2013年6月12日水曜日

「知る」という支援、続き。

モスクワ在住のネット友達がいる。どうも陸前高田と縁があるらしい。その人のプロフにはこう書いてある。
「原発いらない。けど、原発反対を正当化するための根拠のない流言デマは看過できません」と。

この人は去年、帰国し、東北を「知ろう」としばらくまわっていた。今でもモスクワで東北を知ろうとしている・・・。

今、都会の人達の大きな関心事は、それはメデアイの為せることであると思うが、「原発」である。

そんな中の人達・・・。
福島を知ろう、見ようとやってくる“知識階級”の都会人。郡山駅前に降りる。最初にスマホで撮影するのが駅西口のモニタリングポスト。
「こんなに高い。今でもこの線量。あ、ここは0,4μシーベルトある。
こんなところにいる子供達が可哀そう」。

ネットにあげていく・・・。

その人達が「知ろう」としているのは、自分たちが思い込んでいる”正義観“を裏付けたいがため。

悪しざまに言えば、「好奇心を満足させ、見た、知ったと己を正当化するための“愚行”とも。

もし、その人達が「知ろう」と思うのなら、その線量(それが安全を脅かすかどうかは別にして)の中で暮らしている親達が、心ある人たちが、子供を「守る」ために、どんな“努力”をしているかということを知るべき。

屋内の子供の、思い切り遊べる場を作り、通学路を“除染”している親たちの姿を見、知るべき。

いや、知ってもらう必要は無いし、無視すればいいのだけど。

「知る」ということに対する、それを巡る目線と感覚の大きな齟齬。それがこの地の人達を悩ましているということ・・・。

あながち、「百聞は一見に如かず」という“格言”は金科玉条ではないということ。


きのう書いた 尚中の「心」という本の事。
その本はゲーテの「親和力」が“主題”として登場する。それは、主人公となっている若者たちの男女の問題が、「親和力」にからめてあるから。そして、ゲーテは問いかけている。

「自然」と「人間」の対立。

原発は「進歩と発展の象徴として作られた。しかし、そうではなかった。

動物の乱獲とか、森林の乱開発とか、人間はそれを“知恵”だと思いこんでいるけれど、それが生態系を壊し、温暖化を招き、人口が爆発的に増え、食料不足さえ招く・・・。

親和力に書かれたゲーテの隠れたメッセージだ。本を読んであらためて知る現代の宿弊。

今、我々が知らなければならないこと。それは、自然と科学の調和なのだと
「知る」ことによって、支援ということの新たな取り組み方、概念、手法が生まれるかもしれない。

古い時代のギヨテの本を、あらためて手にとる必要があるのかもしれない。“ヴェルテルの悩み”を越えて。

いわゆる“被災地”にあっても、本当の“当事者”でない限り、知らないことが多すぎる。知ることの努力を惜しんでいる人もいる。

知らなければ語り得ないことが、未だ、すぐそばにある・・・。

線量計やモニタリングポストの「乾いた数字」を見ただけでは、何も「知った」ということにはならないはず・・・。

知る努力を惜しまない。それも支援への一つの方途。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...