2015年6月11日木曜日

「司法」をめぐって思うこと、いくつか。

福島では原発事故の避難者約470人が起こした集団訴訟。東電に損害賠償を求めた裁判。
提訴から約2年半、やっと口頭弁論、原告の本人尋問があった。

避難者側が求めているのは土地や建物といった有形なものに対しての賠償。それと「ふるさと喪失」への慰謝料だ。

郡山の仮設で暮らす人は言う。双葉町の人だ。
地域ぐるみの祭りや冠婚葬祭。そうした“助けあい”の関係が失われた。でも町内に戻り、農地を再生させて農業を再開できないかを模索している。ふるさとをいつか取り戻したいと。

いわき市に避難している人は、すでに市内で中古住宅を買って住んでいるが、賠償金の格差などから近所付き合いに気を使う。
「町にまえれないうちは避難民だ。なんでこんな目に合わなくてはならないのか」と。

「ふるさとの喪失感は言葉では言い表せない」という人も。

ふるさと喪失。その“価値観”に司法はどう目を向けるのか。どうそれを理解するのか。まだ結審は先のようだが、「こころ」の問題までも司法は裁かねばならない。

早く結審すべきだと思うが、それはひとえに裁判長の訴訟指揮の在り方・・・。

沖縄では普天間基地の騒音をめぐって住民が起こしていた訴訟。損害賠償請求。
那覇地裁沖縄支部は住民2,200人の訴えを認め、日本政府に7億5千万円余りの支払いを命じた。
裁判長は言う。「原告が受けている騒音被害は深刻かつ広範にわたる。受忍しなければならない程度と評価できない」と。

騒音訴訟は二度目。前回も3億6千万余りの支払いを命じる判決が確定している。

裁判はもちろん基地の根幹となる日米安保条約には触れていない。あくまでも精神的、物理的苦痛に対してのものだ。

どこか福島のふるさと喪失論に通じるものもある。


そして「砂川裁判」。安保法制論議の中で、与党側が“つじつま合わせ”のように掘り出してきたもの。そこには集団的自衛権という言葉も概念も存在していない。そりゃそうだ。集団的自衛権なんて言葉は無かったのだから。

日米安保条約をめぐっての基地闘争。一審の伊達判決では違憲。いきなりの最高裁上告。そして、なんとも早い最高裁判断。安保改定に間に合わせるように。

砂川判決は“純粋”な司法判断では無い。田中耕太郎最高裁長官は、後に公開されてアメリカの外交文書によれば、判決に至るまでに、在日米大使館や外務省を通じてのアメリカ政府当局者と、さまざまな「意見交換」をしている。

最高裁長官が内閣法制局長官であるかのような。

そして、日米安保については的確な憲法判断を避けている。高度な政治的問題は司法判断には馴染まないと。

昔、時々聞かされた。司法は、もちろんその中には検察も含まれる。法務省の中では、法の論理よりも優先されれものがあると。それは国家の根幹を揺るがしてはならないという不文律だと。

砂川判決は、今の安保法制論議の中に登場させることは、そもそも「馴染まない」ことなのだ。

この三つの司法に関すること。いずれも昨日のこと。

別にニヒリズム的に言うのではないが、「裁判官も人の子よ」ということ。
裁判官、裁判長の「個人的判断」によって事は決まると言うこと。

だから今、あらためて言う。「司法が問われている」と。それをどう見るか、最後の砦としての司法と思うか、それとても三権と言う名の“権力”の一つとみるのか。
少なくとも第四の権力と揶揄されたマスコミには、なんら拘束力は無いのだし。

「砂川判決」と言うものが何であったのか、その認識すら共有されていないのだし。

複雑怪奇な世にござ候とでも。

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