安倍政治が終わった。菅政治が始まる。「同じ穴のムジナ」の終わりと始まり。
ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカが書いた詩にこういうのがある。
“戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
何といっても、ひとりでに物事が
それなりに片づいてくれるわけではないのだから
(中略)
誰かがときにはさらに
木の根元から
錆ついた論拠を掘り出し
ごみの山に運んでいくだろう
それがどういうことだったのか
知っている人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりもっと少ししか知らない人たちに
最後はほとんど何も知らない人たちに
(後略)
不可思議な安倍の退陣劇だった。知性も見識も国家観も持たない人が“派閥”の力で神輿を担がれ、宰相の地位を手に入れた。
高揚感の無い、総裁選だった。
記者クラブの会見で、コロナは問われたが、今も続く「原発事故」の後始末に全く無関心な政治記者の群れ。悲しい。
汚染水のタンクはあと数年で満杯だ。海洋放水出来るのか。
原発政策をどうすうるのか。質問すら無い。悲しい。
菅は何とかの一つ覚えのように、「地方、地方」と連呼する。地方を豊かにすると幻を振りまく。
「限界集落」があちこちにみられる。
「3・11」・「原発事故」で国が指摘した「地方消滅」論は現実に現れている。
「ふるさと」への帰還がかなわぬ集落がある。
コロナ渦で職を失った人は数知れない。
ローンでマイホームを購入したが、収入が無くなり家を手放した家族も多々ある。
「自助・共助・公助」、お題目が唱えられる。要は“自己責任論”が根底にある。
食事を満足に取れない子供たち、こども食堂。「豊かな国」ではなく「貧困な国」なのだ。「豊かさ」という幻影に惑わされ続けている。
テレビは、それが視聴率に結び付くと思ているのか「大食い競争番組」を面白おかしく作る。「爆食三姉妹」を登場させ、相撲部屋のちゃんこ料理を相撲取り以上の量を口の中に投げ込む。うな重を20人前平らげる東大生がいる。
その光景はこの国の民の”劣化“に重なって見える。
菅には宰相としての抱負経綸がみられない。安倍でも、内容はともかく、就任時には「美しい国」という世迷い語とを言っていたが。
昨日のうちに「閣僚名簿」はぱらぱらと漏らされ、きょうの組閣に意味はない。
メディアは立志伝を伝える。無意味だ。
田中真紀子が上手いことを言っていた。
“主婦の感覚です。安倍政権では例えば森友問題で公文書の改ざんがあったり、財務省の職員が自殺したり、でもその責任をあいまいにする嘘とはぐらかしがたくさんあって、国民の不満も募っていた。なのにそうした悪臭紛々とした生ゴミを安倍家の台所から出して、バケツに押し込める。そのふたをするのが菅政権の役割ではないかということです。”
田中内閣成立時には「日本列島改造論」がいわば政権構想だった。練りに練り上げた。
「太平洋ベルト地帯の工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進すること」
菅の言う「地方」とはわけが違う。
宰相たるには政治哲学・政治道徳・政治的倫理論が必要だ。何もない。
安倍政権を安倍政治を継承する。それだけの“ふた”でしかない。
シンボルスカの詩にはこういう一部もある。
“誰かが瓦礫を道端においやらなければならない
死体を一杯積んだ荷車が通れるように“
彼女の詩をどう解するかは個々人の勝手だ。
難解かもしれないし。
終わりと始まりは延長線上にあるのだ。