その小説の中に登場してくる若者達はしばし問いかける。
小説の中の劇中劇の舞台からも。
「もしかしたら、僕たちはどこかで間違って来たのかもしれない」。
「それが何かはわからないけど、やはり間違ってきたような気がする」。
3・11以降の被災地、原発事故の被害地を舞台にした文学作品。
作家は登場させた4人の若者に、自分が“現場”を見て踏んで、思ったことを、それも大きな衝撃を受けながら感じさせられたことを語らしている。
昨日沖縄で沖縄戦が終結したとされた23日に、摩文仁の平和祈念公園で、記念じゃない、祈念だ、「慰霊の日の式典」が行われていた。
沖縄に眠る慰霊。石碑に刻まれている死者は24万1227人。
あの戦争は「間違い」ではなかったのか。兵士も民間人も、「国」によって命を絶たれる。それは間違いではなかったのか。
昨日東京都議選があった。都民は選択した。自公圧勝。少なくとも今の都議会に「厳然たる反対勢力」は消えた。
政治は数であるという。
投票率という数字。43,5%。政治から国民は遠のいていく・・・。
間違っていないのか。
我々は選挙という手段しか持ち得ない。基本的に。我々の政権選択。民主党政権を選び、安部政権を選び・・・。
自民党の“予備選”では石破が勝った。国会議員による選挙で安部が勝った。
「間違った」選挙制度で選ばれている国会議員。立法府の“間違い”が違憲とされているにもかかわらず、憲法を変えたいと考えている人たちは、憲法違反であることを無視する。
「3・11」後、間違っていることに気付いた人はたぶん大勢いるはず。でも、今はその“間違い”があったことを忘れようとしている。
昨日たまたま手にした本。
「この国はどこで間違えたのか。沖縄と福島から見える日本」。沖縄タイムスの記者の編によるものだ。
その記者は「まえがき」にこう述べている。
本土復帰40周年を迎えた沖縄は、米軍基地の合わせ鏡のように居座る本土の構造的差別だ。沖縄県民はこの国の「本音」と「醜さ」に、最もリアルにかつ鋭敏に接してきた。
営業運転を始めて40年目、福島第一原発は未曾有の大惨事に見舞われた。福島の原発事故、その災厄は偶然訪れたのではない。そこに至るまでには、国策を遂行する「国家の意思」があった。地元はそれに呼応してきた面もあった。
しかし今、故郷での暮らしを破壊された福島の人たちの怒りや無念さは、冷徹に国家の本性を射抜いている。
にもかかわらず、中央集権的な政治システムによって維持される「幻想」にすがって思考停止してきたのが、今までの日本人ではないか。
問われているのは「日本人の心性」、国民一人ひとりの価値観や倫理観、哲学ではないか。それが培われ、看過されてきたのがこの40年という時代だったー。
まさに、と思う。「間違い概論序説」だとも。
おととし、どこかに書いた。「我々は間違い探しの旅に出なくてはならない」と。
あえて言うなら、未だ旅の途中か。
間違えに気付かない限り、次へのステップは無い。
ただ一つ言えることは、我々の時代が作った「負の遺産」。それを後世に残してはならないと。
国の財政であれ、“汚染”されたままの、人が住めない土地であれ、価値観であれ。
きょうはかって師事していたお茶の先生の13回忌。早出する。
そう言えば松山先生にもお稽古でよく言われた。
「どこが間違っていたかわかりますか」と。
わかったような、わからなかったような。
先生の没後、お茶の世界からは離れてしまった・・・。作法も何も忘れた・・・。