1960年6月。国会周辺は連日“騒乱”状態にあった。その時、大学2年生だった。日米新安保条約をめぐっての反対闘争。条約の自然成立を19日に控え、55年前の今日にあたる6月15日は、まさに反対闘争の天王山だった。
時々、国会前のデモに参加していた。別のどこかのセクトとか党に関与するのではなく。19歳の少年が自分の意志表示として参加していた行動。
この日、国会前に行くことを先輩から激しく止められた。学校の中庭の一隅で。そこにこの日行くことは危険だと言うことを音楽部の先輩は皮膚感覚でわかっていたのだろうか。
結局、その説得を聞き入れた。国会前には行かなかった。そうたまたま行かなかった。
夜、ラジオの中継で国会の南通用門前で女子大生が死んだことが報じられた。
東大生、樺美智子さんだった。
あとから聞いた話では、彼女は連日デモに参加していたわけではなく、この日はたまたま行ったという。
たまたま行かなかった奴と、たまたま行った人・・・。
国会周辺は30万人を超える人たちで埋まっていたという。ラジオの中継が伝える国会周辺の状況。それがどんなものかは十分に想像された。ジグザグデモを繰り返す反対派、それを阻止しようとする警察や右翼。
まさに「内乱」のような体。それまでの経験で、その「怖さ」は十分味わっていたから。警棒、棍棒、放水・・・。
首相の岸信介は自衛隊の出動も検討していた。しかし、それを赤城宗徳や三木武夫が必死に止めさせた。
自国民を自国の“軍隊”が、もしかしたら“武力行使”で鎮圧する。それに至るかも知れないと言う状態を危惧して。
デモ隊は南通を破り突入を図ったが結局は鎮圧された・・・。
翌日、学校に行った。校庭の中にある掲示板。休講の掲示。
商学部教授、樺俊雄、休講。その掲示がそのことがまぎれもない事実で有ったことを示していた。しばし、掲示板の前に立ちすくんでいた記憶。
その教授の授業は学部が違うから受講したことは無かったが。
安保反対闘争の中で一人の女子学生が死んだ。
そして55年後、国会周辺では安保法制、安保条約を下敷きにした“戦争法案”を巡ってデモが行われている。
昨夜は2万5千人の人が参加していたという。
でも、しかしだ。デモの様相は全く違う。55年前はまさに闘争であり、生死にかかわるものだった。
30万人が取り囲んでいたのだ。
今は規制が厳しい。もちろん過激なジグザグデモも無い。過激な行動をとる学生運動も無い。
形や様相は違っていても、どこか共通している「55年」を挟んでの抗議行動。
相手は祖父とその孫という系譜への退陣要求。
時空を超えた不可思議な感覚に捉われる。デジャブ感満載なのだ。
原発再稼働反対に端を発した国会前の官邸前のデモ。メンバーは原発反対時と同じなのだろうか・・・。
安保改定条約は自然成立した。この日から4日後に。そして、反対運動は急激に衰退していった。その残滓はその後の学園闘争につながってはいくのだが。
自然成立を待って岸は退陣した。
今の政権は、国会の会期を延長して安保法制法案の成立を図るという。
反対闘争が今後どんな展開を見せてくるのかは不透明ではある。でも、きっと続くだろう。デモ参加者が30万人と言う状況にはなるまいが。
そして、仮に成立したとしても安倍には退陣と言う予測はあてはまらない。
今の学生を論じることは出来ない。自分に関して言えば、時間が55年前にさかのぼって欲しいなと言うある種のノスタルジー。
55年前の「たまたま」だった“後悔”に似た思いを払拭させたい気分とてこれありにつき・・・。
2015年6月15日月曜日
“チェルノブイリ”異聞
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