2016年3月15日火曜日

「福島を知る」ということ

3月12日、全国紙5紙、地元紙2紙に福島県からの全面広告が打たれた。

あなたの思う福島はどんな福島ですか?と題されて。

//福島県と言う名前を変えないと復興は難しいのではないかという人がいます。
海外の方の中には、日本人はみんな、防護服を着ていると思っている人もいるそうです。

あなたの思う福島はどんなふくしまですか?

福島にもさまざまな人が暮らしています。括ることはできません。
うれしいこと。苦しいこと。進むこと、まだまだ足りないこと。光の部分、影の部分。避難区域以外のほとんどの地域は、日常を歩んでいます。

お時間があれば今度ぜひいらしてくださいね。ふらっと福島に。
いろいろな声によって誇張された福島はそこのはありません。おいしいものが、きれいな景色が、知って欲しいことが、たくさんあります。
おもしろい人がたくさんいます。
未来に向かう、こどもたちがいます。

あなたの思う福島はどんなふくしまですか?
あなたと話したい。
五年と、一日目のきょうの朝。

福島の未来は、日本の未来。
昨日までの、あたたかなみなさんからの応援に感謝します。
原発の廃炉は、長い作業が続きます。
名前は変えません。
これからもどうぞよろしくお願いします。

ほんとにありがとない。


このメッセージにはいささかの違和感と不可解さを覚える。
県民にむけたものなのか。県外の全国の人に向けられたものなのか。

これを起草したのは“テレビの寵児”とも思える郡山出身のクリエイティブデザイナーだという。

「灯台もと暗し」という言葉がある。福島県人がどれだけ福島県を知っているかということだ。
“移住”して来た者にとって、福島県を知ろうとそれなりに努力した。歴史、風土含めて。

知る限り、県全部のことを知っている人は少ない。いわきはじめ浜通りの人は会津のことを知らない。逆もまた然りだ。
郡山の人間でも、経験したことだが、「安積開拓」という歴史について知らない人が余りにも多いのに驚かされたことがある。

「福島を知る」、それはまず県内から始めることでは無いか。福島県を知らない県民がいるという現実に対して、あらためて“啓蒙”するということが必要なのではないか。

他県の人はそれほど「福島」に対して無知、無関心なのだろうか。
災後の出会った言葉がある。以前にも書いたかもしれないが。

埼玉県にある立教新座高校の校長のメッセージだ。2011年3月15日に予定されていた卒業式は中止された。彼は式で言いたかったことに「3・11」加筆して、メッセージとして卒業生に伝えた。

「歴史上かってない惨状が日本の地域に存在する。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原発事故には科学の進歩とは何かということを痛烈に思う。
被災地にあって命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人の為に声を上げよう。共にいまここに私たちがいることを。」

2年目、2012年式辞でこう述べた。
「平和なほうがいい。しかし現実は違う。原発はないほうがいい。しかし、現実とは違う。そう考えることで私たちは思考を停止しているのです。
思考の停止は逃避です。たまさか直接の悲嘆から逃れられた私たちの責任は斑紋を、苦悩を共有することです。分かち合うべきは悩むことです。
煩悶は明日へのために共有でききるはずです。

3年目。「福島の海を見よ」と述べた。
「捨てて2時間福島の海を見よ。あらゆるものを捨てて、2時間福島の太平洋に向き合いなさい。身体で凝視しなさい。身についているものすべてを脱ぎ去りなさい。携帯電話・スマートホン、書物もカメラも。友達も恋人も家族も置いていきなさい。
自分をとりまくあらゆる情報からはなれるのです。過剰な情報に沈黙を与えなさい。
君が子供を持った時、君の子供はきっと聞くだろう。「あの時お父さん何してた」と。
君は「忙しかったんだよ」と答えるのか。忙しいと忘れるは同源の語である。
福島に対して忘れたと言える人は日本にはいない。

4年目の去年、こう言っている。
「砂浜にも埋立地にもぎっしり黒いビニールの福らが積み重ねられている。除染された土の山だ。海の前の黒い壁だ。
忘れてはならない。まだ行き場を持てないでいる未来のあることを。未来は絶望ではない。黒い壁の向こうには青い海があるのだ。青い海への道を切り開くのは苦難である。希望は苦難を直視することから生まれる。苦しみが生み出すのは希望である」。

5年目の今年、校長は退官したと言う話だ。話が聴けないのが心残りだが。

福島に“心を寄せている”教育者がいたということ。いるということ。

5年前、彼のメッセージを読んで落涙した記憶は未だに鮮明だ。

fu

2016年3月11日金曜日

「3月11日」という日

あの日から5年目の「3・11」が来た。まったく何事もなかったような顔をして。

5年経った今、被災地を巡って、被災した人たち、原発事故で避難している人たち。そこにはさまざまの「錯綜」した事象がある。

毎日のように考えては来たものの、未だ、5年を語る言葉を持ちえない。

さまざま飛び交う情報や言説。それを自分の中でどう「消化」していくのかに煩悶している。

無責任なようだが、すべてが「わからない」ということに集約されそうで、逆に怖さすら覚えるのだ。

いささか話が飛躍するようだが、あらためて広義の「民主主義」を考える。

国家とは国とは「個」の「個人」の集合体だ。民主主義の原点だと思う。人の在り様として。

だから、「個」としてものを捉え、考えていかねばならないと思っている。それは自分のことだけでなく、全ての人にとってだ。

被災地にはすべて多くの「個」が存在している。存在していた。
今、それらの「個」をどう受け止めればいいのか・・・。
例えば、仮設住宅での「孤独死」の問題にしてもそうだ。
孤独死は都会にだって“存在”する。
その「死」がどういう環境にあったかによって問題視されたり無視されたりする。

なぜ問題視されるのか。それは被災地での「死」がすべて「無念」の死だったからだ。

改めて「個」であることの重要さを考える。
個の自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないだろうか。

仮設・・・災害復興住宅・・・。集いの場のこと。
今年もまた絆、繋がる、寄り添うという言葉が横溢するのだろう。しかし、それをすべての人が“達成”できるわけではない。

忘れる、風化する。それも言われるだろう。だけど、多くの人がそうなのだろうかとも思う。たまたま日常の中に埋没してしまっているだけの場合だってあるはずだ。

だから、それを補うのが「想像力」ということにつながりはしないか。

被災地のことを限りなく「想像」する。それは個人個人のことであっても、光景であってもだ。想像するということで忘却から脱することだって出来るはずだ。

//ぞれの人生には何人も代わり得ない意味がある。それぞれの人間がそれを深く認識することが一番の問題なのだ。きわめて切迫した//

人はあくまで個である尊厳と意味を見失ってはならない。それは被災地の現状を考えるときも、この国を考える上でも基本的な視点だ。


だから戦後民主主義の基本である憲法の第13条。
「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

その「個人」を「人」という表現に置き換えるという。そのことを質された安部は「大した意味はない」と公言した。

彼はおそらく「想像力」の欠如した「想像力」を持たない最たる人の部類ではないだろうか。「想像力は政治家にとって不可欠の資質なのに。

「速さの違う時計」を持ってしまった被災地とその他の人たち。その時計の針を同じ速度に戻すのも「想像力」ではないのかと。

「終息宣言」を出したあの時の民主党政権。オリンピックしか考えずに「アンダーコントロールなどと言った安部自民。
どう言おうと「3・11」は終わっていない。
 
3月11日は鎮魂の日だ。メディアは何の”悪意”もなく、あの日のこと、あれから5年のことを伝え続けるだろう。少なくとも一日だけは。
それはそれでいいのだ。そうあるべきだ。「忘れていたこと」を覚醒させるためにも。

それを横目で見ながら僕は「黙想」するつもりだ。自分の生き方も含めて。

そして「言葉」を探したい。
あの時あらゆる言葉はあくまでも空疎であり、言葉が失われていったのだから。

復興ってなんだ。空疎な響きにしか思えない。やむおえずそれを書くとき「復興なるもの」と綴る。
寄り添うってなんだ。
コミニュティーってなんだ。
風化ってなんだ。
前を向くってなんだ。

なぜ、国や市役所までもが午後2時46分への「黙祷」を強要するのか。
黙祷とは個人の意思の発露であるはずだ。

福島の地でも、どこかで「復興」を叫んでの“祭り”が行われている。音楽が巨大なスピーカーから流されてくる。
それは死者のための「まつり」なのか。生者の「自己満足」なのか・・・。

そんな「騒音」から離れたい。

叶うことなら、あらゆる“文明の利器”を捨てて、”便利“さゆえに手にいれたあらゆるものを捨てて、パソコンもスマホも手元から遠ざけて、だまって福島の海を見ていたい。海と向き合いたい。
海の音を光景に置き換え海の声を聴きたい。波頭から聞こえてく音から何が見えるのかを、寒風に身を置きながら考えたい。向き合ってみたい。

そして「言葉」を探したい。手に入れたい。

被災地に未だ終わりはない。かといって何の始まりもない。

不自由な肉体の身、叶わぬこととは知りながらそんなことを思う。

海に向かうとき一片の詩だけを携える。

峠三吉の詩だ。「人間を返せ、私を返せ」と読まれた詩だ。

2016年3月10日木曜日

「福島の教訓」・・・。

明日、また「考え続けねばならない3・11」が来る。

大上段に構えたようで僭越だが、あらためて「日本人とはなにか」ということを考える。

そしてすぐ「権威」に寄りかかろうとするその精神性を考える。

原発を巡って一つの動きがあった。大津地裁の高浜原発3・4号機停止の仮処分決定だ。
関電はすぐにでも仮処分取り消しの訴訟を起こすだろう。
決着を見るのはまだまだ時間がかかる。

この地裁の判断の中に「福島」が挙げられたことを多とする。
なぜか。
もはや原発問題は福島の現状、5年間を見ればわかるように、単たるエネルギー問題だけではないということだ。
福島の事故が奪ったものはあまりにも大きい。
それは今はやり言葉のような「コスト」ということにもつながる。

原発事故の後始末にどれだけの金がかかっているのか。すでにして13兆円ともいわれているがたぶんその正確な数字を知っている人はいないのではないかとも。

国と東電との「仕組み」はともかく、それだけ国富が失われているということ。
賠償、除染、作業員の人件費、あの巨大なプラントを、核燃料のおぞましい残骸が残っている発電所を解体するという作業・・・。

除染は今も続いている。黒いフレコンバッグは容量を増すばかりだ。
もちろん我が家の庭にも埋められている。耐用年数3年と言われた袋が。

浪江ではその仮置き場から火が出た。なぜ火が出たのか。「原因は調査中」と報道されただけでその続報には接していない。
中間貯蔵施設。鳴り物入りで用地買収に入りはしたものの、確保された用地は計画の6%にも満たない。搬入された汚染土は数%だという。

まだまだ金は注ぎ込まれるのだ。
たとえは変かもしれないが、1Fに流入する地下水の如くにだ。

原発事故以来、「専門家」という人に限りない不信感を持ってしまった。
大津地裁の判断もどこかそれに似通った部分がある。
「安全対策」に納得出来ないという点でも。

裁判所は司法の専門家の場だ。裁判員裁判ができた時の“思想”は「普通の人の感覚」を専門家の中にいれようとする試みだったはずだ。

原発問題に関して、学者の間では「素人感覚」は疎外される。専門家にすれば、稼働を認可した専門家集団の「規制委員会」にしては、顔に泥を塗られたということになるのかもしれない。

福島の現実を見れば、福島を知ろうとした人たちにとっては納得できる司法判断だと思うのだけど。

「3・11」があぶりだしたのはこの国が「無責任国家」だということだ。

そうなのだ。近代史の中で、国家的大問題について「責任」は問われてこなかった。責任を取ろうとしなかった。

「福島」がその典型だ。電力会社も、担当官庁も、学者も、もちろん政治家も。

責任を取らない国家の中で、福島の責任と原因究明がなされていない限り再稼働に疑義があるという今度の判断は全くもって「普通の感覚」なのだ。

裁判所の決定に対して「電気代が上がるから嫌だ」とインタビューの答えていた人がいた。
もし事故があれば、「電気代」どころの話ではないのだ。すでにして東電管内では“平然”と上乗せ料金が賦課されている。

日本人は福島の事故から何を学んだのか。

それが事故から6年を迎える、廃炉が終わるまでの“永遠の課題”なのだ。
そして「国」とは何なんだ。

すべて国民は個人として尊重される。憲法13条に明記されている言葉が「空語」として存在している。

2016年3月6日日曜日

3月の“沈黙”と“饒舌”

あの日から5年。
3月になると「言葉」を失っている自分に気づく。

5年前と同じようにヴィスワバ・シンボルフスカの詩に身を寄せるしかないのだ。
  
//戦争が終わるたびに
 誰かが後片付けをしなければならない
 何といっても、ひとりでに物事が
 それなりに片づいてくれるわけではないのだから

 誰かが瓦礫を道端に
 押しやらなければならない
 死体をいっぱい積んだ
 荷車が通れるように

  (中略9

 原因と結果を
 覆って茂る草むらに
 誰かが横たわり
 穂を噛みながら
 雲に見とれなければならない//


「福島」めぐって、大手メディアはいろいろな事を伝えてくれる。きっとそれは1年以上前から「企画」されていたことだろうけれど。
そして、新たに知ることもある。もう十分に知っていることもある。

「フクシマ」があった以上、誰かがそれを伝え続けなければならない。
どこまで伝え続けられるかはともかく。

廃炉・・・5年前は40年と言われた。“荷車が通れるような”順調な作業が甘い見通しの中でなりたっていたからだろう。

100年というスパンも言われ出した。不手際や予測の甘さが度々作業を中断させてもいる。
荷車が通れるように、毎日7千人もの人が、汗を流している。

メルトダウンした核燃料デブリは、恐竜のように地の底のほうに居座り続けている。それを除去する明確な手立ては誰も持っていないようだ。

放射能を浴びた後遺症、病気のことについても学者の意見は正反対のように別れる。この先どうなるのか。

誰もわかっていないのだ。

わかったふりをしたのは大手をひろげて「アンダーコントロール」と言った安倍だけなのだ。もちろん皮肉だけど。

帰還の問題、人口減の問題、まだまだ問題山積の5年だ。

メディアはもっと饒舌であっていいのかもしれない。

どこかで政治家がバカなことを言っても“沈黙”に等しいものではあったはならないのだから。

10万人もいると言われる避難中の人々。一時帰宅含めて、その人たちの難渋には際限がない。
彼らと取材者の間にはまだまだ垣根が存在する。

あの日の事を問うと必ずと言っていいほど寡黙になる。語ることが出来ない心情があるのだ。

福島の後始末が何も出来ていないのに、それが無かったことのように、もう終わったことのような思い込みをもって「再稼働」が進んでいる。
そして高浜にみられたような些細な「ミス」が大きな影響を伴ってくる。

5年・・・。日本人が考えなくてはならないのはこの国の「エネルギー」の問題なのだ。

再稼働はいつか必ず「事故」を伴う。そしてまた誰かが後始末をしなくてはならない。

当事者は責任を取っていない。当事者とは東電の幹部だけではない。国の側にも多くの責任が存在しているということに誰もが「ほおかむり」しているのだ。

首相が来てトマトを丸かじりし、牛乳を飲み干しても、福島に対する「無知と偏見」に満ちた風評なるものは依然絶えることがないのだ。

無知すぎる議員を担当大臣にする。そのことがすでに罪悪なのに。

あらゆる意味において、苦悩と断絶、そして家族の分離、出せない結論の数々。
それらを語る言葉を未だに持ち得ない。
何かを語ったとて何かが変わるのか。

原因と結果と責任と。全ては人間の欲望にあると。
そう言い捨てても何かが変わる予感すらない・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...