日には房総半島沖で震度3。
きょうは福島で震度3.
忘れたころにではないのだ。熊本地震からも数年後、東日本大地震からも7年余り。連日の様な地震。

毎日が地震との“遭遇”だ。

南海トラフ地震の可能性。学者の意見は様々だ。極論すれば「わからない」ということ。

メディアは「都市のもろさが露呈された」と大見出しで書く。
「もろさ」は大方の人はわかっている。わかってはいるがそこで日常を送って居る人たちは手の出しようが無い。

慣れるしかないのだ。
慣れるとは事が起きた時いかに冷静に対処するか。
慣れるとは身近で出来る最小限の対処をしておくことだ。

小学校が“違法”なブロック塀を作っていた。それが倒壊し幼児が犠牲になった。
その学校や関係者は昭和になってからの数多くの地震被害から何も学んでいなかったということになる。

地震を学んだ市民は冷静だった。車内で待って線路を黙々と歩いた。
いつくるかわからないタクシーやバスに長蛇の列をなした。きちんと秩序を保って。

きょうも雨の中、難儀をしている被災者は少なくない。
互いに助け合ってその日を過ごす。
屋根の修理には業者がいない。多くの業者は割のいい東京オリンピックに駆り出されている。

あの時間、多くが通勤、通学者だった。なんとかして会社にたどり着こう。日本人の勤勉さだ。

働き方改革と地震被害。意識の中で相反する。

政治は“あの程度の天災”には無関心だ。市民と国政なるもののあいだには壁がある。
国民を守る。それは政治の第一義なのに。
「全力を挙げて」という形容詞だけが飛び交った。
全力を挙げるのは当然なのだ。その言葉が出るという事は意味を持たなくなった言葉での自己防衛。

首相は「云々」を「でんでん」と読み、官房長官は「枚方」を「まいかた」と読んで憚らなかった。
悲し過ぎるぜ。

あの日は決算委員会が予定されていた。野党は中止を求めた。与党は歯牙にもかけなかった。
森友、加計問題での新たな資料を基に野党は追及した。質問通告がないから答えられないと政府は逃げた。

丁寧な説明、答弁。あれはその場しのぎの言葉だった。

きのう突然加計理事長が記者会見もどきをやった。短時間。
「記者会見で説明しただろう」というアリバイ作り。

会見は地元の記者にだけ告知された。地震の影響で東京からは大阪からも記者は行けない。
好機到来だったのだ。「このチャンスしかないぜ、加計くん」。そんな囁きが交わされていたような気がする。

病める体に鞭打ってコーヒー豆を買いにいった。そこの女性店員さんもあの加計理事長の会見をテレビで見て「あれはないでしょ」と怒っていた。

たぶん、東京新聞を除いて各紙の一面トップはサッカーだった。

「地震」を利用し「サッカー」を利用し、政治家による「男たちの悪巧み」は進行している。

地震後に二階は官邸に足を運んで悪だくみ。
夜は安倍が料亭に岸田を招いて総裁選への腹を探りあう。

「まいかた市民」よ怒れ。大阪府民よ怒れ。

我々にとって「終末期」に思える安倍政治は実は「反転攻勢期」なのだろうか。

また熱が出てきている・・・。

2018年6月5日火曜日

「国民」とは誰そ

日本国憲法には「日本国民は正当に選挙された・・・」で前文が始まるように各所に国民と言う言葉が登場している。

かって、帝国憲法には「国民」という言葉は無く「臣民」だった。
しかし子供たちは「少国民」と呼ばれ、兵士になることを名誉だとする教育が施されていた。

いささか屁理屈ぽいかもしれないが、国民とは何なのだろうか。
国民と日本人は違うのか、同じなのか。

1990年代に「国民的美少女コンテスト」というのがあった。芸能プロのオスカープロが始めたものだ。
たしか初代は藤谷美紀という子だった。女優の道に進んだ。このコンテスト出身者は大方女優になっている。たしか米倉涼子もそのはず。

「国民的美少女」、その「的」が当時からひっかかっていた。
的と言う字の意味はなんなのか。
国民的歌手と言うのが排出された。国民的俳優もいた。
国民的スポーツという言葉も存在している。

「的」には「~のような」という意味があると思う。文字の解釈の問題だけれど、あまりにも仰々しい。

なぜこんなことを今更のようにいうかというと「国民栄誉賞」の話につなげたかったからだ。

国民栄誉賞は福田赳夫内閣時に制定された。その前は佐藤内閣時代は内閣総理大臣表彰だった。

内閣総理大臣表彰はわかりやすい。総理が”勝手“に決めて表彰すればいいのだから。
国民栄誉賞となると、その「国民」と言う言葉の主体と客体が曖昧だ。

国民がこぞって表彰すると言うのなら内閣総理大臣が賞状を授与するのはおかしい。
国民の代表は総理大臣では無い。国権の最高機関である国会だ。
国民の代表である議員で構成される「院」が表彰するならわかるけど。


羽生結弦が国民栄誉賞を受賞することが決まった。
羽生は受賞を名誉なこととして受け入れ「この賞が被災地にとって明るい光となることを祈ってます」とコメントした。

「被災地にとって明るい光」か~。素直に喜べる人と、そうでない人もいるはず。
かって国民栄誉賞を辞退したスポーツ選手もいる。イチローがそうだ。
「まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」。固辞の理由だ。
羽生はまだ現役だ。発展途上だ。

羽生は国際的にも著名な選手だ。
羽生の名を借りての自分のための“政治利用”。
ザギトワに贈られた秋田犬の贈呈式には押しかけ参加。抱いて見せるパフォーマンス。

映画監督の是枝裕和がパルムドールを受賞した。快挙だ。
しかし、是枝にはメッセージの一つも送ってない。無視だ。
「万引家族」という映画が、暗に安倍政治を批判しているからと聞く。

なんと度量の狭い男なんだろう。

この国の官庁は国民の為にある。あの公文書改竄の、しかも組織ぐるみのような“犯罪行為”。安倍を守るための組織。あの一連の不祥事には「国民」は不在だ。彼らの目は内向きでしかない。

政治の世界では連日のように「国民」という言葉が発せられている。
安倍の云う国民とはだれか。野党の云う国民とは誰か。
国民は戸惑う。

安倍は「膿を出す」と言った。膿を出す“治療行為”は全くなされていない。
膿は溜る一方だ。外科手術を必要としているのに。
溜る一方の膿はもはや澱となって沈殿している。

意味不明な言語を連発し、不誠実な態度を取り続け、徹底的という言葉だけの形容詞で逃げ切る。
国民の多くはもはや諦めに近い思いでいるのかもしれない。
少なくとも安倍が言う国民には入りたくない。

自分で育てた膿は自分で切除すべきだがそれは仕方さえわからない。
国民は「総外科医」になるべきかとも。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...