2015年6月28日日曜日

野党は“野党”であるべきなのであり

ドッコウショと掛け声をかけながら広辞苑を書棚から引っ張り出してくる。とにかく重いのだけど。

試に「野(や)」という字をひく。

のはら、人の手が加わっていないこと、自然のまま、官途につかないこと、民間、ありのまま、洗練されていないこと、いやしいこと、なじみ従わないこと。等とある。

野党という項に飛ぶ。政党政治において、現在、政権にあずかっていない政党、在野の党とある。前に戻ると野に下る、という項があり、官途を退いて民間の生活に入る、下野する。とある。

この字解をもってすれば「あずかる」政党だから、あずかるという語は与ると書くのだから与党ということになるのだろう。

小学校の国語の時間ではないのだからなんとも妄語を書いているとも思われようが、与党の中であった“妄言”を“看過(谷垣が使ったからだけど)”出来なくて。

夏を挟んで延々と続く国会。与党のざまざまな妄言や暴言を、そして本丸の安保法制について野党はとにかく徹底的に、お題目ではなく、満腔の怒りをもって追及すべきだ。まずは沖縄に対するあの暴言、狂言、無知な発言を。

安倍の意を受けての自民党議員の発言や振る舞い。看過できないのは我々だ。看過できないとして処分を出したというのは本心で看過できないとしたわけではない。世間体を取り繕っただけ。
彼らは本音を言い、安倍はそれを代弁者と見ているに過ぎない。

居酒屋談義だとかわそうとする。居酒屋に行ってごらん。若者が集まる居酒屋。そこでの「居酒屋談義」は、今や全くと言っていいくらい様相を異にしている。
多くが戦争について、安倍政治について語っている。

居酒屋談義なんていう言い方は「居酒屋」をバカにしている。舐めている。そこは小皿叩いてチャンチキオケサの世界では無くなったのだ。会社の愚痴をいう場所でも、バカ話をする場所でも無くなったのだ。

「街場の政治論」が交わされる場所になったのだ。

野党論について言う。とにかく徹底的に勉強してほしい。憲法学者の言うことを聞いていればこの国は潰れるだとか、憲法よりも政権の考えが優先するなどとほざいている人たちがのさばる与党。
論破はいかようにでも出来る。安倍はかわし、逃げるだろう。しかし、議論の持って行き方、質問の仕方では逃げられないような論理の組み立ては出来るはずだ。
今、政党間で野党が再編どうのこうのとは言わない。ただ政党が違っていても、前の質問者が時間切れで終わって消化不良の問題。それを次に質問する党が「引き継いで」いけばいい。自党の主張を述べることに拘るのではなく。

ポツダム宣言のやりとり。つまびらかにしていないという答弁。あれで終わらせている。維新の党が内閣に質問趣意書を出した。閣議決定された答弁書が国会に出された。そこには「安倍はポツダム宣言を十分知っている」と書かれていた。
知っていると言って来たのだから、それをもとにあの論議をやり直すべきだ。あの宣言の内容をどう捉えているか、考えているかは安保法制論議や改憲論議の入り口にもなりうるのだから。

野党は自党のメンツを捨てて、論戦の中では共闘すればいいのだ。

野党はあくまでも野党であるべきだ。政権交代なんて見果てぬ夢を追うのではなく、野党の存在を知らしめることが大事なのだ。

マスコミだって野党であるべきだ。決して政権に与するものであってはならない。いつの世でもマスコミは在野の精神で事にのぞむべきであり、批判勢力でなければならない。是々非々なんて言い逃れをすべきではない。

批判勢力があるからこそ、まともな国が存在できるのだ。

オール与党になったら・・・。多くが政権に与したら・・・。その結末はすでに歴史が証明していることのはずだが。

だから、在野の人間として、万年野党を貫くつもりだ。これまでもそうしてきたように、これからも。
妄言を論じる妄語にて。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...