2013年6月13日木曜日

「知らせる」ということ、あるいは「伝える」ということ。

木曜日である。毎週木曜日、一切の予定は入れない。テレビを見たいから。
NHK仙台の「被災地からの声」を見たいから、聞きたいから。
想いを新たにし、自分の意識を再確認したいから。

津波で一切を流された牡蠣やホタテの養殖業者の話題だった。津田アナンンサーは穏やかに、しかし凛として語りかける。
「復興と言えば、建物が建ったり道路が通れるよいになった、目立つ事が言われる。養殖業者は生業の道具の全てを奪われ、あげく風評被害も重なり、海の仕事をすることがおぼつかない。2年以上、養殖をしていない。技術がすたれる。後継者も育たない。衰退の一途をたどっていく・・・」と。

そう、「復興」とは何であろうか。ふと思う。やはり「東北は見捨てられている」と。明治維新以来脈々として続いて来た東北への「無意識の差別」。中央政府の中にあるもの。

ボクが多少関係している書道会がある。その会報に毎月「随想」なるものを書いている。来月号が届いた。そこに“巻頭言”のような、主管の知人が寄稿する欄がある。

今回は中央紙のカメラマンの寄稿。彼は「3・11」後、ヘリ取材も含めて10回福島に来ている。写真記者として。あえてその一部を抜粋して引かせて貰う。
見出しは「ファインダー越しに見えた不条理」。

「一週間ほどの福島出張を終えて東京に戻る度、私は切なく後ろめたい気持ちに襲われる。夕暮れ時の東京駅の改札口を抜けると煌々と輝く高層ビル群が視界に広がる。震災前と何ら変わらないかのような、都会の圧倒的な活気と繁栄。
福島と東京の「震災後」の対比が2時間弱の新幹線の移動で突き付けられる。そんな東京に自分は舞い戻り、翌日からは当たり前のようにそこで暮らしていく」。

「“震災を忘れない”“復興を支援する”“被災地に寄りそう”-。メディアを始め多くの場で言われて続けてきた。どれも本当に大切だと思う。でも、自分は一体どこまで実践出来ているのだろうか」。
「2011年3月11日を境に私たちの世界は不可逆的に違うものとなった。その感覚は今も変わらないし、被災地の不条理な現実に接する度にあらためてその思いを深くする」。

彼の文章に引き込まれていく・・・。

「震災発生10日後、津波による被害の大きかった宮城県の沿岸部に入った。多くの町並みの壊滅的な状況と、あまりにも大勢の人々の死に直面した時、強くこころを揺さぶられた。この震災は“死者・行方不明者2万人以上の一大災害”ではなく、“かけがえにない一人を失う悲劇が2万件以上も同時多発”したのだと思う。期せずして亡くなった人々や今も苦しむ人々に対して決して恥ずかしくないような生き方をして行こう、と心に誓った」。

文字が読みづらくなってくる。不覚にも・・・。

「私が生業とする“写真”とは、基本的には目の前に見える物を撮影、記録する表現だ。その意味では皮肉にも、福島の人々を悩ませ続けている放射能、放射線そのものは目にも見えず写真にも写らない。直接的には対峙出来ない相手だ。」。

だから、彼は、目に見える異変を、人の気配が消えた公園とか、荒れた田畑とは、剥ぎ取られた草木の光景を撮ることによって、見えない無色透明の放射線の存在感を視覚的に伝えようとしてきたという。

「モニタリングポストの存在が気になっている。それは空間線量をデジタル数字で表示することで、その存在を“見える化”して示す、日常の風景の中に定着してしまったもの。
可視と不可視、日常と非日常、震災前と震災後―、ソーラーパネルと電光掲示板を備えたあの白い円柱を見るたび、いくつもの現実の境界線がそこで交差するように感じ、カメラに収めている」。

そして彼はこう結んでいる。

「福島の現状をつぶさに見て新聞で発信していくのが私たちの仕事であり、使命であるし、それが、福島の、私たちの未来につながるはずだ。その信念で、後ろめたさを押し込めて、私は福島を訪ね続ける」。


彼とは一回会った。そして酒を飲んだ。もちろん郡山で。他愛も無い話もした。

これから彼にメールを送るつもりだ。
「ありがとう」と。そして「君のファインダーは決して曇らない」と書くつもりだ。

彼の会社は毎日新聞。

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