2013年6月30日日曜日

途絶えた道

きのうの続きのようですが・・・。
道、道路というものは基本的にはどこまでも続いているものです。その道が無いところまで。

川内村、大熊、富岡、原町・・・。郡山から行くときに利用する道路は288号線、通称「ニッパッパ」。

その太平洋まであった道は、昨日書いた大熊町の入り口のところで遮断されています。つまりバリケード封鎖されています。許可証を持たない人は先に進めません。

なにを今更・・・なんですが。

あった筈の道が無い。もちろん冬場は雪で通行止めになる道路はある。それとても「生活道路」は確保されている。

一昨年、避難指示が出た富岡の人たちは川内村に行った。そこの数日で避難指示。288を三春に“逃げた”。じゅじゅつなぎのようになった車の列。

田村、三春で受け入れ不可能な人数。郡山に来ました。一部はユラックス熱海へ。そしてまわりまわってビッグパレトへ。

その道を通って逃げてきかけれど、その道を通って帰るには人工的に遮断された場所があるのです。

普通の人は通れない道・・・。

人はよく、人生を「道」に例えます。道は一本まっすぐがいいとか。迷わずに歩いていけよとか。

それらの“言葉”の是非はともかく、道が閉ざされているということをどう受け止めるのか。

“バリケード封鎖”された道は県内各所に、“汚染”された各所にみられます。
それだけだって異様な光景。

道が道でなくなっている・・・。

帰る。帰らない。帰れない。そんな議論が日々交わされている。その議論の間に、さまざまな“選択”という道が交錯している。

この国の行き先。それはどんな道なのか。誰でもいつでも通れる道なのか。
突然、「文明の対価」として発生した事象により通れなくなる道も生まれるのか。

とまれ、「再稼働」なるものへの道は着々と進んでいるようだ。
原子力規制委員会。「規制」という文字が付いた以上、それは規制することが前提だという理屈になる。

しかし、規制委員会が、再稼働への道を、そこを通行しようとしている人たちを果たして「通行規制」に出来るのか。

288.よく使った道である。懐かしい道である。しかし、そこは今は僕には通ることが出来ない・・・。

2013年6月29日土曜日

「ねずみ退治」を配るという光景

仮設にいる「ばあちゃん」から久々電話があった。川内村の例のばあちゃん。

「ちょっとご無沙汰したな、2~3日うちに行くから」と。その用はわかっている。お中元を持ってきてくれるのだ。

「こっちこそご無沙汰。なんだかんだとバタバタしていて」と詫びる。最近の様子を聞く。

「この頃は年中帰っているよ。日中だけだけどな」。70歳を越えたばあちゃんが、車を運転して、川内村と郡山を往復する光景・・・。

全村帰村を打ち出している川内村だけど、帰らない人も多い。この人の理由は「病院」、そして「買い物」。
でも、家は恋しいし、何より“手入れ”が必要。

「半日草むしりして帰ってくるんだ」と。「家に風を入れてくるんだ」と。

「ばあちゃん、ネズミは?」と聞く。「うちはいないけどな・・・」ちょっと口ごもる。ネズミにやられた家をあるんだと勝手に想像する。

なんで「ネズミ」のことを聞いたか。

知人が時々行っているバリケードで封鎖された道路の“検問所”。今、担当は大熊町の入り口だという。川内村のいわば隣だ。富岡に帰る人もいる。もちろん滞在時間制限の一時帰宅。

最近“検問所”で渡すことになったもの。それは「ネズミ退治」剤だとか。
自分の家に帰るのにネズミ退治剤を渡され、家を片付け、墓参りをして避難先にかえるという人たちがいるという光景。

“検問所”で断片的に聞いた話・・・
ネズミのことはもちろん、善意の動物愛護団体が置いてきた餌を山から降りてきた野生動物が食い荒らし、糞がすごい。

多くの家が泥棒に入られている。
除染作業員はどこか皆“粗野”で、やることが“手抜き“ぽい。

そこでのことを知人はあまり語らない。それとなく「口止め」されているらしい。
しゃべったことがばれれば“仕事”が無くなる・・・。
もちろん、それは“検問所”での単純作業だが。

“仕事”は一日5時間と決められている。もちろんそれは“線量”を考慮してのこと。

この“仕事”にかかわるようになって、見て、聞いて、知って・・・。知人は人生観が大きく変わったという。
“無欲”になった。原発事故前までは時々口にしていた身近のことへの“不満”を言わなくなった。

日本という国の中の福島県という中の一部の地域で毎日繰り返されている普通の人たちの光景・・・。

2013年6月28日金曜日

「原発」その根源の思想、彼我の違い

この違いをどう読み解いたらいいのだろう。根源が違えば派生するすべてのことが違ってくる・・・。

日本の原発は「安全思想」に基づいている。安全なものをという。絶対安全はないにもかかわらず、安全神話。もはや言い古された言葉だが。
おかしな喩だが、“原発性善説”とでも言っておこうか。

同盟国アメリカ。そこの原発に向き合う考え方は「原発は危険なものである」という前提。「危険思想」。危険だという前提ですべてのことが考えられている。
いわば“原発性悪説”とでも。

危険な物という前提に立てば安全にするためにたゆまぬ努力を払う。
安全を担保するためにその任に当たる者には絶大な権力を与える。

危険なものという前提で、その地域の住民に説明する。そして理解を求める。

少なくとも福島県の双葉郡の町村から学んだこと。どこにも「危険な物である」という前提での“話し”は無かった・・・。

原子力規制委員会は、“厳しい”基準を設けた。たしかに、「危険なもの」といいう前提での規制。
しかし、それを電力会社や政府がどこまで重視するのだろうか。

それに、原発そのものもそうだが、事故を起こせば、その“被害”は甚大であり、多くの人間がその人生を変えられるという人権への被害。

規制委員会の基準には「避難」のことまで入っている。避難ありうべしを前提とした原発。
とにかく原発が福島のような事故を起こせば、その電力会社は“破たん”するのだ。
他山の石であってしかるべきなのに。

再稼働への動きも然り。プルサーマルのためのMOX燃料搬入も然り。

経済優先、成長重視の前では、小さな声はかき消されていく。
東電の株主総会もそうだった。福島県民の「声」は無視されていた。
そしてそこにあった朝日新聞の記事の数行。

大病を患い病院で手術を受けたという人の声。
「電気がなければ病院の手術も受けられなかった。冷蔵庫、テレビ。電気がなければ生活できない」。当たり前だ。
電気と原発。“電気がなければ”と“原発”とは同じ土俵で語ることではないのに。あえてその声を紙面に載せた意図・・・。

原発が無ければ、本当にこの国は電気の無い国になるのか。
電気が無ければ・・・・。極論を正論化する風潮。

「福島」から何も学んでくれていない。目先の安寧が、将来への禍根になることをまだ認めてくれていない人たち。

そうなんだよな。一度手に入れた豊かで安心できる生活は手放せないんだよな。

MOX燃料。使用済み核燃料を再処理して作られたプルトニウムとウランの混合燃料。それを作っているのはフランスのアレバ社。福島の事故の時、汚染水処理などで“名を馳せた”会社。

青森県六ケ所村の再処理施設は十分に機能していない。原発から出た使用済み燃料、いわゆる“核のゴミ”はフランスに送られ、再処理されて日本に戻ってくる。
MOX燃料を使ったプルサーマル計画でも、その発電でも、「核のゴミ」は出る。
それの行方は決まっていない。たぶん、もう決められないのかもしれない。

どうでもいいことかもしれないが、プルサーマルによる発電コストはべらぼうに高い。決して「安い電気」とはならない。

原発の「負の連鎖」。核の「呪縛」。
プルサーマル、原発再稼働。その先に見えてくるものは・・・。
世界一安全と宰相は言う。しかし、「ゴミ処理」は視界にあるのかどうか。

そして、仮に全部の原発をとめることが出来たとしても、「廃炉」にするまでには多額の費用と時日を要する。

「今の生活さえよければ・・・」。そんな思想があるとすれば、いやそれは原子力エネルギー政策によって出来上がってしまったともいえる“思想”。

我、鬱々として愉しまず・・・。そんな言葉がおもわず口をついて出る・・・。

毎度の能書きみたいで嫌だけど「社会システム」を根本から変える以外にないんだよね。

2013年6月27日木曜日

電気事業法改正案が「流れた」わけ

電力の発送電分離などを盛り込んだ、いわゆる電気事業法の改正案が廃案になった。国会では廃案を「流れた」と呼ぶ。

その他、いわゆる国民生活に直結するという重要法案も流れた。そのわけは言わずと知れた安倍首相に対する「問責決議案」。

発送電の分離、電気事業法改正案はある意味「脱原発」と表裏一体をなすもの。その一里塚となりうるもの。

国民生活関連法案というとメディア、特に「お茶の間」と称するテレビは躍起になる。それが廃案になったのは問責に賛成した民主党のせいだという。おかしいという。たしかにそうだ。

たしかにおかしいのだ。どこもここも。

国会、政局、永田町。政治報道は表面を追っているだけでは本当のことは伝わらない。本当のこととは、そこに渦巻く思惑。
今は参院選をどう有利にするかということ。

国会対策に長けている人たちがいる政党と、そうでは無い政党。手練手管に長けている人たちとそうでない政党。

本来は、素人議員が珍重されるのが国会の姿なのだけれど。

問責決議はおととい浮上した。出すと言い出したのは「生活」「社民」「みどりの風」の3党。理由は内閣の国会軽視。

不信任案や問責決議は最優先の議事。

きのうの国会最終日、遅くまでもめると思ったのに午前中にかたがついてしまった。問責を上程することを参院の議院運営委員長が、自民党の岩城光英委員長、あっさり上程を決めてしまった。

そして採決。野党は結果賛成に回って可決。法案は流れた。
なぜ、きのう問責を上程して可決させてしまったのか。自民党もそれを望んでいたから。電事法改正、それは自民の望むところでない。本音は。
だから法案作成にあたっても15年というのを15年目途と書き換えた。

世論をおもんぱかれば出さねばならない法律。しかもそれには民主党も賛成している。この改正案には電力会社は激しく反対していた。

法的拘束力の無い問責と引き換えに“意に沿わない”法案を廃案にする。
そして選挙では「国民生活に重要な法案を流したのは野党だ」と責める。

野党共闘を大事にした。国会を軽視したと例えば輿石あたりは言う。

しかし、野党を責める口実を自民に与えてしまったのだ。

問責に乗る前に法案を上げておくべきだった。いや、それもおかしい。もう以前に上げる、成立させる時間はあったにも関わらず店晒しにしていたのは参院そのもの。

問責を逆手にとった自民の勝ち。野党の読みの甘さ。そんな“解説”をお茶の間にしてほしかった。

「永田町」という言葉でくくってしまうが、そこを取材する記者には、「裏読み」「深読み」「読み解き」が要求される。

表の流れだけ伝えていたのじゃ本当の姿は伝わらない。

どこかおととしのあの「事故」以来のメディアの特にテレビの報道ぶりが重なってくる。おかしな学者、専門家を次々登場させたこと含めて。

「知る権利」という。裏側には「知らせる義務」がある。それには“権力”の側が何を考えているのかを読み解く力が必要。いまだ、それが欠けている・・・。

電事法改正の扱い含めて、機を一にするように各電力会社の株主総会。脱原発をめぐる株主提案はことごとく否決された。
6月26日は一つのエポック。

かくて参院選では自民が公明が勝つ。野党は惨敗の気配。国会対策だけとってもやはり自民に一日の長ありということ。それの良し悪しは別にして。

お粗末でつまらない政局談義でございました。

2013年6月26日水曜日

「トリチウム」って何だい?


子供の頃、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験があったころ覚えた放射線の“単位”はキューリーだった。
いつの頃からかシーベルトに変わった。
原発事故後、それにベクレルという“単位”が加わった。

原発事故が撒き散らした放射性物質。最初はヨウ素が気になり、次いでセシウム、その後ストロンチウム・・・。
ヨウ素は甲状腺癌の危険性を招くとされた。セシウムは・・・。ストロンチウムは骨に・・・。

放射性同位元素がいくつあるのか。素人はわからない。何がどう作用するのかもわからない。ただ、「放射能」「放射性物質」ということだけでおびえる。

おととし、盛んに言われたたとえ。「これくらいの放射性物質ならばレントゲン検査の何回分だ」「CT検査の何回分だ」。
例えに使われたレントゲンやCTを“拒否”する人達もいた。今でもそうかもしれない。

癌の放射線治療。なんという名の“元素”が使われているのだろう。害を及ぼす放射性物質と治療に使われる放射性物質。

食品検査が始まった頃から使われだしたN.D.「not detected」の略。未検出。
NOではない。NOTだ。未は「未だ」とも読める。
一定の基準値以下っていうこと。完全に放射性物質が無いということではない。

NDは食品を扱う人たちの間では「日常外国語」になった。

そして、先日1Fの港湾内の海水から検出されたトリチウム。以前からその“物質”は検出されてはいたが、濃度が高いという。
あの汚染水除去装置の「アルプス」でもこれは除去出来ないという。

で、このトリチウムなるもの、水素の放射性同位体、天然にも存在するが、原子炉の冷却水で生じるという。水として存在するため、セシウムのように吸着させて除去するのは難しいと。

体内に取り込んだ場合でも比較的早く排出される。

この4行、新聞記事の引用。トリチウムは海にある。魚にどう影響するのか。
体内に取り込むとは魚を食べた場合なのか。どういう危険性があるのか。比較的早く排出されるとはどういう状況を指すのか・・・

さっぱりわからない記事。

どっかには「トリチウム」なるものについてのわかりやすい解説記事があったのだろうか。素人でもわかることはただ一点。大気中に拡散されたものではないということだけ。1Fの中に、その近くの海中から検出されたということだけ。

体内吸収とはどういう状態で起きるのか・・・。

これからは学校教育のカリキュラムの中に、放射線のこと、原発のことを盛り込まなければならない。少なくとも放射性物質のことをきちんと教えなければ。

原発事故は福島で“終わった”わけではない。再稼働。いつ、どの原発で起きるかわからない事故。その時に備えて「正しく知っておく」。それが大事なのだと。
放射線について世界一詳しい子供たち。それが日本の子供たちに要求される時代・・・。

「正しく知って正しく怖がる」。事故後言われた言葉。正しく知らせるってことは、わかりやすいって意味も当然含まれると思うのですが。

2013年6月25日火曜日

「ネット」そのプラスとマイナス

岩手県議が病院で番号で呼ばれたことに腹を立て、自身のブログに「刑務所に来たんじゃない」。「会計をすっぽかして帰ってきたものの、まだはらの虫がおさまりません」などと書いて非難を浴びた件、その県議がブログの“炎上”もあって、自殺した・・・。

ついうっかりのネット使っての心情の吐露。

まだ記憶に新しい、復興庁の参事官がツイッターで福島県民を愚弄し、侮辱するような“つぶやき”をして30日の停職処分を受け、上司や大臣にまでその“責任”が及んだ件。

彼は“本音”を吐いた。言いたいことを言った。

役所は役人に「ネット」を使うなと“規制”する。

安倍はフェイスブックを使って外務省の役人を“口撃”する。

ネットは、いや、ネットといってもブログとツイッターとフェイスブックなどのFNSとは、若干、その性格を異にすると思うけど、芸能人のブログなどもよくやり玉にあげられるけど、「本音」の世界なのかどうかということ。

本音と建て前、本音と虚言。その功罪。あえてプラスとマイナスと言ってみれば・・・。

岩手県議は、その職にあったということで指弾された。自分の立場をわきまえない発言として。
図らずも、地方議員の資質の一端を見させてもらったともいえる。

復興庁の参事官だった男のツイート。福島県人にとっては許しがたいことだが、役人の実態、霞が関の実態も暴いたともいえる。そして、それを規制するということ。ある意味“隠ぺい”だとも。

維新の橋下も何かというと「ツイッターで」と言う。そこにはたしかに「本心」が垣間見える。
役人の本音は見えなくなるだろう。ツィッターに書き込んだ動機はなんであれ。

規制は隠ぺいにつながり、訳のわからない役所答弁だけが全てということにもなりかねない。

我々は「インターネット」という便利なツールを手に入れた。それを生かすか殺すかは使う人それぞれの意識。

本音はネットで言い、建て前や公式発言は人の前でという使い分けがいいのか悪いのか。

結局「裏表の無い人間を作る」ってことなのか。それも変だし。

たしかに実生活というか身近でもある。ネットで“過激”な発言や表現をしている人が実際会ってみると柔和なおとなしい人だったとう例も。

ならば「ネット」は人格さえも変えるということか。

パソコンを使ってこの「ブログ」を書き、ネットに乗せ、時間を見てはツイターやFBを眺めているこの身。

「解」の無い世界かもしれない。そしてそこには「怪」がある。“炎上”って言うが、それはどういう現象なのかも含めて。

たとえばこの「からから亭日乗」。どんな人が、だれが見てくれているのかもわからないし・・・。

とりあえず毎日、言いたいこと書きたいことを書いているけれど。

だからと言って「リテラシー」って“言葉”に逃げ込むつもりもないし・・・。

近づく参院選。ネット選挙解禁。どうなっていくのだろうか。

先ごろあった郡山市長選。ネットを制した側がネット音痴の側を破ったことだけは確か。

2013年6月24日月曜日

・・・どこかで間違えた

その小説の中に登場してくる若者達はしばし問いかける。
小説の中の劇中劇の舞台からも。
「もしかしたら、僕たちはどこかで間違って来たのかもしれない」。
「それが何かはわからないけど、やはり間違ってきたような気がする」。

3・11以降の被災地、原発事故の被害地を舞台にした文学作品。
作家は登場させた4人の若者に、自分が“現場”を見て踏んで、思ったことを、それも大きな衝撃を受けながら感じさせられたことを語らしている。

昨日沖縄で沖縄戦が終結したとされた23日に、摩文仁の平和祈念公園で、記念じゃない、祈念だ、「慰霊の日の式典」が行われていた。
沖縄に眠る慰霊。石碑に刻まれている死者は241227人。

あの戦争は「間違い」ではなかったのか。兵士も民間人も、「国」によって命を絶たれる。それは間違いではなかったのか。

昨日東京都議選があった。都民は選択した。自公圧勝。少なくとも今の都議会に「厳然たる反対勢力」は消えた。
政治は数であるという。

投票率という数字。43,5%。政治から国民は遠のいていく・・・。

間違っていないのか。

我々は選挙という手段しか持ち得ない。基本的に。我々の政権選択。民主党政権を選び、安部政権を選び・・・。
自民党の“予備選”では石破が勝った。国会議員による選挙で安部が勝った。

「間違った」選挙制度で選ばれている国会議員。立法府の“間違い”が違憲とされているにもかかわらず、憲法を変えたいと考えている人たちは、憲法違反であることを無視する。

「3・11」後、間違っていることに気付いた人はたぶん大勢いるはず。でも、今はその“間違い”があったことを忘れようとしている。

昨日たまたま手にした本。
「この国はどこで間違えたのか。沖縄と福島から見える日本」。沖縄タイムスの記者の編によるものだ。
その記者は「まえがき」にこう述べている。

本土復帰40周年を迎えた沖縄は、米軍基地の合わせ鏡のように居座る本土の構造的差別だ。沖縄県民はこの国の「本音」と「醜さ」に、最もリアルにかつ鋭敏に接してきた。
営業運転を始めて40年目、福島第一原発は未曾有の大惨事に見舞われた。福島の原発事故、その災厄は偶然訪れたのではない。そこに至るまでには、国策を遂行する「国家の意思」があった。地元はそれに呼応してきた面もあった。
しかし今、故郷での暮らしを破壊された福島の人たちの怒りや無念さは、冷徹に国家の本性を射抜いている。

にもかかわらず、中央集権的な政治システムによって維持される「幻想」にすがって思考停止してきたのが、今までの日本人ではないか。
問われているのは「日本人の心性」、国民一人ひとりの価値観や倫理観、哲学ではないか。それが培われ、看過されてきたのがこの40年という時代だったー。

まさに、と思う。「間違い概論序説」だとも。

おととし、どこかに書いた。「我々は間違い探しの旅に出なくてはならない」と。

あえて言うなら、未だ旅の途中か。
間違えに気付かない限り、次へのステップは無い。

ただ一つ言えることは、我々の時代が作った「負の遺産」。それを後世に残してはならないと。
国の財政であれ、“汚染”されたままの、人が住めない土地であれ、価値観であれ。



きょうはかって師事していたお茶の先生の13回忌。早出する。

そう言えば松山先生にもお稽古でよく言われた。
「どこが間違っていたかわかりますか」と。
わかったような、わからなかったような。

先生の没後、お茶の世界からは離れてしまった・・・。作法も何も忘れた・・・。

2013年6月23日日曜日

「世界文化遺産登録」

富士山がユネスコの世界遺産に登録された。地元は待ちに待った朗報に湧いた。
懸案だった三保の松原も含まれると言う。

日本の文化遺産の登録はこれで13件、自然遺産は17件。

報道を見ていると抱く違和感。土産物が売れ、記念グッズが売れ、メディアはすぐに言う。
「経済効果は何億円・・・」。

文化遺産登録、ユネスコは経済効果を意識して登録を決めているのだろうか。
確かに地元にカネが落ちることは間違いないのだが。

世界遺産登録というと思う事がある。
平泉だ。奥州平泉。

中尊寺、毛越通寺・・・。浄土庭園。奥州藤原氏が願った“浄土思想”。

2011年以前に登録申請がされていた平泉。“保留“されていた。あの大震災後、平泉は文化遺産に登録された。

思うことがある。平泉は、かつて、浄土思想のもとに作られたところであるにも拘わらず、戦乱に明けくれ、多くの血が流されたところでもあった。
「血」、それを争いと見たユネスコ、そこは「武」の地であり、「和」の地ではない。ユネスコの“理念”と相いれない地という認識があったのかもしれない。

「3・11」。あの大災害。被災者は皆助け合った。暴動や略奪も起きなかった。
一つのおにぎりを分け合った。支援物資の受け取りには行列を乱す人はいなかった。

おそらく欧米ではあり得ないような人の在り方。伝えられる東北の人達の姿を見てユネスコの考え方が変わった。

3・11後、平泉は世界文化遺産に登録された。建物や庭園、いわば形あるものだけではない、その地の人に大きな刺激を受けたのだ。

そんな思いを持っている。いや、考え方を。

浄土思想。それは信仰。富士山の遺産登録にあたってこういう名称が付けられた。

「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」。

文化遺産とは景観だけではない。その歴史と人々の関わり。富士山にある浅間神社。日本人が持つ「山岳信仰」。

平泉も富士山も日本の「精神文化」がその価値を認められたものと。

「文化」。その意味は果てしない。さまざまな文化がある。文化は人の心を支える土台でさえあり得る。

東北人が持ってきた精神文化。それが、いわゆる復興なるものの大きな要素だと以前書いた。

文明から文化へ。富士山の文化遺産登録にあたって、そのことを日本人は再認識すべきではないかと。
文明社会から文化の社会で。その転換を求められていると言うことを。

そして、自然と人間。その共生。自然は循環する。富士の山の中で生まれた水がやがて川となって、人々の暮らしを潤し、その水は三保松原がある海にも流れ込んでいる。

そして大きな課題を背負った。もうあの日本の象徴であるような山をゴミで汚してはならないと。捨てる文化から脱却しなくてはならない。再生の文化へ。

自然保護、登山者のマナーを啓発し、あの信仰の場を維持するために入山料1,000円を取る計画もあると言う。極端だが、マナーを倫理観をカネに換算するのかと。

絵画を始め、日本の文化の多くが海外に流出してしまった。文化遺産登録。ユネスコという国際機関が認めることで、「フジヤマ」を本当の意味で日本の象徴に出来るのかどうか。

喜びと課題と。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...