60年代安保の頃、官邸や南平台の岸の私邸前には連日のデモが行われていた。
「アンポハンタイ」「岸を倒せ」のシュプレヒコール。
岸はきっとそれに業を煮やしていたのだろう。そんな時、後楽園球場ではプロ野球の巨人戦があった。何万という観衆がプロ野球に興じていた。
それをテレビで見ていた岸は得たりやおうとばかりにその光景に“飛びついた”。
「これが国民の声だ。安保で確保された平和の中で、野球観戦に日々の疲れを癒している。これこそ声なき声だ」。そんなセリフ。
「声なき声を聞け」は、瞬く間にあちこちに駆け巡り、安保に対する国民の声をどう聞くかという岸の「価値観」として取り上げられていた。
岸の「セリフ」を遺伝子として持っているならば、安倍も「声なき声」を聞かねばならない。
その「声なき声」とは何か。戦争法案(あえてそう言わせてもらう。そうだと思うから)によって、その「事態」になれば戦争にまず先に巻き込まれるのは自衛隊員だ。
その自衛隊員の声こそが今の「声なき声」だ。岸の時代の言葉の解釈とは違うけれど。
当事者としての自衛隊員。彼らが、この戦争法案、安保法制についてどう思っているのか。
その声はほとんど「伝えられない」。
彼らは「語らない」。いや「語れない」のだ。それが今のまさに「声なき声」であるにも関わらず・・・。
戦後、警察予備隊から自衛隊へ。その頃「自衛官募集」という看板や標識があちこちに立てられていた。自衛官になり手がなかった。
地方連絡本部という募集の担当部署は、街中で、仕事にあぶれているような男に次々と声を掛けていた。
自衛隊員は“日陰の身”と言われた時もある。
そしてあの頃の国会では「三矢研究」という自衛隊幹部による機密の図上演習計画が暴露され、国会は紛糾に紛糾を続けていた。
自衛隊の”受難の時代“。第二の「三矢研究」はあるのかないのか。
そして、今、後方支援の名のもとに紛争地域、いや、戦闘地域に派遣されるであろう海上自衛隊、場合によっては陸上自衛隊。
撃たれるか撃つか。第二の自衛隊受難の時代なのだ。
3・11。福島はもちろん被災地では多くの人が自衛隊によって助けられた。泥の中から助け出された人、救援の食糧を得た人。
全く無防備で、爆発した原発の上から放水したヘリ。煙りでくすぶる建屋に水をかけた人。
そして、避難所では風呂を作り、家を失った人たちの支えになった自衛隊。
その自衛隊の姿を見て自衛官を志願した若者もいた。
今、自衛隊員はどうなっているのか。減っているのか増えているのか。
防衛大卒業生の「任官拒否」は増えている。
国を守る。その信念に自衛隊員は揺るぎは無いと思う。
でも、全く論理構成もされておらず、言っている本人が理解していない「戦争」。その渦中に身を置くことを潔しとしているのだろうか。
東北の被災地で、自衛隊員によって助けられた人は言う。「あの人を戦争で無くすことは許されない」と。
被災地で自衛隊の活躍を見て、結婚した女性もいる。彼女は夫が「戦地」に行くことを想像していたわけではない。
戦争の当事者を除外したところで交わされる「戦争論議」。いわば他人事としての戦争論議。それは国民の中にもある。
「声なき声」を伝えられる方途はないものか。
もし、防衛省が自衛隊員にアンケート調査でも出来れば、そして自衛隊員に自由に答えさせることが出来たなら・・・。開かれた民主主義ってそういうことではないかとも。
2015年6月2日火曜日
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