2013年6月28日金曜日

「原発」その根源の思想、彼我の違い

この違いをどう読み解いたらいいのだろう。根源が違えば派生するすべてのことが違ってくる・・・。

日本の原発は「安全思想」に基づいている。安全なものをという。絶対安全はないにもかかわらず、安全神話。もはや言い古された言葉だが。
おかしな喩だが、“原発性善説”とでも言っておこうか。

同盟国アメリカ。そこの原発に向き合う考え方は「原発は危険なものである」という前提。「危険思想」。危険だという前提ですべてのことが考えられている。
いわば“原発性悪説”とでも。

危険な物という前提に立てば安全にするためにたゆまぬ努力を払う。
安全を担保するためにその任に当たる者には絶大な権力を与える。

危険なものという前提で、その地域の住民に説明する。そして理解を求める。

少なくとも福島県の双葉郡の町村から学んだこと。どこにも「危険な物である」という前提での“話し”は無かった・・・。

原子力規制委員会は、“厳しい”基準を設けた。たしかに、「危険なもの」といいう前提での規制。
しかし、それを電力会社や政府がどこまで重視するのだろうか。

それに、原発そのものもそうだが、事故を起こせば、その“被害”は甚大であり、多くの人間がその人生を変えられるという人権への被害。

規制委員会の基準には「避難」のことまで入っている。避難ありうべしを前提とした原発。
とにかく原発が福島のような事故を起こせば、その電力会社は“破たん”するのだ。
他山の石であってしかるべきなのに。

再稼働への動きも然り。プルサーマルのためのMOX燃料搬入も然り。

経済優先、成長重視の前では、小さな声はかき消されていく。
東電の株主総会もそうだった。福島県民の「声」は無視されていた。
そしてそこにあった朝日新聞の記事の数行。

大病を患い病院で手術を受けたという人の声。
「電気がなければ病院の手術も受けられなかった。冷蔵庫、テレビ。電気がなければ生活できない」。当たり前だ。
電気と原発。“電気がなければ”と“原発”とは同じ土俵で語ることではないのに。あえてその声を紙面に載せた意図・・・。

原発が無ければ、本当にこの国は電気の無い国になるのか。
電気が無ければ・・・・。極論を正論化する風潮。

「福島」から何も学んでくれていない。目先の安寧が、将来への禍根になることをまだ認めてくれていない人たち。

そうなんだよな。一度手に入れた豊かで安心できる生活は手放せないんだよな。

MOX燃料。使用済み核燃料を再処理して作られたプルトニウムとウランの混合燃料。それを作っているのはフランスのアレバ社。福島の事故の時、汚染水処理などで“名を馳せた”会社。

青森県六ケ所村の再処理施設は十分に機能していない。原発から出た使用済み燃料、いわゆる“核のゴミ”はフランスに送られ、再処理されて日本に戻ってくる。
MOX燃料を使ったプルサーマル計画でも、その発電でも、「核のゴミ」は出る。
それの行方は決まっていない。たぶん、もう決められないのかもしれない。

どうでもいいことかもしれないが、プルサーマルによる発電コストはべらぼうに高い。決して「安い電気」とはならない。

原発の「負の連鎖」。核の「呪縛」。
プルサーマル、原発再稼働。その先に見えてくるものは・・・。
世界一安全と宰相は言う。しかし、「ゴミ処理」は視界にあるのかどうか。

そして、仮に全部の原発をとめることが出来たとしても、「廃炉」にするまでには多額の費用と時日を要する。

「今の生活さえよければ・・・」。そんな思想があるとすれば、いやそれは原子力エネルギー政策によって出来上がってしまったともいえる“思想”。

我、鬱々として愉しまず・・・。そんな言葉がおもわず口をついて出る・・・。

毎度の能書きみたいで嫌だけど「社会システム」を根本から変える以外にないんだよね。

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