2019年5月1日水曜日

「令和」が“ディストピア”でないことを

暦を一枚めくり時代の呼称は「平成」から「令和」に変わった。
形としてはっきり見えるのは天皇が変わったということだけだ。
時代は一日にして変わることはない。

平成の時代にあった事はそのまま令和に受け継がれていく。平成の時代に起きた最大の国難「原子力発電所」の爆発、メルトダウン。
汚染水は元号が変わろうとも、漏れ続けている。
原発事故の処理は終わりが見えない。避難者はあくまでも避難者であり続ける。

昭和の後期から平成。文明なるものは進化を続けた。
人間が良かれと思って作り上げた“文明の象徴”としての原発は、それが猛り狂った時にそれを処理することが出来なかった。
人間が文明と言うものに負けた。自分たちが作り上げた物で自分たちの生活が壊された。

しかし、文明はとどまることをしなかった。
AIという優秀な計算装置を「よきもの」として受け入れ、人工知能と人間の知性を競わせようとしている。
バカバカしい限りとしか表現できない。
やがてAIなるものが“事故”を起こし、この国が壊滅する事すらありうるかもしれない。ディストピアとして。

社会政策はまともに機能せず、日々の暮らしに喘いでいる人のなんと多いことか。
政治はそれらのことに概ね無関心だ。

ゴールデンウイークの人の賑わい。令和を“祝う”人の群。それは政治家がいう「声なき声」ではない。

令和の最初の“試練”はオリンピックだ。オリンピックという美名が国の実相をおぼろげなものにしてしまっている。
テロ対策に不安がある原発の再稼働は認めないと規制委員会は言う。たぶん、オリンピックと言う「おまつり」を意識した上でのことだろう。

平成天皇は象徴としての意味を行動で示された。象徴天皇の意味を教えてくれた。
その教えは令和天皇にも受け継がれていくであろう。
天皇が象徴であるということには大きな意義がある。

グローバル時代のキーワードは「分断」だ。
もし、社会の分断に政治が直面しても、社会の統合が象徴天皇によってなされるという一種の安心感のようなものが日本人にはあった。

元号の呼称にはあまり意味を見出せない。
「平成」と言う名の時代が終わり「令和」と言う時代が始まるだけのこと。
その元号によって、その時代を生きた、生きて来た人たちが何を考え、行動するかということに“時代”と言うことの意義がある。

少なくともジョージオウエルの名著「1984」に書かれた“ディストピア”は現実としては杞憂であった。
1984年と言えば昭和59年。ロサンジェルスオリンピックのあった年。
来年2020年は東京オリンピックの年。

「戦争は平和なり。自由は隷従なり。無知は力なり」。そんなスローガンが、テレスクリーンを通して我々の前に登場するかもしれないと言う“夢想”。

令和の“騒擾”は来年を目指してさらに進行する。
メディアは特に国営放送はメダルを言い募り、選手が過酷な環境に追い込まれることもいとわない。すでにして、テレビのここ数日の「令和」報道、その過剰なること。「同調」を促しているかのようだ。
この国は令和とともに次は「オリンピック一色」になる。

“悲しいまでの凡庸”な政治家たちによる“まつりごと”が繰り返される。
それはディストピアの始まりを予感させるものとなるのかもしれない。

平成への懐古、それは令和と言う時代への一抹の不安からくるものかもしれない。

令和天皇の名前を騒ぐ人たちに聞いてみればいい。「徳仁(なるひと)」と答えられる人は驚くほど少ないはず。

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