2016年3月11日金曜日

「3月11日」という日

あの日から5年目の「3・11」が来た。まったく何事もなかったような顔をして。

5年経った今、被災地を巡って、被災した人たち、原発事故で避難している人たち。そこにはさまざまの「錯綜」した事象がある。

毎日のように考えては来たものの、未だ、5年を語る言葉を持ちえない。

さまざま飛び交う情報や言説。それを自分の中でどう「消化」していくのかに煩悶している。

無責任なようだが、すべてが「わからない」ということに集約されそうで、逆に怖さすら覚えるのだ。

いささか話が飛躍するようだが、あらためて広義の「民主主義」を考える。

国家とは国とは「個」の「個人」の集合体だ。民主主義の原点だと思う。人の在り様として。

だから、「個」としてものを捉え、考えていかねばならないと思っている。それは自分のことだけでなく、全ての人にとってだ。

被災地にはすべて多くの「個」が存在している。存在していた。
今、それらの「個」をどう受け止めればいいのか・・・。
例えば、仮設住宅での「孤独死」の問題にしてもそうだ。
孤独死は都会にだって“存在”する。
その「死」がどういう環境にあったかによって問題視されたり無視されたりする。

なぜ問題視されるのか。それは被災地での「死」がすべて「無念」の死だったからだ。

改めて「個」であることの重要さを考える。
個の自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないだろうか。

仮設・・・災害復興住宅・・・。集いの場のこと。
今年もまた絆、繋がる、寄り添うという言葉が横溢するのだろう。しかし、それをすべての人が“達成”できるわけではない。

忘れる、風化する。それも言われるだろう。だけど、多くの人がそうなのだろうかとも思う。たまたま日常の中に埋没してしまっているだけの場合だってあるはずだ。

だから、それを補うのが「想像力」ということにつながりはしないか。

被災地のことを限りなく「想像」する。それは個人個人のことであっても、光景であってもだ。想像するということで忘却から脱することだって出来るはずだ。

//ぞれの人生には何人も代わり得ない意味がある。それぞれの人間がそれを深く認識することが一番の問題なのだ。きわめて切迫した//

人はあくまで個である尊厳と意味を見失ってはならない。それは被災地の現状を考えるときも、この国を考える上でも基本的な視点だ。


だから戦後民主主義の基本である憲法の第13条。
「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

その「個人」を「人」という表現に置き換えるという。そのことを質された安部は「大した意味はない」と公言した。

彼はおそらく「想像力」の欠如した「想像力」を持たない最たる人の部類ではないだろうか。「想像力は政治家にとって不可欠の資質なのに。

「速さの違う時計」を持ってしまった被災地とその他の人たち。その時計の針を同じ速度に戻すのも「想像力」ではないのかと。

「終息宣言」を出したあの時の民主党政権。オリンピックしか考えずに「アンダーコントロールなどと言った安部自民。
どう言おうと「3・11」は終わっていない。
 
3月11日は鎮魂の日だ。メディアは何の”悪意”もなく、あの日のこと、あれから5年のことを伝え続けるだろう。少なくとも一日だけは。
それはそれでいいのだ。そうあるべきだ。「忘れていたこと」を覚醒させるためにも。

それを横目で見ながら僕は「黙想」するつもりだ。自分の生き方も含めて。

そして「言葉」を探したい。
あの時あらゆる言葉はあくまでも空疎であり、言葉が失われていったのだから。

復興ってなんだ。空疎な響きにしか思えない。やむおえずそれを書くとき「復興なるもの」と綴る。
寄り添うってなんだ。
コミニュティーってなんだ。
風化ってなんだ。
前を向くってなんだ。

なぜ、国や市役所までもが午後2時46分への「黙祷」を強要するのか。
黙祷とは個人の意思の発露であるはずだ。

福島の地でも、どこかで「復興」を叫んでの“祭り”が行われている。音楽が巨大なスピーカーから流されてくる。
それは死者のための「まつり」なのか。生者の「自己満足」なのか・・・。

そんな「騒音」から離れたい。

叶うことなら、あらゆる“文明の利器”を捨てて、”便利“さゆえに手にいれたあらゆるものを捨てて、パソコンもスマホも手元から遠ざけて、だまって福島の海を見ていたい。海と向き合いたい。
海の音を光景に置き換え海の声を聴きたい。波頭から聞こえてく音から何が見えるのかを、寒風に身を置きながら考えたい。向き合ってみたい。

そして「言葉」を探したい。手に入れたい。

被災地に未だ終わりはない。かといって何の始まりもない。

不自由な肉体の身、叶わぬこととは知りながらそんなことを思う。

海に向かうとき一片の詩だけを携える。

峠三吉の詩だ。「人間を返せ、私を返せ」と読まれた詩だ。

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