2015年6月30日火曜日

「異常」の中での困惑

事件というものは常に異常ではあるのだけれど・・・

東海道新幹線の中で乗客の男が液体をまいて、自分もかぶってライターで火をつけて“自殺”した。もう一人女性も亡くなったという。
巻き添えを食ったような客も重症者や軽症者が出たと言う。

異常な事件だ。新幹線と言う公共交通機関の中での焼身行為。

事件の詳細はもちろんわからない。その男が何者であり、動機が何だったのかわからない。

昨日、「焼身」のことを書いた。動機や目的が何であろうと、このニュースに接した心境は余りにも複雑だ。推測は出来ないが、この未曽有の事件に暗澹たるおもいがする。

世界一安全な新幹線の中での事件。今後、航空機と同じように新幹線など公共交通機関でも「手荷物検査」などが実施されることにもなりかねない。

今想像できるにはこんなことだけだ。

とにかく今日あった異常な事件。

箱根では噴火があり、レベルは3に引き上げられた。想定内とは言え、自然の異常現象は続く。いや本来は以上では無い自然現象なのだろうが。

事件があれば、かならず市民生活に影響を及ぼす。

1Fの現場では2号機で一時間あたり1,000μ㏜を超える放射線が測定された。まさに異常ともいえる数値。東電では原因不明といい、詳しく調査するといい、今後の作業には影響が無いという。高線量が検出された場所は無人ロボットを投入する「入り口」だったというのに。その“配電盤”は人の手を仮りねば開けられないところだというのに。

除染を進める。その一言だけのような東電。

1Fは未だもって「異常事態」の中であるということを再認識する。

ギリシャでは「デフォルト問題」が起きている。ギリシャの金融事情はまさに異常だ。
当然その影響は日本にも及んでくるはず。EU全体の問題でもあろうし、対処を誤れば世界的金融恐慌にも及びかねない。

人為であろうが自然現象であろうが「異常」をどう考えるかということ。

これらの異常の中で頭の中には困惑だけが広がる。

永田町の中で交わされる「暴言問題」だって、異常なのだ。

福島の地にあって、一つだけ以上では無い「正常」な判断が示された。

原発事故による避難で、その苦痛、ストレス、うつ病を発症して事故後4か月して自殺した浪江の男性。その遺族が起こした損害賠償訴訟。

福島地裁は訴えを認め、東電に2,700万円の損害賠償を命じた。

これで2件目の賠償認定。

遺族は言う。「東電の幹部に家に来てもらって仏壇の前で頭を下げて謝罪してほしい」と。

東電が賠償に要する費用は7兆円を超えたという。さらなる「借入れ」を要請しているとも言われる。

賠償だけでも7兆円のかかるという原発。

日本だってとっくに「債務超過」の国なのだ。財政赤字の国なのだ。
担当大臣はギリシャのことを問われても、マフィアのようないでたちで、答えをはぐらかしている。

異常気象、異常気候は農作物の収穫にもダメージを与えている。

異常、異常・・・。その困惑の中に立ちすくむということ。

2015年6月29日月曜日

「2014・6・29」、「2014・11・11」

去年の今日、6月29日。新宿駅南口の歩道橋の上で一人の男が身体にガソリンをまいて焼身自殺をはかった。
集団的自衛権反対を訴えて。

多くの人からの記憶から失われている事件だ。

事件発生時はツイッターなどを通じて現場の様子が流され、混乱した街の様子が伝えられた。
男は安倍政権への抗議文を読み上げ、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」の詩を読み、自ら火を付けたという。

死には至らなかったらしい。病院に搬送された。「警察では回復を待って事情を聞く」と新聞には書かれていた。

しかし、結局「続報」には接していない。何処の誰で、どんな経歴のある人で、その後どうなったかも含めて。

知り得たのは「そんな事件があった」ということだけだ。

マスコミには「自殺報道」に対しての倫理綱領のような、不文律のようなものがある。
「模倣犯が出る可能性があるから」として報道を抑制するという倫理観だ。

著名な芸能人が自殺した時、「後追い」のような人が出たからだという。

彼が「正気」であり、「確信犯」であったのなら、“その後”は伝えられるべきだったと思う。
取材しなかったのか、警察がそれ以上の発表をしなかったからか。

なぜフリージャーナリストという人達が追わなかったのか。なぜルポライターがそれを書きつづらなかったのか。

今、政治の場での集団的自衛権をめぐる論議について各マスコミは報道に必死だ。今を伝えることだけで手一杯なのだろうか。

模倣犯が出るということを避けるとはどういう事なのか。
生命を第一義とするということか。世間を騒がせないということが第一義なのか。それとも・・・。極力「伏せたい」ということなのか。

それは模倣犯であったのかもしれない。去年の11月11日の夕方、東京の日比谷公園でやはり一人の男が焼身自殺を図った。


 “集団的自衛権容認に基づく安保法制の立法準備及びガイドライン再改定などを即刻やめよ”“《沖縄の辺野古・高江の基地建設を今すぐ中止を》。
そんなメッセージを携えていた。遺書だ。衆参両院議長と安倍首相に宛てた。
「新田進」とペンネームを記していた。 そのペンネームからこの人の像が垣間見えた。

 都内に住む60代。数年前まで裁判所に勤めていた。そのかたわら、ペンネームで様々な活動をしていた。その一つが映画作りだった。
 1995年に沖縄で起きた少女暴行事件の抗議集会に行き、「軍隊のない、悲劇のない、平和な島をかえして」と訴える声をカメラでとらえていたという。原発や憲法について考える市民団体にも加わっていたという。

そんな「死」があったことをどれくらいの人が記憶しているだろう。
今、高まりを見せる抗議集会やデモ。国会前だけではなく渋谷にも全国にも及ぶ。
老いも若きも参加している。

それを知っていたら彼らの「選択」はどうだったのだろうか・・・。

政治の場では「リスク」というあやふやな言い回しで、“想定内”の自衛隊員の死の事が語られている。
70年前にあった多くの死の事実、体験はどこか「他人事」のように語られる。
「死の現場」から戦争が語られてはいないようにも思える。

一人一人の死。その視点から語られることでもあるはずなのに。
それは「3・11」にも、原発事故に関しても共通する視点だ。

伝えれる死もあれば、伝えられない死もある。一人の人の行為が世の中を動かすこともある。無関係な時もある。

「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ。眠らせてくれないかい」。そんなネロの声が聞こえてきそうな・・・。

2015年6月28日日曜日

野党は“野党”であるべきなのであり

ドッコウショと掛け声をかけながら広辞苑を書棚から引っ張り出してくる。とにかく重いのだけど。

試に「野(や)」という字をひく。

のはら、人の手が加わっていないこと、自然のまま、官途につかないこと、民間、ありのまま、洗練されていないこと、いやしいこと、なじみ従わないこと。等とある。

野党という項に飛ぶ。政党政治において、現在、政権にあずかっていない政党、在野の党とある。前に戻ると野に下る、という項があり、官途を退いて民間の生活に入る、下野する。とある。

この字解をもってすれば「あずかる」政党だから、あずかるという語は与ると書くのだから与党ということになるのだろう。

小学校の国語の時間ではないのだからなんとも妄語を書いているとも思われようが、与党の中であった“妄言”を“看過(谷垣が使ったからだけど)”出来なくて。

夏を挟んで延々と続く国会。与党のざまざまな妄言や暴言を、そして本丸の安保法制について野党はとにかく徹底的に、お題目ではなく、満腔の怒りをもって追及すべきだ。まずは沖縄に対するあの暴言、狂言、無知な発言を。

安倍の意を受けての自民党議員の発言や振る舞い。看過できないのは我々だ。看過できないとして処分を出したというのは本心で看過できないとしたわけではない。世間体を取り繕っただけ。
彼らは本音を言い、安倍はそれを代弁者と見ているに過ぎない。

居酒屋談義だとかわそうとする。居酒屋に行ってごらん。若者が集まる居酒屋。そこでの「居酒屋談義」は、今や全くと言っていいくらい様相を異にしている。
多くが戦争について、安倍政治について語っている。

居酒屋談義なんていう言い方は「居酒屋」をバカにしている。舐めている。そこは小皿叩いてチャンチキオケサの世界では無くなったのだ。会社の愚痴をいう場所でも、バカ話をする場所でも無くなったのだ。

「街場の政治論」が交わされる場所になったのだ。

野党論について言う。とにかく徹底的に勉強してほしい。憲法学者の言うことを聞いていればこの国は潰れるだとか、憲法よりも政権の考えが優先するなどとほざいている人たちがのさばる与党。
論破はいかようにでも出来る。安倍はかわし、逃げるだろう。しかし、議論の持って行き方、質問の仕方では逃げられないような論理の組み立ては出来るはずだ。
今、政党間で野党が再編どうのこうのとは言わない。ただ政党が違っていても、前の質問者が時間切れで終わって消化不良の問題。それを次に質問する党が「引き継いで」いけばいい。自党の主張を述べることに拘るのではなく。

ポツダム宣言のやりとり。つまびらかにしていないという答弁。あれで終わらせている。維新の党が内閣に質問趣意書を出した。閣議決定された答弁書が国会に出された。そこには「安倍はポツダム宣言を十分知っている」と書かれていた。
知っていると言って来たのだから、それをもとにあの論議をやり直すべきだ。あの宣言の内容をどう捉えているか、考えているかは安保法制論議や改憲論議の入り口にもなりうるのだから。

野党は自党のメンツを捨てて、論戦の中では共闘すればいいのだ。

野党はあくまでも野党であるべきだ。政権交代なんて見果てぬ夢を追うのではなく、野党の存在を知らしめることが大事なのだ。

マスコミだって野党であるべきだ。決して政権に与するものであってはならない。いつの世でもマスコミは在野の精神で事にのぞむべきであり、批判勢力でなければならない。是々非々なんて言い逃れをすべきではない。

批判勢力があるからこそ、まともな国が存在できるのだ。

オール与党になったら・・・。多くが政権に与したら・・・。その結末はすでに歴史が証明していることのはずだが。

だから、在野の人間として、万年野党を貫くつもりだ。これまでもそうしてきたように、これからも。
妄言を論じる妄語にて。

2015年6月27日土曜日

自民党よ、どこまで墜ちるのか


自民党内の“チンピラ”代議士が、党内の会合で言った。

気に食わない民放の番組がある、広告主に言って提供をやめさせろ。
知った風なことを言うぜ。

もう、この類の安倍をはじめとした無知蒙昧な奴らのことにいちいちかまってはいられないのだが。
沖縄の地方紙二紙を潰せと言った「百田発言」も合わせて、まさにこれは自民党の劣化の象徴だと思うから言っておく。

「お前らバカかよ」と。

民放の広告、それは放送局と直接交わされる契約では無い。間に広告代理店が入っている。
彼らの念頭にある民放の番組。大方はどれを指しているのか想像がつく。

TBSとテレビ朝日の報道ステーションなのだろう。
報道ステーションは電通一社が買い切っている。広告主は電通の“選別”に任されている。ローカル差し替えの部分を除いては。

電通はすでにして局に“圧力”をかけているはずだ。それは参与としている怪僧ラスプーチンのような奴の差配で。

NHKはすでにして、百田、籾井ラインで報道を骨抜きにした。かろうじて頑張っている番組はあっても、夜7時、9時のニュースは完全に政府広報だ。
民放だって多少の意識はしている。“自粛傾向”は顕著だ。

それは出来るはずの無いことだが、菅が電波法をちらつかせ、免許更新しないと言ってからというものの在り様。

百田発言こそ許せない。沖縄に対する認識がまったく間違っている。いや、間違っているというより沖縄県民の尊厳を無視している。
なぜ、沖縄の県紙二紙が安倍政権を批判しつづけるのか。
県民の意思を代弁しているからだ。

民放労連と新聞労連は抗議の声明を出した。民放連、新聞協会は沈黙の中にいる。当然だ。多くの経営者がすでに安倍に「毒饅頭」を食わされているからだ。

首相になるちょっと前、田中角栄は言った。朝か夜の目白での懇談の席で。
「君たちはなにかというと我々を批判する。どんどんやれ。それが君たちの商売なんだから。仕事なんだから。だから、我々はそれに負けない政治をやる。それが商売であり、仕事なんだから。両方があって世の中はうまく行くんだ」。

この角栄の言葉を今の自民党の政治家たちに贈りたい。まして、田中派の系譜につながる議員たちに。

昨夜の朝まで生テレビを自公の議員は「ドタキャン」した。その日の事が話題になるのは必定。それに対応する思考も言葉も持っていないからだろう。

逃げたのだ。

安倍も国会で言う。「報道については知りません」と。委員長がその事実があったと言うと、なにやら当たり障りの無い答弁。ポツダム宣言をつまびらかにしないに続いての知らぬ存ぜぬ答えらぬの「逃げの政治」。

自民党は会を主催した青年局長を更迭するとか。それは責任を取らせるものでは無い。国会審議に影響が出るのを恐れたための小手先細工だ。

なんかすべてが「安倍官邸が書いた筋書通り」に見える。

自民党は堕落する一方だ。

しかし、そんな議員を、まさに「アベチルドレン」の如き議員を誕生させたのは選挙民だ。
そして何があろうとも絶対的安倍信者という人たちもゴロゴロいる。

気に食わないものは叩き潰せ。これが安倍の信条であり、本音なのだ。と拝察申し上げる。気に食わない奴は仲間外れにすると言うあの最悪のガキ大将思考。

そんな「次元」で捉えるのが一番わかりやすいのでは。

百田の暴言は沖縄県民を侮辱するものもある。とてもじゃないが見過ごすわけにはいかない。彼の発言はエスカレートしている。ほんとは潰れて欲しいのは朝日、毎日、東京新聞だと。

名指しされた各紙、脅された民放。ひるむなよ。こんなチンピラどもに。裏で安倍官邸がどんな糸を引いていようとも。

そして、大西英男の選挙区、東京16区。井上貴博の福岡1区、長尾敬衆の比例近畿ブロック。そこの選挙民はどう受け止めているのだろうか。落とすしかないと思うけど。

もはや言論の自由とか民主主義がどうだとか言う以前の問題。

またも嫌な週末を迎えていると言うこと。

2015年6月26日金曜日

「高株価」と「高齢者」と

なけなしの金を持って固定資産税の滞納分を払ってきた。その“余韻”かな、
そんなぼやき節。

株高 投資マネー膨張。30代トレーダー2億円の利益。60代 売却益で定年後の新居。

昨日の新聞に、昨今の新聞にも踊る見出しだ。

株価は高騰している。日経平均2万円を上回る。ITバブルの再来だと書く。アベノミクス長者だとも書く。

奇妙な幻想に捉われる。日本中が金持ちになっているというような“錯覚”に陥る。そして自らの「落ちこぼれ感」にさいなまれる。

株は持っていない。興味も無い。相場に興味も無いし、もともと株を買う資金も無い。

「株で儲けた」という友人の話を時々聞くことがある。それとても「他人事」だ。

株価の動きを伝えるテレビのニュースでは、兜町にいる高齢者の姿が度々映る。
儲かった、儲かったという嬉々たる表情の人。

高齢者は金持ちだと言われている。その資金を云々という論評もよく聞く。
他人様の懐のことはわからないが、れっきとした高齢者の一人である僕は「カネが無い」。

基本的には年金暮らしだ。“ベースロード電源(笑)”。
その年金は比較的高額なのだとされてはいるが。介護保険料などを差し引いて手取り月約20万円。
年金暮らし、これって8割方の高齢者の姿ではないだろうか。
大金持ちや株で儲ける人は残りの2割あるかないかでは。

株価高騰の「明るいニュース」が報じられる面を繰ると介護保険料を払えない高齢者が増えている。未収が270億円以上だと書かれている。
保険料滞納者にはペナルティーがかかると書いてある。

どっちも社会の「実相」だ。そのはざまで僕は戸惑う。

株主総会時だ。数億円の報酬とか退職金の話しがニュースを賑わす。画空ごとだ。

10年程前、ある会社でこんなことを話しあった。「会社って誰のものですか」と。

社長のもの、社員のもの、株主のもの、社会のもの。

全員の答えは社会のものだった。

昨日は電力各社の株主総会だった。
再稼働反対を訴える株主提案はことごとく否決された。

会社が「株主」と“認定”しているのは、会社提案に賛成する人達。もちろん個人投資家だけではないが。

つまり株価が上がることを期待している人達。その場の雰囲気は「会社は株主のもの」にすら見えたということ。

日本創成会議では「高齢者の地方移住」が目玉政策とされている。甚だしく疑問だ。

どこか原発避難者の話と重なる。

高齢になって移住するという事。まったく違う環境に身を置くということ。
もはや基本的には「生産人口」ではない高齢者を受け入れた自治体はどうなるのか。どうするのか。そして本人たちは。
それが“地方創生”に寄与することなのか。

高齢になって見知らぬ土地に住み、そこに馴染めるのか。車を運転できなくなった人はどう日常を送ればいいのか。
少なくとも馴染めない環境は高齢者にとって居心地のいいものでは決して無いはず。

言葉は悪いが「高齢者という“棄民”」だとも思える。

株には興味は無いし、それに手を出せる才覚も無い。株価の動向は経済指標の一つとしての関心はあるが。

なんでかきょうはぼやき節なんだ。
体が老化を訴えているからか。老いとは「肉体の問題」と「カネの問題」との対峙と葛藤だとの思い。

でも・・・。

思考だけは貧困になるなよな。金持ちをやっかむなよな。
「倚りかからず」なんだよな。くよくよするな「馬鹿者よ」、なんだよな。

2015年6月25日木曜日

「聞いて、見て、知る」ということ

昨夜ある集まりのあと、友人数人と二次会に行った。
一人の友人が話し始めた。彼は成蹊大学の卒業生、母校愛に燃えている。
「あの学校っていい学校なんですよ。学園紛争とも無縁だったし。
でも、先輩のあに人は変ですね」」と切り出した。

酒が入ると彼は饒舌になる。

「僕は考えたんですけど、あの人の言っている集団的自衛権って、全部個別的自衛権の範囲内のことじゃないですか。無理があるんですよね。
去年、沖縄に行ったって言ったでしょ。家内も一緒だったんですよ。
空港から那覇市内までタクシーに乗ったんですが、その運転手さんは50年仕事をやっているそうで、子供の頃に沖縄戦を体験しているということで。
その運譚手さんの話を聞いていて家内は泣きだしてね」。

奥さんと相談して沖縄滞在の行程に戦跡やひめ百合の塔や、基地を見ることを組み込んだという。

知らなかった沖縄を聞いて、見て、知ったという。

もう一人の友人は母親の立場で話し始めた。濠の中で口をふさがれて窒息死した幼子の事などを。知っている範囲で。
そして言う。
「今頃だけなんですよね。沖縄の事をマスコミが熱心に伝えるのは。いつもは完全に無視しているみたい。常に伝えて欲しいな」と。

短い時間だったが、知っている限りの沖縄戦の実態や、米軍基地の話し。日米安保の話し、そして地位協定の話をした。

山梨や岐阜には海兵隊の基地があった。住民の反対運動でそれを無くした。
でも、その基地は無くなったのではなく沖縄に持って行かれたんだと。
戦後、日本中に米軍基地があった。規模はともかく福島にだって基地があった。

東京近郊だって、それこそ砂川事件の舞台の立川基地や今もある横田基地。朝霞、横須賀、多摩。戦争に負けた国は敵の基地だらけだったのだとも。
それらの多くは旧日本軍の部隊や訓練所があったところだったとも。

敗戦国であるイタリヤやドイツでも米軍基地はあるけれども、その地の「主権」はその国が持っているんだということも。地位協定のことに絡めて。

「僕はれっきとした自民党員なんですけれど、今回の国会でやりとりされていることはやはりおかしいと思うんです」と冒頭の彼。
「あの先輩を除いてはいい学校なんだけどな・・・」と繰り返す彼・・・。
「もう一回沖縄に行きたいな」とも。

23日の「沖縄の日」。那覇には多くの観光客がいた。
「観光で来ているんで、戦争に関係するところには行きません」と若いカップルが言っていた。

観光って何だろう・・・。

原発事故後、「ダークツーリズム」という言葉が一部の思想家や識者から言われたことがある。

「原発事故地観光化計画」と呼ぶのだそうだ。その「ダーク」というカタカナ語に抵抗を覚えた。観光と言う言葉の響きにも違和感があった。

//ダークツーリズムとは戦争や災害の跡といった人類の負の遺産を巡り、死者に追悼の意をささげ、現地の悲しみを共有する新しい観光のスタイルです。90年代後半に提唱されました。議論の発祥地の欧州では、既に旅行会社もツアー名に取り込むなどマーケティングとしても一般化しています。その代表地としてアウシュビッツ強制収容所があり、チェルノブイリがあります。
「観光」という言葉にレジャーを想起する人も多いと思いますが、広島と福島、あるいはチェルノブイリを巡ることで、戦争や事故の記憶、被ばく者、被災者の気持ちを受け止め、科学と社会の負の側面に思いをはせることができます。入り口は興味本位の人もいるかもしれませんが、帰る時には何かを受け取っていく旅を作ることが大事なのです//。

提唱者の一人が語っていた言葉だ。

その人の文脈の中には、言葉の中には沖縄は例示としては入っていなかった。

福島から沖縄を考えるということ。

成蹊大卒の彼も「風評被害」なるものを蒙った人の一人だ。自分の立場を越えて沖縄に心を寄せた彼。酔うと饒舌になる彼。でも、そんな友人がいてくれたことがことに感謝する。

酒を飲むのも悪くはないなとも。本音が出てくるのだから。

2015年6月24日水曜日

「安倍首相“の”談話」ということ

つまり、この人は、結局、政治を私物化しているということでなないだろうか。そんな気がしてならないのだ。

昨日の沖縄、安倍にとっては真に居心地の悪い数時間ではなかったのだろうか。
戦没者追悼式。翁長の平和宣言には歓迎の拍手が沸いていた。
安倍の来賓祝辞。翁長にすでに先制攻撃をされている受け身の立場での挨拶。
内容は空虚であり、場違いなものであったと思う。

野次が飛ばされていた。これはよくない。例え会場にいた人にとって、翁長県政になってからの軋轢はあるとしても、とにかく話は聞くべきなのだ。野次でかき消すのはかえって禍根をのこすことにもなりかねない。

きっと安倍は“屈辱感”すら覚えて帰京。居心地の悪さと屈辱感は、これからの沖縄政策にとって大いに影響するだろう。

県民の気持ちをくみ取ってはこなかったはずだ。翁長との会談も、戦跡の視察もなかったとんぼ帰り。
「公務があるため」と御側用人は言っていたけど、新聞にある首相動静の中にはそれは見当たらない。

ならば初めから行かなかった方がよかったのかもしれないとも。それはそれで非難されることではあっても。

国会は在り得ないような、まさに国会法を無視した“違法”のような大幅会期延長。
安保法制の国会審議中に出すことになった「談話」。
その談話は閣議決定された首相談話ではなく、閣議にはからない首相の談話とすると言われる。

戦後レジュームからの脱却を言う「最高の舞台」だったはずの8月15日を挟んでの首相としての「悲願」。

おそらく国会審議に、もう一つの悲願の解釈改憲、安保法制案件を通すために、そのために選んだ「方法論」。

村山にしても小泉にしてもその談話は閣議決定している。政府としての公式見解。
公明党の動きを視野に入れてか、国際社会を意識してか、「私的談話」で収めようとする術策。

誰が描いた戦術か、悪知恵かはわからないが、まさにまずは国会ありきの「足して二で割る」方式じゃないの。

談話を出したいという安倍の顔も立て、公明党などの協力を得て法案成立を図ろうとする”苦肉の策“。

安倍首相談話と安倍首相“の”談話とでは雲泥の差だ。

たった「の」という助詞一つで、そのことの重さ大きさが変わるということ。

なんでもいい。「談話」を出して自己陶酔に浸るという事か。

「とかく学者は字句に拘る」って言った党幹部がいたけど、安保法制の立役者がいたけど、この一つの字句も意味は大きいのだぜ。

かって石原慎太郎が言っていた。憲法前文について。それは日本語では無いとして、「せめて、“諸国民の公正と信義に信頼して”の「に」を「を」に変えろと言っていたこと。それを変えてその文脈をどう読み取るのかはさっぱりわからなかったが。

安倍の政治手法。それは機を見るに敏とういうか、ご都合主義とういうか。
常に自分がその中心にいて、事を思い通りに運びたいということか。

私的な談話に何が盛り込まれるのかはわからない。彼が自ら書くのか、誰かが代筆するのかも。

それに国際社会がどういう反応を示すのか。内容次第の部分はあるが、私的な「つぶやき」である以上、なんらの効力も持たないことになるはず。

だから、かって観たことがある映画。感動の名作。その題名を彼に贈る。その映画のタイトル。「存在の耐えられない軽さ」。


「アンダーコントロール」も私的見解だったということかな。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...