2015年6月20日土曜日

「戦争」を、その「姿」をどこから語るか。

国会もメディアも「戦争論議」が盛んだ。今のこの時、それが政治的にも必須の案件だとは思えないにもかかわらず。安倍が火をつけた戦争論議。
徹底的に議論しなければならない事になった。

国会で論議されているのは、憲法問題も含めて「政治」としての戦争論議。
政治、その中には外交や防衛といった国の根幹にかかわる問題が前提であるから、政治としての戦争が議論されるのは致し方ないと言えばそうだが。

とにかく、国会の場では、政治としての戦争が語られている。戦争法案が提出されたのだから当然だが。

そして、そこには「安倍語」が存在し、言い逃れや屁理屈含めて、理解しがたい言葉がまかりとおっている。

戦後70年という“節目”。
まだ戦争体験者いる。兵士として戦争を味わった人。民間人でありながら、沖縄では戦争に巻き込まれた人たちが数多くいる。その他の地でも。

兵士も民間人も、みな同じ“人間”だ。人間としての尊厳を持って生まれてきた人たちだ。

戦地に行った兵士も、沖縄の体験者も、原爆の被害者もこぞって言う。
「戦争はしてはならない」と。
その壮絶さ、悲惨さを原点として戦争を語る。人間の問題としての戦争だ。そこで語られるのは。

僕も戦争体験を持っている。記憶がある。戦後の記憶もある。燃え盛る街中から懸命に逃げた体験。住む家も食べ物も無かった体験。
沖縄の人に比べればとてもじゃないが比較出来ない程度のものだけど。

日本軍であろうとアメリカ兵であろうと、民間人であろうと、沖縄に消えた多くの命。生き残った人達の悲惨な体験談。

それを語り継げる人はやがていなくなる。

国会議員の中にも、なんらかの戦争体験者はいるはず。聞いてきた戦争があるはず。だが、おおむね、そのことについて彼らは語らない。論議の焦点に据えない。

政治としての戦争論議、生死を掛けた悲惨な体験をもとにした戦争論議。
そこには「大きな隔たり」がある。同じ土俵上での論議にはなれない。
そこにこの論議のある種の不毛さをも覚える。

政治として語られる戦争。それは言葉のもてあそびといった感じすらする。

政治から戦争を語るのか・・・
体験から戦争を語るのか・・・

戦争では必ず誰かが死ぬ。
死から戦争を語るべきなのか。
“国益”とやらから戦争を語るのか。

政治の場で、言葉だけの戦争として語られている光景は滑稽だ。

「集団的自衛権をフグに例えれば、フグには毒があるから全部食べたらあたるが、肝を外せば食べられる」。
内閣法制局長官はそうのたまわった。

法の番人たる法制局長官の言葉も「安倍語」に等しい。

肝を外すのは誰だ。資格を持った調理人以外にそれは出来ない。してはならない。その“調理”は誰がするのか・・・。
フグの肝さえ外せない調理人。それが「法の番人」だという言葉だけの戦争論。

政治として論じられる戦争論は実体論とあまりにもかけ離れている。

「殺されるのも殺すのも嫌だ。戦争は反対だ。やってはいけない」。そんな声を上げる若者の方が、感情論のようであって一番理に適っている。

だから、国会の場で、リスクなんていう曖昧な言葉では無く、現実にあった死というものを正面から議論すべきなのだ。

「安倍語」はなんの意味もなさない。

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