2020年9月16日水曜日

終わりと始まり


安倍政治が終わった。菅政治が始まる。「同じ穴のムジナ」の終わりと始まり。

 

ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカが書いた詩にこういうのがある。

 

“戦争が終わるたびに
   誰かが後片付けをしなければならない
   何といっても、ひとりでに物事が
   それなりに片づいてくれるわけではないのだから

(中略)

誰かがときにはさらに
   木の根元から
   錆ついた論拠を掘り出し
   ごみの山に運んでいくだろう

   それがどういうことだったのか
   知っている人たちは
   少ししか知らない人たちに
   場所を譲らなければならない そして
   少しよりもっと少ししか知らない人たちに
   最後はほとんど何も知らない人たちに
   

(後略)

不可思議な安倍の退陣劇だった。知性も見識も国家観も持たない人が“派閥”の力で神輿を担がれ、宰相の地位を手に入れた。

高揚感の無い、総裁選だった。

記者クラブの会見で、コロナは問われたが、今も続く「原発事故」の後始末に全く無関心な政治記者の群れ。悲しい。

汚染水のタンクはあと数年で満杯だ。海洋放水出来るのか。

原発政策をどうすうるのか。質問すら無い。悲しい。

菅は何とかの一つ覚えのように、「地方、地方」と連呼する。地方を豊かにすると幻を振りまく。

「限界集落」があちこちにみられる。

「3・11」・「原発事故」で国が指摘した「地方消滅」論は現実に現れている。

「ふるさと」への帰還がかなわぬ集落がある。

 

コロナ渦で職を失った人は数知れない。

ローンでマイホームを購入したが、収入が無くなり家を手放した家族も多々ある。

 

「自助・共助・公助」、お題目が唱えられる。要は“自己責任論”が根底にある。

 

食事を満足に取れない子供たち、こども食堂。「豊かな国」ではなく「貧困な国」なのだ。「豊かさ」という幻影に惑わされ続けている。

テレビは、それが視聴率に結び付くと思ているのか「大食い競争番組」を面白おかしく作る。「爆食三姉妹」を登場させ、相撲部屋のちゃんこ料理を相撲取り以上の量を口の中に投げ込む。うな重を20人前平らげる東大生がいる。

 

その光景はこの国の民の”劣化“に重なって見える。

 

菅には宰相としての抱負経綸がみられない。安倍でも、内容はともかく、就任時には「美しい国」という世迷い語とを言っていたが。

 

昨日のうちに「閣僚名簿」はぱらぱらと漏らされ、きょうの組閣に意味はない。

 

メディアは立志伝を伝える。無意味だ。

 

田中真紀子が上手いことを言っていた。

“主婦の感覚です。安倍政権では例えば森友問題で公文書の改ざんがあったり、財務省の職員が自殺したり、でもその責任をあいまいにする嘘とはぐらかしがたくさんあって、国民の不満も募っていた。なのにそうした悪臭紛々とした生ゴミを安倍家の台所から出して、バケツに押し込める。そのふたをするのが菅政権の役割ではないかということです。”

 

田中内閣成立時には「日本列島改造論」がいわば政権構想だった。練りに練り上げた。

「太平洋ベルト地帯の工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる地方分散を推進すること」

 

菅の言う「地方」とはわけが違う。

 

宰相たるには政治哲学・政治道徳・政治的倫理論が必要だ。何もない。

安倍政権を安倍政治を継承する。それだけの“ふた”でしかない。

 

 

シンボルスカの詩にはこういう一部もある。

“誰かが瓦礫を道端においやらなければならない

死体を一杯積んだ荷車が通れるように“

 

彼女の詩をどう解するかは個々人の勝手だ。

難解かもしれないし。

 

終わりと始まりは延長線上にあるのだ。

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