「ほうげん」と打ったら「方言」ではなく、いきなり「放言」と出てきた。思わず話が、政治家の放言のことになりそうな(笑)。
方言とは一地方だけで使われる言葉である。だから、その地方の象徴でもある。
方言とその地方独特の訛り。それは「文化」以外の何物でもない。
東北六魂祭が開かれている福島市。おそらく東北六県の、それも、そ地方独特の方言がきっと飛び交っていたのではないかと想像する。
方言とは県語ではない。その中でも違う。まさに一地域の言葉・・・。例えば青森でも津軽弁もあれば八戸弁もあるように。
「ふるさとの訛り懐かし、停車場の人ごみの中にそを聞きにいく」。岩手県出身の歌人、石川啄木の有名な歌。望郷の念がにじみ出ている。
青森出身の寺山修二。「ふるさとの訛り無くせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」。ふるさとの言葉はコーヒーの味まで変えるのか。
原発事故で都会に避難している、していた人達に大きな悩みの中に「言葉」があった。理由は敢えて言うまい。とにかく「放言」「故郷の言葉」「日常使っていた言葉」を“封印”していたこと。
封印すえば喋れない、共通語というか標準語というか。それにはなかなか馴染め無い。ものすごいストレスだったと福島県内に帰って来た人は言っていた。
なぜ避難者は「コミュニティー」なるものを求めるのか。顔見知りがいるというだけではない。そこにはそこにいた人達が日常使っていた「共通言語」が存在するからだ。“共通言語”で語り合えることはなんと居心地のいいことか。
維新の名のもとに出来た明治政府。
その官僚体質は、日本全国に共通の教育や共通の言語を普及させようと努めた。
その共通語、標準語なるもの、東京弁のようなもの。それの基準がどこにあったのかは定かにしない。長州弁でも薩摩弁でもなかったと思う。
薩摩弁という方言ほど分かりにくい言語は、そこにしか存在しない独特の言語。
よそ者には理解出来ない独特の言語。
明治政府は全国一律の教科書、国定教科書を作り、あまねく全国の子供に「共通語」を教えた。
共通語、標準語を普及させる手段としてNHKを使った。NHKのアナウンサーが使う言葉が「正しい日本語」だとした。
しかし、方言は無くならなかった。訛りも無くならなかった。それは言語として、その地方の文化だったから。「文化」という言葉を特に意識していたわけではあるまい。しかし、古くからその地域で使われてきた言葉は、そこに住む人たちにとって最高の意思疎通手段であったはず。
方言が消える・・・前にも書いた。津波で流されて地域。そこに人はいなくなる。その部落にあった“方言”は使われなくなる・・・。
NHKに放送文化研究所というところがある。そこで「アナウンサー読本」という本が発行されている。多分、今も。それが「正しい日本語」とされている。
多くの人々が毎日テレビを見ている。ニュース番組で使われる言葉はすべて標準語、共通語だ。それを耳にしながらも、地方の人達は、その多くはその土地の言葉で喋り合っている。
言語の統一。その対極にある言語の差別。
大仰に言うならば、転換点を迎えている日本と言う国。その転換点の目標の一つは「文化」であるべき。
言語の文化。文化としての方言。その意味合いの大きさをもっと感じるべき時代なんだとも。
昨日あった東北六県の集まり。たしかに青森から来た人の話は聞きづらかった。しかし、なんとなく「優しさ」に触れたようなぬくもりを感じた。
県外に避難している人たちよ。高らかに喋れ、方言を。