2015年6月16日火曜日

「町」は一朝一夕では出来ない

こんな西洋の諺を中学時代に習った。
Rome was not built in a day。ローマは一日にして成らず。あのローマ帝国を、繁栄を極めたその国を作るのには7百年と言う歳月と長い苦難の歴史があったということ。それから派生して、大きな事業は長年の努力なしには出来上がらないとう“格言”ともされた。

西暦2000年代のある日、福島から町が忽然として消えた。神隠しにされた町が出来た。その町をどうやって「再建」させるのかということ。
それは、それこそ一日、一朝一夕で成し遂げられるはずは無い。

今、福島は「帰還問題」で揺れている。国は帰還困難区域を除いて、早期の住民帰還を目指す。その帰還を妨げている数多くの問題が指摘される。

除染の問題。線量の問題。
家の修復、インフラの整備。インフラというと何を指すのか。下水道、道路などの公共インフラだけではない。
日々の生活にかかわる身の回りの環境。例えば病院、高齢者施設、子供のための施設、買い物が出来るスーパーやコンビニ・・・。と皆が言う。
それが整備されないと帰れない、帰らないと。

仮にそれらが満たされたとしよう。そこは復活した町となり得るのかどうか。

町には歴史がある。何百年にわたり、その地の人が積み重ねてきた歴史。たとえ、そこに新しい建物が出来ても、新しい施設が出来ても、時によってそこに住む人が変わっていても、町の真ん中に大きな樹があった。駅舎があった。小川があった。丘があった。学校があった・・・。

その先の角を曲がると幼馴染の家があった。お化け屋敷と呼ばれるようなふるい家があった。自転車屋があった。電気屋さんがあった。畳屋さんがあった。新聞販売店があった・・・。

神社があった。郷土の歴史館があった。牛乳屋さんがあった・・・。

それらが、その町の独自の空気を作り、その空気が匂いとなっていた。

寄り集まる場所があった。お菓子屋さんがあった。それらは、その土地ぬ暮らす人たちの生甲斐の場所でもあった。
信号を曲がるかどうかが目印だった・・・。

雑多に雑多な人が暮らしているのが町だった。交番があった。消防署があった。

長い歴史を経て作られた町。それが一朝一夕で復元されるはずは無い。

あの「失われた町」の戻るということは全てを一から始めるということに等しい。
失われた町を、町並みを取り戻すことは“不可能”に近いことなのだ。

帰還をためらう人の心根には、そんな漠然とした残像があるのだろう。

自主避難者と言われる人もそうだ。あくまでも自主避難。自分たちの意志によるもの。
県内や県外で暮らして4年余り。
暮らしている場所も町だ。でも、それはその地に居ると言うことだけ。
そこはあくまでも異郷であり、その人たちは異邦人なのだ。心の問題として。

政治やカネでは解決できない歴史・・・。人は「歴史の中で暮らしている」のだ。

そんな“繰り言”めいたことを言っても始まらないと誰もが思ってはいる。でも逡巡するのだ。

だから、「福島」の問題は難しいのだ。「フクシマ」は「フクシマ」のままなのだ。

高度成長期、東京でも大阪でも、各地に「ニュータウン」が生まれた。そこは今、多くが“廃墟”だ。歴史の無かった場所に“歴史”を作れなかったのだ。
歴史の「上書き」は出来なかったということなのだ。

帰還問題、自主避難問題。期限が切られた。そのことで様々な意見が交わされている。
そんな中でふと思ったこと。

「故郷」、東京は初台も随分町の光景は変わった。住んでいる人も見知らぬ人が多くなった。時々その地に足を向ける。そこには、やはり変わらぬ「匂い」を感じる。そこが「失われた場所」では無かったから。

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