2018年8月28日火曜日

八月の終わりに

地球は“異常気象”に覆われた。
日本でも熱中症という言葉が連日メディアから伝えられている。
豪雨に見舞われ、災害大国の様相を見せている。
どことなく秋の気配が感じられる昨今、連日思う事の大なる日々。

アジア大会が行われている。
アナウンサーは「日の丸を背負って」と絶叫し、「国家の威信をかけて」と「定型文」を読むかのごとく“国威発揚”を煽る。
挙句、いつものごとく「国民的」を連発。
この「国民的」という言葉をどう理解しているのか、どう考えたのか。
ありきたりの言葉のつなぎ合わせのテレビ。

水泳で6冠に輝いた池江璃花子選手を好ましく思った。
競技の前に彼女はプールに軽く一礼する。プールから上った後も一礼する。
フィギアスケートの羽入選手もそうだった。リンクへの一礼を欠かさなかった。

陸上競技でもそうだ。ゴールのあとコースに一礼する選手を見かける。
「自分を試してくれた場所」への敬意の表れとみる。

表彰式、君が代が演奏され、日の丸が揚る。君が代を歌う姿には口先がかすかに動いているだけだ。

高校野球で背中を反らせながら校歌を高らかにうたう金足農業の選手の姿は見事だった。
「校歌」という自分たちの歌を持っていた。

「国歌としての君が代」「国旗としての日の丸」。難しい問題が存在している。
そもそも日本には国歌や国旗は存在していなかった。
明治政府になって国家を作るように芸大に依頼があった。
苦吟した芸大の教師は、万葉集の中の詠み人知らずにあった「君が代は」という句を“引用”した。君とは恋人を詠んだものであり、幾久しくキミとの恋が続きますように。そんな恋歌だとして君と大君とを掛けた様に歌詞が出来上がった。「君が代」とは天皇を指したのではないと。そういう「説」がある。
国旗も存在していなかった。維新軍が使ったのは錦旗だった。天皇の象徴として。

国歌国旗法が成立したのが平成11年。小渕内閣時。議会は満場一致で可決してはいない。
すべての国民の賛意でできたものではないという「曖昧さ」。
国民の血肉となるかのような位置づけでは無いという“運命”。

それがこの国の歴史だ。そこには70年以上前の戦争が大きく翳を落としている。
来年、元号が変わる。天皇も変わる。それを一つの契機としてすべての国民が支持し口に出来る国歌は出来ないものだろうか。

自分たちの歌、自分たちの旗を持たない国民はある意味不幸だ。

権力者たちはその立場の違いこそあれ、連日のようにその“不始末・不祥事”で「誠に申し訳ありません」と頭を下げまくっている。
その度にそれらの“権力”への不信感が増長されている。

「頭を下げればいいてもんじゃないぜ」。頭は下がるが顔の中身は笑っている。

身障者の雇用水増し。国家ぐるみの地方自治体も含めた「詐欺行為」。雇用枠を法律で決めながら守らない統治機構。
流行の「同調」か「予定調和」か。

こんな国が2年後にパラリンピックを開催するという。
嗤える。

2歳の幼児が自宅近くで行方不明になった。警察官が捜索に多くに捜査員を投入した。彼らの“捜索”はあの「棒」で林の中を叩くこと。
それは“遺体捜索”の手法だ。
78歳の7万円の年金生活者がボランティアとしてその場に向かった。
30分後にその子を見つけた。大きな声で名前を呼んだら反応があったという。
子供の引き渡しを求める警察官に言う。
「私の手で探し出し、私の手であなたに手渡す」。母親と約束した。口約束でもそれは契約だ。警察にいくら強要されても国家権力がそれを阻止しようとしても俺は自分が言った約束を果たす。
見事なボランティア精神だ。

オスプレイが横田基地に配備されるという。沖縄だけでは飽き足らず東京周辺も「危険にさらす」。
日米地位協定について国の誰しもが「異議」を唱えない。

緩み切ったこの国の姿。

2018年の8月はさまざま“異形”な月だったような。

2018年8月15日水曜日

平成最後の追悼の日に。

8月15日が近づくとNHKテレビは「つまらんニュース」を流す局とは思えないぐらいNHKスペシャルなど良好な番組を作り流す。
それらは僕の戦争の記憶、戦後の記憶体験と同化してくれる。

姫路大空襲で逃げ回ったこと。とうもろこし畑に身を埋めてB29の機銃攻撃から身を守ったこと。
常に枕元に置いてあった防空頭巾のこと。
空襲で家を焼かれ明石と飾磨の農家の離れに住み、ラジオから流れる玉音放送を大人に交じって聞いたこと。
常に飢えに苦しんでいたこと。

4歳の少年の記憶は時に散漫で、事象と時期がマッチしないが、東京の
世田谷の親戚の家にいた。
「空襲警報!空襲警報!」消防団の人のメガフォンからの声が聞こえる。
「灯火管制!灯火管制!」部屋の電燈を消し一部屋に集まり墨で黒くぬった紙で裸電球を覆い、飛行機の爆音を聞いていた。
やがて「灯火管制解除」の声で灯りが戻り、ほっと一息を付いていた4歳の「坊や」。

一家は東京に移った。三河島の戦災長屋で1年くらいすごした。“お化け煙突”がいつも目の前にあった。
初台に移り住むことが出来た。5歳の少年。毎日が空腹との戦いだった。
メリケン粉をこねた団子を醤油だけの鍋にちぎって入れ食べた。来る日も来る日も。姫路の親戚から揖保の糸という素麺が木箱に入って大量に送られて来た。
廊下の奥に素麺が置かれていた。来る日も来る日も素麺。

廊下の奥に戦争が立っていた。5歳の少年には素麺の木箱が“戦争”だった。
多分買い出しに出かけたのだろうか。母と上野の地下道を歩いた。
地下道には戦災孤児の浮浪児がいた。飢えた眼光が恐くて母親の着物の裾を掴んで行き過ぎた。
浮浪児狩り、狩り込み。そんな言葉を大人たちから聞かされた。

一角に集められ進駐軍か保健所か。頭から足まで噴霧器のようなものでDDTを撒かれた。
白い子供の幽霊の如く。

6歳の頃か。母は着物数着を大きな風呂敷に包み(なぜそれがあったのかはわからない。家は焼かれているはずなのに。親戚宅に預けていたものなのか)
「お米を買ってくる」と朝早く家を出た。
上野から東北本線に乗ったようだ。福島だと言っていた。
農家で着物を買いたたかれ、2升ほどの米と替え、汽車に乗った。
大宮で「臨検」にあった。ヤミ米としてコメは没収された。
夜、家にたどり着いた母は「何もなくなった」と玄関に突っ伏して泣いていた。

没収したコメは警察官が後で皆で食べると大人から聞かされた。
反権力の少年が出来上がる端緒だったような。

小学校の給食。コッペパンに脱脂粉乳。今も牛乳は飲めない。
給食費が払えず給食袋を隠すという愚挙もやった。

遊び場は近くの防空壕跡がある野原だった。何も無かった。

喪失と再起。それを子供心に理解するのは大変だった。
闇市を覗きにいった。人であふれていた。
そしていつの間にか僕は「つまらない大人」になり、後期高齢者になった。


平成最後の全国戦没者追悼式。「反省」を口にされる天皇陛下の心中を慮った。
北の丸公園には蝉が鳴いているだろう。
ふと思う。追悼の対象者は310万人の日本人だ。
しかし亡くなった人命はこの限りでは無いのだ。
日本軍の犠牲になった東南アジアの人も居る。
満州へのロシア侵攻で、落とさざるを得なかった人命がある。

戦争による多数の死者。死者の数だけ、親に捨てられた子供の数だけ”物語“がある。戦災孤児は親が死んだために生まれた悲劇だ。

正午の黙祷。開けた窓からは防災無線がいつもと同じ「郡山市民の歌」を流している。
平和の享受って何だろう。飽食の時代、食品ロスという時代は何なのだろう。
追悼者が希求していた国の姿なのだろうか。

今、毎日の食べ物には困窮していない。しかしあの頃の「飢餓感」は形を変えて僕の中にある。

「私の叔父さんは知覧から特攻で飛び立っていったの。その後の消息はわからないって」。家内がひとりごつ。

お盆の送り火。戦没者への手向けか。

2018年8月12日日曜日

テレビは死んだ。

8月8日、沖縄の翁長知事が亡くなった。9日の新聞のトップはその訃報を伝えるものだった。
9日の朝のテレビ。モーニングショー。朝8時からのそれを垣間見た限りでは約1時間にわたってスタジオで取り上げられ、出演者が口角泡を飛ばさんばかりに言い合っていたのは日本ボクシング連盟の山根会長の“不祥事”の事だった。

相撲協会の不祥事、日大アメフット部の、いや、日大に跋扈するあの“暴力団的”体質。
たしかにワイドショー的には事欠かない話題だと思う。

常に「正論」を吐いているワイドショー。9日のネタは翁長一色であるはずだ。
しかし、東京のテレビは翁長氏のことには全くのように触れない。

「テレビは死んだ」と机を叩いて怒った。

辺野古移設をめぐってかつて菅官房長官と対面した翁長氏は移設を言う菅に対して、こう言っていた。
「私は本土に行くときはパスポートが無ければ行けなかったのですよ。同じ国なのに」。
これに菅がどう反応したのかはテレビはもちろん新聞も伝えてくれてない。
無視したのか、なにかの言葉を口にしたのか。

僕が初めて持ったパオポートも沖縄に佐藤栄作に同行取材をするためだった。
入管のごときものがあり、米兵がチェックし、その脇には免税店のPXがあった。
施政権と言う名の下に“分断されていた”日本。

翁長氏が大きな集会に顔を見せ、「沖縄」について語ったのは病気がかなり進行している姿での6月23日の沖縄戦没者追悼式だった。
 「私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日に生きています」と語り始めた。

そして式典では浦添中学3年生の相良倫子という3年生が「生きる」という自作の詩を語った。自分の言葉でまさに戦没者の霊に訴えるように。

「七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜(むこ)の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。」

彼女の声に、言葉に、表情に心が震えた。

もしかしたら、彼女の詩は翁長氏に向けての手向けの言葉、誓いになったのかもしれない。今となるとそんな気がする。

安倍は誰かが書いた紙から目をはなさずただ読み上げていた。

今朝、TBSのサンデーモーニングという番組を観た。
沖縄について、翁長氏について語られていた。


翁長氏はイデオロギーでは無いアイデンティティーだと国に対する心中を語っていたという事。
「沖縄のこころ」を訴えて来たという事。

安保条約がある以上、基地の問題からは逃れられない。だとすれば国土の0.6%に70%の基地がある。その現状を打破しなければ。

内閣官房参与の岡本行夫も含めての“静かな環境”の中で静かに、しかし当然すぎる結論だった。

TBSはかつて「オウム真理教事件」の時、坂本弁護士を取材したテープをオウムに見せた局だ。
取材テープは絶対見せないという放送倫理を破って。テープを見せたことが坂本弁護士一家殺害の要因の一つにもなっている。

ニュース23で筑紫哲也は「きょうでTBSは死にました」と言った。
少しだけ“生き返る」ような努力をしているようにも思えた。

テレビよ死なないでくれよ。僕の半生はそこにあったのだから。


2018年8月5日日曜日

「酷暑」というカタストロフ。

地球温暖化であり、気象変動なのだろう。この真夏日とやらは何日続いているのだ。
日本だけじゃない。地球上全てで起きている高温。
山火事を引き起こし、生態系を変え、人間の生存すら脅かしている。

なぜ人類は炎帝さまのお怒りに触れたのだろう。

豪雨災害があった。その地を酷暑が襲う。まさにカタストロフだ。

テレビは連日「熱中症」の話題だ。
「冷房を使って水分を採って」「不要不急の外出は控えて」外出禁止令発令。

東日本大震災、原発事故。あの年は「冷房を控えて」だった。毎日出されていたのは「消費電力量」。あと10%で電気が無くなるという話しばかり。

電力量は増えてのか。供給量は安心なのか。
健康維持のため、熱中症にかからないため、冷房を使うことが推奨される。
たしかに、冷房が無ければ暮らしてはいけない。
「3・11」を身近に経験したものにとっては「電気を使う」ということに、ためらいを覚えることを学んだ。

屋外の駐車場に停めてある車はスターターを使っているのか。エンジンが悲鳴をあげそうに掛っている。
あの時ガソリンは「血の一滴」だったのに。

車の性能が良くなった、省エネ車になったからということか。
でも、エンジンがかかっている車の脇は熱風だ。

冷房を使えと勧めることは電力量は足りているという事の証左だ。
原発はいらないじゃないか。

異常気象は科学文明の進歩とどう折り合いをつけるかという問題を提起してくれているようだ。

「3・11」前の時代は「冷房病」というのが問題視されていた。
事務所の女性はタオルケットを膝に掛けていた。

僕はもともと冷房が苦手な体質。しかし高齢化とともに寒さにも暑さにも対応力が鈍ってくる。
熱中症ももちろん怖いが、冷房による体調の変化も怖い。

酷暑の中高校野球が始まった。選手もスタンドの観戦者も辛い。

この酷暑は今年で終わりではないだろう。来年も再来年も続くのだろうか。

「東京オリンピック」。選手も観客も暑さとの戦い。「いちばん快適な気候の時期」と嘘が言われていた。
アメリカの3大ネットワークテレビ、膨大な放映権料を払うテレビ。
大リーグと重ならないようにと日本で一番時期にスポーツの大会。
ばかげてはいませんか。
マラソンコースでは打ち水作戦だと真顔でいう人がいる。
打ち水が「涼」を感じせたのはもっと気温が低い、30度以下の時の風情だ。

連日、事あるごとにオリンピック、オリンピックと煽り立てるテレビの気が知れない。

夏休み、子供の遊ぶ声が響いていた。その声は聞こえてこない。
日が暮れる頃ようやく涼風が漂ってくる。早く窓を開けたいよ。冷房からは逃れたい。暑さと冷気の中で体調は崩れていくばかりなり。

明日は原爆忌。平和公園の中は暑さにむせ返るだろう。そこでどんな言葉が聞けるのか。

原爆忌 死者の想いは炎帝のごと。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...