夏目漱石の言葉にこういうのがある。
「人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことはない」。
明治時代に語られていた言葉である。
「3・11」の三日前、2011年3月8日は塾の日だった。その日の講義のテーマは“便利さがもたらしたもの”。
便利になったと思う物。それを聞いてみた。携帯電話とネットがその答えの大半を占めていた。当然だ。
それをもとに、便利さの“功罪”を話した。例えば、便利さの一つにスピードというものがある。丁度東北新幹線が新青森まで開通し、3時間10分で結ばれた時でもあったから。
交通手段が進歩した。人間は歩くことをやめた。
生活に“必要”な安全グッズが次々と開発されていく。例えば安全靴。それを履いて歩くと楽だ。しかし、本来裸足で歩くように出来ていた人間の機能は低下し、かえって転びやすくなる。
原子力発電によって、大量の電気が供給されるようになり、電気を使った便利で快適な生活を手に入れた。自動車や飛行機も飛躍的に進化した。
科学者たちは、科学という学問は「便利の実現」をもたらした。しかし、人文系、文学は便利さをもたらさない。人の生き方、人生の意味を問う学問は。
「便利」という文化に囲まれた中で人間はどうあるべきか。当然の物として享受しいいのか。そういう問い掛けで終わった。
原発事故が全ての便利さを奪ったわけではない。しかし、「便利な生活」を見直そうと言う空気は、事故後生まれていたはずなのに。
一番便利になったものとしてあげられた携帯電話。それは、今や、殆どが「スマートホン」、「スマホ」となり、この国の「文化」を席巻している。
スマホのスマートとは、我々世代が知っている英語の意味と違う。格好いいがスマートだった。今のその端末が格好いいからその名が付いたのか。違う。賢い、高機能、洗練されたとう意味でのスマート。便利だという意味でのスマート。
そのスマホの「害」が「危険性」が、このところメディアに頻繁に登場するようになった。
この田舎街郡山でもそうだ。たまに行く東京では尚更。
“スマホ”に席巻されている。ひたすら液晶画面に見入る人達、指を使う人達。
ぶつかる、落ちる・・・。
そして無言のまま、端末と“会話”しているような人達。その町は、その都市は、それこそ「色彩を持たない」。
スマホの危険性を伝える紙面。その隣のページにはデジタル版にスマホからもアクセス出来ますという特集。
視線の実験画像も使ってスマホの危険性を伝えるテレビ。別の番組では「スマホからも番組に参加出来ます」と“仲間”を集っている。
ツィッターでご意見お寄せ下さいとやっている。
「ばかばかしい」と一人つぶやいている亭主。
そのうち「スマホ路上使用、公衆の前では禁止」条例なんていうのが出来てくるのかな。禁煙条例のように・・・。嗤える。
ボクもスマホを使っている。今は二代目。最初は「3・11」の起こる前。単に画面が大きいからというのが動機。しかしツイッターを入れた。大震災後、ツイッターで様々「情報」を得ることが出来た。
しかし、メールの文字は打ちづらい。多機能を使いこなせていない。ゲームはもちろんやらない。音楽は家か事務所でCDで聞く。スピーカーからの音を。
電話がかかってくれば歩きながらでも喋る時もある。しかし、ほとんど立ち止る。
スマホを持ちながらそれへの疑義を唱えるのには若干後ろめたさはあるのだが・・・。
夏目漱石はいま、あの世からこの世を見ていて世相を見ていて、高笑いしているのか。苦々しく思っているのか。警鐘を聞き入れなかった現代人を嘆いていることだろうとも。
この類の話し、明日も続くのかも。綴るのかも。