昔、1960年頃の刊行だったか。正式なタイトルは忘れたが、たしか「地方記者」という本だったと思う。著者は菅野長吉、朝日新聞の通信部長をやり、その後、テレビニュースの世界に移った人。
「カンチョー」さんは、しばらくボクの上司だった。彼が勧めたわけではないが、僕はその「地方記者」という本を持っていた。読んで感激した、感激というのはちょっと変か。燃えるものを感じたといえばいいのか。
面白かったと言えばいいのか。
その本は今手元に無い。本の「遍歴」を書くつもりは無いが、高校生以降の手にした本を持っていれば、たぶん、10畳の部屋の四隅の壁に並べた本棚が全部埋まっているだろう。
今は、本棚は四つ・・・。あるはずの本も散逸している。数回の引っ越しで“処分”してしまったもの。人に貸して返ってこないもの。すべて“自己責任”でございますが・・・。
この頃、時々、夢でもそうだが「昔」が登場する。本もそうだ。いきなり“記憶”が呼び覚まされてくるのだ。
この本もそんな一冊。
「地方記者」とは、新聞社の記者が、東京本社で採用され、しばらく、地方の支局を経験して、“取材”を勉強してくる場。一応基本的というか原則としての認識。
地方記者の要諦は、その地の人といかに仲良くなり。その地域に溶け込め、その地域の実態を伝えられるかということ。ま、一口では言えないものの。
新聞だけではない、NHKもそうなのだが。
新聞には地方紙と中央紙とがある。福島県は福島民報と福島民友の2紙。発行部数や営業収益には多少の差があるものの、おおむね拮抗してる2紙があるという県は珍しい。
そして、各中央紙も支局を置いている。呼称はともかく通信局という、いわば“駐在所”のようなところも。
中央紙の記者は2~3年で転勤する。地方紙は、転勤はあるがおおむね県内。
目線がおのずから異なる場合もある。中央紙の場合は時とすればそのネタが全国にあがり、いわば全国に発信する手段を持つ。主に、「県版」に書いているのだが、いわば“外部”から来た人の目線が面白い。
新鮮に、そして、客観的に「福島」を捉えている場合がある。
一昨年、朝日新聞の南三陸日記というコラムを誉めた覚えがある。地域住民、被災者との、こころの部分も含めた交流。地方記者の醍醐味だったのでないかと。
地方記者。福島県内。原発とともに“暮らして”きた。おおむね“原発”というものを意識していた。そして事故。それから2年余り。
過日、朝日新聞の“耕論”という欄に民友のベテラン記者の話があった。
彼は原発というものを“身近”に捉えていた。取材で知り合った全国紙の記者にこう言われたと書く。
「日本の原子力は、科学技術というより、政治的な部分が大きいよね」と。
そうなのだ。いわゆる「高市発言」。地方紙と全国紙では、目線が受けとめ方が違う。
ボクの感覚でも、全国紙やテレビは「政治ネタになるかもしれない」となると書く、伝える。県紙は「県民を愚弄するもの」という視点に立つ。
前述の民友の記者は言う。高市発言とは関係ないが。「福島への負のイメージの払拭も含めて、15万人以上の避難者の生活実態や、さまざまな問題を全国に発信したい」と。全国紙やテレビが後追い報道をするようないい記事を書きたい」と。
全国紙と地方紙の“違いが鮮明”と一言で切ってすてる識者もいる。ならば「埋める」作業をしなければならない。その溝を。メディアだけでなく全国対福島という構図で語られる民意を。
最近懇意になった全国紙の記者がいる。郡山支局長。彼は時間があれば富岡町の仮設住宅に通っている。そこの住民とも懇意になったそうだ。仮設のイベントにも招待されるようになった。
「郡山仮設日記」。そんなコラムを彼が書いて、全国版に載ればいいのになとも思っている。
メディアの“落差”を埋めることから始めないと・・・。