村上春樹の新作、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、その本の帯封に書かれているのが“良いニュースと悪いニュースがある”というフレーズ。
ボクは勝手にこの本を震災後の文学と位置づけているが、その気配は本編の中には直接的には登場しない。
なぜ今更村上春樹なのか。今朝の新聞によるところが多い。原子力安全委員会の委員長だった斑目春樹の名前を見たから。同じ春樹だと思い、ちょこっと小説のことを考えていた。うろ覚えの内容を反芻していた。
アメリカの原子力規制委員会が日本に渡していた原発テロに対する助言。それを知っている原子力安全保安院の担当官僚は、それを“役立てる”ことが出来なかった。
官僚は2年か3年で異動がある。多分業務は引き継ぐだろうが、齟齬が生まれる。それを指して斑目が言っている。
「官僚制度の限界がある。担当の人が2年くらいでかわるので、大きい問題まで取り扱うと任期内では終わらないので、いかに手を出さないでいいかの説明ばかりになる」。
この言に包含されるいろんな事を見て来た、知らされて来た。官僚制度の、日本の社会システムの問題点を。
悪いニュースだ。
村上春樹の残滓を追っていると、その名前が出ている記事があった。イスラムの話題。見出しは「色彩を持ちすぎた男のその後」。
ムスリム同胞団に加わっていたハッサンという男、最初は「家族」と呼ばれる仲間5人と一緒にいた。つくるがそうであったように。
やがて彼は音楽という文化の価値をめぐって仲間から追われる。“君の問題は、自分の意見を表に出し過ぎることだ」と言われて。
色彩を持ちすぎたハッサンは仲間も居場所も失う・・・。
色彩を持つのが良いことなのか悪いことなのか。今、この国にはなんとなく「色彩を持たない人」が溢れているようにも思える。
東電と政府とマスコミを悪者にして攻撃、口撃し、自分は“正義”という名の砦にこもっているような風潮・・・。
今、被災3県の自治体の職員は、地方公務員は不足している。特に津波被害にあった地では職員自身が“被災者”だった。
全国の自治体からの応援職員は2千人に上るという。町役場や村役場には全国の方言が入り混じっているはず。
見知らぬ土地に来て、見知らぬ住民と接し、土地勘も全くないまま、職務をこなす。やっかいな交渉ごとも多い。
繰り返される東北弁と関西弁の交錯。
長い交渉が終わり、最後に「諾」を言った地元の人が職員に言った。「遠くからきてくれてご苦労さんでした」と。
派遣されて来た応援職員は単身赴任、仮設住まい。異動がある。任期を終えて元の職場に帰る。
たった1年、いやもうちょっと。見知らぬ土地と見知らぬ人であった人達と、そこに愛着が湧く。
また時々来ます。そう言って彼らは彼女らは“地元”に帰っていく・・・。
そこを見た、そこを知った者でしか、そこは語れない。
復興予算の流用がきょうも伝えられている。復興予算の流用。それを知りながら多少の「罪悪感」を持ちながらも受け取っている自治体。予算の流用を認める国も悪い。しかし、そうだとわかっていて受け取る側にも大いに問題ありだ。
応援、派遣され、帰任した職員達。もし、その担当部局だったら、その受け取りを「拒否」するだろう。はっきりと“色彩”を持って。
復興を支える「助っ人職員」がいる。良いニュースなのだろうかもしれない。
ニュースではないが・・・・
被災地の人の詠んだ歌。
「あの海に浮いているかもしれぬ家、鍵を忘れて逝った夫」。
心打つ、悲しい“ニュース”でもある。