2015年6月21日日曜日
「憲法」と「広辞苑」と
憲法は国の最高法規である。しかし、その解釈は時の政権によって変えられる。のだそうだ。
国会は言論の府だとされている。言論、つまり「言葉」をもって議論し、政治を決めて行く場でもる。言葉が“支配”するところなのだ。言葉に“支配”されているところのはずなのだ。
安保法制をめぐる国会の議論の中で、議論にならないような言葉のやりとりの中で、安倍の口からは「レッテル貼り」という言葉が散弾銃のように飛び出している。
レッテルを貼った、貼らない。レッテル貼りでは無く中身の議論をすべきだ。レッテル貼りは不真面目だ。レッテル貼りは無責任だ。レッテルを貼って議論を矮小化することは断じて甘受出来ない・・・。野党の方もつられるように“レッテル”を持ちだしてくる。
戦争法案、それはレッテルではない。実態そのものだ。
そして自民党の幹部は「憲法学者は字句に拘泥する」と非難した。
とにかく集団的自衛権の行使は憲法違反では無いと。
時の政権が憲法の解釈を行い、どう判断するかは当然のことだと。
憲法という最高法規は政府の解釈でどうにでもなるといわんばかりだ。
政治家が憲法学者の見解を真っ向から否定するのは当然だと言わんばかりに。
憲法に書かれている字句は政治家が勝手に解釈してもいいということだ。
憲法解釈は政権の手に委ねられているということだ。
「レッテル」という言葉の語意をたずねて広辞苑をひく。22万語以上が収納されている言葉の森だ。
辞書を引くという作業は肉体的に辛い。老眼で読むことはしんどいことなのだ。
でも、そこにある「言葉の森」に分け入っていくことは、言葉の多用性、多様性にも触れることであり、欠かせないことなのだ。
レッテルと言う言葉は単なるその森の木に過ぎない。
「商品に製造会社などが貼り付けてある紙札。商標。
転じて、ある人物や物事に対する特定の評価。とある。
レッテルを貼るとは一方的に或る評価・判断を下す。とある。
レッテルとは商標なのだ。評価・判断を下すということだ。国会でつかわれているこの言葉は使い方としていささか可笑しい。
まさか言語学者が知恵を絞って編纂した広辞苑の解釈まで変更しようということなのか。
言葉の「指針」がなくなるってことじゃないのかな。
まさか広辞苑にある字解まで否定するってことなのだろうか。評価・判断を下すと言うことが議論を矮小化することなのだろうか。
いつの頃からだろうか。誰が首相だった時からだろうか、政治家の言葉の劣化、貧困さが目に余るようになった。
言論の府に相応しくないような言葉、間違った言葉使い。意味をなさない野次、品格の欠如した野次、場外発言・・・。
日本と言う日本語を使う国にあって、外来語のようなカタカナ語が連発されることも嘆かわしい。
文系の大学を下位に置き、理系を上位に置こうとする“教育改革方針”。
この国から「日本語」が除外されようとしているとも思える。なんかおかしいと思うのだけど。
日曜の嘆き節にて。
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