2015年6月18日木曜日

安倍が言う「国民」とは

安倍はしきりに「国民」「国民」という言葉を使う。国民を守るための安保法制だと言う。

彼はその「国民」と言う言葉をどれくらい「つまびらか」のしているのか。

国会のやり取りを聞いていると、彼が言う「国民」とは、彼に同調する「安倍国」の人たちでしかないのかとも思う。

日本国籍を持つ者はすべて「国民」だ。金持ちであろうと貧乏人であろうと。
それらすべてを“守る”というのが宰相としての“常識”だ。

安倍国と書いて、また、田中慎弥の小説「宰相A」が浮かんでくる。日本人と旧日本人。

どうも安倍に反論する人達は彼の中では「旧日本人」ということになるのだろうか。
この本は「少年A」ほど売れていない、読まれていない様子だ。それが今の日本の一つの姿だ。

横道だが、選挙権が18歳以上となった。付則で民法や少年法の改正にも言及しているようだが、あくまでも「検討」すること。国会での検討とは、結論を出さないことに等しい。選挙制度改革がそうであるように。違憲、違憲状態と裁判所が指摘しているにも関わらずだ。

なんとか状態であれ、以前、この法制を語った時のあのパネル。赤子を抱いた母親を救出するため、自国民を救出するための“象徴”として描かれたあのイラスト。

安倍は「国民」という言葉を概念を勝手に使い分けているような。
そして、今、国会で論戦なるものが交わされているのは「違憲」かどうかということと「機雷掃海」の在り方の話し。いわばアメリカをどう支援するかの話し。

自国民よりもアメリカ軍を守るということのように感じられる。

福島県人は「国民」なのだろうか。年金生活者は「国民」なんだろうか。「非正規雇用者」は国民なんだろうか・・・。貧乏人は・・・。

例えば、自主避難している福島県人。大方が母と子。“支援打ち切り”の方針が示された。
被災者の中には生活の困窮している人もいる。

避難している人達は「原発戦争」の犠牲者なのだ。そしてまぎれもなく税金を納め、役所に住民登録をしているれっきとした国民なのだ。

原発は国策だ。

その国策による犠牲者なのだ。

自国民を守るなら、仮想の”戦争論議“をする前に、まず足元の自国民を守るべきではないのか。
彼ら、彼女らの多くは「守られていない」と感じている。

暴論かもしれないが、見捨てられた民とされているようだ。自主避難の是非を言っているのではない。実態を言っているのだ。
そこに“戦争”が絡むと、様相は違っていても、見捨てられた民としての沖縄の姿が重なる。
満州に放置されてきた日本人たちの姿も重なる。

“満州国”に居た日本人を放置したのは誰か。満州国と関わりの深かった岸信介ではないか。

満州国から引き揚げてこられた、ようやくの思いで帰国出来た92歳の老婦人は、癌を患いながら中国残留孤児の支援活動に携わっている。東京にいる知人だ。

国民とは何か。国家とは何か。もう一回「つまびらかに」されては如何。
国民の代表である議員が構成する国会。その国会をなんと心得ているのかも。

明らかに安倍は国会を軽視している。野党の言い分は歯牙にもかけない。委員会に出席するのも「単なる義務感」だけとしか思えない。
まともな論戦には応じないのだから。何を聞いてもオウム返しのような持論の開陳だけ。
それをもってして、やがて言うのだろう。国会で延々と丁寧な説明をしてまいりましたと。
説明とは相手をある程度「納得させる」ということなんだぜ。

「黙って俺について来い」。顔がそう言っている。黙ってついて行く人たちが、まだ「国民」の半数近くもいる。

なぜ宰相、安倍晋三が出来たのか。国の“本質論”として考えた方がいいのかも。

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